第1話:【再婚と聖母】
「悠真、少し大事な話があるんだ」
夕食の席で、父・正昭がどこか緊張した面持ちで切り出したのは、一ヶ月前のことだった。 母を早くに亡くし、男手一つで僕を育ててくれた父。慣れない手つきで僕に弁当を作ってくれ、仕事で疲れているはずなのに僕の話をいつも笑顔で聞いてくれた恩人。そんな父が「再婚したい人がいる」と言った時、僕に反対する理由なんて一つもなかった。
「父さんが幸せなら、僕はそれが一番嬉しいよ」
僕のその言葉に、父は心底ホッとしたような顔をして、今日、その相手を家に招くことになった。
玄関のチャイムが鳴る。僕は制服の襟を正し、緊張しながら扉を開けた。
「——初めまして。今日から家族になる、一ノ瀬凛香です。よろしくね、悠真くん」
そこに立っていたのは、光を吸い込むような艶やかな黒髪と、透き通るような白い肌を持つ、驚くほど美しい女性だった。年齢は僕より四つか五つ上だろうか。大学生だという彼女は、春の陽だまりのような温かい微笑みを僕に向けた。
その瞬間、地味で平凡な僕の世界に、場違いなほどの「輝き」が入り込んできた気がした。
「……あ、佐藤悠真です。こちらこそ、よろしくお願いします」
僕のしどろもどろな挨拶に、彼女は「ふふっ」と小さく笑う。 その夜、彼女が作ってくれた夕食は、彩りも味も、まるでお店で出す料理のように完璧だった。父さんは「こんなに美味しいご飯は久しぶりだ」と子供のように喜び、凛香さんはそれを慈しむような目で見つめている。
僕が守りたかった父さんの幸せ。それが今、目の前で完成しようとしている。 ——良かった。この人なら、きっと。
夕食の後、キッチンで洗い物をしようとした僕の手に、凛香さんの細く冷たい指がふわりと重なった。
「悠真くん、代わるわ。これからは私がお姉ちゃんなんだから、甘えていいのよ?」
「いえ、でも。ずっと僕がやってきたことですから」
「……いいえ。これからは、貴方の代わりに私が全部やってあげる。……全部、ね?」
彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、吸い込まれるような深い闇が見えた気がした。けれど彼女はすぐにまた、あの聖母のような微笑みに戻り、僕の頭を優しく撫でた。
「悠真くんの部屋、少し片付けておいたわよ。……あ、それと、三浦さんから借りていたノート。机の上に置いておいたから、明日ちゃんと返さなきゃダメよ?」
「え……?」
僕は凍りついた。 三浦結衣。クラスの図書委員で、最近たまにノートの貸し借りをする女子生徒。 僕は、彼女の名前も、ノートを借りている事実も、誰にも話していない。ましてや、今日初めて会ったばかりの凛香さんに教えたはずがないのだ。
「お姉さん、どうして三浦さんの名前を……?」
僕の問いに、凛香さんはトントンと野菜を切る手を休めることなく、事も無げに答えた。
「あら、鞄の中に入っていたでしょう? 弟の持ち物を把握しておくのは、お姉ちゃんとして当然の『管理』だもの」
彼女の背中越しに聞こえる規則正しい包丁の音。 その音に合わせて、僕の心臓が不快なリズムで脈打ち始めた。
「……お休み、悠真くん。明日からは、もっともっと、貴方のことを教えてね」
鏡のように磨き上げられたキッチンのステンレスに、微笑む彼女の顔が歪んで映っていた。
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