第一章9 赤い春の記憶
朝から私は気分が良かった。
ここ最近ドラゴンに成るというビックリ仰天の事態に陥っていたため睡眠も十分に取れていなかったのだが、昨晩は本当によく眠れた。目覚めは悪いほうなのだが、今朝は目覚ましが鳴り響いた瞬間に起き上がり、飾り気のない部屋のカーテンを開け、気持ちの良い朝日を浴びたのだ。
正確には気分が良いのは昨日の午後からだ。私自身記憶は朧気なのだが、柏木曰く体の半分がドラゴンに成って炎を吐いた後、雷を落としたらしい。炎を吐いたところまでは覚えているが、雷については記憶にない。
そうして眠りにつき、次に目覚めた瞬間から私の体は絶好調だ。状況を教えてくれた柏木にお礼を言った後、伸びの一環で大きな欠伸をしてから、軽くストレッチをしてみた。
ストレッチをしながら柏木に角が無くなっていると指摘され、頭を触ってみると地味に違和感があって鬱陶しかった角の断面が消えていた。
ついでに私の猫みたいになっていた瞳孔も人のものに戻っているらしく、スマホのインカメで確認しながら「本当だ~」と感嘆の声を漏らした。
目が覚めたときには既に五限目が終わっており、六限目から参加しようとする私にさすがに今日のところは帰れと柏木から言われ、その言葉に従うことにした。
私は頭に包帯を巻く言い訳のために、ゴールデンウイーク中に頭を怪我したことになっている。その影響もあってか頭が痛いと言ったら保健室の先生は簡単に帰宅の許可を出した。
ちなみに柏木も早退すると言って、仮病を疑う先生に対して二十分にわたる熱演の末、早退の権利を勝ち取っていた。
そんな光景を思い出してしまったから思わずフッと笑いが込み上げた。そんな笑いを堪えながら二年六組の教室の扉を開けた。別に私はいつも通りだった。いつも通り誰でもそうするであろう普通の方法で扉を開けた。それなのに教室中の視線が私を捉えたのだ。
私は何事かと考える。思い当たるのは昨日急に早退したことだが、先週はドラゴンに成りたてで初っ端から学校を無断欠席したし、その後も急に角が生えて午後の授業を欠席した。そんな私が再度午後の授業を欠席した程度でこんなにも注目を集めるだろうか。それにクラスの人たちも私が頭を怪我していると認識しているので、早退したとしてもそれ関連かと察しそうなものだが。
そんな風に思考しながら自席へと歩く。相変わらずクラス中の視線を集めてはいるが、誰かが話しかけてくるわけではない。それはいつも通り。
そう考えて先週の無断欠席後の登校を思い出す。あの日も今日のように普通に教室の扉を開いて自席に座った。だけど当然、あの日はクラス中から注目されることなどなかった。むしろ私という存在などないような反応をされていたのだ。
いつもとは違った居心地の悪さを感じながら、まだ手を付けていない課題のプリントを鞄から引っ張り出した。普段は真面目に課題を提出する私だが、先週から未知の体験がありすぎてそれどころではなかったのだ。
特に可愛げのない簡素な見た目の筆箱からシャープペンシルを取り出して、カリカリとプリントの空欄を埋めていく。
二分が経った。まだ視線を浴びせられているようで集中できない。
三分が経った。少し集中できてきた。
四分が経った。すぐ隣から声が発せられた。
「あの、、、伊吹さん」
幻聴かと思った。クラス替えが行われて数日は何人かのクラスメイトから話しかけられたのを覚えている。四月中旬以降は、誰からも声を掛けられていない気がする。そんな私の名前を呼ばれて、幻聴かどうか確かめるために顔を上げた。
すぐ隣に立っているのはメガネに三つ編みの女子生徒だ。大人しそうな見た目で優等生を体現した存在かのような印象を受ける。確か名前は尾澤さん。そんな尾澤さんと先程から目が合っている。ということはさっきの声は幻聴ではなく、彼女が発したものなのだろうか。
「えっと、尾澤さんで合ってるよね?」
クラスメイトの名前を間違えると気まずいので合っていてくれと願いながら質問すると、彼女はコクっと頷いた。内心ほっとした私はさらに質問する。
「何か用だった?」
「あ、えっと、その、林間学校のことなんだけど」
尾澤さんは緊張した様子で話し出す。その姿は怖がっているようにも見えて、私ってそんなに怖そうかなと内心ちょびっと傷付いた。
「伊吹さん、林間学校の班がまだ決まってなかったでしょ?だから、よければ私の班に入るのはどうかなって」
「え?マジ!助かる。入れて入れて~」
まさかの提案にほとんど脊髄反射で返事する。一昨日はどこの班も私を入れてくれなくてとても困ったのだ。困ったし、イライラしたし、不快だった。いっそのこと林間学校をサボろうかと思っていたので、彼女の提案は有難い。
「うん、わかった。それじゃあ先生には伝えておくね」
そう返事する尾澤さんの声量は控えめなものだ。すぐ傍にいる私には届くが、クラス中に届くような声量ではない。だが、そんな尾澤さんと私の会話に聞き耳を立てているような、そんな妙な空気感がクラスにはあった。
この急な二年六組の変化をもたらした原因が柏木だったと知るのは、お昼休みが始まった頃になる。尾澤さんが話しかけてきて、昨日の昼休みに何があったのかを聞かせてくれた。それと同時に、言い出せなくてごめんと謝罪の言葉を伝えられた。
その後、トイレに行ったときとか、移動教室で歩いているときとか、柏木が二年六組に対して説教をしたという話題は私の耳に届いた。何をやってくれているんだという感情もあるのだが、結果的に私の状況は好転しているので感謝の気持ちの方が大きかった。
そんな出来事などなかったかのように振る舞う柏木と、そんな柏木をからかって笑う日和、そこに安武も加わってお昼に談笑をする。僅か一週間程度で私の学校生活はかなり変わった。
それからあっという間に二週間が過ぎた。相変わらず日和、柏木、安武の三人とは仲良く部室で昼食をご一緒し、お助けクラブのお仕事を手伝って、終わったら放課後に寄り道して遊んだりした。
二年六組でも尾澤さんをはじめとして、林間学校の同じ班員から話しかけられることが少しずつ増えた。友達と呼ぶほどの距離感ではないが、雑談を交わす程度の関係性にはなった。
私の体も元の人間に戻っているようだ。角もなく、瞳孔も人間のもので、もちろん尻尾も鱗も牙もない。髪も僅かに伸びた生え際は黒く、元に戻っているように見受けられる。
よくわからないが、不思議な寵愛現象とやらは解決したらしい。悩みの種が消えて私も気分が良い。
そうして、五月も後半へと突入し、林間学校の日がやってきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それでは目的地までクイズ大会、カラオケ大会、ビンゴ大会、色々用意してるので盛り上がっていきましょー!」
バスの最前列から二年七組の生徒たちに声を届けるのは、我らが委員長こと速川 日和である。マイクを相棒のように握りしめ、場を盛り上げようとテンション高く大きな声で司会進行を努める。
そんなハイテンションにクラスの人間たちはついていけているようで、バス内は大いに盛り上がっている。
最後尾の席に座っている俺だけが明らかにテンションが低く、隣に座る安武に話しかける。
「クイズ大会にカラオケ大会にビンゴ大会って、このクラスはどんだけ大会が好きなんだよ…」
「いいじゃないか。盛り上がってるみたいだし。それに速川が一生懸命準備したんだぞ」
「知ってるよ。なにせお助けクラブ部長である委員長自身が、お助けクラブに準備の手伝いを依頼してきたしな」
あれがしたい、これがしたい、とクラス内から出る考えなしの意見を全て取り入れた委員長は、手が足りなくなり部室で談笑に耽る俺たちにも手伝いをさせたのだ。安武はもちろん、違うクラスの伊吹にまで手伝わせるというのだから、人使いが荒いものである。
「結構大変だったなー。今からバス内でやる大会祭りはともかく、夜にやる肝試しの準備は時間かかったし」
「大体、もともと予定にない肝試しを急にやろうとするのが間違ってるんだよ。先生の説得、お化け役のメンバー集め、怖がらせるための作戦会議に衣装作りまで、普通はたった一週間でやろうとは思わないよな」
「速川の行動力を舐めてたな。普段は暇してる我が部も、今後は今回みたく速川がどんどん仕事を作ってくるかもな」
「勘弁してくれ…」
貴重な放課後を労働に費やされそうな未来が見えて憂鬱になる。
「というか、委員長は我が部の設立理由を覚えているのかね」
「さすがに覚えているとは思うが、今楽しそうにクイズを出題している速川の頭の中からは消えているだろうな」
活舌よく問題文を読み上げ、我こそが正解者になろうと挙手をするクラスメイトからバシッと回答者を選んでいる。面倒な学級委員長の仕事とは捉えず、自分も周りも楽しめるように尽くすその姿勢には感服してしまいそうだ。
「言い出した委員長が設立理由を忘れるのはやめてほしいなー」
そんな俺の嘆きは当然最前列でマイクを握る委員長には届かず、安武が愉快そうに笑うだけであった。
我が部、正確には部として認められておらず、同好会のような立ち位置のお助けクラブではあるが、設立されたのは今年の三月とつい最近のことである。
一年生の冬、委員長から安武が相談を持ち掛けられ、紆余曲折あって俺も巻き込まれた。俺が巻き込まれた理由は単純で、その相談内容に寵愛現象が絡んでいたからだ。
そして、寵愛現象による問題を解決後、一件落着と空気が和んでいたタイミングで委員長は言ったのだ。
『寵愛現象がある以上、今回みたいなことはまた起きると思うの。だから、寵愛現象で困ってる人たちを助けられる場所を作るのはどうかな』
その提案に安武は一言で同意し、普段はあーだこーだ言って断る俺も問題解決後の清々しい気分に流されて了承してしまったのである。つまるところ、お助けクラブは寵愛現象によって悩める生徒を助けるための団体なのだ。
といっても寵愛現象は一つの学校内でそんなに頻繁に発生するようなものではなく、仮に発生したとしてもよくわからんお助けクラブに相談が来るとは思えない。そう考えていたのだが、四月になるとさっそく寵愛現象で悩む新入生が現れ、五月になった今はドラゴンに成った伊吹が現れている。
まだお助けクラブを設立して三カ月だが、その間に寵愛現象が二件発生しているので、このままだと月一回くらいの頻度で寵愛現象は俺たちの前に姿を現すのかもしれない。
「そんなポンポン起こるもんじゃないんだけどなー」
「もしかしたら寵愛者ご本人様が東浜高校にいるのかもな」
安武は俺の文脈のない発言から何の話をしているのかを汲み取ったうえで、とんでもない仮説を立てる。
「それこそ勘弁してくれ、だな。東浜高校は別に神秘的な地でもなければ、歴史ある学校でもないんだ」
バス内にクラスメイト達の歓喜の声が響く中、俺は溜息混じりにそう言った。確か東浜高校は創立十八年とかだったはずだ。
「それでは次はカラオケ大会!トップバッターはこの私!速川 日和です!」
バスが移動を始めて二十分が経過したタイミングで、次のコーナーへと移行したようだ。委員長が音痴な歌を自信満々に歌っている。その姿にクラスメイト達はツッコみながらも、楽しそうに笑っている。
そんな光景をバスの最後尾から眺めていると、次第に眠くなってきた。委員長の下手な歌も、声自体は可愛らしくて透き通った音なので割と心地が良い。
五月も後半になり、暖かさが増していく気温の中で、俺の意識は緩やかに闇の中へと吸い込まれていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
クラスメイトの声が聞こえる。
笑い声だ。
頭は酷くぼんやりとしていて、目の前に広がる光景を脳が認識するまでに数秒かかる。
目の先には黒板があって、黒板と自分との間に何名かのクラスメイトが座っている。
教室だ。日本全国どこにでもある普通の教室。いや、ここ最近はホワイトボードになっている学校も多いというから、黒板という文化は珍しい部類になっているのかもしれない。
そんな教室の丁度中央の席が俺の席だった。前を見ても、右を見ても、左を見ても、後ろを見ても、黒い学ランと王道のセーラー服姿が視界に映る。
見慣れているような、見慣れていないような、そんな光景。
ぼんやりとそんな光景の中で黒板に目を向けていると、世界がぼやける。じわーっと夏の暑さと湿度で滲むような感じだ。黒板の輪郭やそこに書かれた文字がぼやけて視認が定まらない。妙な違和感を覚える。
俺はこの場所を知っている。けれど、ここ最近までいた場所でないような気がする。思い返してみれば、俺は先程までバスの中にいなかっただろうか。そうだ。林間学校で二時間以上の道のりを移動していたのだ。
バスで眠っているうちに目的地に着いたのだろうか。それにしては、着いた場所が教室とはおかしい気がする。
俺はクラスメイトに尋ねてみることにした。俺がよく話すクラスメイト。えっと、誰だっけ。なんだか頭の巡りが悪い。
ふとパステルカラーの緑髪が脳裏をよぎったが、そんな奇抜な髪の奴が俺以外にいるとは思えない。
視線を落とすと自身を包んだ見慣れた制服があった。懐かしいその制服は…懐かしい?なぜ毎日のように着ている制服に懐かしいなどと思ったのだろうか。
そんな疑問を抱えながら次に感じた違和感は視界だった。視界に違和感が映ったのではない。逆だ。いつも視界にちょこちょこと映りこんでくる己の赤髪が見えない。肩辺りに腕をまわして髪に触れようとするが、指先は空を切った。
空を切った指先をそのまま上へと動かすと、今度こそ髪に触れる。細いわけではないのに柔らかな髪質。それ自体はいつも通りなのだが、髪の重量が今日はやけに軽く感じた。
何かがおかしいと思い、違和感の正体を確かめるために立ち上がった。立ち上がってまた違和感だけが増える。なんだか視点が低い気がする。いや、気のせいか…。
なんだかはっきりしなくて気持ちの悪い現状を解消しようと、隣の席に座るクラスメイトに声を掛けた。
…。
声を掛けようとした。しかし、そこで動きを止めてしまったのは、そのクラスメイトの顔に鉛筆でぐしゃぐしゃに塗り潰したような線があったからだ。そのせいで顔がよく見えない。
驚いた俺は他のクラスメイトに相談しようと周りを見渡す。けれど、見渡したクラスメイトの顔にも同じような乱暴に塗り潰したような線が入っていた。
一体何が起きているのだろうか。寵愛現象の仕業だろうか。…寵愛現象?ふと頭に浮かんだ耳馴染みのないワードにより追加の疑問が沸く。
教室にいるのが嫌になった俺は早歩きで廊下を渡り、中庭まで出た。中庭はコの字型の校舎に囲まれているので、そこまで解放感はない。中庭に立っていると胸がざわつきだす。次第に落ち着かなくなり、呼吸が荒くなる。
気分が悪い。過呼吸になる。気持ちが悪い。蹲る。吐き気がする。嗚咽を漏らす。
急に訪れた不調の理由を考える余裕もなく、考えないままただ何となく上を見上げた。見上げた先にあるのは学校の屋上だ。その屋上は狭いスペースで、生徒が十人もいたら埋まってしまうくらいには狭い。そもそも生徒の立ち入りは禁止されている場所で、電気設備が備わっており、それら設備が場所を埋めていて狭いスペースとなっているのだ。
そんな狭い屋上に人が立っている。
一メートルちょっとしかなさそうな低い柵の外側に立っている。
見るからに危なくて。心配で心配で心配で、心配で心配で心配で心配で心配で―――。
柵の外側に立っていて、今にも飛び降りてしまいそうな女の子に俺は駆け寄ることができない。
何と声を掛けてよいかもわからない。
ただ、他のクラスメイトと違って、はっきりと彼女の表情が視界に映った。
恐怖に震え、怒りに震え、悲しみに震え、信じられない光景に絶望する彼女の表情だけが、俺にははっきりと見えた。
そして、彼女は飛び降りる。落ちて、落ちて、落ちて、体が水平になって、硬いコンクリートにぶつかる瞬間、ほんの少し頭のほうに比重が寄ったように見えた。
赤く血と脳みそが飛び散るような光景が頭をよぎったが、実際はそんなことなくて、ただ鈍い音とともに彼女がうつ伏せに倒れているだけだ。一見、怪我はなさそうだった。混乱しているのか安心しているのかわからない自分の脳を置き去りに、ゆっくりと彼女に近づいた。
そうして、俺がゆっくりと歩く速度に合わせるように、彼女の頭からゆっくりと血が流れだした。ゆっくりと、ゆっくりと、決して止まることなく、流れ続けた。
視界に映るその有様に耐えられず、俺は彼女との距離があと少しのところで歩みを止めた。そのまま棒立ちになって動けない。
数秒が経った。変わらず動けずにいる俺の足を、少し汚れている白い上履きを、綺麗な赤色の液体が浸食していった。
そうして発狂する声が聞こえた。声の主はわからないが、聞き慣れた声だった。まるで自分の声のように、聞き慣れた声だった。
ようやく俺は思い出す。
これは中学一年生の三月。寒さが残るも、厚着はしなくてよくなった季節。
柏木 司が憤怒の寵愛を授かった日の記憶だ。
同じ夢をたまに見るのだ。忘れた頃にいつも見るのだ。屋上から飛び降りる友達を、ただ茫然と眺めるだけで、決して救うことのできない夢を―――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少年は女の子の友達ができた。
好きな漫画が同じだったため仲良くなった。
女の子はいじめの標的となった。
少年は友達を助けようとした。
女の子の状況は悪くなる一方だった。
少年の行動は事態を悪化させるだけであった。
女の子は屋上に立った。
少年は中庭から友達を見上げた。
女の子は絶望の表情を浮かべた。
少年は絶望の理由をその目に映した。
女の子は飛び降りた。
少年は見ていた。
女の子は地面に落ちた。
少年は見ていた。
友達から赤くて赤くてとても赤い液体が流れていた。
少年は見ていた。
赤い春の記憶。
もう絶対に友人など作らないと心に誓ったあの日の記憶。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目を覚ます。ゆっくりと己の瞼が開かれる。騒がしかったバス内は静まり返っている。
「おはよう。柏木君」
声の発生源に視線を移すと、ぷくっと頬を膨らませた委員長の姿があった。
「目的地に到着して皆バスから降りちゃったよ」
その言葉を聞いて周囲を見渡すと、確かにバス内に俺と委員長以外の姿はない。
「せっかく柏木君も楽しめるようにイベント用意したのに、眠りこけるなんて酷いんじゃないかな」
怒った表情に怒った発言をしているが、その声のトーンから怒っていないことはよくわかった。
「あの大会祭りでなぜ俺が楽しめると思ったのかが不思議だよ」
いつもの如く憎まれ口を叩く。
「だってこの前カラオケ行ったとき楽しそうだったし。クイズとビンゴは全人類楽しめるやつじゃん」
「主語が大きい割に説得力に欠けすぎてるだろ…」
理解に苦しむ委員長の価値観は放念するとして、俺から質問を投げかける。
「安武はどうした?俺の隣に座ってたはずだが」
「司が寝てるから起こしといてって言いながらバスを降りて行ったよ」
「あの野郎…俺を置き去りにしやがったな」
「押し付けられた私の身にもなってほしいものだよ」
「押し付けられたとか言うんじゃねえよ。流石の俺でも傷付いちゃうだろうが」
「柏木君って意外と繊細だよね」
心無い委員長の発言に泣きそうになる。そんな俺を見て彼女はふふふと笑っている。ひょっとして委員長って性格悪いんじゃないだろうか。
「それはそうと俺はどこに向かえばいい?案内しろ」
「居眠りして置いてけぼりになってるのに偉そうだな…。まだ皆バスの外で待機してるからすぐそこだよ」
立ち上がって伸びをする。寝起きの爽快感などは感じず、少し汗をかいてしまっていて気持ち悪い。
「大丈夫?顔色悪いけど…」
怒って笑って呆れた表情を見せた次は、心配そうな表情を浮かべる委員長に言葉を返す。
「大丈夫だよ。ちょっと嫌な夢を見ただけさ」
嫌な夢。忘れたくても忘れらない、忘れてはいけない、そんな記憶を呼び起こすための夢。
「嫌な夢?この後の林間学校で皆と一緒に作るカレーが柏木君の分だけなかったとか?」
「何そのしょうもなくて地味に嫌な内容。まさか本当にそうなる可能性あるの?俺泣いちゃうよ?」
「大丈夫だよ。柏木君は私の班だからね。柏木君の分がなくても、ちゃんと私のを分けてあげるから」
「同じ班だったら俺の分のカレーがないという状況を起きないようにしてくれ」
今日の晩御飯が若干不安になりながら俺はバスを降りる。
バスを降りると二年七組の生徒たちが整列していた。遅れて列に加わろうとする俺への視線は良いものではない。
俺はもともとクラスメイトから距離を置かれていた。しかし、今ここまで警戒の視線を向けられているのは、先日の二年六組お説教事件があったからだろう。
学校内での俺への評価は関わってはいけないヤバい奴といったところだろうか。
別にそんな評価はどうでもよかった。大抵の人間は醜く残酷な生き物である。それは子供も大人も変わりない。
子供は純粋で醜悪な残酷さを秘めているが、大人はそんな残酷の隠し方を覚えたに過ぎない。そこからさらに長い人生で培われた汚いやり口が追加され、碌なものではない。
そういう人種からの見られ方など、俺はどうでもよいのだ。
そんなことを考えていると、以前に友人から言われた言葉を思い出した。
『悪い面ばかりを見て、それを理由に拒絶することで自分を守ろうとするのは、柏木の残念ポイントの一つだね』
俺の二人の友人のうちの安武ではない方の友人。彼女から言われた大人な意見に言い返せなかったことを思い出してばつが悪くなる。
「柏木君こっちの列だよー」
僅かに悪い空気になっている中でそう声を上げたのは同じ班の女子生徒だ。委員長と仲の良い陽キャギャルのうちの一人。髪色が赤紫じゃなくて普通の方。名前は思い出せない。
「カッシーだよ。クラスメイトの名前は覚えてね」
背後からの委員長の言葉に背筋がゾッとした。
「人の心読むなよ。ちょっと名前をド忘れしただけだよ。というかカッシーは名前じゃねぇ」
なんだよカッシーって。俺も柏木だからカッシーになっちゃうよ。
「よく眠れたー?」
列の最後尾に行くと、前に立つチャラ男に声を掛けられる。茶髪をカチューシャで上げているので俺でも認知しているクラスメイトだ。名前は…えっと…。
「スズキングだよ」
列の先頭に立った委員長から指摘される。だからスズキングは名前じゃねぇ…。
「ああ、しっかり眠れたよ。スズキングこそしっかり眠れたか?」
「おう!十時間は寝てきたぜ。バスでは寝なかったけどな。今日は遊び倒さないと」
陽気なスズキングは煙たがられている俺を気にすることなく会話する。
「五月蝿いよ、鈴木。先生がこっち見てる」
そう言ったのはクラスのイケメンだ。名前は確か高岡。
「高島君だよ」
「だから俺の心読むなって、怖えよ」
委員長による名前の訂正に内心ビビる。てか高島はあだ名じゃないのかよ。陽キャわかんねえな。
「鈴木声デカくて超ウケる」
そう言ってケラケラ笑うのは赤紫の髪に黒いマスクをしたギャルだ。名前はえっと…あ、ヤバい、委員長と目が合った。もう指摘されたくないので頭をフル回転させて思い出す。えっと、、確か、、尾木だ!クラスの連中がオギコと呼んでいたのを思い出した。
なんとか名前を思い出すと、委員長はコクリと頷いて前を向いた。何で口にしてないのに尾木の名前を思い出せたのがわかるんだよ…。本当に心読まれているのではないかと恐怖がより大きくなる。
「えー、別に俺コソコソ話してたよ」
そんな委員長から俺への一方的なテレパシーには気付かず、スズキングが大きい声で尾木に反論する。
「鈴木~、声デカい。いい加減先生キレるから黙れ~」
カッシーに注意されてスズキングは口を閉じた。ていうか委員長以外の誰も鈴木のことスズキングっ呼んでないな…。
その後は担任がこれから何をするのかを説明した後、各班に分かれてそれぞれ活動を開始する。
全ての班がカレー作りはするとして、他にもキャンプファイヤーなどのレクリエーションの準備をする。俺は楽しそうに話している班員たちを後ろから眺めながら歩く。
別に悪い奴らではない。悪人ではない。委員長ほどの善人というわけではないだろうが、この一カ月と少しでこいつらが結構いい奴であることはわかっている。
全ての人間が悪なのではない。
知っているさ。
善だけで構成された人間も、悪だけで構成された人間も存在しない。
知っているさ。
善いところもあれば、悪いところもある。それが人間だ。
知っているさ。
環境や過去によって、人間は善くも悪くも変わってしまうものだ。
知っているさ。
知っているさ。
知っている。
けれど、俺は受け入れられなかった。
許すことができなかった。
あの赤い春の記憶が、人間を拒絶し続ける。




