第2話:【硝子の庭園】(誹謗中傷編)
数年前。凛香さんと僕の物語は、あの日、小学校の裏庭で始まった。
当時の僕は、今以上に平凡で、空気のような存在だった。対して一ノ瀬凛香さんは、学年中の憧れを一身に背負う「完璧な美少女」だった。 けれど、彼女に向行けられる羨望の眼差しは、裏側ではどす黒い嫉妬へと変質していた。
あの日、僕が忘れ物を取りに学校へ戻ると、校舎の陰にある小さな花壇で、凛香さんが一人、震える手でスマホを見つめて立ち尽くしていた。
彼女が隠すように持っていたスマホの画面。そこには、目を覆いたくなるような文字の羅列があった。 地域の匿名掲示板に立てられた、『一ノ瀬凛香の正体』というスレッド。
『親に媚びてるだけの作り物』 『裏では男をたぶらかしてる』 『死ねばいいのに、完璧女』
数えきれないほどの悪意。彼女がどれほど努力し、どれほど清廉に振る舞おうと、顔も見えない誰かが彼女を泥まみれにしようとしていた。
「……っ、ふ、……ぅ……」
彼女は声を押し殺して泣いていた。 言い返せば「完璧」が崩れる。無視すれば「肯定」したことになる。逃げ場のない、電子の暴力。
「……一ノ瀬さん?」
僕は思わず声をかけた。彼女は飛び上がるほど驚き、咄嗟にスマホを背後に隠した。
「……佐藤くん。何でもないの。ちょっと、目にゴミが入っちゃって……」
彼女は無理に微笑もうとしていた。けれど、その頬を伝う涙は止まらず、唇はガタガタと震えている。
「……さっきの、見ちゃった。掲示板のこと」
「! ……見ないで。忘れて。あんなの、嘘ばっかりだから……!」
「わかってるよ。嘘だってことくらい」
僕は彼女の隣に座り、カバンから取り出した安っぽいハンカチを差し出した。
「一ノ瀬さんは、あんなの気にするような人じゃないだろ。……あそこに書いてある『完璧な人形』なんて、誰も見てない。僕が見てるのは、今ここで泣いてる、普通の女の子の一ノ瀬さんだよ」
彼女の瞳が大きく揺れた。 誰もが彼女を「記号」として見ていた。綺麗な一ノ瀬さん、賢い一ノ瀬さん。けれど、目の前で地味な少年が言ったのは、「泣いている君を見てる」という、あまりにも当たり前で、けれど彼女が一番欲しかった言葉だった。
「……佐藤くん……」
「そんなゴミみたいな画面、見てる時間がもったいないよ。ほら、今日はもう帰ろう。僕が一緒に校門まで行くから。何か言ってくるやつがいたら、僕が……えっと、追い払うからさ」
僕が放った、根拠のない、平凡な勇気。 けれどその瞬間、凛香さんの中で何かが決定的に壊れ、そして新しく生まれ変わった。
彼女は僕のハンカチを奪うように受け取ると、それを顔に押し当てて、子供のように声を上げて泣いた。
「……う、あ……っ……うあああああん!」
夕暮れの裏庭。僕の安っぽいハンカチは、彼女の涙でぐしょぐしょになった。 僕はただ、彼女が泣き止むまで隣に座っていた。
凛香さんはその日、僕のハンカチを返さなかった。 「私が洗ってくる」と小さく笑った彼女の瞳には、さっきまでの絶望は消えていた。 代わりに宿っていたのは、僕への、ひどく純粋で、ひどく重い、執着の光。
掲示板に書かれていた『完璧な人形』。 彼女はあの日から、本当にその人形を演じることに決めた。 僕という「たった一人の理解者」を、いつか誰にも邪魔されない場所で飼育するための、美しく冷酷な人形を。
それが、僕たちの「歪んだ聖域」への第一歩だった。




