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マニュアルキラー 第4部 ~源流…善意ゼロの天才少年、マニュアル通りに社会のバグを潰します~  作者: 早野 茂


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第13話「試験」

そのメールは、何の前触れもなく織部のガラケーに届いた。

送信元は不明。

本文には、大学病院のサイトの一角を示すURLと、一人の医師の名前、そして短いメッセージだけが記されていた。


『エラーを判定せよ』


依頼ではない。

命令でもない。

まるで、性能テストのためのテストデータを与えられたような感触だった。


奇妙なのは、その感触よりも、受け取った自分がまったく警戒を覚えていない点だった。

なぜ自分に届いたのか。

なぜ自分の番号を知っているのか。

その二つの問いが頭をよぎったのは一瞬で、すぐに別の思考が上書きした。


――誰かが、見ている。


振り返れば思い当たる節はあった。

コンビニの一件も、遊園地の件も、詐欺会社の件も、表向きは「内部の者による正規の手順」で処理されている。

だが、どれも外から見れば「ひどく精密な介入」に映るはずだ。

偶然の一致にしては、パターンが整いすぎている。

誰かがログを追っていたとすれば、このメールは自然な帰結だ。


織部はURLを開き、医師の名前を確認した。

江藤准教授。腫瘍内科。


――では、判定する。



都内の聖王大学附属病院。

最新鋭の設備を誇るこの病院で、織部は医療事務の派遣スタッフとしてデータ入力業務に従事していた。

ターゲットは腫瘍内科のエース、江藤准教授だ。


「江藤先生、ありがとうございます!先生のおかげで希望が持てました」

「先生は命の恩人です」


待合室では、江藤に感謝する患者の声が絶えない。

彼は、認可前の新薬を試す「治験」の責任者だった。

通常なら厳格な基準で弾かれるような重症患者にも、積極的に治験薬を投与し、多くの命を救っていると評判だ。

メディアでも「現代の赤ひげ」「患者に寄り添うラストホープ」として特集される聖人君子。


だが織部が端末で照合している「生データ」は、別の事実を語っていた。


(……数値が合わない)


織部は、電子カルテの検査数値と治験データベースの登録数値を比較していた。

カルテ上の患者の肝機能数値は「Grade3(重度異常)」。

しかし、治験データには「Grade1(軽度)」として入力されている。


治験には「除外基準」がある。

臓器機能が低下している患者に新薬を投与するのは危険であり、また薬の正確な効果測定ができなくなるため、本来は参加できない。

江藤はその数値を意図的に書き換え、基準をクリアしたことにしていたのだ。


――データの改竄。

――目的は治験参加者の水増しか、あるいは目の前の患者を救うための温情か。


一件ではない。

着任してから三日で、同様のパターンが十二件見つかった。

過去半年に遡れば、四十件に達する。

いずれも、除外基準に抵触するはずの重症患者が、数値を書き換えられて「適格」として登録されている。


手口は精巧だ。

書き換え幅は小さく、一見して分からない。

だが、元のカルテと突き合わせれば、一目瞭然だった。

織部はログを解析しながら、江藤という人間の輪郭を組み立てていった。

悪意ではない。

確信だ。

自分は正しいことをしているという、揺るぎない確信。

それが最も厄介なエラーの形だ。


織部がログを解析していると、背後に人の気配がした。江藤だ。


「……君か。最近入った事務の子は」


江藤は穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。彼は織部のモニターを覗き込み、小さく溜息をついた。


「見られちゃったかな」

「数値の不整合を確認しました」


織部は動じることなく答えた。


「過去半年で40件。すべて除外基準に抵触する患者のデータを、適格範囲内に書き換えています。これはGCP、医薬品の臨床試験の実施の基準に対する違反です」


「分かっているよ」


江藤は悪びれることなく、むしろ誇らしげに言った。


「だが、この薬がなければ、あの子は春を迎えられないんだ!」

彼は一人の少女のカルテを指差した。

基準値からわずか数パーセント外れているだけで、システムから「死」を宣告された命。

江藤はそれを救うために、自身のキャリアを賭けて「嘘」を記述していた。


それは、誰もが納得する「人道的正義」だった。

ルールを破ってでも命を救う。ドラマならヒーローになる行動だ。

江藤は織部の肩に手を置いた。


「君も人間なら分かるはずだ。これは『必要悪』だよ。……見逃してくれれば、次の契約更新で正職員への推薦を書いてもいい」


アメとムチ。

そして情への訴えかけ。

だが織部は江藤の手を冷淡に振り払った。


「人間かどうかなんて、どうでもいいことです」

「え?」

「あなたはシステムを汚染しています」


織部はキーボードに指を置いた。


「治験とは、新薬の有効性と安全性を統計的に証明するプロセスです。あなたがその一人の『春』のために、この薬を待つ世界中の数万人が、承認後に未知の副作用という『冬』を迎えるリスクを放置する。それは医療ではなく、統計的なテロリズムです。……コスト計算が合っていません」

「なっ……!それは極論だ!私は今、目の前の数人を救っているんだぞ!」

「数人の救済のために、システム全体の信頼性と、未来の数万人の安全をリスクに晒している。……コスト計算が合っていません」


織部はエンターキーに指をかけた。

送信先は、病院の監査委員会と、治験を委託している製薬会社の監査部門。

改竄の証拠ログと、修正前の正しいカルテデータが一斉に送信される。


「待て!送信するな!」


江藤が叫び、必死の形相で織部を見つめた。

その目には、保身ではない医師としての悲痛な叫びがあった。


「……君の言うことは正しい。論理的には完璧だ。だが……正しさだけで救われる命ばかりじゃないんだよ!」


魂からの訴え。

もし織部に少しでも「迷い」があれば、指は止まっていただろう。


だが。


カチッ。


乾いた打鍵音が一つ、部屋に響いた。

画面には無情にも『送信完了』の文字が表示された。


「あ……」


江藤が崩れ落ちる。

織部は彼を見下ろすこともなく、淡々と告げた。


「それは私の管轄外です。……エラーを起こしたのはあなただ。その責任は、あなたが負ってください」



翌日。

病院は大騒ぎになっていた。

江藤のデータ改竄が明るみになり、治験は即時中止。

彼は懲戒解雇となり、医師免許の停止も免れない状況となった。


「先生を返して!」

「見殺しにするのか!」


ロビーでは、治療を打ち切られた患者や家族が泣き叫び、病院側に抗議していた。

江藤は「患者想いの名医」として、悲劇のヒーローのように報道されている。

内部告発者である織部は職場に居場所をなくし、静かに荷物をまとめていた。


周囲の視線は冷たい。

「余計なことをした」「血も涙もない」という囁きが聞こえる。

だが織部は何も感じていない。

彼にとって重要なのは、治験データが正常化されたという事実だけだ。


病院の裏口から出ると、一台の黒塗りの車が停まっていた。

後部座席のウィンドウがゆっくりと下がり、中から一人の男が織部を見ていた。上質なスーツを着た、初老の男だ。


「……乗れ」


短い言葉。

だが織部はその声に聞き覚えはなかった。

普通なら警戒する場面だ。

しかし織部は迷わなかった。

あのメールの送り主だと、確信していた。


織部は無言で車のドアを開け、乗り込んだ。車が滑らかに走り出す。


「いい仕事だった」


男は窓の外を見ながら呟いた。


「あの医者は、世間的には『善人』だ。多くの人間が、情に流されて彼を見逃しただろう。……だが、君は迷わなかった」

「感情は判断を鈍らせるノイズですから」


織部が即答すると、男は満足げに頷いた。


「合格だ」

「……?」

「我々が確認したかったのは、能力ではない。……君の中に、余計な『心』が残っていないかどうかだ」


男は懐から一枚の名刺を取り出し、織部に差し出した。

そこには会社名も肩書きもなく、ただ一つのロゴマークと、電話番号だけが記されていた。


Publisherパブリッシャー


「君のOSを、正式に採用したい」


織部は名刺を受け取った。指先に伝わる、硬質な紙の感触。

それが、彼がこの歪んだ世界で初めて手に入れた「正規のライセンス契約」だった。


「条件は?」


織部が問うと、男は薄く笑った。


「君が望むだけの『バグ』と、それを処理するための『権限』を与えよう」


織部の口元がわずかに緩んだ気がした。

それは喜びではない。

ようやく自分のスペックをフル稼働させられる環境が見つかったという、機能的な充足感だった。


(第13話完)


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本作は第4部となります。

前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。


マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/


マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/


マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/


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