第二章19 もう少しだけ
虫のいい話である。
結局私は最後まで中途半端だった。何も自分で決められない。何一つやり遂げられない。それは今この瞬間も変わらぬ事実だった。
自分が嫌いだ。大嫌いだ。超嫌いだ。とても嫌いだ。それなのに、私はいつも自分が大切で仕方がない。自分が可愛くて仕方がない。
そんなことはないと私の心は叫ぶ。私は私が嫌いなのだ。大切なわけがない。可愛いわけがない。そう心が否定するのに、状況証拠が真実を明らかにする。
月が見える。メガネのレンズにヒビが入ったのか世界が歪んでいる。照らされる。照らす価値のない私を、月明りが照らしていた。
まず第一に、私はずっと卑怯だった。大人しくて人見知りな女の子。そうなりたくてそうなったわけではないと思っていたが、本当はそんな被害者側に立てるように演じて生きていた。
責められるのが怖かったから、いつも俯いて可哀想な女の子を演じていた。
何かを間違えて嘲笑されるのが耐えられなかったから、いつもじっと黙っていた。
でも、皆気付く。騙しきれない。被害者面している卑怯者だとバレてしまえば、誰も助けてくれないし、攻撃することへの遠慮もなくなる。その具体例が小学生時代と中学生時代のお話だろう。
私は自分可愛さに生きている。痛いのが嫌、傷付くのが嫌、苦しいのが嫌、悲しいのが嫌、そんなのは当たり前で、でもそんな当たり前を抱えながら他の人たちは生きている。
私だけが被害者面をして、逃げることも戦うことも放棄して、ずっと黙って俯いていた。
そもそも私が今も生きているのは死ねなかったからだ。親を悲しませたくないという大義名分を掲げて、でも本当のところは痛くて苦しくて怖い死を嫌がっていたからだ。
その証拠に記憶の消去という方法を思いつき、私によくしてくれた皆を傷つける選択をした。
皆が私の寵愛現象で怪我をすれば、私は危険人物として秘密結社に記憶を消される。そんな筋書き。死ぬことに比べたら記憶の消去はきっと痛くも苦しくもなくて、そのうえで私自身がある意味で寵愛現象の被害者として扱われる。
そう、ここでも被害者。どこまでいっても私は被害者側でありたいのだ。
虫のいい話である。
その結果、明日香様と奈良先輩、安武君に怪我を負わせた。そして何より、司君に痛い思いをさせた。苦しい思いをさせた。怖い思いをさせた。
最低だ。最悪だ。自分は痛いのも苦しいのも怖いのも嫌でこんな卑怯なやり方を選んでおいて、自分によくしてくれた彼らには痛くて苦しくて怖い思いをさせたのだ。
あまりにも自分勝手。被害者の皮を被ったまごうことなき加害者。それが私だった。
司君を何回も殺した。潰れて、食われて、四肢がもげて、痛々しく思った。そう、私は痛々しく思ったのだ。自分でやったことなのに、司君が可哀想だという感想を抱いたのだ。
狂っている。イカれている。死ねばいい、死ねばいい、死ねばいい。
「能力を解除しろ!そしてもっとお前の話を聞かせてくれ!」
彼が叫ぶ。どう考えても悪いのは全て私で、彼は被害者でしかなくて、それなのに真っ直ぐとこちらを見て手を差し伸べる。
あぁ、そうか。こういう人が生きるべき人間なのか。深く深く納得する。腹の底まで腑に落ちる。
そう気付いてしまえばもうこれ以上彼を傷付けることなどできない。あまりに遅い己の気付きに恥を覚えながら、真っ赤に染まったドレスの怪異を静止させる。それを見て彼が露骨に嬉しそうな表情をして、私は自身の行いを棚に上げて心を痛めた。
私は彼の下へと歩く。正確には彼の傍で停止している怪異の下へと歩く。ようやく覚悟が決まった。ここまで過ちを犯してしまった後で、遅すぎる覚悟を決める。
彼は再び私に手を差し出す。そして私に微笑みかけた。
私は絶句する。誰のせいで痛い思いをしたのかわかっているのだろうか。彼自身の血で染まり切った白シャツが瞳に映った。
私は決めた覚悟がどこかへと逃げ出してしまう前に、三メートルの巨体となった女の怪異を動かした。鞭にように振るわれる怪異の腕が私へと迫る。
ああ――、ようやく私は――、死を選ぶことができた。
そうして、怪異の腕に吹き飛ばされる寸前、自身が穏やかに微笑んだことにも気付かぬままに宙を舞う。
ヒビの入ったレンズ越しに見える夏の夜空が綺麗で、綺麗で―――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
しくじった。
まだ自分の意識があると自覚したとき、私はそう思った。
絶望する。絶望に打ちひしがれる。あれだけのことをやっておいて、誰が加害者で誰が被害者なのかを理解しておいて、覚悟を決めておいて、私はまた失敗したのだ。
涙が溢れた。それと同時に頭から血液が零れる。
視界に映るのは星空ではなく、赤髪の男の子が必死になって私へと叫びかける姿だ。
怪異の腕力は人の域を優に超えていた。当たれば私が死ぬのは確実だった。でも、私はまだ生きている。その理由に気付いて吐き気を催した。
手加減したのだ。怪異に手加減をさせた。痛いのが嫌で、苦しいのが嫌で、怖いのが嫌で、死ぬのが嫌で、手加減をさせたのだ。
許せなかった。自分自身が憎くて仕方がなかった。自分で何も決められなかった人生。何もやり遂げられなかった人生。最後の最後で覚悟を決めた加藤 愛海を終わらせるという選択すらも、成し遂げることができなかった。
赤髪の男の子が泣いている。司君が泣いている。もうこれ以上、誰も傷付けたくなくて、痛い思いも苦しい思いも、そして悲しい思いもさせたくなくて死を選んだのに、結果は中途半端に終わって、今も彼を悲しませている。
最悪だ。最低だ。またしくじった。結局私は、どこまでいっても自分可愛さに生きている。
なぜ私は生まれてきてしまったのでしょうか。
少なくとも、こんな風にたくさんの迷惑を掛けて、自分可愛さに生きるためでないことは確かだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ごめんね、司君、ごめんねぇ…」
私は謝罪する。涙はポロポロと流れて、どの面下げて泣いているのだと自分を嫌悪する。
「加藤!よかった!そのまま!そのままの体勢でいろ!今手当てしてやるから!」
そう言って彼は持っていたハンカチを私の頭に添えた。すぐにハンカチは赤く染まり、隙間から血が滴り落ちる。
「司君、私ね」
「今は喋らなくていい!絶対に救ってやるから!元気になったらいくらでも話そう!」
彼は着ていた白シャツを脱ぐ。間にハンカチを挟んで私の頭に巻いた。流れる血が一時的に止まる。
「ずっと、死にたいと思ってたの」
自分が重症なのかどうかわからない。ただ言葉ははっきりと発せられる。
「…でも、死ぬのは怖くて、痛いのも苦しいのも嫌で…最後まで、できなかった、、、」
「っ、そんなのっ!できなくていいんだよ!死ななくていいんだよ!生きよう!生きてれば良いこと…」
そう言って彼は言葉に詰まる。死ななくていい、君ならそう言ってくれるのだろうと思っていた。そのうえで生きていれば良いことがあるなんて、軽率な言葉を言い切れないところがとても素敵だと思う。
「と、とにかくっ、今は生きよう!未来のことは明日にでも一緒に考えよう!だから、今日はもう、、休んで、、」
彼の涙が私の頬に落ちた。その雫が私の頬から零れていく。温かい。
「ねえ、司君、なぜ私は、、、生まれてきてしまったのでしょうか」
急にこんなこと聞いても彼を困らせてしまうだけなのに、気付いたらそう言っていた。
「…わからないよ。わからないっ。でもっ、こうやってっ」
司君が私の手を握る。彼の手が温かくて、私の手が冷たいのだと気付いた。
「こうやって一緒に手を繋げるから、一緒に考えていけるよ!」
優しい声音が、私の中の何かを溶かす。
「一緒に探していける、見つけていける…。いつか二人で、七瀬とかも一緒になって皆で、その答えに気付けるはずだからっ!」
頭はぼーっとするのに、彼の声は鮮明に響いた。私の世界に、鮮明に響いた。
「もう少しだけ、、、明日まででもいいから、、、生きてみないか?」
ボロボロと涙が零れる。それは私の目からではなく、彼の綺麗でカッコいい赤色の瞳からだった。もう少しだけ、、あと少しだけ、、
「…能力、解除」
私はそう呟いた。少し離れた位置にいたドレス姿の女が消えていく。塵のように…ではなく、七色の光る粒子となって消えていった。
力を解除した。否、力が失われたのだ。
当然だ。記憶を消してもらうために授かった寵愛だ。もう、今の私には、記憶を消すなんて卑怯な方法を選択できない。
それに、、、
もう少し、明日までは生きてみようと思えたから。
七不思議の寵愛は、東浜高校に七色の粒子を漂わせて、いつの間にか見えなくなる虹のように消失した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「加藤!加藤!」
目を閉じた彼女の名前を叫ぶ。焦ったまま呼吸の有無と脈を確認し、眠っただけだと気付く。
背後では七色の光の粒子が微かに夜を照らし、すぐに消えていく。
頭の血は完全に止まっていない。急いで救急車を呼ぼうとスマホを取り出すが、ポケットの中で木っ端微塵に砕けていることがわかった。何度もグランドピアノに潰されたので、そのときに壊れたのだろう。
助けを呼ぶことも、この場を離れることもできない俺は、加藤の頭に当てた布に手を添え、なんとか流血を止めようとする。一時的に血が止まるが、しばらくして再び当てがった布を赤色にじわじわと浸食し始める。その光景に焦りと恐怖を覚えたとき、俺の耳に声が響いた。
「柏木弟!どけ!」
その聞き取りやすい声は鳳凰先輩のものだ。走ってくる彼女は加藤の傍まで駆け寄り、状態を確認する。俺は邪魔にならない位置へと下がって声を掛けた。
「俺にできることは?」
「ない。今、必要な物は千秋が取りに行っている」
そう短い返事をされた後、すぐに奈良先輩がバッグを抱えて走ってくる。
「保健室にあったもの、片っ端から持ってきたぞ!本当に適当に持って来ただけだから、もう一往復して必要そうなものを取ってくる!」
バッグを鳳凰先輩の傍に置き、再び奈良先輩は校舎のほうに戻っていく。バッグの中の消毒液やら包帯やらを一瞬で把握した鳳凰先輩は、迷いない手つきで加藤の治療を始める。
今この場で自分にできることはないと判断した俺は、奈良先輩の後を追って保健室へと向かう。憤怒の寵愛を発動し、奈良先輩に追いついた。
「柏木 司、先に行ってろ。俺は助けを…救急車を呼ぶ」
そう言って奈良先輩は脇道に逸れてスマホを取り出した。俺はその指示に従い保健室へと向かう。保健室へと辿り着くと奈良先輩が散らかしたであろう痕跡があり、俺はさらに散らかすように棚の中を漁り、使えそうなものを探す。
「鳳凰先輩!加藤は!?」
手ごろな大きさのバッグが見つからず、両腕一杯に使えそうな物を抱えて俺は加藤の下へと戻る。
「血は止めた。死にはせん。あとは急いで病院へと連れていくだけだ」
奈良先輩が最初に持ってきたバッグの中身だけで応急処置は済んだらしく、両腕に抱えた保健室の備品は使われずに終わる。
「寵愛現象と言っていたな?アレは解決したのか?」
鳳凰先輩が加藤の体を隅々まで観察しながら質問する。
「わからない…。だけど音楽室の怪異は消えた」
「消え方はどうだった?私たちは体育館の無数に増えたバスケットボールが七色の粒子となって消えたのを見た」
「同じだ。倒した後の塵になるような消え方じゃなかった」
「安心はできんが、一つの判断材料だな。ここへ来る途中、安武にもあった。奴もグラウンドの怪異が同じ消え方をしたと言っていた」
俺と別れた後、鳳凰先輩らは体育館へと向かい、無数に増えたバスケットボールの消失を確認したらしい。その後、安武と合流して話したようだ。
「七瀬は!?他の皆は無事か?」
体育館には七瀬と教師が向かったとも聞いていた。
「体育館にいた二人は無事だ。怯えていただけで外傷もない。生徒会の者たちは確認できていないが、そちらには安武を向かわせた」
そう言ったタイミングでブーッとスマホのバイブ音が鳴った。暗いこの場所で鳳凰のスカートの中が光っている。スマホを取り出した彼女は言った。
「生徒会は全員無事、七瀬たちとも下駄箱で合流済み、だそうだ」
安武からのメッセージだろう。俺はその内容に一安心する。
「あとは委員長と伊吹だが…」
二人の姿は校舎内を駆け回っているときも見当たらなかった。あとヒューマも無事を確認できていないが、彼とはここに来る前に会っているから、その後に何もなければ無事だろう。
「校舎内を探しているときに見つからんかったのか?」
「ああ、どこにもいなかった。もしかすると」
「エンドレス階段、だろうな」
俺が予想した内容を鳳凰先輩が口にした。
「であれば二人の無事が確認できれば、発生した七不思議は一旦解決したと判断してよかろう」
そう言って鳳凰先輩は電話を掛ける。電話の相手はすぐに応答した。
「日和、無事か?……それはよかった。今までどこにいた?…………寵愛現象のことは知っている。いいから早く話せ。…………そうか。安武たちが下駄箱の辺りにいるからすぐに向かえ。……説明は後だ」
そう言ってピッと一方的に電話を切る。委員長たちの声は聞こえなかったが、電話の内容的に無事ではあるようだ。
「予想通り階段に囚われていた。今は抜け出せたらしい。これで寵愛現象は一旦解決したと見ていいだろう」
そう言いながら彼女は再び加藤のほうに視線を戻す。
「面白いものを見せてくれたな。褒めて遣わす、加藤 ラブマリン」
鳳凰 明日香という女は、これだけの大事件をそんな言葉で片付けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ニ十分ほど経っただろうか。治療が必要な加藤を迎えに車が校内に入ってきた。
「なっ」
そう声を上げたのは俺だ。その車を見てどうしても警戒の色を強めてしまう。それは救急車ではなかった。見覚えのある車は寵愛現象管理協会が所有する車だ。
大きいその車には救急車と同等の設備が備わっていることは知っている。一年以上前、藪岡組を壊滅させた安武が乗せられた車だった。運転席から見知った人物が出てくる。
「萩原さん!?なんでここに?」
萩原さんというのは寵愛現象管理協会の協会員だ。癖の強い人間が多い協会員の中で数少ない常識人である。地味な顔つきであるが顔のパーツは整っている。特徴的なのは右頬から鼻筋を通過し左頬にまで刻まれた大きな傷跡だ。どういった経緯でついた傷なのかは知らない。黒いスーツに身を包んだ彼女はその黒髪を揺らしながらこちらへと近づいてくる。
「司君、相変わらず無茶してるみたいだね。酷い格好」
彼女の瞳に映るのがボロボロの男子高生だ。傷は既に治っているため、ボロボロなのはその服装である。白シャツを脱いだためインナーとして着ていたタンクトップ一枚の姿なのだが、所々ダメージが入っており、胸の辺りは大きく破けている。何より白のタンクトップまで自身の血液で赤黒く染まっていた。そのうえ怪異に四肢をバラバラにされたせいで、ズボンの右足が膝の辺りから破けている。左足は足首をもがれただけなので、裾の辺りが破けるだけで済んだ。
「答えてください。どうしてここに?」
「そんなに警戒しなくて大丈夫。寵愛現象が発生したことは報告を受けている。君たちにも色々と用はあるけど、優先事項はそこの彼女を救うこと」
萩原さんが指差した先には今も目覚めず眠りにつく加藤の姿があった。
「寵愛現象の報告って…いったい誰が?」
「それは企業秘密。ま、司君には言ってもいいんだけど、翼さんに怒られたくないからね」
その回答でまた姉が絡んでいるのかと思いウンザリする。
「柏木弟、この者たちは信用できるのか?」
協会員と加藤の間に立つ形で鳳凰先輩が割り込んだ。
「一応、まあ、とりあえず加藤のことは治療してくれるはずです。その後、加藤をどうする気かまではわかりませんが」
「えー、そんなに警戒しないでよ。安武君を運んであげたときも無事に帰したじゃん」
萩原さんはめんどくさそうな表情を浮かべながらそう言った。確かに彼女なら比較的に信頼できる。というか、俺の知っている協会員の中で信頼できる相手が消去法で彼女しかいない。
「大丈夫、今回はドラゴンのときと違って危険性そのものが最高クラスじゃないから。協会の上の人たちも首を突っ込んでこないと思う。それなりに穏便に収められると思うよ」
彼女の言葉に嘘は感じられない。どちらにせよ加藤は治療が必要な状態だ。寵愛現象が起こったとバレてしまった以上は協会員の介入は避けられない。
「…わかりました。加藤を頼みます」
俺のその言葉を待っていたわけではないだろうが、車から二人の男が出てくる。
一人は救急隊の格好をした男だ。ヘルメットをしており、隊服で身を包んでいるため特徴を見つけられない。
もう一人は二メートル程の巨体に縫い傷だらけの顔の男。年齢は四十代くらいに見え、顔立ちは西洋人のように見受けられる。色素の薄いブロンドの髪をきっちりとセットしている。
男二人が加藤を丁寧に持ち上げ、担架に乗せる。そしてあっという間に車の中へと連れ込んだ。
「さて、君たち三人にも来てもらうよ」
萩原さんがそう声を掛けたのは俺と鳳凰先輩、そして先程から言葉を発さず状況を観察していた奈良先輩だ。
「それは構わんが、ラブマリンを先に連れて行け。私は後始末をせねばならん」
そう言ったのは鳳凰先輩だ。彼女のその発言に萩原さんも疑問符を浮かべる。
「いったい何を…?」
「まあ見ておけ。とりあえず放送室に向かう」
そう言って既に走り出した鳳凰先輩の後を萩原さんは慌てて追う。
「ちょ、ちょっと待って!ああ、もう!二人はとりあえずその子をセンターに連れて行って」
優雅に走り出した鳳凰先輩を追いかけながら、萩原さんは協会員と思われる男二人に指示を出した。そのまますぐに車は走り出した。同行しそびれたと後悔しながら、今は鳳凰先輩を追うことにする。
「鳳凰先輩はいったい何を?」
横にいた奈良先輩にそう尋ねるが、
「さあな、まあ、鳳凰ならなんとかするだろ」
と雑な回答が返ってくるだけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『皆の者、よく聞け!』
二十二時を回った学校に鳴り響いたのはそんな声だ。その声の主が誰なのか、この学校の生徒でわからない者はいない。それは生徒だけに留まらず、この場にいた先生が「鳳凰さん?」と呟いた。
この先生は生徒と呼び捨てするのだが、鳳凰会長に対してだけはさん付けだ。それが鳳凰財閥のご令嬢だからなのか、鳳凰会長の威風堂々さに当てられているからなのかはわからない。
俺たちがいる場所は学校の下駄箱の辺りだ。俺は結構な長時間グラウンドから湧いて出る怪異と戦闘していたが、生徒会の面々は変に移動したりせず、下駄箱の周辺に待機してくれていた。鳳凰会長のその場に待機という命令を守ったのだろう。
七不思議が一つ、『グラウンドを徘徊する汚れまみれのおじさん』が七色の粒子となって消失したことで、加藤さんが寵愛現象を解除したことが証明される。加藤さんを探すため怪異をいなしながら敷地内の回りを探索していた俺はそれなりに離れた位置まで来ていた。
怪異が消失したことでまたグラウンドに湧いたかもしれないと思い、急いで下駄箱のほうに向かう。その途中で鳳凰会長たちと合流し、必要最低限の会話でそれぞれの役割を決定する。
俺は体育館の方角から鳳凰会長を追うようにして走る七瀬と先生の姿を確認し、その二人を連れて下駄箱のほうへと向かう。鳳凰会長は加藤さんがいるであろう場所に向かうと言い、奈良先輩を引き連れて走り出した。
先程まで本校舎横の広場辺りで轟音と叫び声が響いていたのを俺の耳は拾っていた。おそらくそこに加藤さんや司もいるのだろうと予想する。
そうして下駄箱の周辺に全員を集合させ、鳳凰会長に情報共有のメッセージを送信する。その後しばらくして速川と伊吹もこちらに合流した。
鳳凰先輩から『その場で待機』というメッセージが届く。俺はまだ不審者がどこかに隠れてるかもしれないと言って皆を場に留まらせる。電波は既に届くようになったため、誰かが警察に通報するかと心配したが、生徒会の面々は先程まで何度も通報しようと試みて失敗したらしく、すっかり電波がつながらないままだと思い込んでいる。
俺は皆が冷静になる前に「警察への通報は済ませました。十分くらいで到着するはずなので皆でここに固まっておきましょう」と嘘をつく。警察の上層部は寵愛現象管理協会とつながっているので、警察を動かしたとしても今回起きたことを揉み消すことはできるのだろうが、余計な騒ぎを立てないに越したことはない。
そうして幾ばくかの時間が過ぎた後、校内放送が流れ始めた。
『皆の者、よく聞け!先程、グラウンドや体育館で異常が発生し、何事かと考えていることだろう!』
よく通るその声は、俺たちしかいない校内によく響いた。
『恐怖しただろうか?恐怖を楽しんでもらえただろうか?』
「は?」
先生が何かを察したように声を上げた。
『今回貴様らは祭りの成功に大きく貢献した!その褒美として鳳凰財閥の力を使い、貴様らにも肝試しを体験させてやったのだ!』
生徒会の面々は困惑の表情を浮かべた後、これが本当の事件ではないことに安心した表情になる。
『少し時間を過ぎてしまったが、今日はこれで解散だ!改めて言おう!祭りの成功に貢献したこと、大儀である』
生徒会と違って七瀬と先生は別の意味で安心した様子だ。本物の怪奇現象と思った体育館で跳ね続けるバスケットボールがドッキリの類と判明したのである。
『また、予定していた片付けだが鳳凰財閥の者たちが行うため、貴様らは帰ってゆっくりと休み、明日からの夏休みに備えろ!以上!』
そう言って放送の音声がブツッと切れる。やや強引であるが、これで奇妙な事象の説明はついたというわけだ。細かい粗は寵愛現象管理協会がどうにかしてくれるだろう。
俺は警察に通報したという先程ついた嘘を撤回すべく、「実は俺も仕掛け人で」と嘘に嘘を重ねてこの場にいる面々に説明する。
その後しばらくして、鳳凰財閥が用意したという設定の送迎用の車が何台かやってくる。もちろん寵愛現象管理協会の車だ。彼らは生徒たちを家に送り届けた後、寵愛現象によって被害の出た建物の修復を行うのだろう。鳳凰会長の嘘を本物にしようとついでに肝試しの片付けもやってくれそうだ。
鳳凰財閥の人間に扮した協会員から先生への説明と謝罪も行われ、その間に各生徒たちは送迎されていく。俺も送迎用の車に乗せられるが、向かう先はもちろん自宅ではない。協会側が管理する施設だ。
施設に到着した俺は協会員から事情聴取を受け、確かな事実の部分のみ説明する。その後に聞いてみれば、センターと呼ばれるこの施設に連れてこられたのは俺以外に六人。司、速川、伊吹、鳳凰会長、奈良先輩、そして加藤さんだ。
司や速川、伊吹は俺と同様に事情聴取と守秘義務の説明がされるだけだろう。もともと寵愛現象の存在を知っていた者たちだ。
協会側からして厄介なのは鳳凰会長と奈良先輩に寵愛現象の存在を知られてことだだろう。二人はこれから長々とした説明を聞いた後、守秘義務契約を結ばされることになるはずだ。夏休みの数日間がさっそく潰されることには同情する。
そして何より心配なのは加藤さんだ。彼女は大怪我を負ったらしく、治療室へと運ばれていったらしい。俺の事情聴取が終わる頃には彼女は目を覚ましたらしく、命に別状もないとのことだが、これから事情聴取も執り行われていくことだろう。
伊吹の龍の寵愛のときほど危険性が高くない点、結果的に本人以外は掠り傷以上の怪我を負っていない点、既に寵愛現象は解除された点から非情な判断は下されないと予想する。しかし、その予想がどこまで的中するかは実際に協会の判決が下されないとわからない。
何よりまだ加藤さんと誰もちゃんと話ができていない。心配の気持ちを胸に俺が彼女と話をしたいところではあるが、俺よりも先に話をすべき適任者がいる。
いつもいつも彼にばかり任せる結果となり、心苦しさを覚える。
俺は強いし、頼りになる。自分で言うのは恥ずかしい自己評価だが、正しい自己評価でもある。しかし、救いを必要とする人の手を掴めるのはいつだって柏木 司だった。
正義の味方であり、正義そのものではない安武 晴間は、己にとっての正義である柏木 司に思いを託した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜は終わり、朝が来る。病室のようなベットは落ち着かず、あまりよく眠れなかった。下着以外の来ている服が全部ダメになってしまった俺は、協会側が用意した患者用の服に袖を通す。
本日の空は晴天で、強い光が世界を照らす。照らされた分だけ熱せられて、夏の暑さに拍車がかかる。
朝起きて、昨日の続きの事情聴取が行われた。話せることは昨日話しておいたので、同じことを伝えるという無駄な時間だった。そうして昨日に二時間、今日に二時間の合計四時間という事情聴取が終わり、疲れ果てたところに見知った顔が現れた。
伊吹と委員長、それに安武だ。三人も同様の事情聴取をされたらしく、表情には疲れが浮かんでいた。いや、安武だけは平気そうだった。いったい何なんだこいつは。
女子二人から昨日のことを聞く。エンドレス階段に閉じ込められ、あれやこれやと試行錯誤したが抜け出せず、イライラが爆発した伊吹が叫んだ瞬間、七色の粒子に視界が埋め尽くされ、元の終わりのある階段に戻ったらしい。
当初は伊吹の叫びに特別な力があるとぬか喜びしていたらしいが、協会員から加藤の寵愛現象が解かれただけだと説明されたとのこと。なぜか伊吹は残念そうな顔をしていた。
ようやく解放された三人は協会員の運転する車で家まで帰る。親御さんには協会お得意の事実改変があるので、上手いこと説明されているはずだ。
俺も帰宅許可が出ていたがそれを断る。俺にはまだやらなければならないことが残っている。センター内を歩いていると萩原さんに遭遇する。その目元には隈ができており、寝ていないことが判明する。
今は鳳凰先輩を担当し、寵愛現象の説明や機密事項の説明を行っているとのことだが、「あの子何なの?全然話を聞いてくれない」と愚痴を零していた。鳳凰先輩を相手に長時間の事情聴取と重要事項の説明を行うなんて心底同情する。
ついでに奈良先輩のことも聞いたが、彼もまた事情聴取を受けている最中とのこと。仕方がなかったとはいえ、超愛現象と無縁の一般人二名を巻き込んでしまったことは申し訳なく思う。
窓の外は晴天で、穏やかな風が建物内に吹き込んだ。けれど、俺の心は穏やかに凪いではいない。
とある一室に手を掛けて、筋肉痛の痛みを限界値まで上げたような苦痛に耐えながら、ゆっくりと扉を開いた。
その瞬間に部屋の中から風が舞い込んできて、夏の生温い空気の感覚に僅かな不快感を覚える。赤色の長髪がなびいて俺の眉より下が晒される。そこではっきりと瞳に映るのはベットから上体を起こした女の子だ。
「おはよう、加藤」
俺は彼女に声を掛ける。空気を波のように振動させ彼女の鼓膜を叩いたことで、包帯を巻いた頭がこちらに向いた。
トレードマークのメガネは付けていない。目の半分を隠すほど長かった前髪は治療の邪魔になったからか眉より上の位置で綺麗に切り揃えられている。
彼女と目が合う。長く重たい前髪も、分厚いレンズのメガネもなくなったことで、初めて彼女の目をちゃんと見ることができた。縁が大きく度も強いメガネを外したからか、思っていたよりは彼女の目は小さくなかったのだなと感想を抱いた。
「おはよう、司君」
落ち着いているようにも、緊張しているようにも聞こえる声が返ってくる。彼女の声を聞いて心底安心する。まだ話せる。取り返しがつく。
「話をしよう」
俺はベットの傍の椅子に腰掛け、彼女にそう告げた。
「これまでの話と、これからの話を」
夏風が二人を通り過ぎていった。




