第1話「注意書きの順番」
ドン、という鈍い音が響いた。
続けて、湿ったものが床に叩きつけられる音と、遅れてやってくる泣き声。
まただ、と織部悟(十歳)は思った。
彼は児童養護施設『わかばの家』の廊下の隅で、膝に置いた文庫本から視線を上げることなく、音の発生源を認識した。
北棟、三階。
本館と新館を繋ぐ渡り廊下の先にある段差。
今月に入って四件目の転倒事故だ。
「こら!また走ったのか!」
職員の怒鳴り声が聞こえてくる。
ドタドタと大股で歩く足音。
怪我をした子供を助け起こすよりも先に、叱責が飛ぶ。
この施設のいつもの光景だった。
「何度言ったらわかるんだ。廊下は走るな、段差には気をつけろって、朝の会でも言っただろう!」
「う、うぅ……ごめんなさい……段差、気がつかなくて……」
「気がつかないわけあるか。目の前にあるんだから。ほら、立てるか?保健室へ行け」
子供はたった一段を踏み外して転んだだけのようだが、勢いがついていたのか、膝を激しく打ったようで足を引きずりながら去っていく。
職員は舌打ちを一つ落とし、壁に貼られた紙を指で弾いた。
「『走るな』って書いてあるのが読めないのかね、最近のガキは」
職員は吐き捨てて事務室へ戻っていった。
織部は本を閉じ、無表情に立ち上がった。
大人は「子供が悪い」と言う。
けれど、織部にはどうしてもそうは思えなかった。
悪いのは子供じゃない。
この場所の「作り」が間違っているのだ。
*
夜、消灯時間を過ぎた静寂の中、織部はベッドを抜け出した。
古い施設特有の、埃と消毒液が混ざったような匂いがする。
彼は音もなく廊下を歩き、昼間に事故が起きた「現場」へと向かった。
北棟三階。
渡り廊下。
ここは、少し特殊な構造をしている。
廊下が直角に折れ曲がった先に、唐突に「一段だけ」の下り階段が現れるのだ。
本館と新館の床の高さを合わせきれず、無理やり繋げたために生じた、二十センチほどの段差。
この中途半端な構造と、場所の「光の加減」が最悪の組み合わせを生んでいる。
窓の位置が悪く、昼間は強烈な逆光になる。
すると、上の床と、一段下の床の境界線が光に溶けて見えなくなる。
二十センチの段差など存在せず、まるで廊下が平坦に奥まで続いているかのような目の錯覚を起こすのだ。
住み慣れた子供たちは、そこに段差があることを知っている。
だが、遊びに夢中になって走っている時は別だ。
角を曲がる遠心力と、前のめりな姿勢。視界には「続いているように見える床」。
子供は無意識に、まだ床があるつもりで足を前に出す。
だが、そこは「床」ではない。
二十センチ、低い。
ガクン、と足が空を切る。
予期せぬ踏み外し。
足場を失った体はバランスを崩し、二十センチ下の硬い床に勢いよく叩きつけられる。
これが事故の正体だ。
本来ならスロープにするなり照明を変えるなりすべきだが、施設にそんな予算はない。
だから職員は壁に紙を貼る。
B4サイズのコピー用紙に、黒のマジックで書かれた『廊下を走るな』『段差注意』の文字。
彼らはそれで「対策をした」つもりになっている。
織部は現場に立ち、じっと壁を見上げた。
……気持ち悪い、と彼は思った。
何かが根本的にズレている感覚。
まず、紙の位置が高い。
大人の目線の高さに貼られている。
走っている子供の視線はずっと低いし、床を見ている。
頭上の文字なんて景色の一部だ。
次に、貼ってある場所が悪い。
曲がり角の手前の壁に貼っても、走っている子供はもう通り過ぎている。
そして何より、情報が多すぎる。
『走るな』『挨拶しよう』『整理整頓』。
色あせた標語が並びすぎて、どれが大事な警告なのか分からない。
言う順番も、場所も、全部違う。
これじゃ、聞こえないのと同じだ。
それは言葉になる前の、生理的な違和感だった。
ただ、ボタンのかけ違いを直したい。
それだけの衝動で、彼は動いた。
ポケットから、事務室のゴミ箱から拾ったセロハンテープの切れ端と、工作の残りの二色のビニールテープを取り出す。
修正を始める。
彼はまず、壁に貼られた無意味な標語をすべて剥がした。
『挨拶をしよう』なんて、命に関わる場所には不要なノイズだ。
壁を真っ白にする。
次に、三枚あった『段差注意』の紙のうち、一番太い文字で書かれた一枚だけを選んだ。
貼る場所は、曲がり角の手前ではない。廊下の突き当たり、正面の壁だ。角を曲がろうとする子供が、必ず一度は顔を向ける場所。
その壁の、床から六十センチほどの低い位置。
子供が走る時の、低い目線の高さに合わせて貼り付けた。
さらに、手元のビニールテープを見る。
工作の残りの「赤」と、名前書き用の「白」。
彼は少し考え、その両方を使うことにした。
まず、白いテープを貼る。
段差の縁。廊下の床板が終わり、ガクンと落ちるその「見切り(境界線)」に合わせて、白いラインを引く。
薄暗い廊下でも、あるいは逆光の中でも、白は明確に光を反射する。
ぼやけていた「床の終わり」が、くっきりと可視化される。
次に、その白いラインの五センチ手前に、赤いテープを平行に貼った。
赤は「警告色」だ。
明るい昼間であれば、人間の目は本能的に赤色に反応し、危険を感じ取る。
白と赤。
二本のラインが並ぶことで、そこには明確な「境界線」が生まれた。
単色よりも視覚的なインパクトが強く、縞模様のような異物感が、走ってくる者の足を止めさせる。
走ってきて、角を曲がる。正面の低い位置に『段差注意』の文字が見える【ブレーキの合図】。
同時に、足元に引かれた「赤と白のライン」が目に飛び込む【境界線の特定】。
――ここから先は、床が“落ちる”。
昼でも夜でも、確実に脳に信号を送る二重の安全策だった。
織部は立ち上がり、自分の仕事を見下ろした。
不格好なテープ。
薄汚れた紙。
けれど、さっきまでの「気持ち悪さ」は消えていた。
情報は正しく配置された。
誰かに褒められたいわけじゃない。
ただ、あの「ドン」という音と、その後の大人の怒鳴り声が、自分の時間を邪魔するのが嫌なだけだ。
織部は静かに現場を後にし、ベッドへ戻った。
*
翌日。
放課後の時間は、いつも通り騒がしかった。
織部は昨日と同じ場所、廊下の隅で本を読んでいた。
ドタドタドタ、という激しい足音が近づいてくる。
小学四年生の男子グループだ。
鬼ごっこで興奮し、全速力で駆けてくる。
先頭の少年が、あの魔のカーブに差し掛かった。
速度は落ちていない。
昨日転んだ子と同じだ。
織部はページを捲る手を止めた。
少年が角を曲がろうと体を傾ける。
その瞬間、正面の壁にある『段差注意』が視界の端に入った。
「ん?」と少年が一瞬、反応する。
そのコンマ数秒の隙に、視線が足元へ落ちる。
そこには、床の終わりを示す「赤と白のライン」があった。
――段差だ!
少年の足が、反射的に止まる。
脳が「続く床」という錯覚を修正し、「落ちる場所」として認識を書き換えたのだ。
タン、と上履きが踏ん張る。
少年は勢いを殺し、壁に手をつき、安全に段差を降りていった。
「おーい、待てよ!」
後ろから来た仲間たちも、赤と白のテープを見て無意識に足元を調整し、通り過ぎていく。
ドン、という音はしなかった。
誰も転ばなかった。
日常が、ただ流れていった。
「……あれ?」
通りかかった職員の一人が、壁の違和感に気づいたようだ。
正面の壁の低い位置にポツンと貼られた紙。
段差のへりに貼られた二色のテープ。
「誰だ、こんな変なところに貼ったのは。テープも汚らしいな」
職員は眉をひそめたが、剥がすのが面倒だったのか、そのまま通り過ぎていった。
なぜ今日、ここで事故が起きなかったのか。
なぜ子供たちが躓かなかったのか。
大人は誰も気づかない。
それでいい、と織部は思った。
理解など求めていない。
歪んでいたパズルが、カチリと嵌まった。
その事実だけで十分だった。
織部は再び本に視線を落とした。
静かな午後だった。
活字を目で追いながら、彼は自身の内側に、冷たく静かな満足感が沈殿していくのを感じていた。
それは人助けの喜びではなく、乱雑に散らかった部屋を片付けた時のような、ただの「整頓」の快感だった。
(第1話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




