第14話「所属」
東京を見下ろす高層ビルの最上階。
『Publisher』のオフィスは、生活感の一切ない、真っ白な空間だった。
家具は必要最低限。
行き交う人々も無言。
そこにあるのは、膨大なデータが流れるサーバーの排熱音と、キーボードを叩く乾いた音だけだ。
織部悟はガラス張りの会議室で一通の契約書と向き合っていた。
「これが我々の規約だ」
黒塗りの車で接触してきた初老の男――組織の幹部と思われる男が、対面に座っている。
「我々は正義の味方ではない。政府の機関でもない。我々が扱っているのは、一病院の不祥事レベルではない。国家間の軍事マニュアルのバグ、あるいは世界経済を麻痺させる金融アルゴリズムの脆弱性だ。善悪という古いOSで動こうとする人間には、それらを『修正』することはできない」
男の説明は簡潔だった。
世の中には、法では裁けない悪、組織の論理で隠蔽される不正、マニュアルの不備による事故が無数にある。
それらを秘密裏に処理し、社会の機能を維持する。それが彼らの業務だ。
「報酬は相場の三倍。身分は保証する。その代わり、個人の感情は捨ててもらう」
男は織部の目を覗き込んだ。
「君は、このシステムの『機能』になれるか?」
織部は契約書を一読した。
条文は明快だ。
曖昧な言葉がない。
逃げ道がない。
設計者が優秀なのか、それとも隠す必要のないものだけが書かれているのか。
どちらにせよ、この組織が自分の仕事の「正規の実行環境」になるという事実は変わらない。
ペンを取り出した。
だが署名する直前で、手が止まった。
止まった理由が分からなかった。
計算は終わっている。
リスクは許容範囲内だ。
条件は合理的だ。
迷う変数が存在しない。
なのに、手が動かない。
一秒。
二秒。
――なぜ止まっている。
織部は自分の手を見た。
ペンを握ったまま、微動だにしない指先。
脳は「署名しろ」と命じている。
だが何かが、それより前の段階で、処理を止めていた。
思考の底を掘った。
出てきたのは、映像ではなく感触だった。
廊下の隅で本を読んでいた時の、埃と消毒液の匂い。
冬の浴室で聞こえた子供の泣き声。
夜中にビニールテープを貼った時の、床の冷たさ。
それらは「記憶」ではなかった。
記憶なら処理できる。
分類して、圧縮して、不要なら削除できる。
だがこれは、削除されずに残っていた何かだ。
名前のない、形のない、バグのような残留物。
――不要なファイルだ。
織部は静かにそれを認識し、同じく静かに封じた。
感傷は判断を遅延させる。
あそこで生き延びたのは自分の論理のおかげだ。
あの場所への負債など存在しない。
ペンが動いた。
「一つ、条件があります」
署名する寸前で、織部は顔を上げた。
「条件?」
「契約前に、一つだけ処理しておきたい『セキュリティホール』があります」
織部はポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルに滑らせた。
昭和の香りを残す古びた鉄筋コンクリートの建物――児童養護施設「わかばの家」の写真だった。
「私の育った施設です」
「……ほう。故郷に錦でも飾るつもりか?感傷的な話なら却下だ」
「リスク管理です」
織部は淡々と説明を始めた。
「この施設は築四十年を超え、老朽化が著しい。電気系統は旧式で漏電火災のリスクが高く、防犯設備もザルです。……もしここで大規模な事故や事件が起きれば、メディアが殺到し、出身者である私の過去も掘り起こされる可能性があります」
織部は男を見た。
「私はこれから、御社の『影』として活動する。私のバックグラウンドが特定されることは、御社にとってもセキュリティ上のリスクになるはずです」
男は目を細めた。
織部の主張は論理的だ。
だがその裏にある動機――「子供たちを危険な建物から救いたい」という衝動――が完全に消えているわけではないことも、男は察していた。
長年この仕事をしていれば、理屈の鎧の継ぎ目ぐらいは見える。
しかしそれでいい。
感情を完全に持たない人間など、使い物にならない。
大事なのは、感情に動かされないことだ。
この男は、感情をリスク計算に変換する。
それが最も扱いやすい。
「……なるほど。それで?」
「この施設の『更新』を要求します。私の契約金の前借りとして処理して構いません」
「建て替えろと言うのか」
「いいえ。現在の施設長は運営能力が低い。金だけ渡しても無駄になります。……物理的な『強制置換』を望みます」
男はしばらく織部を見つめていたが、やがて短く笑った。
「いいだろう。その『リスク』は排除しよう。……君の初期設定費用だ」
織部は頷き、契約書にサインをした。
その筆跡は、以前よりも鋭く、機械的なものに変わっていた。
*
一ヶ月後。
耐震強度不足を理由とした行政指導により、退去と移転が一気に進められ、「わかばの家」の敷地には重機の轟音が響き渡っていた。
「ちょ、ちょっと!いきなり解体だなんて、どういうことですか!」
施設長の榎本が、工事責任者に食って掛かっている。
だが、責任者は正規の書類を提示した。
「本部の決定です。耐震診断の再判定が下り、緊急措置として解体と施設の移転が決定しました。子供たちは数日前に新しい施設へ移されたはずです。……文句があるなら、スポンサーに言ってください」
圧倒的な資金力と政治力による、問答無用の執行。
解体は突然ではなく、外から見れば唐突に見えるだけで、手続き自体は数日で強引に整えられていた。
榎本が呆然と立ち尽くす前で、ショベルカーのアームが唸りを上げ、古びたコンクリートの壁を打ち砕いていく。
ガラガラと崩れ落ちる瓦礫。
それは、織部悟という人間が育った場所が、物理的に消滅していく音だった。
その様子を、遠く離れた丘の上から見下ろす人影があった。
黒いスーツに身を包んだ織部だ。
隣には、Publisherの男が立っている。
「満足か?」
男が問う。
織部はしばらく、崩れゆく壁を見ていた。
正直に言えば、何かを感じていた。
だがそれが何なのか、自分では判定できなかった。
悲しみでも、安堵でも、達成感でもない。
強いて言えば、長い間バックグラウンドで動き続けていたプロセスが、ようやく終了した時のような、静かな停止の感覚。
「……効率的な処理です」
それだけ言った。
男は何も返さなかった。
崩れたコンクリートの向こうに、子供たちの姿はない。
数日前に移送は完了している。
子供たちが移り住んだ新しい「わかばの家」は、新築ではなく、築十五年の木造住宅を転用したものだった。
だが内部は徹底的に改修されていた。
死角のない監視カメラ、最新の防火設備、熱源は管理が容易なプロパンガス。
「温かみ」という名の曖昧さを排除した、機能性と安全性だけを追求した箱。
かつての織部のような「歪み」を生む隙間すらない、完璧に管理されたシステムだ。
子供たちは、そこを嫌がるだろうか。
それとも、何も感じないだろうか。
どちらでも構わない、と織部は思った。
安全であれば十分だ。
「行こう。次の仕事が待っている」
男が促す。
織部は無言で背を向けた。
彼はガラケーを取り出し、ToDoリストの一番下にあった項目――『わかばの家』にカーソルを合わせた。
削除。
画面から文字が消える。
一瞬、その項目があった場所を見た。
何もない。
白い余白があるだけだ。
それでいい、と思った。
これより先にあるのは、感情を持たない「マニュアルキラー」としての稼働記録だけ。
彼は社会という巨大なシステムの闇に、静かに溶け込んでいった。
(第4部完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次の第5部「戦争を止める仕様書」では、パブリッシャーの一員となった織部悟が、実績を積み重ねた後の仕事で、舞台はバルカシアという紛争地域です。
これまで日常社会の欠陥を書き換えてきた彼の力が、パブリッシャーという組織の中で磨かれ戦争という最も巨大なシステムに向けられた時、何が起きるか。
4/29(水)より連載開始します。




