第5話「校則の抜け穴」
昼休み。
教室の隅で、鈍い音が響いた。
「痛ってぇな!何すんだよ!」
大げさな悲鳴を上げて尻餅をついたのは、クラスの支配者、堂本だ。
彼の父親はこの学校のPTA会長であり、地元で幅を利かせる名士でもある。
堂本の前には施設から通う少年、ケンジが拳を握りしめて立っていた。
「……お前が、俺の財布を取ろうとしたからだろ!」
「はあ?ふざけんな。ちょっと中身を見せてもらおうとしただけだろ!減るもんじゃなし、ケチくせえな」
堂本がニヤニヤしながら言うと、取り巻きたちが一斉に同調する。
その喧騒から少し離れた席で、織部悟は静かにその光景を見ていた。
彼は見ていた。
堂本がケンジのポケットに手を突っ込み、財布を強引に引き抜こうとした瞬間を。
そして、「会長の息子への税金だろ?」と囁いたのを、その耳で拾っていた。
そこへ、担任の川上が血相を変えて飛んできた。
「何事だ!」
「先生!ケンジがいきなり殴ってきた!怪我した!」
堂本が擦りむいた腕を見せる。
川上は、状況を確認もせず、ケンジを睨みつけた。
「ケンジ!またお前か。職員室へ来い!」
「ちがう!堂本が俺の金を……」
「言い訳無用!手を出した方が負けだ。親御さん……いや、施設長を呼ぶことになるぞ」
川上は「事なかれ主義」の典型だ。
PTA会長の息子である堂本には絶対に逆らわず、立場の弱い施設の子供をスケープゴートにして場を収めるのが常套手段だった。
連行されていくケンジ。
織部はその背中を見送ると、無表情に机の中へ手を伸ばし、「生徒手帳」を取り出した。
興味のない無機質なルールブック。
だがその中には今の状況をひっくり返すための「仕様」が記述されている。
*
放課後の生徒指導室。
密室には、重苦しい空気が漂っていた。
ケンジはパイプ椅子に座らされ、その目の前の机には、一台の無骨なカセットレコーダーが置かれていた。
「いいか、これより指導を開始する」
川上は事務的に宣言し、録音ボタンを押し込んだ。
ガチャリ、と重い音がして、テープが回り始める。
「これは『指導記録』だ。後で『言った言わない』にならないよう、お前の反省の言葉をすべて記録する。……正直に認めれば軽くなるが、嘘をつけば証拠として残るぞ」
それは生徒を萎縮させ、教師のシナリオ通りに自白させるための威圧装置だった。
ケンジは青ざめて俯いた。
テープが回っていると思うと、うかつなことは言えない。
反論しても、それが「反抗的な態度」として記録されるのが怖かったのだ。
「今回の件、いかなる理由があろうと、暴力は校則違反だ。……認めるな?」
「……はい」
「よし。では、今回の件は『停学処分』として処理する」
川上は満足げに頷いた。
これで一件落着だ。
そう思った瞬間、指導室のドアがノックもなしに開いた。
「失礼します」
織部悟が入ってきた。
手には黒い生徒手帳を持っている。
「織部?なんだお前は。今は指導中だぞ、出て行け」
「指導中ということは、録音中ですね?」
織部は机の上のレコーダーを一瞥し、冷静に言った。
「ちょうどよかった。僕も同席させてください。ケンジが処分されれば、施設全体の評価に関わります。第三者として、公正な記録を残したいんです」
「なっ……何を勝手な……」
「追い出しますか?『正当な理由なく第三者の立ち会いを拒否した』という音声も、このテープに残りますが」
織部の指摘に、川上は舌打ちをした。
テープは回っている。
ここで感情的に怒鳴り散らせば、それこそ教師としての資質を問われる証拠になりかねない。
「……チッ、勝手にしろ。だが、余計な口を挟むなよ」
川上は渋々認めた。
子供一人が増えたところで、結論は変わらないと高をくくっていたのだ。
だがそれが致命的なミスだった。
「では、記録されていることを前提に確認させてください」
織部は川上の机の前に立ち、手帳を開いた。
「先生は、今回の件を『暴力行為』として処分するつもりですね?」
「当たり前だ。堂本くんは怪我をしている」
「では、校則第十八条。『生徒間の金銭の授受、貸借、および強要は、いかなる理由があってもこれを禁ずる』。……こちらについてはどう処理されますか?」
川上の眉がピクリと動いた。
「……金銭?何の話だ」
「堂本はケンジのポケットに手を入れ、財布を強引に引き抜こうとしました。僕はその現場を目撃しています。さらに『会長の息子への税金だ』という発言も聞いています。……この音声記録に、僕が目撃者として証言を残します」
「なっ……ただの冗談だと言っているだろう!子供の遊びだ」
「そうですか。では、先生は『これは遊びであり、金銭トラブルではない』と認定したわけですね?」
テープが回る微かな駆動音だけが響く。
川上は嫌な汗をかき始めた。
「あ、ああ、そうだ。だからケンジの暴力だけが問題なんだ」
「分かりました。……では、適用すべき条文が変わります」
織部はページをめくった。
「校則第二十三条。『集団による威圧行為の禁止』。および、巻末のPTA会長挨拶。『遊びのつもりでも、相手が嫌がればいじめであり、厳正に対処すべきです』」
織部は、堂本の父親の顔写真が載ったページを川上に突きつけた。
「先生は先ほど、堂本の行為を『遊び』と認定しました。そしてケンジはそれを嫌がって抵抗した。……つまり、堂本の行為は、PTA会長が定義する『いじめ』に該当します」
「な……っ!」
「さらに、取り巻きを含めた集団で行われた『いじめ』に対し、被害者が抵抗して怪我をさせた。……これは校則第二十五条『自己防衛行為の特例』の適用範囲内です。ケンジの暴力は不問となります」
織部の論理は完璧だった。
川上は反論しようと口を開いたが、言葉が出ない。
何より目の前のレコーダーがこのやり取りをすべて吸い込んでいるという事実が、彼の喉を締め上げた。
「選択肢は二つです。先生」
織部はレコーダーのマイクに向かって、はっきりと告げた。
「一つ、ケンジの行為を『金銭トラブルへの抵抗』と認め、堂本を第十八条違反(金銭強要)で処分するか。……二つ、堂本の行為を『集団いじめ』と認定し、PTA会長の宣言通り厳正に処分するか」
「……そ、それは……」
「どちらにせよ、一方的にケンジだけを処分することは不可能です。そうですね?」
織部は川上の目を射抜いた。
今、この瞬間、川上が「堂本は処分できない」と言えば、それは「いじめの隠蔽」あるいは「金銭強要の黙認」として記録される。
逆に「処分する」と言えば、PTA会長の息子に罰を与える言質となる。
逃げ場はない。
「……わ、分かった。……検討する……」
「検討は記録になりません。どちらかの規定に則って、処理を確定してください」
「……くっ……」
「堂本への指導は必要ですね?イエスかノーで答えてください」
織部は冷酷に追い詰めた。
川上は脂汗を流し、震える声で絞り出した。
「……ひ、必要だ……。堂本へも、相応の……処分を行う」
言った。録音された。
「ありがとうございます。確認しました」
織部は満足げに頷いた。
川上はハッとして、慌ててレコーダーの停止ボタンに手を伸ばそうとした。
このテープさえ消してしまえば、言ったことにはならない。
後で何とでも誤魔化せる。
だが、織部はその動きを予期していたかのように、冷ややかに言った。
「ちなみに先生。そのテープ、管理番号を読み上げます」
「えっ?」
織部はレコーダーの窓から見えるカセットテープのラベルを指差し、マイクに向けて宣言した。
「管理番号、『304』」
その声が、テープに刻まれる。
「生徒指導規定、第四条。『指導記録用の媒体は通し番号で管理し、紛失および破損が認められた場合、担当教員は管理責任を問われ、減給処分の対象となる』」
川上の手が空中で止まった。
消せない。
捨てられない。
自分で生徒を縛るために持ち出した厳格な管理ルールが、今、自分自身の手足を縛り上げている。
「この録音データは、教育委員会への提出も可能です。……まさか、うっかり消したりしませんよね?」
織部のダメ押しに、川上は力なく椅子に崩れ落ちた。
自分の保身のために回したテープが、自分のキャリアを終わらせる爆弾に変わった瞬間だった。
*
帰り道。
夕暮れの通学路を織部とケンジが歩いていた。
「すげえよ織部!あいつ、真っ青になってたな!」
ケンジは興奮気味に織部の肩を叩いた。
「ありがとうな。お前のおかげで助かったよ。やっぱり持つべきものは友達だな!」
「……勘違いするな」
織部は冷たく言い放ち、ケンジの手を払った。
「え?」
「僕は友達として助けたわけじゃない。お前が処分されると、施設の『管理評価』が下がって、僕の生活環境に悪影響が出るからだ」
「そ、そんな……」
「それに、お前も軽率だった。挑発に乗って手を出せば、記録の上では『暴力』として扱われる。次は助けない」
織部はケンジを残し、一人でスタスタと歩き出した。
背後でケンジが呆然としている気配がする。
だが、織部は振り返らない。
教師からの感謝も、友人からの信頼も、彼には不要なノイズだ。
録音という記録を利用し、エラーを確定させた。
ただ、それだけの処理だ。
(第5話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




