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赤と青のハルハル  作者: 高野 ぱら
第二章 七不思議ゴースト
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第二章20 愛おしいあなたへ

 今更ながら、私は恵まれていることに気付いた。


 裕福とは呼べないが生活に困ることはなかった。

 両親は私を愛してくれていた。

 黒歴史と決めつけていた小学生時代と中学生時代も、思い返せば一人ぼっちの私に優しく声を掛けてくれる人はいた。


 上手くできなかったのはいつも私だ。名前のせいだと責任転嫁した。お金持ちじゃないせいだと責任転嫁した。周りの人たちの性格が悪いからだと責任転嫁した。才能を持たず生まれてきたからだと責任転嫁した。


 本当は心の奥底で気付いてたんだ。もっとやりようはあったんだって。生まれ持った才能で、環境で、皆みたいに生きていくこともできるんだってわかっていた。

 でも、それを受け入れてしまえば私は自尊心を保てない。何かのせいにしないと、私は息ができなかった。


 こんなことも司君が私に手を差し伸べてくれるまで気付けなかった。自分が恵まれているということに、気付けなかった。


 自分が幸せじゃないのは恵まれていないからだと思い続けることはもうできない。子供じみた責任転嫁はもうお終いだ。


 あれだけ司君が私に生きようって言ってくれたのに、私の中から死という選択肢は消えていない。それでも、今の私にはもう死ぬ理由を誰かのせいや環境のせいにはできないから、等身大の私で向き合わないくちゃいけない。


 生きるにしても、死ぬにしても、私の責任で、私の考えで、私が決断しなければならない。


 目覚めた病室で、長い事情聴取を終えて、雲一つない青空を見ていた。部屋には冷房が入っているけど、外の世界と向き合いたくて、そっと窓を開けた。


 生温い空気が空調により冷やされた部屋を台無しにして、なぜか少しだけ心が和らいだ。すると風の気配がして、それと同時に扉がノックされる。


 コンッ、コンッ。良い音が部屋に響いた。返事はしない。私は窓辺のベットから青空を見続ける。短く切られてしまった前髪は視界を邪魔することはなく、青色だけが瞳に映る。風が吹く気配を感じる。


 扉が開く音がした。同時に風が舞い込み、私の頬をくすぐる。早まる心臓が体を微かに振動させ、勝手に水分が涙腺を昇ってきたので押し戻す。


「おはよう、加藤」


 その声を聞いて感情の泉から喜びと呼べそうなものが湧き上がるのを感じる。自身が犯した罪を思い出し、そんな感情を抱いたことに罪悪感を覚える。


「おはよう、司君」


 私は必死に平静を装って、朝の挨拶をした。親以外の誰かと挨拶を交わすようになったのはいつからだろう。


「話をしよう。これまでの話と、これからの話を」


 もう一度、夏風が私の頬をくすぐった。そのまま彼の赤髪を揺らし、去っていく。


「うん。それじゃあまずは、これまでの話から」


 そうして私は、加藤 愛海の送ってきた人生を語り出した。責任転嫁を繰り返し、向き合うことから逃げ続けた人生を語り聞かせた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 語り終えた。これまでの話を語り終えた。要領の悪い私は、ニ十分もあれば済む話を長い時間を掛けて話した。病室にかかった時計を見る。彼がこの部屋に来て一時間三十三分が過ぎていた。


 全部話した。全部を曝け出した。話し始めたときは、どこかで自分有利な言葉選びをしてしまうんじゃないかと危惧したが、彼があまりにも真っ直ぐな姿勢で聴いてくれるものだから、私もありのままの昔話を伝えることができた。


 正直、後悔していた。名前の由来なんて知られたくなかったし、中学生以前のトラウマも蓋に封じ込めておきたかった。気分の悪くなるような私のエピソードに対して、その時々で私が何を考えていたのかを詳らかに伝えた。


 自分の口から出て行くその言葉たちはあまりに醜くて、悪質な愚痴と何ら変わりなかった。

 私を傷付けた人たちの悪口を彼に聞いてもらった。その悪口には、身体的特徴を馬鹿にしたものや、その人の家庭環境をもとに吐いた罵詈雑言も含まれた。

 ああ、自分はこんなに醜い感情を抱えていたのだと、喋りながら自覚していった。


 そんな私の口から明かされる醜い本音を彼は黙って聴いていた。「君の立場ならそう思っても仕方ないよ」みたいな肯定の言葉も、「そんな風に人を見るなんて軽蔑する」なんて否定の言葉も、彼の口からは出てこなかった。肯定も否定もせず、ただじっと私の話を聴いて、時折相槌を打った。


 でもきっと、彼は表情には出していなかったけれど、人の悪口なんて聴きたくなかっただろう。柏木 司がそういう人間だということを私は理解していた。理解していて、私の口から出る悪口を彼に全部聴いてもらった。加藤 愛海という人間を知ってもらうには必要なことだった。


 これまで歩んできた人生、いや、歩みもしないで俯いたまま時間だけが過ぎていった人生を語り終え、最後に私は問う。


「私は嫌な奴だよ。被害者面して生きて、心の奥底では他者への罵詈雑言に誹謗中傷。こんな私を、私は変えることができるのかな…?」


 それは彼に向けた問いのつもりだったが、まるで自分自身に問うているみたいだった。


「…きっと、どうしたって、自分自身の嫌な部分が残り続けると思うんだ」


 彼は答えた。言葉はたどたどしい。きっと一音一音を発しながら次の言の葉を考えている。


「加藤が吐き出してくれた色んな人への不満や悪意、それを生み出してしまう心を完全に消すことはできない」


 彼はどこかを見つめている。きっと集中していて今自身の瞳に何が映っているのかなんてわかっていない。


「優しい人たちと一緒にいれば、嫌な自分は出てこなくなる。でも、いなくなるわけじゃない。機嫌の悪い日とか、嫌な思いをしたときに出てきて、あぁ、自分はいつまでも汚い人間のままなんだって自己嫌悪する」


 その私に向けられた言葉は、彼自身に向けられているようにも聞こえた。


「変わりたいって思って、環境を変えて、努力もして、意志を強く持っても、嫌な自分が表に出る割合を減らせるだけで、消えてくれはしない」


 彼はゆっくりと顔を上げる。私と目が合う。


「だから加藤の中にも、嫌な部分は残り続ける。それが人間だ」


 この人は酷い。今は私を励まして、希望を抱かせて、前を向かせるための時間のはずだ。当人の私自身がこんなことを思ってしまうのはおかしな話だけど、彼の言葉は後ろ向きすぎる。


「どんなに頑張っても、結局は変われないのかな…?」


 私は彼に問う。昨日はあんなに生きようって言ってくれたのに、今は暗い話をする彼に問う。


「変わりはするさ。誰かを貶めたいとか、そういう嫌な考えが浮かぶ割合を減らすことはできる。でもやっぱり、聖人君主にはなれない」


 彼の言う通りだと思う。きっとこの先、私が努力して、素晴らしい教えを学んで、実践して、聖人君主のような扱いを受けるようになったとしても、環境や出来事次第で綻びが生まれ、今の私の醜さが顔を出す。

 彼が語るのは現実的な話で、根暗な酷い話で、私のこれからの話と向き合うための誠実な態度の表れだった。


「私はこれから、人見知りとかあがり症とかそういう欠点を減らして、内心で誰かの不幸を望むような気持ちが出てこないように気を付けて、社会の歯車として役に立てるように生きていく。それが、正解だと思う」


 私は語る。これからの自分を、これからの話を。

 これが正解だ。社会で上手くやっていける人間になって、良い人でいられるように自制して、家庭を築いて、ちゃんと税金を収めて、平均寿命まで長生きする。これが社会が定めた正解だ。


「でも、聴いてもらった通り私はそんな正解を実行できなかった。少なくともこれまでは、正解に近づけなかった。これからは、わからない。正解の人生に近づけるかもしれないし、また昨日みたいに失敗して、たくさんの人に迷惑を掛けて、自分を嫌いになって、死にたくなるかもしれない」


 怖い。正解の生き方なんてずっとわかっていた。私が人見知りじゃなければ、コミュ障でもあがり症でもなければ、普通に友達ができて、普通に世界を楽しんで、普通に社会に揉まれて、普通に大人になって、普通の幸せの恩恵を受けて、普通の人生を歩めたのだと思う。

 でも私には普通ができなくて、それが堪らなくコンプレックスだった。


「正解の生き方…か」


 彼が呟く。そのフレーズを咀嚼するようにして考え込む。


「確かに加藤のこれからの人生を考えたとき、正しい答えっていうのは今言ったような内容なんだと思う。劣っている部分を改善して、優れている部分を伸ばして、立派な人格者になって、社会の役に立つ」


 きっとこんなこと、わざわざ言葉にしなくても誰もがわかっている正論だ。


「でも、大多数の人はそれが上手くできないから、どこかで妥協して、社会から許容される範囲の短所と、周りに褒められるくらいの長所で自分を満足させて、生活とか世間体のために働いて、人生を終えるんだろうな」


 まだ働き始めていない私でも、私たちのような高校生でも、何となく透けて見えているありきたりな将来が彼によって言語化される。


「私がこの先、頑張ったとして、生きたとして、待ってるのは今司君が言ってくれたような未来だと思う。もちろんそんな未来の中で楽しいことや嬉しいこともあるんだろうけど、悲しいことや苦しいことはもっとたくさんある」


 今度は私が話し始める。色褪せた未来を想像しながら言葉を紡ぐ。


「特に私は足りないものが多すぎるから、きっと他の人たちより楽しいことや嬉しいことは少なくて、悲しいことや苦しいことは多い。それでも、私は生きていかなきゃダメかな…」


 語りながら私は小学六年生にして祖父に言った言葉を思い出す。


『生きるのが難しければ、別に死んでもいいかな』


 あれから五年くらい経って、もう高校二年生になったのに、その言葉を否定することが私にはできない。


「…ここで俺の口から加藤に対して、気持ちの持ちようだとか、いつか報われる日が来るだとか、社会人になったらそんなことで悩んでいる暇はないだとか、そういうことは言えない。俺は加藤に生きてほしいけど、それは俺のエゴでしかなくて、加藤の問題ではなく俺自身の問題だ」


 彼が私を世の中の正論で説き伏せようとしないことが、嬉しくて、優しくて、救われる。祖父から、周りの大人から、死にたいと検索すると出てくるネットの記事から、散々そういう言葉は投げかけられてきた。その度に自分を奮い立たせて、でもやっぱり上手くいかなくて、浅瀬の水で溺れるみたいな気分だった。


「きっと死という選択肢を持たずに、どう生きるのかを考えて生きていくのが正解なんだと思う。だけど、その正解は時として、死なない程度に首を絞め続けるのと変わらない気がするんだ」


 彼は言葉を紡ぐ。その瞳の中にとても暗い影が灯る。


「俺が中学生のとき、もう死にたいと苦しんでいる子がいた。俺は生きようと言い続けた。苦しいのは今だけだって、明るい未来が待っているって、死ぬことは逃げで怠慢だって、心を強く持てば大したことないって、そんな言葉を浴びせ続けた」


 それはまさしく懺悔だった。彼の犯した取り返しのつかない過ちだった。


「きっとあの子は、死なない程度に首を絞め続けられている気分だったんだと思う。俺は間違えた。正しい言葉を並べたはずなのに、救うことはできず、むしろ彼女を追い込んだ」


 色濃く滲む後悔に私の心は酷く共感し、痛み苦しむ。共感したのは彼の言うあの子と彼自身の二人に対してだ。どちらの気持ちも理解できてしまい、ただただ苦しい。


「だから俺は、死という選択肢を持ち続けることを否定したくない。どんなに辛くても、最悪死ねばいいと思えれば、きっと命の重み分は心が軽くなる。もちろん死んでほしいわけでも、死ぬことを肯定したいわけでもない。ただ、死という選択肢を頭ごなしに否定するのはもう御免だ」


 こんなことを言われたのは初めてだ。きっとあのとき、祖父がこんな風に言ってくれたのであれば、私の心は少しだけ軽くなっていた。本当に死を選んでしまう危うさはあったのかもしれないけれど、あんなにも苦しまずに生きることができたかもしれない。


「だから加藤、死ぬことを考えるなとは言わない。生まれてきてしまった時点でお前の命はお前のもので、命をどうするのかはお前が決めることだ」


 彼の赤い瞳が私を映している。大して可愛くもない女の子が映っていた。私の命の行く末は、私の選択に委ねられた。


「だけど…これだけは知っていてほしい」


 彼の言葉が続く。優しい声音が、風の通る小さな部屋の中に広がった―――。




「俺は…加藤が生きる世界で、生きていきたい」




 また――、夏風が私たちを通り過ぎていった――。その感覚が優しく頬を撫でられたみたいで、思わず涙が滲んだ。


「…私は、、わたしは、、、」


 言葉に詰まる。上手く呼吸を行えない。唇が歯を噛みしめるような形に歪む。


「生きたくない理由がたくさんあった。死にたい理由がたくさんあった。死ねない理由が少しだけあった。生きたい理由は一つもなかった」


 声が震える。涙が零れる。そんな自分がみっともなくて、嫌いで、消してしまいたくて、


「好きなブロガーさんがいたの…。私みたいに死にたいと思いながら生きてて、それでも優しい言葉をたくさんブログに書いている人だったのっ。でも、その人が死んじゃって、コメント欄は生きてさえいればみたいな言葉で埋め尽くされて、だけどっ、私っ、思ったの。この人はやっと解放されたんだなって、死ぬ瞬間は怖かっただろうけど、もう安らかに眠ることができたんだって、よかったねって思っちゃったの!」


 中学生の頃、心が限界に達していた私はとあるブログを見つけた。私に近い考えを持っていて、そのうえで優しい言葉を綴ったその日記のようなものが、私の心を温かく包み込んだ。ある日突然ブログの更新が止まって、数週間後に親と思われる人物が娘は亡くなったと投稿をした。

 そこそこ閲覧数も多いブログだったから、多くのお悔やみコメントが寄せられた。生きてさえいれば、そんな文字が私の瞳を滑っていく最中、強いショックを感じながらも私はよかったねと心から思ったのだ。死ぬことにすら多くのしがらみがあるこの世界から、きちんと去ることができたのを、私は心の中で祝福した。それはあまりに不謹慎な想いなのだろうけど、私にとって死は唯一の確かな救いだった。


「だから、私もあの人みたいに死ぬことができたならって、今もまだ、そう思う」


 司君はただ私を見ている。寂しそうな表情になるのを堪えているんだなとわかって、少しだけ愛おしい。


「でも、」


 私は呟いた。まだ私の中で考えはまとまっていない。私は何と言うのだろう。私の生きる世界で生きていきたいと言ってくれる彼に、何を伝えるのだろう―――。




「…本当は、誰よりも幸せに生きたいの。世界で一番幸せになってやりたいの」




 自分の口から出た言葉に私は驚く。びっくりする。考えるより先に出た言葉が本心とは限らない。ただ勢い任せに出てしまった言葉に過ぎないのかもしれない。それでも私の発した音は、私の体の奥へと落ちるように入っていく。体の中心に落ちて、波紋のように広がっていく。


 暗闇の底で、一人の少女が見えた。大きい黒縁メガネをかけていて、背が小さくて、目も小さい。大して可愛くなくて、愛おしい少女だった。


『生きるのが難しければ、別に死んでもいいかな』


 少女は口を開いて私にそう言ってきた。


『うん、そうだね。私もそう思う』


 私は答える。暗闇の底で、少女と二人、言葉を交わす。


『でも、死ぬことはいつでもできるから、とりあえず気が向いているうちは、世界で一番幸せになれるよう楽しんでみようと思う』


 私は言った。加藤 愛海は確かに言った。


『だって私は、ずっと、ずーっと、あなたを世界一幸せにしたかったんだもの』


 少女の頬に両の手のひらを添える。可愛くなくて、愛おしい顔がよく見えた。そうだ、私は、本当は、この子を幸せにしたかったんだ。


 両親に愛されて生まれてきた少女、ラブマリンを、世界で一番幸せにしたいのだ。


「加藤」


 司君の声が聞こえる。私の意志を聴いて、それでも真剣な表情を崩さないまま、嬉しそうな顔をするのを堪えている。憧れだった男の子が、今はなんだか可愛く見える。


 名前を呼ばれて、暗闇にラブマリンと私の二人だけがいる妄想の世界から連れ戻される。目の前の彼に、これまでの話とこれからの話を一緒にしてくれた彼に、私は暗闇の底から声を届ける。


「私、生きてみるよ。嫌になったら死んじゃうかもしれないけど、とりあえずは世界一幸せに生きようと思う」


 自然と笑顔になれた自分を少しだけ嬉しく思って、私は彼と視線を交差させる。


「だから司君も生きていてくれると嬉しい。私も、司君が生きる世界を生きていたいから」


 もう出てこないくらいに流してしまった涙は、今も私の目尻から零れ続ける。


「ああ、加藤が生きてるうちは俺も生きてるよ。約束だ」


 そう言って彼はこちらへと拳を突き出した。いつだったか同じように拳を突き出されたとき、カツアゲと勘違いをして千円札をその拳の上に置いたことを思い出す。


「ぷっ」


 思い出し笑いをしてしまい、変な声を出してしまった。


「何笑ってるんだよ」


 彼は拳を突き出したまま恥ずかしそうにそう言った。


「ううん、なんでもない!」


 私は涙を流しながら笑う。想いの分だけ己の拳を強く握り締め、彼の拳にぶつけた。グータッチから伝わる手の甲の痛みが心地良くて、なんだか生きている感じがした。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 加藤との話を終えた俺は寵愛現象管理協会の施設内を歩く。萩原さんが帰りの車を用意してくれているみたいなので、ご厚意に甘えて送迎されることにする。建物を抜けると、外は変わらずの晴天が広がっている。


 別に何か解決したわけではない。加藤の中で死という選択肢はこれから先も残り続けるし、生きていく中で失敗を繰り返して苦しい思いもたくさんするだろう。

 今の加藤ならもう大丈夫、なんて楽観的なことは思えなくて、それでも消えたいと望みながら生きた彼女が、世界で一番幸せになることを望んで生きることにした。その小さな一歩には確かな価値がある。


 七不思議の寵愛による騒動は協会側でどうにか揉み消すらしい。学校側の被害は音楽室周辺の物がいくつか壊れたのと、窓ガラスが割れた程度だったらしく、手慣れた協会員からすればマシな部類の事件であったそうだ。それこそ五月の龍の寵愛に比べれば、何てことのない事件らしい。


 加藤は頭を数針縫ったそうだが、跡もほとんど残らないようで、七月中には退院するそうだ。もっともここは病院ではないため、退院という言葉は相応しくないかもしれない。


 既に夏休みが始まっているわけだが、加藤は明日から検査が始まる。それは頭の傷の検査ではなく、本当に七不思議の寵愛が失われたかを確認するためのものだ。伊吹が十日間行った検査程たっぷりとするつもりもないらしく、長くても四日で終わるはずだと萩原さんが言っていた。


 協会員が運転する車の後部座席で、夏の景色が流れていくのが見える。時刻はもうすっかり夕刻だが、太陽はまだ高い。運転する協会員はどこにでもいそうな三十代くらいの男で、少し腹が出ている。その見た目から戦闘員ではないと判断する。


 三十分ほどで自宅に辿り着き、疲労限界の体を引きずって自室まで辿り着き、ベッドの上に転がり込んだ。シャワーは協会の建物内で昨日の夜に浴びている。それでも夏の猛暑のせいで僅かに汗は掻いていて、お風呂に入らねばと起き上がろうとする。

 起き上がろうとしたのはいいが、憤怒の寵愛の反動で筋肉痛のような痛みが全身を駆け巡り、さらにベットの吸引力に成す術もなく捕らえられる。


 何もしないまま三十分程が過ぎて、瞳に自室の天井が映るが、それに対して抱く感想などない。というか三十分間、ほぼ何も考えていなかった。

 睡魔が訪れるのを感じる。眠るのであればせめてカーテンくらい閉めようと思い至るが、やはり体は起きてくれない。そのまま睡魔に呑まれると思ったが、困ったことになかなか寝付けない。眠いのに眠れないという拷問に苦しみながら、少しずつ窓の外の色が変わっていくのを見ていた。


 真っ青だった空は次第にオレンジ色を帯びて、少し意識が朦朧とした隙に紺色へと変わり始める。青とオレンジと紺の色合いが溶け合って神秘的な宙が眼前に広がっていく。


 男のくせしてみっともなく泣いてしまった俺の目元は既に乾き、僅かに赤く腫れていることだろう。恥ずかしい記憶だが、思い返しても喜びの感情のほうが上書きしてくる。

 ぬか喜びするにはまだ早い。加藤 愛海の人生はこれからだ。それでも中学時代と同じ失敗をせず、彼女ともう少し先の未来まで生きていけることは嬉しかった。


 夏休み。長い長い夏休みが始まる。加藤とはしばらく会わなくなる。単純にまだ友達じゃないから会う理由がない。


 …。


 自分で考えていて呆れる。"まだ"友達じゃないなんて考えてしまった。きっと疲れた脳みそで考え事なんてしているせいだ。


 俺にはまだわからない。

 七瀬と友達になった。それは俺が強くそう望んだ結果だった。

 安武と友達になった。これについては正直七瀬のついで感があったのだが、後悔はしていない。

 伊吹と友達になった。失いかけて気付いた本音を大事にして、俺のほうから彼女に手を差し出した。


 友達を作らないなんて言っておいて既に三人も友達ができた。彼女らの存在は俺にとって非常に大きなものだ。


『大切な友達に裏切られ、大切な友達を救えず、大切な友達を殺すために憤怒の寵愛を授かったお前に、友達を作る権利なんてあると思うな』


 薄暗い自室の中にまだ長髪ではない赤髪の少年が立っている。過去の自分だ。

 お前の言う通りだと、俺は少年の幻覚を瞳に映しながら思う。友達を救えない俺に、友達を信じれない俺に、友達だった人たちを殺したいと猛烈に望む俺に、友達を作るなんて権利なんてない。


『私も、司君が生きる世界を生きていたいから』


 僅か数時間前、加藤から言われた言葉を思い出す。七瀬と、安武と、伊吹と、心の底から笑って遊ぶことができたみたいに、加藤ともそうできるとわかっていた。


『よし!決めた!一学期が終わるまでには柏木君とお友達になる!私の目標!』


 加藤だけじゃない。委員長だってその一人だ。

 俺はいつまでも意地を張っている。いや、ズルをしているという表現のほうが正しいかもしれない。友達を作る権利がないから、一緒に笑って遊んでいる相手のことを友達を認めず、そのくせ関係を継続する。ズルだ、卑怯者だ。


 俺は考える。ゆっくりと咀嚼するように、考えて、考えて、最後に感じて。


 気付けば窓の外は紺色を超えて黒の世界となっている。そんな黒の世界にポツポツと光り輝く粒が見えた。

 俺は回復した気がしない重い体を動かして、部屋の外へと出る。廊下を鈍間な足取りで進み、リビングに入る。柏木家の夕食は既に終わっていたらしく、誰の姿もない。卓上に俺の分の夕食があり、皿にラップがかかっていた。


 ラップをめくることなく今はリビングにある固定電話に手を伸ばした。スマホは昨日壊れてしまい、連絡手段は昨今では数を減らしているという自宅の固定電話のみだ。

 電話機に備えられた数字のボタンを押していく。加藤の連絡先は聞きそびれたので、彼女が協会の施設に監禁されているうちにまた会いに行こう。


『もしもし』


 受話器から聞き慣れた声がする。少し高音で、声優のように綺麗な声音だった。


「俺だ。柏木だ」


『あ、柏木君!?ちゃんと私の電話番号覚えててくれたんだ。びっくり』


 電話の主である委員長はそんなリアクションを返す。

 今日の朝、協会の施設内で会ったときにスマホが壊れたことを伝えると、彼女から自宅の連絡先を聞かれたのだ。自宅の固定電話の番号なんて覚えていないと言うと、『じゃあ私の番号を言うから覚えててね』と念押しされ、五回くらい電話番号を繰り返し伝えられた。


「あれだけ繰り返し言われたら嫌でも覚えるさ」


『それなら言った甲斐があったよ!…加藤さん、大丈夫だった?』


 彼女らしく、最初の話題は加藤のことだ。一日中ずっと心配していたのだろう。


「とりあえずは大丈夫だ。加藤自身の力で前を向いた」


 本当は今もまだ加藤のことは心配だ。でも、きっと大丈夫。少なくとも彼女は明日も生きようとしている。世界一幸せになりたいから、そのために生きようとしている。だから、委員長にもそれを伝える。


『そっか。ありがとう』


 委員長からの感謝の言葉は耳をくすぐり、慣れない。


「詳しくはまた今度話すよ。どうせ生徒会の手伝いで夏休みも学校に出てくるからな」


 今回の肝試し大会で生徒会の協力を得る条件が、お助けクラブが夏休みに生徒会の手伝いをすることだった。


『そうだね。鳳凰会長には私から連絡取っておくよ。柏木家の固定電話の番号もわかったことだし、また連絡する』


「ああ、頼む」


『…。やけに素直だね?柏木君のことだから夏休みに電話してくるなとか言うと思ったのに』


 俺、凄い嫌な奴だと思われてるな。しかし、我ながらそう言う気持ちも幾許かはあり、強く否定できないことが何とも悲しい。


「まあ、どうせ夏休みすることもないからな。学生らしく部活動に精を出そうと思ったり思わなかったりだ」


『ふふ、なにそれ』


 透き通った笑い声が電話越しに伝わってくる。


「あー、あと、委員長に言っておきたいことがあって」


『ふえ?どうしたの?』


 彼女に電話をした目的を果たそうと話を切り出す。こういうことが慣れていない俺は少しぶっきらぼうな口調になってしまう。照れ隠しをしている感があって逆に恥ずかしい。


「委員長、俺と…」


『え?は、はい』


「俺と友達になろう」


『…』


 勇気を振り絞って伝えた言葉に対して返事が来ない。俺は嫌な冷や汗を垂らしながら追加の言葉を吐き出す。


「と、友達になってくれ。……なってください。……あ、あの、聞こえてる?おーい、……や、やっぱり今さら虫が良すぎるか……えっと、それなら今のは忘れてもらって……」


『あ、ごめん。びっくりし過ぎて放心してた…。なる!私、柏木君の友達になる!』


 どんどん不安になって泣き出しそうになった俺に対し、委員長が元気よく承諾してくれる。


『やったぁー!嬉しいぃ~!まさか柏木君のほうから言ってくれるなんて。んふ、んふふふふ』


 十分に喜びが伝わってくるリアクションをしてくれて、俺の嫌な鳴り響き方をしていた心臓も徐々に平常へと戻っていく。


「まあ、そういうことだから、よろしく」


『んふ、んふふ、うん、よろしくお願いします。…んふふ』


 すっかり上機嫌になった委員長は先程から若干気持ち悪い声を漏らしている。一学期が終わるまでには俺と友達になる、そんな彼女の目標が一日遅れではあるが叶った。

 俺としては今まで友達にはならないと散々言っておいて急に手のひら返しした形なので、ここまで純粋な喜びのリアクションをされると罪悪感で胸がいっぱいになる。


『友達になったということは、夏休みもたくさん遊んでくれるということでよいね?』


「ああ、もちろんだ。こっちからもお願いするよ。七瀬も安武も伊吹も、それから加藤とヒューマも呼んで色んな事をしよう」


 我ながら信じられない発言をする。とても友達なんていらないと豪語していた奴の発言とは思えない。


『ふっふーん!それなら任せて!夏休みにやりたいこと、たくさんあるんだから!』


 委員長が張り切ってそう言う。今年の夏休みは忙しくなりそうだ。


『あ、あとそれからね。柏木君に一つお願いがあるんだけど』


 若干緊張した声音で委員長がそう言ってきた。


「ん?何だ?」


『そ、その、名前で呼んで。委員長って呼び方、前々から距離感あって寂しいなぁって思ってたから』


 敢えて拗ねるような口調になった彼女の要求を俺は呑むことにする。


「確かにそうだな。これからよろしくな、速川」


『…』


「速川?」


『…まあ、今はそれでいいや。よろしくね、司君』


「ああ。それじゃあ、また学校で」


 そう言って俺は電話を切った。速川は最後まで上機嫌な口調で『うん!また!』と甘美な声を響かせた。


 俺は固定電話の受話器を置き、夕食を取ろうと机へ向かう。夕食の皿にかかったラップを剥がそうと手を添えたとき、視界の隅に幻影が映った。


 亡霊だ。部屋の奥にまた赤髪の亡霊が出てきて、俺に言葉を投げかける。


『お前なんかが、幸せになろうと思うな』


 鋭くこちらを睨んだ赤い瞳には、憎しみの炎が燃え盛っている。


「…お前の言う通りだ。俺は罪を犯した。幸せになっていいような人間じゃない」


 幻影の彼と向き合う。憎悪の視線を正面から受け入れる。


「…でも、そうもいかないんだ。俺は今度、この世界で一番の幸せを目指す女の子と友達になろうと思うんだ。俺がその子の存在を望んで、その子も俺の存在を望んでくれた。そんな世界一幸せな女の子の友達が、いつまでもしかめっ面で幸せから目を逸らすわけにはいかない。罰は受けるし、罪は背負い続ける。そのうえで俺は、尊敬する友人たちと一緒に生きていくよ」


 俺は一方的に幻影への言葉を言い終える。次第に消えていく赤髪の少年は、最後まで俺のことを睨んでいた。強く強く憤慨し、消えることのない憤怒を宿していた。


 それでも俺は選択する。罪を背負いながら、幸せを目指す友人たちと生きていくことを、選択する。

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