第12話「見られている」
法律は、必ずしも正義の味方ではない。
それは単なる「ルールの体系」であり、使い方次第では悪を守る最強の盾にもなる。
特に、契約書という名の「私法」の領域において、弱者は常に搾取される側にある。
都内の瀟洒なオフィスビル。
『株式会社アセットフォワード』のフロアは、熱気に包まれていた。
ここは「自動資産運用ツール」を販売する会社だ。
ターゲットは、将来に不安を抱く若者や、退職金を持て余した高齢者。
数十万円のUSBメモリを売りつけ、中身は役に立たないフリーソフトという、典型的な情報商材詐欺グループである。
「はい、契約成立!今月50本目!」
営業部長の工藤が声を上げると、フロアから拍手が湧き起こった。
工藤は高級スーツを着こなし、満足げに契約書の束をデスクに放り投げた。
「チョロいもんだな。……おい、新しいバイト。これ処理しとけ」
工藤が顎でしゃくった先に、地味な作業着姿の男がいた。
織部悟(十八歳)だ。
彼はこの会社に、事務処理の短期アルバイトとして雇われていた。
「承知しました」
織部は無表情で契約書の束を受け取った。
工藤は鼻で笑った。
この男は面白みがない。
言われたことしかしない、ただの機械だ。
だが、口が堅く、膨大な書類整理をミスなくこなす点だけは便利だった。
「いいか、間違っても『クーリングオフ』なんて受け付けるなよ?うちは通信販売扱いだから対象外だ。客が泣きついてきても『契約書に判を押しましたよね』で突っぱねろ。それがマニュアルだ」
「はい。契約書第5条に基づき、処理します」
「へへっ、そういうことだ」
工藤は上機嫌で奥の社長室へと消えていった。
織部は自分のデスクに戻り、契約書の束を開いた。
被害者たちの筆跡。
震える文字で書かれた署名。
その背後にある絶望や焦燥が透けて見えるようだ。
だが織部の目は冷ややかだった。
彼は感情移入などしない。
彼が見ているのは、契約書の「裏面」に小さく印刷された約款の文字列だけだ。
――バグだらけだ。
――コピペで作ったようなツギハギの規約。
実行環境【現実】を無視している。
詐欺グループは、法律の抜け穴を突いているつもりでいた。
だが彼らは、「自分たちが作ったルール」によって自らの首を絞める致命的な脆弱性を一つ、放置していた。
約款、第12条第3項。『本ツールを使用し、30日間利益が発生しなかった場合、所定の申請を行うことで、購入代金の全額を返金する』。
返金保証を謳いつつ、申請のハードルを極限まで上げて事実上不可能にする。
それが彼らの手口だ。
「所定の申請書」と「取引記録」を自力で揃えられる被害者など、まずいない。
だが、揃えるのが「被害者本人」である必要はどこにも書かれていない。
そして何より、工藤は言った。
「約款に基づく事務処理全般」を僕に任せると。
――これが、脆弱性だ。
織部はもう一度、雇用契約書を広げた。
彼の業務範囲を定めた条文を確認し、静かにキーボードに指を置いた。
まずやるべきことは、過去の全顧客データの洗い出しだ。
事務担当として顧客データベースへのアクセス権限は与えられている。
織部は一週間かけて、過去の全契約件数と各顧客の「ツール使用期間」を照合した。
売れた本数、二千件。
そのほぼ全員が、当然ながら「30日間で利益ゼロ」という条件を満たしている。
次に、「所定の申請書」の書式を確認した。
約款には書式の定めがない。
つまり様式は問わない。
織部はシンプルな申請書のひな型を一枚作成し、各顧客情報を差し込む形で二千件分を自動生成した。
「取引記録」についても同様だ。
ツールを使用した記録は顧客データベース上に存在する。
それをそのまま出力すれば「取引記録」になる。
準備が整った。
問題は最後の一手だ。
「申請を受理する」主体は、この会社の事務部門、つまり現時点では織部自身だ。
工藤は自分たちの管理画面のパスワードを、全員が共有していた。
セキュリティ意識のなさが、逆に仇となる。
織部は二千件の申請データをCSVファイルにまとめ、決済代行会社との連携画面から一括アップロードした。
そして事務担当者として、「受理」の操作を行った。
――送信完了。
これは不正アクセスではない。
与えられた権限の範囲内の操作だ。
約款に従い、申請を処理した。
それだけだ。
*
一週間後。
オフィスの空気は一変していた。
「お、おい!なんだこれ!」
工藤の悲鳴が響いた。経理担当の社員が、真っ青な顔でパソコンの画面を見つめている。
「ぶ、部長……!口座の残高が『ゼロ』になっています!利用可能額がありません!」
「はあ!?ハッキングか!?」
「いえ、正規の『一括返金予約』として、決済代行会社に全額引き当てられています……!件数、二千件!過去の顧客全員です!」
オフィスはパニックに陥った。
電話が鳴り止まない。
だがそれは顧客からではない。
銀行や決済代行会社からの「異常取引」の照会だ。
「誰だ!誰が承認した!」
工藤が怒鳴り散らす。
その喧騒の中、織部はひとり淡々とシュレッダーに紙を通していた。
ウィーン、という規則的な音が、狂乱のフロアに不気味に響く。
「……お前か」
工藤が織部に詰め寄った。
「お前しかいない!事務処理担当はお前だ!何をした!」
「契約履行業務です」
織部はシュレッダーの手を止めず、平然と答えた。
「貴社の契約約款、第12条第3項に基づき、条件を満たした全顧客分の返金申請を処理しました。所定の様式を作成し、取引記録を添付し、事務担当者として受理の操作を行いました。すべて正規の手順です」
「あ、あれは客寄せの飾りだ!『所定の申請』には、分厚い取引記録の提出が必要だぞ!素人に作れるわけがない!」
「約款に様式の定めはありません。事務担当として判断できる範囲で処理しました」
「な……お前に申請書を作る権限があるか!」
織部は一枚の書類を工藤に見せた。雇用契約書だ。
「私の業務内容は『契約書の管理および約款に基づく事務処理全般』と定義されています。申請書の作成と受理は、その範囲内の業務です。……むしろ、約款を履行しないことこそが契約違反(詐欺)に当たります」
「屁理屈を言うな!キャンセルしろ!今すぐだ!」
工藤が織部の胸倉を掴もうとした瞬間。
オフィスの自動ドアが開き、数人の男たちが踏み込んできた。
スーツ姿の捜査員たちだ。
「株式会社アセットフォワードですね。特定商取引法違反および詐欺の容疑で家宅捜索に入ります。パソコンには触らないで!」
「な、なんで……」
工藤が凍り付く。
織部は静かに言った。
「短時間に二千件もの返金予約、しかも原資ギリギリでの処理……。これだけ異常な資金移動が発生すれば、決済代行会社の審査部門が必ず異常処理として拾います。口座はまず保留され、その後の照会で警察まで話が行きます。……あなた方の決済代行会社との契約書にも、そう書いてありましたよ」
織部は警察官に一礼すると、自分の荷物を持ち上げた。
最初から、このタイミングを狙っていたのだ。
彼らが貯め込んでいた金はすべて被害者の元へ送金予約され、残ったのは凍結された口座と、警察への通報事実だけだ。
連行されていく工藤が、絶望と憎悪に歪んだ顔で叫んだ。
「お前!お前は何なんだ!正義の味方のつもりか!」
フロア中の視線が織部に集まる。
社員たちも、駆けつけた警察官ですら彼を見ていた。
だが、その視線に含まれているのは「賞賛」ではない。
現場における異質な存在に対する、「警戒」と「困惑」だ。
織部は立ち止まり、工藤を見下ろした。
その瞳には、軽蔑も怒りも、憐れみすらも映っていない。
「正義?」
織部は首を傾げた。
「いいえ。私はただ、バグ【欠陥】を処理しただけです」
「……」
「実行されないコード【約款】は、システムのリソースを無駄にするゴミですから」
織部はそれだけ言い残し、オフィスを出て行った。
背後で、会社というシステムが崩壊していく音がする。だが織部にとってそれは、ゴミ箱を空にした時の音と何ら変わりはなかった。
ビルの外に出ると、初夏の眩しい日差しが降り注いでいた。
織部はポケットから、使い込まれた折りたたみ式の携帯電話を取り出した。
カチカチ、と無機質なボタン操作音が鳴る。画面には簡素なToDoリストが表示されていた。
『株式会社アセットフォワード』
織部はその項目にカーソルを合わせ、『完了』のチェックを入れた。
パチリ。
携帯電話を閉じる乾いた音が響く。
その背中を、雑踏を行き交う人々が避けて通る。
誰も彼を知らない。
けれど誰もが本能的に感じ取っていた。
この男に見つかれば、自分も「処理」されるかもしれない、と。
(第12話完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は第4部となります。
前のエピソードを読むと、織部という存在の“ズレ”がよりはっきり見えてきます。
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/




