第二章16 黒幕
手応えがない。繰り出した正拳突きが語るのはそんな感想だった。
目の前の不衛生な男の周りを飛ぶ虫の羽音が気分を害する。その場に倒れ込んだ男が立ち上がってくることはない。
俺はよく観察をした後、男の首元へと手を伸ばす。脈があるのか、体温はどのくらいかを確認する。ブツブツのできものだらけの肌は所々爛れていて、凄まじい腐臭を放つ。その異様な外見と生気を感じられない雰囲気から人間でないと確信しているが、ならばいったい何なのかと問われればよくわからない存在だ。
東浜高校の七不思議に含まれるグラウンドを徘徊する汚れまみれのおじさんが具現化した存在、そういう認識でよいのか確信するために情報が欲しい。そうして腐っているとすら思わせる肌に指先が触れた瞬間、男の体は塵となって消失した。それに合わせて周りを飛んでいた虫たちも消失する。
「終わったのか…?」
戦闘が開始して僅か十秒、与えた攻撃は正拳突きの一発。あまりにあっけなく終わった決着に安武 晴間は疑問を抱いていた。
己の実力が高いことは自覚している。それにしても倒した中年の男は弱かった。その実力はそこらの成人男性と変わらないように思う。下駄箱の前で身を寄せ合って怯えている生徒会の人たちでも勝つことはできたようにすら思える。
とりあえず彼らの下へと戻ろう、そう思ったときだった。グラウンドの奥に人影が見えたのだ。それはのらりくらりと歩いている。普通に歩いているようで、どこか違和感を覚える。そんな気持ち悪さを感じる歩き方だった。
俺はその歩き方をどこかで見たことあるような気がした。しかし、それがどこなのか思い出せない。
グラウンドを徘徊する人影がこちらへと近付いたことで姿が鮮明に見えた。同じだ。先程倒した中年の男と全く同じ見た目だ。
男と目が合う。すると先程と同様に陸上選手の走行フォームでこちらへと急接近してくる。
違和感を覚えた。男はぐんぐんとこちらへ迫ってくる。違和感の正体がわかった。先程と比べて明らかにスピードが増している。それが違和感の正体だった。
男は猛スピードでこちらへと突き進んでくる。俺は突進してくる男に真正面から拳を放つ。顔面ど真ん中にクリーンヒットした拳は男を四メートルほど後方に吹き飛ばした。そしてまた、男は塵となって消える。
よく目を凝らしてグラウンドを見ていた。また男が現れるのでは、そう思って警戒する。男は現れない。短く瞬きをする。瞼は開かれ、再びグラウンドの光景が視界に映る。見慣れたグラウンド、そこに見慣れてきた中年の男が歩いていた。
どうやら何かしらの仕掛けがある。これが寵愛現象にせよ本物の怪異のせよ、その仕掛けを解く必要がある。
目が合った男は三度こちらへと走り出す。男が襲ってくる以上はここを離れることができない。ここを突破されれば生徒会の面々が襲われることになる。
先程よりさらに速くなった男に渾身の蹴りを叩き込む。そうして男はまた塵となって…いや、今度は塵と化さなかった。男は立ち上がる。
「うおー!」
そう雄叫びを上げてこちらへと拳を振り上げてきた。その雄叫びがどこにでもいるような中年男性の声色で酷い嫌悪感を覚えた。見た目が明らかに普通の人間ではないのに、黄色い数本の歯の隙間から漏れ出す声は人間そのものだった。
男から放たれる拳はあまりに単調な攻撃だった。易々と避ける。しかし、速い。そして、おそらく重い。
俺は目にも止まらぬ速さで男の顔面に拳をぶつける。固い感触がした。顔面を殴るのだから固いのは当然だが、その固さは人間の強度を優に超えていた。
「ブーッ!」
男が唾を吐く。俺はそれを躱す。とんでもない異臭が二人の空間に広がるが、気にすることなく回り込んだ背中から背骨を穿った。異常に固い骨だが、砕くことに成功する。倒れ込んだ男はまだ塵と化さない。しかし身動きももう取れない。
このまま縄にでも縛って拘束するかと思ったとき、男の体が人体の構造上ありえない曲がり方をして俺へと蹴りを放った。咄嗟のことで避け切れず、防御で構えた右肘に直撃する。
「ぐっ」
俺の口から悲痛の声が漏れる。おそらくヒビが入った。痛む右肘を曲げ伸ばししてまだ動くことを確認する。俺は筋肉も骨も強靭だ。人間とのタイマンで怪我することなどないに等しい。しかし、眼下で仰向けへと体勢を変えた男の蹴りは俺の骨にヒビを入れた。
確実に強くなっている。それに危機感を覚えながら、俺は踵を頭上に掲げ、勢いよく男の心臓の位置に振り下ろした。男は声にならない音を口から漏らし、また塵となって消えていく。
そしてまた、グラウンドに中年の男が現れる。目が合う。走ってくる。その速度は、もはや人間のものではなかった。獣だ。その猛スピードで成人男性一人分の質量が迫ってくる。
避けることはできた。しかし敢えてその選択をせず、俺は真正面から拳をぶつけた。速さと重さを最大限に活かした男の突進は破れ、後方へと吹き飛んでいく。林間学校で狼男と対峙したときぶりに放った全力の拳が痛んだ。
男は立ち上がる。俺は助走をつけて男に飛び蹴りをお見舞いする。そうして倒れ込んだ男に馬乗りになり、腐臭を放つ顔面へと殴打を重ねていく。
また男が塵になる。また男がグラウンドに現れる。また男と目が合う。また男が走ってくる。そしてまた男を塵にする。
中年の男はどんどん強くなる。肉体の強度が上がり、速さが増し、攻撃の重みが倍増する。それでも戦闘の技量だけは変わらなかった。
俺は襲い掛かる中年の男を倒し続ける。
中年の男が復活する仕掛けを解く方法はまだ思い当たらない。
下駄箱のほうに隠れている生徒会の皆を守り通さねばならない。
俺は襲い掛かってくる中年の男を殺し続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「手応えがないな」
塵になっていく化け物を見ながら鳳凰 明日香はそう呟いた。
初段の蹴りでプールから出現した化け物は大きくよろめき機動力を失った。そこをすかさず鳳凰の蹴りが連打となって化け物の頭、胴、脚に直撃する。最後は回し蹴りを化け物の顎にクリティカルヒットさせ、その肉体は塵のように散っていく。
「こいつはいったい何だったんだろうな」
化け物が倒れていた場所に目をやる。塵も消え去り、そこにはもう何もない。まるで悪い夢でも見ていた気分だ。
「さあな。知っている者も世界のどこかにはいるだろう」
淡々とした口調で鳳凰は呟いた。その表情は不機嫌なものとなっている。
「お前まさか、化け物があっさり消えたから残念がってるんじゃねえだろうな」
「ほう、まさかお前に思考を読まれる日が来るとはな。一生の恥として今日の間だけ胸に刻んでやろう」
「一生の恥なら一生胸に刻みやがれ。というか、本当に残念がってんじゃねえよ」
未知の生物に攻撃を仕掛けられ、何とか助かったのだから本来は泣いて喜ぶ場面だ。彼女は人としての感覚が狂っている。
「なんだその目は。私に対して無礼な評価を下したと見える」
そう言って彼女は俺に接近し、白シャツの襟と左ひじを掴む。掴まれたくなかったが、彼女の動作が鮮やか過ぎて警戒が遅れてしまった。
「あ、ちょっと待っ」
気付いたときにはもう遅い。俺の体は百八十度回転し、逆さまになった世界で星空が見えた。それが水面に映った星空なのか天に広がる星空なのか判別がつかぬまま直方体の巨大な水槽に落とされる。その瞬間だった。
「ぶへっ!」
水に落ちるならと受け身を怠った俺の体は固いプールサイドの地面に落ちいてた。何が起きたのかと言えば、水面に触れる直前で俺の落ちる軌道が変えられたのだ。
「うぅ、痛てぇ。まだプールの中に落とされるほうがマシだったんだけど!?」
俺の落ちる軌道を変えた鳳凰に苦情を入れる。いくら俺が頑丈だからといっても固い地面に投げ飛ばすのは悪魔の所業だ。
「早く立て、次が来たぞ」
鳳凰の個性的な美声が耳に届く。彼女を見上げれば褐色肌の顔に笑みができて、綺麗な翠色の瞳がプールの中を見ていた。俺の視線は彼女の顔から肩に届かない銀髪を通過しプールのほうに戻る。
べちゃり。
先程も聞いた音がする。音のほうから緑色の腕のような形が這い出てくる。
「俺、この学校退学しようかな」
少なくとももうプールの授業は受けたくない。
「何を言う。こんなに面白い学校生活が他にあるか」
上機嫌となった頭のイカれた彼女に呆れつつ、すぐさま立ち上がり戦闘態勢を取る。そして、俺は後方に吹っ飛びプールエリアを囲ったフェンスに強く叩きつけられる。
「っが、ッ、痛ぇ」
悲痛の表情を浮かべながら、何が起きたのかを振り返る。単純だ。猛スピードで突っ込んできた化け物に吹き飛ばされたのだ。
化け物が俺に追撃を試みる。白く濁った化け物の瞳は視覚が機能しているとは思えなかった。脳内に流れ出す青春の日々。鳳凰に投げ飛ばされ、鳳凰にこき使われ、鳳凰に罵倒される。おかしいな、碌な思い出がない。
そんな走馬灯を見たせいか化け物の後ろに鳳凰の幻覚が見える。
いや、まあ、幻覚じゃない。正真正銘、天上天下唯我独尊の鳳凰 明日香様だ。俺に襲い掛かる化け物の頭に向かって、形の良い脚が美しい軌道を描いて振り下ろされる。そんな光景が見えていたから俺も防御の姿勢ではなく攻撃の構えを取っていた。
これで倒すことができればいいなと祈りながら右腕で思いっきりパンチを繰り出した。異常なまでにパンパンに浮腫んでいる緑色の胴体に己の拳がめり込んで気色悪い。
倒れ込んだ化け物を見下ろしながら様子を窺う。すると先程と同じように塵となって消失していった。
「助かったぜ鳳凰。ちなみにこれで終わりだと思う?」
「戯言を」
彼女はフッと笑って再びプールの中に視線をやる。俺も合わせて視線を移したが、目の前の光景にウンザリする。
べちゃり。
「逃げるって選択肢は?」
「戦略的撤退は肯定する。だが今は情報を集めるときだ」
「えー」
三度化け物と対峙することが決定し、不満の声を上げるが聞き入れてもらえるとは思えないので覚悟を決める。プールに住まう水死体の化け物はさらに速度を増してこちらへと迫ってきた。なんでさっきから俺を先に狙うんだよ。まあ、鳳凰が狙われたら流石に男として守りはするんだけどさ。
そんな悪態を心の中で唱えていると、隣に立つ彼女の美声が脳を揺らした。忌々しいことにどんな状況であっても彼女の言葉は耳に届くのだ。
「頼りにしているぞ、千秋」
俺以外なら胸がときめくであろうセリフを聞きながら、ウンザリとした表情を化け物に向ける。
「だから肝試し大会なんてやりたくなかったんだ…」
三週間前、生徒会の中で自分だけが肝試し大会の開催を拒否していたわけだが、そのときの判断は正しかったのだと確信する。今度はもっと強く自分の意見を通そう。
そして、俺の眼前まで化け物の腕が迫る―――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
激しく息切れを起こす。服は血塗れ。自分の血で肌も部分的に赤く染まっている。おまけに髪まで赤いのだから、我ながら赤という色にウンザリしてきた。
復活した白いドレスに身を包む女の怪異を倒すことに成功する。倒した化け物にもたれかかるようにして座り込んでいた俺は、それが塵と化すことで背もたれを失い僅かに仰け反る。
それはまさしく死闘だった。一度目の討伐のときは常人なら命を落とす致命傷を五回くらい受けた。それでも五回で済んだのだ。
しかし、復活した白いドレスの女は腕力もスピードも増し、合計でニ十回以上は致命傷を受けることになった。傷は癒えたが、精神的な消耗は激しい。それに憤怒の寵愛の反動で傷一つない体には凄まじい倦怠感が伴っている。
結局はまた音楽室に誘い込み、ありとあらゆるパターンで攻防を繰り返し、なんとか撃破することができた。よろめきながら息を整え、音楽室の扉に体重を預ける。確認したくないと思いながらも、そういうわけにもいかないので三度長い廊下まで出てきて奥のほうに目を凝らす。
案の定、そこには白いドレスに女が立っており、先程よりもさらに速いスピードで俺までの距離を詰めてきた。動きは速くなれど、攻撃のパターンは単調だ。殴打かグランドピアノの投擲か、ピアノの演奏によって起こるポルターガイストのような現象の三パターンだ。
これが安武であれば攻撃パターンが同じなら速かろうが技量で対応できる、なんて暴論を掲げるのだろう。しかし、俺に戦闘の技量などはない。憤怒の寵愛がなければそこらのチンピラ一人にも負ける可能性が高い。つまりは憤怒の寵愛による身体強化と超再生に頼ったゴリ押ししかできないのだ。
にも拘わらず相手は絶えず復活し、復活のたびに強くなる。ある意味で俺の天敵である。過去に寵愛現象管理協会の仕事を手伝わされ、狂暴化した天狗と対峙したことがある。そのときも三十回以上の致命傷を受けたが、超再生を駆使して天狗の体力を削り切り勝利をもぎ取った。
今回は敵の体力を削り切っても復活するのでその強みを活かせない。
白いドレスの女はその長身を揺らしながら、奇妙な走り方でこちらへと向かってくる。その走り方に既視感を覚えながら、俺も爆発的に加速してドレスの女のほうに向かう。
奴がグランドピアノの投擲を始める前にケリをつける。それが俺の特に練られていない作戦だった。単調で大振りな殴打を躱し、しゃがみ込んだ俺は曲げた膝を伸ばす勢いに任せて斜め上方向へと跳ね上がる。その動きに合わせて繰り出す右ストレートは女の体を吹き飛ばした。
「ハッ、むりむりむりむり」
俺はそう呟きながら、もはや半笑いを浮かべることしかできない。先程までは同じ威力の攻撃が命中した場合、目の前の化け物は悲痛の叫び声を轟かせていた。だが今しがたの攻撃ではその悲痛を引き出せず、さらにはすぐにむくりと起き上がりこちらを睨む。ボサボサの長い黒髪の隙間から剥き出しの血走った目玉が覗き、俺の顔が青ざめていることが見なくてもわかった。
俺は急いで窓を開錠し、そこから外へと飛び出した。音楽室は三階に位置する。その高さからコンクリートに叩きつけられることになるが、痛みはあの化け物の攻撃を食らうのと大差ない。
いつしか鳳凰先輩と三階の理科室から二階の生徒会室に飛び降りたことを思い出す。あのときはもし地面に落ちてたらどうするつもりだったのかと委員長にこっぴどく怒られたが、まさかそれが現実になるとは思いもしなかった。
パリンッ。
窓ガラスが割れる音が聞こえた。俺は落下しながら上を見上げる。夏の星空が広がっており、夏の大三角形を探したくなるが今はそれどころではない。星空の遥か下、音楽室近くの窓から白いドレスの女が降ってくる。
せっかく割らないように開けた窓は、長身の女が潜り切れなかったため良い音を奏でて木っ端微塵となる。降ってくるガラスの破片と恐ろしい顔の女にビビりながらコンクリートに下手な着地を決める。
憤怒の寵愛で強化された肉体は三階の高さから落ちても致命傷にはならず、傷の治りも幾分か早い。
「柏木 司!?」
少し離れた位置から声がした。俺は驚き声の主に目を向ける。
「奈良先輩!?それに鳳凰先」
「よそ見するな!」
視界に映った見慣れた二人の顔に戸惑う最中、鳳凰先輩の鋭い声が俺の体を動かした。おかげで白いドレスの女が振り下ろした攻撃をギリギリで躱すことができた。
「なんで二人がここに!?」
白いドレスの女に目を向けながら、二人に質問する。
「それはこっちのセリフだ!三階から落ちてきたように見えたが大丈夫か!?」
「あ、それは大丈…っぶない!飛び降りたのは大丈夫だけど今のほうがヤバい!」
心配してくれた奈良先輩へと返事をしようとした瞬間、ドレスの女がグランドピアノを投擲する。幸いここは外で広い。音楽室よりもさらに回避はし易かった。
「千秋、アレは私が食い止める。お前は柏木弟に加勢しろ」
「…でも」
「いいから早くしろ」
鳳凰先輩と奈良先輩がそんなやり取りを交わす。俺の頭は二人の状況についていけてないが、その判断はマズい。
「ダメだ!俺に近づくな!死ぬぞ!」
俺は必死にそう呼び掛け奈良先輩がこちらへと向かうのを阻止する。ドレスの女はもはや天狗やグールといった化け物よりも強力な力を有している。一般人が相対すれば一瞬で殺されてしまう。
しかし、俺の判断は遅くドレスの女はこちらへと走ってくる奈良先輩に気付いた。奇怪な叫び声を上げながら奈良先輩の頭上に鉄拳を放つ。
「逃げろぉぉぉ!!!」
奈良先輩へと決して届かない手を伸ばしながら俺は叫ぶことしかできない。奈良先輩は勇敢にも攻撃の構えを取っているが、その未来は頭の骨が砕け命を落とすことにしかならない。
「ぁ…?」
俺は声を漏らす。それは奈良先輩が叩き潰されたからでも、ましてや実は奈良先輩が安武並みに強くてカウンターを決めたからでもない。止まったのだ。白いドレスの女が急に止まった。
「いったい何が…」
俺はその光景に足を止めてしまう。本来なら今のうちに全力の攻撃を叩き込み、二人を逃がすことに専念すべき場面だが、その異様な光景で思考が停止してしまった。
二メートルを超える白いドレスの女は静止していた。否、静止はしてない。ブルブルと体を震わせ、不気味な角度に体を捻り始める。まるでゲームのバグのような挙動を目にしながら、その行く末を瞳に映す。
奈良先輩への攻撃をやめた女は、ありえない方向に体が捻じれ始め、血走った剥き出しの目を虚空に向けながら、その体を塵へと変化させていった。塵となり、三度目の消失をする。
「助かったのか…」
俺がそう口にした途端、離れた距離にいる鳳凰先輩が声を上げた。
「千秋、無事ならこちらを対処するぞ」
珍しく、どころか初めてかもしれない彼女の真剣な声に何事かと目を向ければ、そこには緑色の化け物がいる。
「な、なんだあれ」
思わずそう口に出すが、鈍っていた思考がようやく回り始め、プールに住まう水死体の化け物という七不思議を思い出す。
化け物は鳳凰先輩に襲い掛かるが、華麗な身のこなしでそれを避け、適宜反撃を入れていく。しかしその反撃は有効打にならないのか化け物は怯むことなく攻撃を続ける。
俺は体に力を込め、人の域を超えた脚力で走り出す。鳳凰先輩のほうに駆け寄る奈良先輩をすぐに追い越し、その猛スピードのまま化け物を蹴り飛ばした。
白いドレスの女と同じように、化け物は塵と化して消失していく。
「二人はなんでここに?どういう状況で?」
俺は頭の中を整理しきれぬまま質問を投げかける。
「今の緑色の化け物から逃げてきたんだ」
「戦略的撤退だ」
「別に今、そこを訂正する必要ないから」
逃げという言葉が気に入らなかったのか、鳳凰先輩は戦略的撤退と言い換える。それに対して奈良先輩が口を挟んだ。
「それより今起きているこれは何だ?何か知っていそうだな。柏木弟」
鳳凰先輩はこの非常事態に冷静過ぎるほどの態度で俺に問い質す。今回の件は十中八九寵愛現象が絡んでいる。その内容は東浜高校の七不思議の具現化といったところか。しかし、寵愛現象は機密事項。一般人に教えるわけにはいかない。が、
「これはおそらく寵愛現象だ」
今は非常事態であり、二人は既に被害にあっている。この状況で機密を守る必要はないと判断した。
寵愛現象という聞き慣れない言葉に鳳凰先輩はキョトンとした首を傾げている。初めて見るその反応に内心可愛いなどという浅はかな感想を抱きつつも、そんな場合ではないと己を律する。奈良先輩のほうも知らない単語を出されて理解が追い付かないのか無表情だ。
「今は時間がない。だからざっくり説明するが、人の悩みを解決するために力を与えられるっていう不思議なことが起きる。それが寵愛現象だ」
「続けろ」
俺の急ごしらえの説明だけで理解したような表情を浮かべる鳳凰先輩は続きを促す。実際は流石の鳳凰先輩も理解が追い付かず困っているのだろうが、俺はとにかく説明を続けることにした。
「東浜高校の七不思議を具現化するという力が誰かに授けられている。…確証はないが」
そう、確証はない。まだ白いドレスの女と緑色の化け物を見ただけだ。それも本物の怪異か寵愛現象かの判別は明確にはついてない。
「先程の化け物はプールから這い出てきた。それに体育館のほうから大量のボールが跳ねる音を聞いた。七不思議が具現化しているという見立ては正しいだろう」
鳳凰先輩が淡々と状況を整理する。俺はその姿に驚きを隠せず、彼女に質問する。
「し、信じるんですか?」
「信じるも何も目にした。それに私はわからないことについては面白いほうを信じることにしている」
堂々とそういう彼女に、今更ながら只者ではないという感想を抱く。
「つまりは寵愛現象を起こしている者を見つけ出し、その者の悩みを解決すればいいのだな?」
「は、話が早すぎる。早すぎて鳳凰先輩が黒幕なんじゃないかと疑うレベル…」
「何を言う。私は黒幕になど興味はない。私は常に主役だ」
彼女の理解力に恐怖さえ覚えるが、いつもの鳳凰 明日香らしい言葉が返ってきて謎に安心する。
「ところで先程のドレスの女について、何か既視感を覚えることはあったか?」
鳳凰先輩が褐色肌に浮かぶ綺麗な翠色の双眼を向けて質問してきた。その内容に俺はゾッとする。彼女の言う通り、白いドレスの女の走り方には見覚えがあった。それが何かを薄っすらと自覚しながら、考えたくないという感情が思考を遮った。
「見覚えはあった。だけど、流石にそれだけで」
そう言いかける俺の言葉を遮り、彼女は言葉を続けた。
「私たちが相対していた化け物も見たことのある動きをしていた。プールから這い出てくるときの動きだ。あれは」
俺は耳を塞ぎたくなる。しかし、ここで耳を塞いでも何の解決にもならない。覚悟を決めなければならない。
「あれは加藤 ラブマリンがお化け役への演技指導で撮影した動画の動きと全く一緒のものだ」
東浜高校の七不思議を具現化する寵愛現象。勝手に名前を付けるとするならば、そのままの意味で『七不思議の寵愛』。
その『七不思議の寵愛』を授かったのは加藤 ラブマリンだった。
肝試し大会開催のきっかけであり、今日のために準備を頑張り、誰よりも勇気を振り絞ってこの三週間を過ごした女子生徒。
ダメダメな自分を変えたいと前を向き、変わろうと行動し、変わり始めていた彼女。
しかし、そんな彼女の悩みは人に危害を加え、恐怖へと陥れる寵愛現象へと化していた。




