第8話「誰にも起こらない前提」
絶叫と歓声が交差する遊園地『ワンダーランド・ヒルズ』。
その一番人気であるジェットコースター『飛龍』の乗り場で、織部悟は運行スタッフとして働いていた。
「安全バーを確認します。はい、オッケーです」
織部は淡々と、しかし正確にゲストの安全バーをチェックしていく。
彼の動きに無駄はない。
マニュアル通りの完璧な所作だ。
だが、この現場には一つ、大きな「バグ」が存在していた。
「おい織部!遅いぞ!もっと早く回せ!」
コントロールブースから怒鳴り声が飛ぶ。
運行責任者の木島だ。
勤続二十年のベテラン社員で、このコースターの主を気取っている男だ。
木島の方針は「回転率こそ正義」。
一日に何回コースターを走らせたかが、彼の実績でありプライドだった。
「安全確認は確実にやらないと……」
「うるせえ!センサーが青ならいいんだよ!いちいち手で揺するな、時間の無駄だ!」
木島は、安全確認を簡略化することを強要する。
さらに彼は、重大な規約違反を常習的に行っていた。
「コース内への立ち入り」だ。
ゲストが帽子や眼鏡を落とすと、木島は運行を止めずにフェンスを乗り越え、コース脇へ降りて回収に向かうのだ。
「止めるなよ。俺が戻るまで発車を待てばいいだけだ」
「規定では、コース内へ入る際は『運行停止』および『電源遮断』が必須です」
「馬鹿かお前は。いちいち電源落としてたら、再起動に二十分かかるんだぞ!客を待たせるな!」
木島は「俺はタイミングを熟知している」「事故など起きない」という、根拠のない全能感(前提)に支配されていた。
『誰にも起こらない前提』。
それは、安全管理において最も忌むべきヒューマンエラーの温床だ。
織部は、ブースの中で木島の背中を見つめていた。
これまでの織部なら、マニュアルの記述を変えたり、ログを提出したりして、木島の行動を「矯正」しようとしただろう。
だが木島は違う。
彼はマニュアルを知り尽くした上で、それを自分の都合で無視している。
ルールが読めないのではない。
ルールを軽視する「仕様」が、彼の人格にハードコードされているのだ。
――修正不可能。
――環境を変えても、この個体が存在する限り、エラーは再発する。
織部の思考が、静かに切り替わった。直すのではない。取り除くのだ。
*
週末の午後。乗り場は長蛇の列でごった返していた。
回転率を上げろと急かす木島の目は血走っている。
その時、出発したばかりのコースターから、ゴトン、という音がした。
最前列の客が、ポケットから財布を落としたのだ。
財布はホームを出てすぐの、レール脇の点検用通路に落ちた。
「あーっ、財布が!」
「チッ、面倒くせえな」
木島は舌打ちをし、コントロール盤の鍵を握ったまま立ち上がった。
「織部、次を入れるなよ。拾ってくる」
「木島さん。停止手順を……」
「うるせえ!すぐ戻る。触るなよ!」
木島は制止を振り切り、慣れた足取りでホームの端から線路へと降りた。
運行は継続中だ。次のコースターが戻ってくるまで、約三分。
木島はその隙間を縫って回収し、何事もなかったかのように戻ってくるつもりだ。
織部は、コントロール盤の前に一人残された。
目の前には、赤い『緊急停止』ボタンがある。
マニュアル第8条。
『コース内への人立ち入りを確認した場合、直ちに緊急停止ボタンを押下し、すべての動力を遮断すること』。
木島は言った。
「触るな」と。
だが、マニュアルは言っている。
「押せ」と。
織部は、線路の上を歩く木島の背中を見た。
彼は財布を拾い上げ、得意げにこちらへ手を振っている。
「ほら見ろ、余裕だ」と言わんばかりの笑み。
織部は迷わなかった。
彼は木島の命令を無視し、マニュアルというOSの命令に従った。
――排除実行。
バン!織部の掌底が、赤いボタンを叩き込んだ。
ブォン……!サイレンと共に、強烈なエアブレーキの音が響き渡る。
帰還しようとしていたコースターが、ホーム手前のブロックブレーキで急停車した。
場内には『緊急停止により、運行を中断します』という自動アナウンスが流れる。
「な……っ!?」
線路上の木島が凍りついた。
コースターが止まったからではない。
緊急停止ボタンが押されたことで、システムは軌道内への立ち入りを異常事態として処理し、安全確保のためにレール周辺の照明が一斉に点灯し、監視カメラには線路上の木島の姿がはっきりと映し出されたからだ。
さらにブース内の警報が管理センターへ直結する。
センターのモニターには、『緊急停止:運行中の軌道内立ち入り』というログと共に、線路の上で間抜けに立ち尽くす木島の姿が大写しにされた。
「お、おい織部!てめえ、何してやがる!」
木島が顔面蒼白で叫ぶ。
緊急停止させてしまえば、復旧には安全確認と試運転が必要になり、数時間は動かせない。
今日の売り上げはパーだ。
そして何より、運行中に線路へ降りていたという事実が、公的な記録として残ってしまった。
織部はマイクを握り、事務的に告げた。
「侵入者を確認。規定通り、緊急停止措置を行いました。安全確保のため、その場から動かないでください」
「ふざけんな!俺だ!間違えて押したと言え!解除しろ!」
「できません。マニュアル第12条。一度作動した緊急停止は、安全統括管理者の鍵がなければ解除できません」
詰みだ。
木島は線路の上で、衆人環視に晒されたまま、管理者が来るのを待つしかない。
財布を拾うという「小さな親切」あるいは「効率化」のつもりだった行為は、織部のボタン一つによって「重大な安全規定違反」へと変換された。
*
数日後。
木島は懲戒解雇となった。
遊園地にとって、安全軽視は致命的なリスクだ。
映像という証拠が残った以上、会社は彼を守れなかった。
新しい責任者が着任し、朝礼で「安全第一」を訓示している。
織部は列の中で、それを無表情に聞いていた。
隣のスタッフが、小声で織部に話しかけてきた。
「災難だったね、織部くん。木島さん、恨んでたでしょ?『あいつがボタンさえ押さなければ』って」
織部は前を向いたまま答えた。
「ボタンを押したのは僕の手ですが、彼を排除したのはシステムです。彼が『禁止エリアにいた』という事実がある限り、結果は変わりません」
「……ま、まあ、そうだけど。ちょっと可哀想だよね」
同僚は苦笑いして離れていった。
織部は、自分の手のひらを見つめた。
あの時、ボタンを押す瞬間に、迷いや躊躇いは一切なかった。
ただ、不要なものを取り除いただけだ。そんな感覚だった。
人間を救うために環境を変えるのではなく。
環境を守るために、人間を消す。
その方が、早くて確実だ。
織部の中で、何かが決定的に変質していた。
彼は冷たい風が吹く遊園地で、次の「処理」を静かに待っていた。
(第8話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




