第10話「台本(スクリプト)」
現代社会において、「謝罪」は通貨として流通している。
ミスを解決するコストよりも、頭を下げて嵐が過ぎ去るのを待つコストの方が安い場合、組織は迷わず謝罪を選ぶ。
大手通信キャリアのカスタマーサポートセンター。
数百人のオペレーターが並ぶ広大なフロアは、絶え間ない話し声とキーボードを叩く音で埋め尽くされていた。
「大変申し訳ございません……。ええ、お客様のおっしゃる通りです……」
「ご不便をおかけしております……」
ここにあるマニュアル【台本】の基本構造は『共感』だ。
顧客の怒りに寄り添い、ガス抜きをし、穏便に通話を終了させること。
それが最優先事項とされている。
そのフロアの片隅で、新人の女性オペレーター真山が震えていた。
ヘッドセットからは、男性の怒鳴り声が漏れ聞こえている。
『ふざけんな!ネットが繋がらねえって言ってるだろ!先週も電話したんだぞ!その時も「すぐ直る」って言ったじゃねえか!』
「は、はい……。誠に申し訳ございません……。前回の担当者が不適切な案内を……」
『謝るんじゃなくて直せよ!今すぐ来いよ!』
「そ、それは制度上できかねまして……」
通話時間は既に四十分を超えている。
真山の背後に、SV【スーパーバイザー】の男、合田が立った。
彼は不機嫌そうに腕時計をタップしている。
(真山、切れ。AHT【平均処理時間】が下がる)
合田はジェスチャーで指示を出した。
このセンターの評価指標は「いかに早く電話を切るか」だ。
長引く通話は、センター全体の生産性を下げる「悪」とみなされる。
「あ、あの、お客様……。大変申し上げにくいのですが、一度回線をリセットしていただき、様子を見ていただくしか……」
『またそれか!何回リセットさせるんだ!お前じゃ話にならん、上を出せ!責任者だ!』
真山はパニックになった。
もう無理だ。
一度「保留」にして、誰かに代わってもらおう。
彼女は震える指を伸ばし、電話機の「保留」ボタンを押そうとした。
ガシッ。
その指が、横から伸びてきた手に掴まれた。
隣の席に座っていた派遣社員の男、織部悟だ。
「……え?」
「押すな。『理由なき保留』は業務放棄とみなされる」
織部は真山の指を払いのけると、彼女の頭からヘッドセットを乱暴に抜き取り、自分の耳に装着した。
合田が「おい!」と叫んで止めようとするよりも速く、織部はマイクに向かって喋りだした。
「お待たせしませんでした。担当、代わりました。織部です」
その声は、機械音声のように冷静だった。
割り込まれた顧客は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに怒りを倍増させた。
『あぁ!?なんだ男か!まず謝れよ!』
ヘッドセットの向こうで、顧客が罵声を浴びせる。フロアの空気が張り詰めた。
真山が息を呑み、合田が「馬鹿野郎、早く謝れ!」と叫ぼうとした。
だが、織部の口から出たのは謝罪ではなかった。
「謝罪で回線速度は回復しません」
『……は?』
「あなたが求めているのは『心地よい言葉』ですか?それとも『インターネットの接続』ですか?」
電話の向こうが一瞬沈黙した。
予想外の問いかけに、怒りの行き場を見失ったのだ。
カスタマーサポートにおいて「謝らない」という対応は前代未聞だった。
『……つ、繋がる方に決まってんだろ!』
「なら、僕の質問にYESかNOだけで答えてください。余計な感情は不要です。解決まで最短ルートで案内します」
織部は真山の端末のキーボードを叩き、顧客の契約情報と、貸し出しているルーターの型番を画面に展開した。
彼は手元のマニュアル【台本】を閉じた。
そこにある「共感」や「傾聴」のセクションは、彼にとって処理遅延を起こすバグでしかない。
「現在、ルーターのランプは四つとも点灯していますか?」
『ああ、緑色だ』
「LANケーブルは『カチッ』と音がするまで差し込まれていますか?」
『当たり前だろ!馬鹿にしてんのか!』
「感情は不要です。事実確認です。……では、ルーターの背面にある切り替えスイッチを見てください。『ROUTER』と『AP』、どちらになっていますか?」
『あ?……えーと、APだ』
「それが原因です。あなたの契約環境では、そこは『ROUTER』でなければなりません」
『はあ?でも前の担当は再起動しろとしか……』
「前の担当者はマニュアルの1ページ目しか読んでいないからです。……スイッチを切り替えて、再起動してください。それで解決します」
数十秒の沈黙。
やがて、電話の向こうから戸惑ったような声が聞こえた。
『……お、おい。繋がったぞ。ネットが見れる』
「確認が取れました。通話記録に解決済みと残します」
『な、なんだよ。スイッチひとつかよ……。この一週間、俺がどれだけイライラしたか……』
「解決しましたね」
織部は相手の感傷を遮った。
「問題は片づきました。他に質問は?」
『あ、いや……ないけどよ。お前、名前は?』
「織部です」
『……愛想のねえ兄ちゃんだな。でも、助かったよ』
「通話を終了します」
ブツッ。
織部は相手が礼を言い終わる前に、事務的に回線を切断した。通話時間、二分十五秒。織部はヘッドセットを外し、真山に返した。
「……お、おい!」
事の成り行きを呆然と見ていた合田が、ようやく我に返って怒鳴り始めた。
「貴様、何勝手なことをした!他人の席で通話するなど、セキュリティ違反だぞ!それにあの態度はなんだ!マニュアルを無視して、一言も謝罪なしか!」
ブラックリスト入りの常連クレーマーを沈黙させた実績など、合田の目には入っていない。
彼が見ているのは「手順を守ったかどうか」だけだ。
「始末書ものだぞ!なんで席を移動して、自分のIDでログインし直さなかった!」
「却下します」
織部は冷たく言い放った。
「『接客マニュアル』第3条。『いかなる場合も、顧客をお待たせしてはならない』」
「はあ?」
「席を移動し、IDを切り替えれば四十秒のロスが生じます。保留音を流せば、顧客のストレス値はさらに上昇し、通話時間は延びる」
織部はモニターを指差した。
「作業ログは端末IDではなく、音声記録と時刻で管理されています。誰が対応したかは、後から十分に追えます。……このまま引き継ぐのが、マニュアルに準拠した最速の措置です」
「だ、だが、共感もせずに……」
「共感は、問題解決の変数を増やし、処理時間を延ばすだけです」
織部はモニターの通話ログを指差した。
「あの顧客が求めていたのは『慰め』ではなく『正解』です。風邪を引いた人間に、優しく手を握る医者と、無言で特効薬を出す医者。……どちらが有能ですか?」
合田は言葉に詰まった。
AHT【平均処理時間】への執着、マニュアルへの盲従。
それが逆に「再入電」という巨大なコストを生んでいたことを、突きつけられたからだ。
「それに、利用規約第18条」
織部はモニターの端に小さく表示されていた規約を指差した。
「『当社は、技術的な解決のために必要な協力を顧客に求めることができる』。僕はそれに則り、スイッチの確認を要求しました。正当な業務です」
織部は荷物をまとめ始めた。
定時だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
真山が慌てて追いかけてきた。
「あ、ありがとうございました!私、怖くて……謝ることしかできなくて……」
「勘違いしないでください」
織部は立ち止まり、冷ややかに彼女を見下ろした。
「僕は、君を助けたわけじゃありません。作業環境の最適化です。……あなたの泣き声は、フロアの通話品質を低下させる不要な信号でしたから」
織部はそれだけ言い捨てて、エレベーターホールへと歩き出した。
背後でセンターの喧騒が再び日常に戻っていく。
だがそのシステムの一部は、確かに書き換えられていた。
「謝罪」という名の無駄なやり取りを捨て、「解決」へ続く筋だけを通す。
織部悟にとって、この世界は修正すべきバグだらけの巨大なプログラムに過ぎないのだ。
(第10話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




