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マニュアルキラー 第4部 ~源流…善意ゼロの天才少年、マニュアル通りに社会のバグを潰します~  作者: 早野 茂


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第3話「マニュアル通り」

氷のような冷水が、シャワーヘッドから降り注ぐ。

悲鳴に近い声を上げながら、子供たちが体を縮こまらせていた。


「冷たい!先生、お湯出ないよ!」

「寒い、寒いよぉ……」


一月の浴室。

湯気など全く立っていない。

施設の給湯ボイラーが故障してから、今日で三日目だった。

子供たちは唇を紫色に震わせながら、修行僧のように冷水を浴び、急いで体を拭いて脱衣所へ逃げ込んでいく。


脱衣所の入り口で、織部悟(十歳)はその光景を冷めた目で見ていた。

彼はタオルを肩にかけ、まだ服を着たまま動かない。

この寒空の下、機能不全に陥ったシステム【浴室】を利用する合理性はないと判断していたからだ。


「うるさいぞ、静かに浴びろ!」


ボイラー室の方から、苛立った大人の声が響く。

設備管理担当の職員、杉本だ。

彼は四十代半ばで、いつも気だるげにマニュアルのファイルを小脇に抱えている。

「マニュアル通りやっている」が口癖の、思考停止した男だった。


「先生、いつ直るの?」

「知らん。業者は呼んだが、来るのは来週だ。それまでは我慢しろ」

「でも、寒いよ……」

「マニュアル通り再起動してるんだが、すぐ止まるんだよ。このポンコツ機械が悪いんだ」


杉本は操作盤に向かい、乱暴にボタンを叩いた。

ブオン、と低い音がして、部屋の半分を占拠する巨大な鉄の塊――旧式の重油ボイラーが唸る。

ガスでも電気でもない、古臭い石油燃焼式の機械。

予算のないこの施設では、設備更新もされず昭和の遺物が稼働し続けているのだ。


だが、数秒後には『ピー、ピー』という警告音と共に停止する。

杉本は舌打ちをし、手元のファイルをめくり、また同じボタンを押す。

その繰り返し。


織部は、その操作を見ていた。

エラーコード『E―04』。

着火ミス、または燃料供給異常。

システムが「燃料が来ていない」という正しい判断を下しているのに、運用者(杉本)がそれを無理やり解除しようとしている。


――バグだ。

――あいつが、この低温状態を維持している。


織部は濡れた髪を拭く子供たちの横を通り抜け、静かに浴室を後にした。



深夜。

織部は事務室の裏にあるボイラー室へと侵入した。

鍵はかかっていなかった。杉本の管理の杜撰さがここにも表れている。

薄暗い部屋には、鼻を突く重油の匂いと、冷え切った鉄の匂いが充満していた。


操作盤の横に、例のファイルが放置されている。

『設備緊急時対応マニュアル』。

織部は懐中電灯を口にくわえ、そのページをめくった。


杉本が見ていたページを見つける。

【異常発生時の対応フロー】

1.警告音が鳴った場合、停止ボタンを押す。

2.5分待機後、再起動ボタンを押す。

3.それでも動作しない場合、業者へ連絡する。


簡素すぎるフローチャート。

これを作った人間も適当だが、これを鵜呑みにして三日間も再起動を連打し続けている杉本はさらに罪深い。

「再起動」は魔法ではない。

ただの処理のやり直しだ。

原因が取り除かれていなければ、同じエラーで止まるのは自明の理だ。


織部はボイラーの側面、燃料タンクから伸びるパイプの元へ回った。

そこに、ガラス瓶のような透明なカップが付いている部品がある。

「オイルストレーナー(油こし器)」だ。

タンクの底に溜まったゴミや水が、バーナーに入らないように濾過するフィルター。


織部は懐中電灯でカップを照らした。

一目瞭然だった。

透明なはずのカップの中が、ヘドロのような黒いスラッジ(沈殿物)で埋め尽くされている。

これだ。

フィルターが完全に詰まり、燃料が流れていない。


これは故障ではない。

ただの管理不良だ。

コックを閉めて、カップを回して外し、中の網を灯油か何かで洗えば済む。

所要時間は五分。

マニュアルには載っていないかもしれないが、施設管理者なら常識のメンテナンスだ。

だがボタンを押すことしかしない杉本は、しゃがんでここを見るという発想すらない。


織部はポケットから道具を取り出した。

修正液と黒と赤の多色ボールペン。

彼は掃除をしない。

直すべきは機械ではなく運用ルールの方だ。


彼はマニュアルの【異常発生時の対応フロー】の項目に、修正液を引いた。

白いラインが、元の杜撰な指示を消し去る。

液が乾くのを待ち、その上から、できるだけ元のフォントに似せた角張った文字で書き込んだ。


書き換えたのは一項目だけだった。

「再起動ボタンを押す」の手順の前に、確認項目を一つ差し込む。


【重要:再起動前に、必ず側面のストレーナー(透明カップ)を目視確認すること】

【警告:カップ内に汚れがある状態で再起動を行うと、不完全燃焼により爆発の恐れあり】


織部はペンを赤色に切り替え、「爆発」という単語を書き込んだ。

感嘆符などはつけない。

ただ、視認性を高めるため、その二文字だけをフォントサイズを上げて記述した。


実際に爆発するかどうかは問題ではない。

安全装置もある。

だが『爆発』という強い文字がボタンを押す指への「物理的なブレーキ」になる。

恐怖は人を動かす最強のコマンドだ。


織部は満足げにマニュアルを閉じ元の位置に戻した。

これで手順は書き換わった。

あとはあの男がどう反応するかだ。



翌朝。

朝の支度の時間になっても、やはりお湯は出なかった。

杉本があくびをしながらボイラー室に入ってくる。

織部は廊下の掃除をするふりをして、開いたドアの隙間から中を窺っていた。


「あー、寒い。めんどくせえ機械だな」


杉本はいつものように操作盤の前に立ち、慣れた手つきで再起動ボタンを押そうとした。

だがその手が止まる。

横に開いて置かれたマニュアル。

そのページに昨日まではなかった「赤字」が目に入ったからだ。


「……あ?なんだこれ」


杉本は目を凝らした。

『不完全燃焼により爆発の恐れあり』。

その言葉を見た瞬間、杉本の顔が引きつった。

彼は慌ててボタンから手を引っ込めた。


「ば、爆発……?そんなこと書いてあったか?」


彼はマニュアルを二度見、三度見する。

修正液の跡には気づかない。

彼にとってマニュアルは絶対的な「正解」であり、疑う対象ではないからだ。

杉本は恐る恐る、マニュアルの指示通りにボイラーの側面を覗き込んだ。

今まで一度も見たことのなかった場所。


「……ストレーナー?これか?」


彼は工具箱の脇にあった懐中電灯を取り上げ、透明なカップを照らした。

そこには昨夜織部が確認した通りのどす黒いヘドロが詰まっていた。


「うわっ、真っ黒だ!なんだこれ、びっしり詰まってるじゃないか」


杉本は青ざめた。

もしこのまま再起動していたら、爆発していたかもしれない。

そう錯覚した彼は慌てて工具箱からレンチを取り出し、カップの取り外しにかかった。


溜まったヘドロを捨て、金網をブラシでこする。

ただの掃除だ。

十分後、綺麗になったカップを取り付けた杉本は、恐る恐る再び再起動ボタンを押した。


ボッ、という健全な着火音。

続いて、ゴーッという力強い燃焼音が響き始めた。

警告音は鳴らない。エラーランプも消えた。正常稼働。


「な、直った……」


杉本は安堵のため息をつき、腰を抜かしたように椅子に座り込んだ。

そこへ、騒ぎを聞きつけた施設長が入ってきた。


「杉本くん、お湯が出たぞ!直ったのか?」

「あ、はい。……直りました。掃除、しときました」


杉本は、額の汗を拭いながら、何でもないことのように報告した。

自分の怠慢を隠すための、小さな嘘。

だが、施設長の視線は、杉本ではなく操作盤のモニターに向いていた。

そこには、デジタルの履歴ログが表示されている。


『再起動試行回数:48回(過去3日間)』

『エラーE―04継続中』


施設長の表情が険しくなる。

そして、机の上に開かれたマニュアルの「追記」に気づいた。


「……杉本くん。このマニュアルには『汚れがある状態で再起動すると爆発の恐れ』と書いてあるな」

「は、はい。ですから私が掃除を……」

「君は、掃除をする前に四十八回も再起動を連打したのか?爆発するかもしれない状態で?」

「えっ」

「このログを見ろ。君は三日間、一度も側面を見ずに、危険な操作を繰り返していたということじゃないか!」


施設長の怒鳴り声がボイラー室に響く。

杉本は「いや、その、マニュアルが……」と言い訳しようとしたが、そのマニュアルこそが彼の怠慢を証明する証拠になっていた。

爆発のリスクを無視してボタンを押し続けた無能な管理者。

それが、ログとマニュアルによって確定した事実だった。


「君には設備を触らせられん。事務へ戻れ。処分は後で言い渡す!」



夕方。

浴室には真っ白な湯気が充満していた。

温かいお湯がシャワーから溢れ出し、子供たちの歓声が響いている。


「あったけー!」

「生き返るぅ……」


織部は湯船に浸かり、ほう、と息を吐いた。

適温。

四十二度。

血管が拡張し、体温が正常値へと戻っていく。


杉本は担当を外されたらしい。

新しい担当者は、おそらくもう少しマニュアルを「読む」人間になるだろう。

あるいは、あの書き換えられたマニュアルが、次の担当者を正しく縛り続ける。


織部は手桶にお湯を掬い、頭からかぶった。温かい。

だが、彼の心は冷たく静かだった。


人を救ったのではない。記述コードを一行書き足して、無限ループを抜けただけだ。仕様書通りに動く世界は、こんなにも快適だ。


(第3話完)


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本作は第4部となります。

前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。


マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/


マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/


マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/


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