第13話:【空白の季節】
凛香さんが警察に連行されてから、半年が過ぎた。
家の中は、表面的には以前の「佐藤家」に戻っていた。 父さんは仕事に復帰し、僕も学校へ通い始めた。三浦さんとの誤解も、凛香さんの弁護士を通じて「彼女の精神的な不安定さによる独断」として説明され、法的には解決した。
けれど、何かが決定的に欠落していた。 完璧に磨き上げられていた床には薄く埃が積もり、冷蔵庫の中には適当に買った惣菜が並ぶ。 あの日々が異常だったことは分かっている。でも、凛香さんがいないこの家は、まるで色が抜け落ちたモノクロの映画のようだった。
「……悠真。凛香さんの部屋、そろそろ片付けようか」
ある休日、父さんが力なく言った。 警察の捜索が終わり、立ち入り制限が解かれた「あの部屋」。 父さんは怖がって一度も入ろうとしなかったが、僕は毎日、そのドアの前を通るたびに、石鹸の香りの残滓を探していた。
僕は一人で、そのドアを開けた。
モニターの電源は落とされ、壁に貼られていた僕の写真はすべて証拠品として押収された。 がらんとした部屋。けれど、クローゼットの奥の、床板の一箇所がわずかに浮いているのに気づいた。
そこを剥がすと、一冊の小さな古いノートと、あの「雨の日」のデパートの紙袋が隠されていた。
ノートを開くと、そこには日記というよりは、祈りのような言葉が綴られていた。
『〇月×日。 悠真くんに会いたい。遠くから見ているだけじゃ足りない。 彼の視界に、一秒でもいいから入りたい。 私は汚れすぎた。掲示板で投げつけられた言葉が、今も体に染み付いて離れない。 私を「普通の人」と言ってくれた彼だけが、私を洗ってくれる唯一の存在なのに。』
ページをめくるたびに、彼女の精神が少しずつ、しかし確実に壊れていく様子が伝わってきた。 「管理」という名の異常な行動は、彼女にとっての「生存本能」だったのだ。 僕を縛り付けなければ、自分が消えてしまう。そんな恐怖と戦っていた彼女の孤独が、文字から溢れ出していた。
そして、最後のページには、事件の数日前に書かれたと思われる、震える文字の遺言があった。
『もし、この箱庭が壊れる日が来たら。 悠真くん、貴方は私を憎んで、忘れて。 貴方が私のせいで「平凡」を失うのが、一番の罪だから。 でも……もし許されるなら。 またいつか、あの雨の日のように、二人で温かいお茶を飲みたい。 ごめんなさい。愛しています。』
紙袋の中には、あの日のデパートで買った、僕とお揃いのストラップが入っていた。 一度も渡されることなく、大切に、大切に保管されていた「普通」のプレゼント。
「……バカだな、お姉さん」
僕はノートを抱きしめ、誰もいない部屋で声を上げて泣いた。 彼女は僕を飼育していたのではない。 彼女は、僕という唯一の光に縋り付いて、この地獄のような世界で息をしようとしていただけなんだ。
僕は決めた。 彼女が「管理」を捨て、本当の意味で「普通」に戻れる日まで。 今度は僕が、彼女の帰る場所を管理する番だ。
「待ってるよ、お姉さん。次こそ、二人でお揃いのストラップをつけよう」
窓の外には、新しい季節の雨が降り始めていた。 あの日のデパートと同じ、静かな雨だった。




