第6話「危険予知」
ガガガガッ、キュルルル……。
金属を削る鋭い音が、油の匂いと共に充満している。
町外れのプレス工場。
織部悟は職業体験の一環として、その薄暗い現場の隅で掃除用具を手に立っていた。
彼の視線は、一台の古びた油圧プレス機に向けられている。
そこには一人の工員、村田が張り付いていた。
村田はベテランだが、極端に口数が少なく人と目を合わせるのが苦手な男だ。
だが機械を見る目だけは確かだった。
「……音が、おかしい」
村田が手を止め、機械の側面パネルに耳を当てた。
「班長。やっぱりポンプの音が変です。圧力が安定しません」
村田が報告したのは、現場責任者の梶原だ。
梶原は納期に追われ、常にイライラしている男だった。
彼は村田の報告を聞くや否や、露骨に舌打ちをした。
「またか、村田!お前はサボる理由ばかり探すな!」
「い、いえ、サボってるわけじゃ……。でも、このままじゃ不良品が出ます」
「お前の腕が悪いから不良品が出るんだよ!機械のせいにするな!」
梶原が怒鳴る。
村田は萎縮し、「すみません……」と小さくなって作業に戻った。
だが織部には見えていた。
プレス機が動くたび、油圧計の針が不規則に揺れ、製品の淵に微細なバリ《突起》が生じているのを。
機械は悲鳴を上げている。
村田という「高感度センサー」は、それを正しく検知し、警告信号を発している。
だが梶原という「受信機」が、その信号をノイズとして遮断し、無理やり稼働を続けさせている。
――システム不全。
――このままでは、致命的な破損が起きる。
織部は箒を動かしながら、現場の壁に掛けられたバインダーに目をつけた。
『始業前点検表』。
毎朝作業員がチェックし、最後に班長の梶原がハンコを押すことで稼働が許可される書類だ。
*
休憩時間。織部は誰もいない休憩室で、その『始業前点検表』を手に取った。
内容はあまりに杜撰だった。
『油圧ポンプの動作』……□良・□否
『異音・発熱の有無』……□無・□有
すべて「良」か「無」にチェックを入れるだけの、形骸化したリスト。
梶原はこれを見てすらいない。
村田が慣習的に入れたチェックマークの上に、機械的にハンコを押しているだけだ。
これでは、村田の気づき【センサーの検知】は記録に残らない。
織部はポケットから定規とボールペンを取り出した。
彼は新しい点検用紙の束を抜き取り、そのフォーマット自体に手を加えた。
改竄ではない。
精度を上げるための書式変更だ。
彼は『油圧ポンプの動作』の項目を二重線で消し、その横に手書きで枠を追加した。
『油圧計の数値を記入すること(MPa)』
『※基準値(15.0〜16.0)以外の場合は、直ちに稼働を停止すること』
さらに最下部の班長承認印の欄に注釈を書き加えた。
『管理者承認欄:上記数値が正常であることを確認しました。本日の稼働における全責任(事故時の法的責任を含む)を負うものとします』
織部はその書き換えた用紙を一番上に戻し、何食わぬ顔でバインダーを閉じた。
チェックボックスという「曖昧な入力」を廃止し、数値という「事実の入力」を強制する。
そして、ハンコという行為に「責任」という重みを付与する。
異変に気づく目はもう働いている。
あとはそれが正しく伝わる形にすればいい。
*
翌朝。
始業のチャイムが鳴り、現場が動き出す時間。
村田はいつものように点検表を手に取り、首を傾げた。
「あれ?様式が変わってる……?」
「どうした早くしろ!納期が遅れてるんだぞ!」
後ろから梶原が怒鳴る。
村田は慌てて、「あ、はい。ええと、数値を書くのか……」と、油圧計を確認した。
針は、赤色の危険ゾーンを指していた。
「……12.5メガパスカル……」
明らかに低い。
異常値だ。
昨日までは「なんとなく動くからヨシ」としていたが、数値を書けと言われれば、見たままを書くしかない。
村田は正直に『12.5』と記入した。
そして、そのバインダーを梶原に渡した。
「班長、点検終わりました。確認お願いします」
「チッ、とろとろやりやがって」
梶原は苛立ちながらハンコを取り出し、いつものようにノールックで承認欄に叩きつけようとした。
だがその手が止まった。
ハンコを押す枠の真上に書かれた不吉な一文が目に入ったからだ。
『上記数値が正常であることを確認しました』
『本日の稼働における全責任(事故時の法的責任を含む)を負うものとします』
梶原の視線が、村田の書いた数値へ走る。『12.5』。その横には、『基準値(15.0〜16.0)』という記載。
「…………」
梶原の額に冷や汗が噴き出した。
基準値外だ。
異常だ。
これを「承認」してハンコを押せば、彼は「異常を知りながら稼働させた」ことになる。
もしこの後、機械が壊れて誰かが怪我をしたら?
あるいは火事になったら?
この一枚の紙が、彼を業務上過失致傷で刑務所へ送る「決定的な証拠」になる。
ハンコが震える。
押せない。
責任という名の重力が、彼の右手を空中で凍りつかせていた。
「班長?早くハンコを……動かさないと」
村田が不思議そうに催促する。
梶原は顔を引きつらせ、呻いた。
「……だ、駄目だ」
「え?」
「動かすな!数値がおかしいだろうが!こんな状態で動かせるか!」
梶原は叫び、バインダーを放り投げた。
彼は自らの保身のために昨日は否定した「機械の故障」を認めざるを得なくなったのだ。
「すぐにメンテナンス業者を呼べ!ラインストップだ!」
*
一時間後。
駆けつけた修理業者が、プレス機を分解して青ざめていた。
「うわぁ、危なかったですね。油圧ホースが裂ける寸前でしたよ。これ、そのまま動かしてたら、高圧オイルが噴き出して火事になってました」
業者の言葉に梶原はへたり込んだ。
もしハンコを押していたら。
想像するだけでゾッとしたのだろう。
「村田さん、よく気づきましたね。お手柄ですよ」
業者が村田を称賛する。
村田は照れくさそうに頭をかき、そして工場の隅で掃除をしている織部の方をちらりと見た。
織部は村田と目が合うと、わずかに頷いただけですぐに視線を外した。
――修理完了。
――正常なセンサー【村田】がシステムに再接続され、危険予知機能が回復した。
織部はゴミ袋を結び、淡々と作業に戻った。
人を救ったのではない。
断線していた回路を、一本繋ぎ直しただけだ。
仕様通りに動く工場は、機械油の匂いすら整然として感じられた。
(第6話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




