第2話「中の上の答案」
カリ、カリ、カリ。
鉛筆が紙を擦る音だけが支配する教室。
月に一度の学力到達度テスト。
施設の子供たちにとっては、ただの憂鬱なイベントに過ぎない。
だが、織部悟(十歳)の隣の席に座る少年、太田の様子は明らかにおかしかった。
彼は異常に汗をかいていた。
鉛筆を持つ手は震え、視線は自分の答案ではなく、机の奥に隠した消しゴムケースの方ばかりをチラチラと見ている。
呼吸が浅い。
過換気気味だ。
織部は解答用紙に目を落としたまま、瞬時に状況を解析した。
――カンニングペーパー。
太田は不正をしようとしている。
普段の太田は、臆病だが真面目な少年だ。
自分からルールを破るような度胸はない。
それがここまで追い詰められている原因は、教室の前方で腕を組んで仁王立ちしている男、指導員の三島にある。
三島はこの春に赴任してきた。
「優秀な指導実績」という書類上の文字だけを追っている男だった。
――エラー要因は、あの指導員だ。
織部は無表情に次の問題へ移りながら、昨夜の太田との会話を思い出していた。
*
昨夜の消灯前。
布団の中で震えていた太田に、織部は声をかけた。
慰めるためではない。
震動が伝わってきて眠れないからだ。
「……何をしてるんだ」
「お、織部……俺、どうしよう……」
太田は泣きそうな顔で、小さな紙切れを見せてきた。
教科書の要点がびっしりと書き込まれたカンニングペーパーだった。
「三島先生に言われたんだ。
『次のテストで九十点以上取れなかったら、お前の内申書は最悪になる』って。『この施設から一生出られなくなるぞ』って……」
「嘘だ」
織部は即答した。
「え?」
「施設の運営規定、第四条。入所児童の処遇は、学業成績によって不当に制限されてはならない。成績が悪くても、進学や就職の支援を受けられないという規定はない」
「で、でも、先生が……」
「逆に、罰則規定、第十二条。試験における不正行為は、即時の停学および反省室への収容対象となる」
織部は淡々と、事実を並べた。
「つまり、三島は自分のボーナスのために、お前に『退所リスク』という嘘を吹き込み、お前自身の『処分リスク』を無視させている。計算式が間違っている」
「……計算?」
「お前がリスクを背負う合理的理由は何もない。カンニングはやめろ。バレたら終わるのはお前だ」
太田の顔から血の気が引いていく。
騙されていたと気づいたのだ。
だが、恐怖は消えない。
「でも……点数が悪かったら、あとで先生に何をされるか……。個別に呼び出されて、何を言われるか分からない……怖いよ……」
太田は臆病だ。
正論だけでは動けない。
織部は少し考え、枕元から一冊の古いファイルを取り出した。
以前、ゴミ捨て場から拾った「施設設備管理マニュアル」だ。
その一ページを開き、太田に見せた。
「なら、正しい手順を教える」
「え?」
「もし個別に呼び出されたら、三島は必ず『放送室』を使う。あそこは防音だから、大声を出しやすい。説教部屋の代わりになってる」
織部は図面のある一点を指差した。
「放送室の機材卓の右端。ここに赤いカバーがついたレバーがある」
「レバー?」
「緊急全館放送用のマスタースイッチだ。火事や地震の時、電源が入っていなくても、これを上げれば強制的に回線が開く仕様になってる」
「そ、そんなの触ったら、怒られるじゃ……」
「怒られるんじゃない。これは『緊急時』の対応だ」
織部は無表情に告げた。
「身の危険を感じたら、レバーを上げろ。それが正しい操作だ」
*
チャイムが鳴った。テスト終了の合図だ。
「やめ。後ろから回収しろ」
三島の威圧的な声が響く。
太田は……カンニングをしなかった。
消しゴムケースの中の紙には一度も触れず、自分の実力だけで答案を埋めた。
結果は、おそらく五十点から六十点。
中の上の答案どころか、平凡な平均点だろう。
回収された答案をパラパラと確認した三島の顔色が、みるみる変わっていく。
彼は太田を睨みつけた。
「太田。あとで話がある。放送室に来い」
死刑宣告のような低い声。
太田の肩がビクッと跳ねた。
織部はただ、筆箱を片付けながらその様子を見ていた。
スイッチ【手段】は渡した。
あとはユーザー【太田】次第だ。
*
放課後。
一階の廊下にある放送室。
重たい防音扉が閉ざされていた。
その前を、偶然を装って通りかかる職員も、子供たちもいない。
誰もが、中で行われている「指導」という名の恫喝を知っていて、関わりたくないからだ。
密室の中。
三島は激昂していた。
「なんだこの点数は!俺の顔に泥を塗る気か!」
三島は机を蹴り上げた。
バン、という音が狭い部屋に響く。
太田は部屋の隅、機材卓の前で縮こまっていた。
「やればできるって言っただろうが!なんで用意しておいた『あれ』を使わなかった!見逃してやるって言っただろ!」
「……そ、それは……だめだから……」
「駄目なのはお前の頭だ!お前のせいで、俺の指導評価が下がるんだよ!俺が本庁に戻れなくなったらどうしてくれるんだ、このゴミが!」
三島が手を振り上げた。暴力。太田の脳裏に、昨夜の織部の言葉が蘇る。
――身の危険を感じたら。
――それが正しい操作だ。
太田は目をつぶり、背後にある機材卓へ手を伸ばした。指先に、硬いプラスチックの感触。赤いカバー。
――ええい!
彼はそのレバーを、力任せに跳ね上げた。
ガボン。
低いノイズが鳴った。
しかし、三島は気づかない。
自分の怒声で耳が塞がっているからだ。
「おい、聞いてんのか!俺のために点数を取れと言っただろうが!」
「お前なんかの人生はどうでもいいんだよ、大事なのは俺の実績だ!」
「次はないぞ!次は命令通りにやれ!不正でもなんでもして、九十点を取ってこい!」
*
その声は、クリアな音質で施設中に響き渡っていた。
『お前なんかの人生はどうでもいいんだよ!』
『大事なのは俺の実績だ!』
『不正でもなんでもして、九十点を取ってこい!』
食堂で夕食の準備をしていたおばちゃんたちが、手を止めて天井のスピーカーを見上げた。
グラウンドで遊んでいた子供たちが、動きを止めた。
そして何より、事務室でコーヒーを飲んでいた施設長が、噴き出しそうになりながら立ち上がった。
施設のあらゆる場所に設置されたスピーカーが、三島の醜悪な本音を、構内放送の音量で垂れ流している。
それは言い逃れようのない、パワハラと不正教唆の決定的な証拠音声だった。
「な、なんだ!?放送が入ってるぞ!」
「これ、三島先生の声じゃ……」
「おい、放送室だ!止めろ!」
事務室から職員たちが飛び出してくる。
施設長は顔面を蒼白にして、廊下を走っていった。
織部は廊下のベンチに座り、その騒ぎを眺めていた。
スピーカーからは、まだ三島の怒鳴り声が聞こえている。
彼はまだ、自分の声が筒抜けになっていることに気づいていない。
システム(放送設備)は正常に稼働している。
入力された音声を、増幅して出力する。
ただそれだけの機能を、忠実に果たしている。
やがて、放送室のドアが乱暴に開けられる音が聞こえた。
「貴様、何をしてるんだ!」という施設長の怒声と、事態を理解して悲鳴を上げる三島の声。
プツン、と唐突に放送が切れた。
廊下は静まり返った。
だが、もう手遅れだ。
全員が聞いてしまった。
三島はこの後、厳しい処分を受けるだろう。
依願退職か、懲戒解雇か。
どちらにせよ、この施設から「バグ」は削除される。
そして太田は、規定通り「保護対象」となる。
織部はゆっくりと立ち上がった。
太田を助けたかったわけではない。
システムを私物化する不正な入力があった。
だから、正規の仕様通りに、エラーを出力させた。ただそれだけだ。
天井のスピーカーを一瞥する。音割れもなく、明瞭な音声だった。
「ちゃんと拾うな」
織部は小さく呟くと、騒がしくなる廊下を背に、静かにその場を去った。
(第2話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




