第3話:【執着の標本】
あの日、裏庭で悠真くんに救われてから、私の世界は書き換えられた。
匿名掲示板に書かれた罵詈雑言。そんなものは、もうどうでもよかった。 私の価値を決めるのは、顔も知らない大勢の「ノイズ」ではない。 私の涙を拭い、「普通の女の子」として見てくれた、たった一人の悠真くん。
彼だけが、私の世界のすべてになった。
「——さようなら、佐藤くん。また、明日ね」
小学校の卒業式。私は優等生の笑みを浮かべて、彼に別れを告げた。 彼は「うん、またどこかで」と、いつものように平凡で、無頓着に手を振った。 彼は知らない。私がその日、彼が校庭に落とした第二ボタンの裏の糸屑さえも、ピンセットで拾い上げ、宝石箱に収めたことを。
中学、高校。私たちは別々の学校に進んだ。 けれど、私たちの距離が離れたことは、一秒たりともなかった。
「……今日の悠真くんは、放課後、コンビニで肉まんを食べてから帰ったのね。可愛い」
私の部屋の壁には、彼に関する「記録」がびっしりと貼られていた。 中学の卒業アルバム、彼が塾の帰りに寄る公園の地図、彼がSNSで唯一「いいね」を押した風景写真の場所。
私は、彼が「地味で平凡でありたい」と願っていることを知っていた。 だから、あえて接触はしなかった。彼が望む平穏を壊さないように。 その代わり、私は自分を磨き続けた。 彼がいつか私と再会した時、その美しさに目を奪われ、逆らえなくなるような「完璧な義姉」になるために。
そして、チャンスは訪れた。 悠真くんの父親、佐藤正昭さん。男手一つで息子を育てる、お人好しで少し不器用な人。 私は、自分の母親をそれとなく誘導した。 「お母さん、あそこの定食屋さんに、すごく素敵で誠実そうな人が通っているわよ」 「私、あのご家族となら、本当の幸せになれる気がするの」
母親は私の「完璧な演技」に踊らされ、狙い通り正昭さんと出会い、恋に落ちた。 すべては私の書いた筋書き通り。 再婚が決まった夜、私は自室で、数年ぶりにあの「涙で汚れたハンカチ」を顔に押し当てた。
「ようやく……ようやく、迎えに行けるわ。悠真くん」
そして今、再婚初日の夜。 私は、隣の部屋で眠る悠真くんの気配を感じていた。 家の中に仕掛けた高感度マイクからは、彼の穏やかな寝息が聞こえてくる。
私は音もなく、彼の部屋のドアを開けた。
「……ん、……っ」
ベッドで無防備に眠る彼。 私はその枕元に膝をつき、暗闇の中で彼を見つめた。 小学校の頃より少し大人びた横顔。私がずっと、レンズ越しに、遠くから眺めていた宝物。
私は懐から、小さなハサミとガラス瓶を取り出した。 シーツの上に落ちていた、彼の髪の毛を一筋。それを丁寧に拾い上げ、瓶の中に収める。
「ふふ……、これでまた一つ。私のコレクションが増えたわ」
私は彼の頬に、触れるか触れないかの距離まで顔を近づけた。 掲示板で叩かれ、壊れそうだった私を救ってくれた、あの時の温もり。 今度は私が、貴方を守ってあげる。 外の世界という、汚いノイズから。 貴方の人生に、私以外の色は必要ないの。
「愛してるわ、悠真くん。……貴方のすべてを、私が正しく『管理』してあげる」
私は彼の耳元で、甘く、毒のように囁いた。
翌朝。 悠真くんが目を覚ますと、そこにはエプロン姿で、完璧な朝食を並べる私の姿があった。
「おはよう、悠真くん。……ゆうべは、よく眠れたかしら?」
私の問いに、彼は少し首を傾げながら答えた。 「……うん。でも、なんだか不思議な夢を見た気がする。……甘い匂いがする場所に閉じ込められるような、そんな夢」
私は、最高の微笑みでそれに応えた。
「それはきっと、新しい生活への不安ね。……大丈夫、お姉ちゃんが全部、取り除いてあげるから」
彼の朝食のサラダには、私が一晩かけて分析した「彼が今、最も必要としている栄養素」が、寸分の狂いもなく配合されていた。




