第9話「資格」
建設現場には、独特の序列がある。
それは腕っぷしの強さでも、経験年数でもない。
「資格者証」の有無だ。
都心の大規模再開発ビル建設現場。
その地下深くにある旧電気室で、怒号が飛び交っていた。
「おい爺さん!勝手に盤を開けるな!触るんじゃねえ!」
若手の現場監督、田所が怒鳴りつけていた。
彼が威圧している相手は、六十過ぎの小柄な職人、源さんだ。
源さんはこの道四十年のベテラン電気工事士だが、更新手続きのミスか何かで最新の「第一種電気工事士」の資格を失効させてしまっていた。
今はただの「荷運び」として現場に入っている。
「でも監督、この異音は端子台の接触不良だ。今すぐ増し締めしないと、スパークして全館停電になるぞ」
「うるせえ!お前は無資格なんだよ!無資格者が重要設備に触れたら、俺が処罰されるんだ!下がってろ!」
田所は聞く耳を持たない。
この現場は工期に余裕がなく、今日は電気工事の正規業者が入っていない「設備工事の空白日」だった。
田所は携帯電話を取り出し、契約している電気工事会社に電話をかけた。
「あーもしもし?俺だ。仮設盤から異音がしてる。すぐに人を寄越してくれ。……はあ?今日は別の現場に行ってる?知るかよ、こっちは客だぞ!」
電話の向こうの相手は、「緊急対応なら行けるが、特急料金と深夜作業費がかかる。到着は夜になる」と告げた。
田所の顔が歪む。
予算はカツカツだ。
自分の管理ミスで特急料金を発生させれば、本社での評価に関わる。
彼は盤の音を聞いた。
「ジジジ……」という音はしているが、まだ火は出ていない。
(……夜まで持たせれば、定額の範囲内で直せる)
田所は現場の安全よりも、自分の保身とコストを優先した。
「チッ……じゃあいい!明日の朝一で来い!それまで持たせる!」
電話を切った田所は、焦りを隠して強がった。
だが事態は決して楽観できるものではなかった。
放電音は断続的に続いており、その頻度は明らかに増している。
このまま放置すれば、いつ接触部が過熱し、トラブルに繋がるか分からない。
危険な賭けだった。
「……監督、俺にやらせてくれ。次の休憩時間に電気を落として、五分で直す」
「駄目だと言ってるだろ!俺は『施工管理』しか持ってねえんだ、お前の監督はできねえ!コンプライアンスだ!何かあったら誰が責任取るんだ!」
田所自身もまた、管理資格はあっても作業資格を持たない「無力な管理者」だった。
技術があっても資格がない人間【源さん】と、責任があっても資格がない人間【田所】。
二人は、目の前の危機よりも「書類上の整合性」に縛られ、身動きが取れなくなっていた。
そのやり取りを、資材搬入のアルバイトとして入っていた織部悟(十八歳)は、無言で眺めていた。
彼の目には、システムのリソース配分ミスが映っていた。
目の前に「修理可能なユニット」があるのに、「アクセス権限」がないというだけでロックされ、システム全体がダウンしようとしている。
――システム上のエラーだ。
――放置すれば、このビルの工事全体が止まる。
そうなれば僕のバイト代も消える。
損失の計算は、一秒もかからなかった。
申請中の資格者証は、今日か明日に届くはずであった。田所の杜撰な放置が吉と出るか、それとも資格が届く前に盤が火を吹くか。ギリギリの競争になる。
織部は静かにその場を立ち去った。今はまだ、手が出せない。
*
二日後。
現場は最悪の状況を迎えていた。
あの日以来、騙し騙し使い続けてきた盤は限界を迎えていた。
不規則な「ジジジ……」という放電音は二日前よりも明らかに鋭くなり、かろうじて通電はしているものの、いつショートして全館停電してもおかしくない、首の皮一枚の状態だ。
正規の業者はスケジュールの都合がつかず、来週まで来られないという連絡があったばかりだ。
田所はイライラを募らせ、八つ当たりのように源さんを怒鳴り散らしている。
「おい、掃除しとけ!お前はそれくらいしか能がないんだからな!」
源さんは寂しげに笑い、箒を手に取った。
その時電気室の扉が開き、作業着姿の織部が入ってきた。
胸ポケットには、二枚のカードが入っている。
「……織部?なんだお前、その格好は」
「監督。お願いがあります」
織部は淡々と告げ、田所の前に一枚のカードを提示した。
『第二種電気工事士免状』。
「有資格者として、改めて現場に入りたいのですが」
「はあ?第二種?お前馬鹿か?ここは『自家用電気工作物』の現場だぞ。二種免許じゃ家のコンセントしか直せねえよ。出直してこい!」
田所は鼻で笑った。
それは業界の常識だ。
ビルの工事には上位資格である『第一種』が必要になる。
だが織部は静かにもう一枚のカードを取り出した。
こちらは真新しい、まだ折り目のないカードだ。
「ええ、二種だけなら無理です。……ですが、昨日届いた、この『認定電気工事従事者認定証』があれば話は別です」
「……なんだそれ」
「二種免許取得者が講習を受けるだけで取れる許可証です。これがあれば、自家用電気工作物であっても『電圧600V以下の低圧部分』に限り、工事に従事することが法的に認められます」
織部は分電盤を指差した。
「今回の故障箇所はトランスの二次側、低圧(200V)エリアです。第一種がなくても、このカード一枚で法的にはクリアできる。……監督、ご存じなかったんですか?」
「なっ……」
田所は絶句した。
彼は「第一種が必要だ」という思い込みで思考停止していたのだ。
織部は、誰でも取れる『第二種』に、講習一つという『オプション』を付けるだけで、第一種と同じ権限(この状況下に限る)を行使できる裏ルートを見つけ出したのだ。
「二種は以前から持っていました。この現場に入るために講習を受け、認定証を申請していたんです。……それが昨日、簡易書留で届きました」
織部は二枚のカードを揃えて見せた。
「タイミングは完璧です。……で、どうしますか?僕を使いますか、それとも全館停電を待ちますか?」
「ぐっ……。だ、だが、お前に技術はあるのか?ネジの締め加減も分からん素人が触ったら、余計に壊れるぞ!」
田所の指摘は正しい。
織部はペーパー資格者だ。
だが織部は動じない。
「ええ、僕には技術がありません。トルクの加減も分からない。……ですから、僕の手を『操作』してもらいます」
「あ?」
「源さん。僕の後ろに立ってください」
織部は振り返り、源さんを見た。
「えっ、でもワシは無資格で……」
「工具を握るのは有資格者である僕です。あなたは触らない。……その代わり、僕の手元を見て、指示を出してください。『右に何度回せ』『そこで止めろ』と。あなたの経験を、僕の手に乗せるんです」
織部は田所に向き直った。
「実際に工事を行うのは有資格者の僕です。源さんはただ『喋っている』だけ。これなら、少なくとも『無資格者が作業した』という記録にはなりません」
「……」
「もし事故が起きても、あなたは『有資格者に作業させ、ベテランに監視させていた』と主張できる。一番恐れている『書類事故』だけは回避できます」
田所は口をパクパクさせた。
屁理屈だ。
だが、書類上の整合性は取れている。
「だ、だが、作業するには電気を止めなきゃならんぞ!今は作業中で……」
「今から一時間、全作業員が一斉休憩に入る時間です。その間にやります」
織部は壁の時計を指差した。
正午。
昼休みのチャイムが鳴り響く。
現場の工具音が止み、静寂が訪れる。
「スケジュールは調整済みです」
織部はポケットから、あらかじめ用意していた一枚の書類を取り出した。
『停電作業許可願』。
「監督。ここに承認のサインを」
「はあ?お前が勝手に……」
「安全衛生規則上、責任者の許可なくブレーカーを操作することはできません。サインがなければ、僕は触れない。……盤が燃えるのを待ちますか?」
織部はボールペンを突き出した。
田所はギリと歯噛みをした。
サインをすれば、「停電を許可した責任」が生じる。
だが、サインをしなければ「修理を拒否して事故を起こした責任」を問われる。
どちらに転んでも、彼は逃げられない。
織部によって、責任の所在を強制的に固定されたのだ。
「……くそッ!」
田所は書類をひったくり、殴り書きで署名をした。
「やったぞ!文句あるか!俺は知らん、勝手にしろ!」
田所は書類を織部に押し付け、逃げるように電気室を出て行った。
*
バチンッ。
重い音と共にブレーカーが落ち、電気室の照明が非常灯に切り替わる。
薄暗がりの中、織部と源さんだけが残された。
「よし、始めましょう」
織部はドライバーを握り、盤の前に立った。
源さんはヘッドライトを点け、織部の手元を照らす。
「いいか織部くん。まずは異音がしていた主幹の端子だ。R相から順にいくぞ」
「はい」
「ドライバーを当てて……よし。そこから右へ、ゆっくり回してくれ。ワシが『よし』と言うまでだ」
織部はロボットのように、源さんの言葉通りに手を動かす。
ネジが軋む感触が伝わる。
織部には、これが締めすぎなのか、足りないのか分からない。
だが、背後の源さんには見えている。
ネジの沈み込み、金属の反発音、手首の角度。
四十年の経験則が、最適なトルクを弾き出す。
「……ストップ!それ以上やるとねじ切れる。半回転戻して」
「了解」
「よし、そこでロックだ。完璧だ。……次はS相」
一本締めれば終わりではない。
振動と熱サイクルに晒された端子台は、一箇所が緩めば全体が緩む。
源さんの指示は、盤内の主要な接続部すべてに及んだ。
「次、T相。……あー、そこは緩んでないな。触るな」
「了解」
「その隣のブレーカーも見ておこう。……うん、やっぱりこっちも少し来てるな。増し締めだ」
二人は奇妙な一体感の中で作業を進めた。
織部という「認証済みデバイス」を、源さんという「高度な制御プログラム」が動かしている。
数十箇所に及ぶチェック作業。
その精度は織部一人では到達できず、源さん一人では法に阻まれる領域にあった。
「……ここだ。熱を持ったせいで被覆が少し硬化してる。テープを巻き直そう。私がテープを切るから、君が巻くんだ」
源さんは楽しそうに指示を出し、織部は淡々とそれを実行する。
四十分後。
休憩終了の二十分前。
予定していた全箇所のメンテナンスが完了した。
「よし、復旧だ。ブレーカー入れてくれ」
源さんの合図で、織部がレバーを上げる。
バチンッ、ブォォン……。照明が点き、空調やポンプが唸りを上げて再起動する。さっきまで響いていた不快な放電音は消え、盤内は正常な電流の流れる低い唸りだけになった。完全修復。
「ふぅ……。終わったよ、織部くん」
源さんは額の汗を拭い、満面の笑みで織部に向き直った。
「ありがとうな。あんたのおかげで、ワシの技術がまだ役に立つって分かったよ。……わざわざワシのために、こんな面倒な真似をしてくれたのか?」
源さんの声は震えていた。
若者が自分の手足となって動いてくれた。
その「人情」に感動しているのだ。
だが、織部は工具を片付けながら、平然と言い放った。
「勘違いしないでください」
「え?」
「僕は、現場のボトルネックを解消しただけです。あなたという高スペックなデータベース【経験】を、アクセス権限【資格】のエラーで閲覧不可にしておくのは損失ですから」
織部は携帯電話で「作業完了報告」を田所に送信した。
添付画像には、田所のサイン入り許可証も写り込んでいる。
「資格は僕が持っています。あなたは今後、その経験だけを提供してください。それが最も効率的なやり方です」
源さんはぽかんとしていたが、やがて苦笑して「……あんた、不器用なやっちゃな」と肩を叩いた。
織部は何も答えない。
彼にとって、それは照れ隠しでも優しさでもない。
ただの事実だ。
正常に戻った電気室に、規則正しい機械音が響いている。
この現場は、今日から織部という仕組みの下で正しく最適化されて回り続けるだろう。
(第9話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




