第11話:【雨のデパート】(回想シーン)
一階から聞こえる怒号と、激しく扉を叩く音。 その喧騒の中で、僕の意識は、あの日……彼女がまだ「完璧な義姉」になる前の、中学生の頃の休日に飛んでいた。
あの日は、ひどい土砂降りの日だった。 買い物に出かけた先で偶然会った凛香さんは、いつもの制服姿ではなく、白のワンピースにカーディガンという、僕の目を眩ませるほど綺麗な私服姿だった。
「……佐藤くん。奇遇ね、こんなところで」
彼女はいつもの「完璧な笑顔」で挨拶をしてくれた。けれど、ふと見た彼女の肩は、雨でひどく濡れていた。 「雨宿り、一緒にしない?」 僕の誘いに、彼女は少し驚いた顔をして、それから「ええ、喜んで」と頷いた。
近くのデパートの屋上庭園。雨のせいで誰もいないベンチ。 自販機で買った温かいミルクティーを差し出すと、彼女は冷えた指先でそれを包み込み、ふーっと息を吹きかけた。
「……美味しい。……私ね、こういうところに来るの、初めてかもしれない」
「え? デパートなんて、みんな来るでしょ?」
「みんなは、ね。……私は、常に一ノ瀬家の娘として、相応しい場所にしか行かせてもらえなかったから。こんな風に、誰かと自販機の飲み物を飲んで、雨の音を聞くなんて……」
彼女はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。 それは、学校で見せる作り物のような笑みではなく、心の奥にある寂しさが少しだけ漏れ出したような、幼い笑顔だった。
「佐藤くん。……私ね、本当はすごく怖いの。みんなが私の『形』だけを見て、中身を見てくれないことが。いつか、私が完璧じゃなくなった時、誰もいなくなってしまうんじゃないかって」
「そんなことないよ。……僕は、今こうして温かい飲み物を飲んで、雨宿りしてる『普通の一ノ瀬さん』の方が、ずっと好きだけどな」
僕が何気なく言ったその言葉に、彼女は目を見開いた。 そして、彼女は僕のシャツの袖を、消え入りそうな力でぎゅっと掴んだ。
「……忘れないでね、その言葉。……いつか、私が道を見失って、本当に壊れてしまいそうになったら……今日みたいに、私を雨宿りに誘ってくれる?」
「うん。約束するよ」
降り続く雨の中、デパートの屋上の片隅で交わした、ささやかな約束。 あの時、彼女が流した一筋の涙は、間違いなく「本物」だったんだ。
(回想終わり)
「……悠真くん、逃げて」
凛香さんが僕の胸の中で、消え入りそうな声で呟く。
「私はもう、あの日の『普通の子』には戻れない。……私は、貴方を檻に閉じ込めてしまった、怪物だもの」
「……戻れるよ、お姉さん。僕が連れて行くから」
僕は、彼女の冷え切った手を、あの日のデパートで温かい飲み物を渡した時のように、両手で包み込んだ。
「……あの日、僕たちは雨宿りをしただろ? 今、外はまた嵐だけど……僕が、お姉さんの雨宿りになるよ。……だから、一人で行かせない」
僕は彼女を抱きしめたまま、一階へと繋がる階段を見据えた。 踏み込んできた光の中に、父さんと、見知らぬ大人たちの姿が見える。
「……悠真くん。……ありがとう」
凛香さんは僕の胸に顔を埋め、声を上げずに泣いた。 それは、彼女が「完璧な義姉」という鎧を脱ぎ捨て、ようやく僕の隣で「ただの女の子」に戻った瞬間だった。




