第4話:【完璧な管理】
「悠真くん、襟が少し曲がってるわよ。……はい、お弁当。今日は貴方の好きな唐揚げにしておいたからね」
玄関先で、凛香さんは僕のネクタイを整えながら、ふわりと微笑む。 再婚して一週間。僕の生活は劇的に「楽」になった。 朝は完璧なタイミングで起こされ、制服はいつもプレスしたて。何より、男二人所帯で適当だった食生活が、彼女のおかげで料亭のような充実ぶりだ。
(……本当に、父さんはいい人と巡り会えたんだな)
そんな感謝を抱きながら、僕は学校へと向かう。
昼休み。お弁当箱を開けると、そこには驚くほど僕の好みにドンピシャなおかずが並んでいた。 「悠真、それお姉さんの手作り? すげー豪華じゃん」 クラスの連中が羨ましそうに覗き込んでくる。地味で目立たないはずの僕が、少しだけ誇らしい気持ちになる。
「あ、佐藤くん。お姉さん、本当に料理上手なんだね」
声をかけてきたのは、図書委員の三浦結衣さんだった。 彼女は、僕が密かに「話しやすいな」と思っている女子生徒だ。最近、おすすめの本を教え合ったりして、少しだけ距離が縮まった気がしていた。
「うん、三浦さん。……あ、これ良かったら一個食べる?」 「えっ、いいの? ありがとう!」
そんな他愛ないやり取り。僕にとっては、日常に少しだけ色がつくような、ささやかな幸せの時間だった。
放課後。家に着くと、凛香さんはリビングで僕の帰りを待っていた。 「おかえりなさい、悠真くん。……今日は、三浦さんとお話しできた?」
「え? ……ああ、うん。お弁当の唐揚げ、一個あげたら喜んでたよ」
僕は無邪気に答えた。凛香さんがどうして三浦さんの名前を知っているのか——そんな疑問は、昨日「弟の交友関係くらい、パパから聞いて把握してるわよ」と優しく言われたことで、すんなり納得してしまっていた。
「そう……喜んでくれたのね。良かった」
凛香さんは僕の隣に座り、僕の鞄から教科書を取り出して整理し始める。 「悠真くんは優しいから。……でもね、三浦さん、最近少し体調を崩しがちみたいよ。あまり無理に付き合わせちゃ、可哀想じゃない?」
「え、そうなの? 昼間は元気そうだったけど……」
「お姉ちゃん、三浦さんの担任の先生と偶然スーパーで会ってお話ししたの。……しばらくは、彼女を一人にしてあげたほうが、彼女のためになると思うわ」
凛香さんの言葉は、いつだって正しい。僕が知らない情報をどこからか仕入れ、僕が失敗しないように、そして誰かを傷つけないように先回りしてアドバイスしてくれる。
「わかった。……お姉さんは、本当に物知りだね」
「貴方のことだもの。……あ、そういえば悠真くんのスマホ、少し動きが重かったから、私がメンテナンスしておいたわ。いらないアプリは消して、安全な設定にしておいたからね」
「ありがとう。助かるよ」
僕は疑いもせず、スマホを受け取った。 三浦さんの連絡先が消えていることにも、位置情報が常に凛香さんの端末に飛んでいることにも、僕はまだ気づかない。
その夜、僕が自分の部屋で寝ようとすると、凛香さんがパジャマ姿で入ってきた。 「……悠真くん。新しい環境で、まだ眠りが浅いでしょう? 今日はお姉ちゃんが、貴方が眠るまで手を握っていてあげる」
「えっ、子供じゃないんだから……」
「いいのよ。……家族なんだから」
彼女の白くて細い指が、僕の手を包み込む。 その手は少し冷たかったけれど、握る力は驚くほど強くて、逃げられないような、けれど守られているような不思議な感覚に陥る。
「……おやすみなさい、悠真くん。貴方の世界から、嫌なものは全部、お姉ちゃんが掃除してあげるからね」
彼女の呟きを夢うつつに聞きながら、僕は深い眠りに落ちた。 三浦さんが、明日から学校に来なくなることも。 僕のスマホから、僕の知らないところで三浦さんに「もう話しかけないで」というメッセージが送られていることも。
地味で平凡な僕の日常が、一人の「聖母」の手によって、一滴の不純物もない檻へと作り替えられていることに、僕はまだ……何も気づいていなかった。




