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マニュアルキラー 第4部 ~源流…善意ゼロの天才少年、マニュアル通りに社会のバグを潰します~  作者: 早野 茂


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第2話「中の上の答案」

カリ、カリ、カリ。

鉛筆が紙を擦る音だけが支配する教室。

月に一度の学力到達度テスト。

施設の子供たちにとっては、ただの憂鬱なイベントに過ぎない。

だが、織部悟(十歳)の隣の席に座る少年、太田の様子は明らかにおかしかった。


彼は異常に汗をかいていた。

鉛筆を持つ手は震え、視線は自分の答案ではなく、机の奥に隠した消しゴムケースの方ばかりをチラチラと見ている。

呼吸が浅い。

過換気気味だ。

織部は解答用紙に目を落としたまま、瞬時に状況を解析した。

――カンニングペーパー。

太田は不正をしようとしている。


普段の太田は、臆病だが真面目な少年だ。

自分からルールを破るような度胸はない。

それがここまで追い詰められている原因は、教室の前方で腕を組んで仁王立ちしている男、指導員の三島にある。

三島はこの春に赴任してきた。

「優秀な指導実績」という書類上の文字だけを追っている男だった。


――エラー要因は、あの指導員だ。


織部は無表情に次の問題へ移りながら、昨夜の太田との会話を思い出していた。



昨夜の消灯前。

布団の中で震えていた太田に、織部は声をかけた。

慰めるためではない。

震動が伝わってきて眠れないからだ。


「……何をしてるんだ」

「お、織部……俺、どうしよう……」


太田は泣きそうな顔で、小さな紙切れを見せてきた。

教科書の要点がびっしりと書き込まれたカンニングペーパーだった。


「三島先生に言われたんだ。

『次のテストで九十点以上取れなかったら、お前の内申書は最悪になる』って。『この施設から一生出られなくなるぞ』って……」

「嘘だ」


織部は即答した。


「え?」

「施設の運営規定、第四条。入所児童の処遇は、学業成績によって不当に制限されてはならない。成績が悪くても、進学や就職の支援を受けられないという規定はない」

「で、でも、先生が……」

「逆に、罰則規定、第十二条。試験における不正行為は、即時の停学および反省室への収容対象となる」


織部は淡々と、事実を並べた。


「つまり、三島は自分のボーナスのために、お前に『退所リスク』という嘘を吹き込み、お前自身の『処分リスク』を無視させている。計算式が間違っている」

「……計算?」

「お前がリスクを背負う合理的理由は何もない。カンニングはやめろ。バレたら終わるのはお前だ」


太田の顔から血の気が引いていく。

騙されていたと気づいたのだ。

だが、恐怖は消えない。


「でも……点数が悪かったら、あとで先生に何をされるか……。個別に呼び出されて、何を言われるか分からない……怖いよ……」


太田は臆病だ。

正論だけでは動けない。

織部は少し考え、枕元から一冊の古いファイルを取り出した。

以前、ゴミ捨て場から拾った「施設設備管理マニュアル」だ。

その一ページを開き、太田に見せた。


「なら、正しい手順マニュアルを教える」

「え?」

「もし個別に呼び出されたら、三島は必ず『放送室』を使う。あそこは防音だから、大声を出しやすい。説教部屋の代わりになってる」


織部は図面のある一点を指差した。


「放送室の機材卓の右端。ここに赤いカバーがついたレバーがある」

「レバー?」

「緊急全館放送用のマスタースイッチだ。火事や地震の時、電源が入っていなくても、これを上げれば強制的に回線が開く仕様になってる」

「そ、そんなの触ったら、怒られるじゃ……」

「怒られるんじゃない。これは『緊急時』の対応だ」


織部は無表情に告げた。


「身の危険を感じたら、レバーを上げろ。それが正しい操作だ」



チャイムが鳴った。テスト終了の合図だ。


「やめ。後ろから回収しろ」


三島の威圧的な声が響く。

太田は……カンニングをしなかった。

消しゴムケースの中の紙には一度も触れず、自分の実力だけで答案を埋めた。

結果は、おそらく五十点から六十点。

中の上の答案どころか、平凡な平均点だろう。


回収された答案をパラパラと確認した三島の顔色が、みるみる変わっていく。

彼は太田を睨みつけた。


「太田。あとで話がある。放送室に来い」


死刑宣告のような低い声。

太田の肩がビクッと跳ねた。

織部はただ、筆箱を片付けながらその様子を見ていた。

スイッチ【手段】は渡した。

あとはユーザー【太田】次第だ。



放課後。

一階の廊下にある放送室。

重たい防音扉が閉ざされていた。

その前を、偶然を装って通りかかる職員も、子供たちもいない。

誰もが、中で行われている「指導」という名の恫喝を知っていて、関わりたくないからだ。


密室の中。

三島は激昂していた。


「なんだこの点数は!俺の顔に泥を塗る気か!」


三島は机を蹴り上げた。

バン、という音が狭い部屋に響く。

太田は部屋の隅、機材卓の前で縮こまっていた。


「やればできるって言っただろうが!なんで用意しておいた『あれ』を使わなかった!見逃してやるって言っただろ!」

「……そ、それは……だめだから……」

「駄目なのはお前の頭だ!お前のせいで、俺の指導評価が下がるんだよ!俺が本庁に戻れなくなったらどうしてくれるんだ、このゴミが!」


三島が手を振り上げた。暴力。太田の脳裏に、昨夜の織部の言葉が蘇る。


――身の危険を感じたら。

――それが正しい操作だ。


太田は目をつぶり、背後にある機材卓へ手を伸ばした。指先に、硬いプラスチックの感触。赤いカバー。


――ええい!


彼はそのレバーを、力任せに跳ね上げた。


ガボン。

低いノイズが鳴った。

しかし、三島は気づかない。

自分の怒声で耳が塞がっているからだ。


「おい、聞いてんのか!俺のために点数を取れと言っただろうが!」

「お前なんかの人生はどうでもいいんだよ、大事なのは俺の実績だ!」

「次はないぞ!次は命令通りにやれ!不正でもなんでもして、九十点を取ってこい!」



その声は、クリアな音質で施設中に響き渡っていた。


『お前なんかの人生はどうでもいいんだよ!』

『大事なのは俺の実績だ!』

『不正でもなんでもして、九十点を取ってこい!』


食堂で夕食の準備をしていたおばちゃんたちが、手を止めて天井のスピーカーを見上げた。

グラウンドで遊んでいた子供たちが、動きを止めた。

そして何より、事務室でコーヒーを飲んでいた施設長が、噴き出しそうになりながら立ち上がった。


施設のあらゆる場所に設置されたスピーカーが、三島の醜悪な本音を、構内放送の音量で垂れ流している。

それは言い逃れようのない、パワハラと不正教唆の決定的な証拠音声だった。


「な、なんだ!?放送が入ってるぞ!」

「これ、三島先生の声じゃ……」

「おい、放送室だ!止めろ!」


事務室から職員たちが飛び出してくる。

施設長は顔面を蒼白にして、廊下を走っていった。


織部は廊下のベンチに座り、その騒ぎを眺めていた。

スピーカーからは、まだ三島の怒鳴り声が聞こえている。

彼はまだ、自分の声が筒抜けになっていることに気づいていない。

システム(放送設備)は正常に稼働している。

入力された音声を、増幅して出力する。

ただそれだけの機能を、忠実に果たしている。


やがて、放送室のドアが乱暴に開けられる音が聞こえた。

「貴様、何をしてるんだ!」という施設長の怒声と、事態を理解して悲鳴を上げる三島の声。

プツン、と唐突に放送が切れた。


廊下は静まり返った。

だが、もう手遅れだ。

全員が聞いてしまった。

三島はこの後、厳しい処分を受けるだろう。

依願退職か、懲戒解雇か。

どちらにせよ、この施設から「バグ」は削除される。

そして太田は、規定通り「保護対象」となる。


織部はゆっくりと立ち上がった。

太田を助けたかったわけではない。

システムを私物化する不正な入力があった。

だから、正規の仕様マニュアル通りに、エラーを出力させた。ただそれだけだ。


天井のスピーカーを一瞥する。音割れもなく、明瞭な音声だった。


「ちゃんと拾うな」


織部は小さく呟くと、騒がしくなる廊下を背に、静かにその場を去った。


(第2話完)


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本作は第4部となります。

前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。


マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/


マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/


マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/


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