第二章14 七不思議
今宵の夜はあちらこちらに幽霊が発生している。満ちた月の輝きが東浜高校の校舎を照らす。その月の明るさとは対照的に校舎内は暗い。窓から覗く月明りだけが頼りだ。
使えるフィールドは校舎全てと広いが、本日の参加者は約四百五十名だ。一組あたり四から八の人数で回ってもらう。平均して一組六人となるので、合計で約七十五組だ。
九十秒間隔で各組がスタートするので最初の組がスタートしてから最後の組がスタートするまでに二時間弱の時間を要する。その待ち時間をただじっと待たせるわけにもいかないので、ダンスやクイズ大会などのイベントをグラウンドで行えるように手配した。屋台も並んでいるから小さな地区のお祭り感覚だ。
イベントは終盤に差し掛かり、そろそろ最後の組がスタートを切ったところだ。参加者たちは校内に潜んだ十三人のお化け役から脅かされることになる。スタートからゴールまでの時間は約ニ十分といったところなので、九十秒に一回の感覚でお化けが襲い掛かるのだ。
体は疲弊している。本番ギリギリまで掛かった会場設営、前日の球技大会、そしてもうすぐ二時間が経とうとしているお化け役の仕事。九十秒間隔で狼男に扮した俺は「ウガァー!」と飛び出す。生徒たちから引き出せる悲鳴の数はそこそこといったところだ。
ビビりな生徒には怖がられて、ホラーに耐性があったり斜に構えている生徒には冷笑される。そんな塩梅だ。まあ、普通はお化け役なんてこんなものだろうから深く気にすることはない。むしろ冷笑される度に怒りでより良い狼男の演技ができている気がする。
それに俺はあくまでも前座である。真打の二人がラストスパートに掛けて押し寄せる。委員長と七瀬の本物のお化けより怖そうな演技は生徒たちに絶叫をプレゼントする。その証拠に離れた位置にも拘らず九十秒間隔で悲鳴が耳に届いてくる。
七不思議の一つ『事故で亡くなっちゃった虹川さん』を演じる委員長は、虹川さんの設定をかなり練っていた。
『うぅ…、痛い、痛い、いたい、いたい、イタイ』
『イタイ、イタイ、なんで私ばかり…』
『イタイ、イタイよ、お母さん…、パパ…、痛いよ』
『イタイ、イタイの、イタイよ、傷むから、次は…』
『アナタ』
委員長の演技を思い出す。それだけで鳥肌が立ったが、彼女の怖いところは『お母さん』と『パパ』で呼び分けているところだ。虹川さんの血のつながった親は父のほうで、母親は父の再婚相手という設定らしい。その母親に陰湿な嫌がらせを受け続け、学校ではお前の父親は不倫して今の母親と一緒になったのだと嘲笑されながらいじめられ、リストカットを繰り返すようになり、最後は喉を掻っ切って自殺する。
最後、死で救われる瞬間も痛みで発狂の悲鳴を上げ、それが怨念となって東浜高校の怪異となった。なぜ家庭ではなく東浜高校に出没するかといえば、父親がこの学校の教師で、自身をいじめていた奴らもこの学校の生徒たちだったから、ということらしい。
父親は嫌がらせを続ける母を見て見ぬふりをし、実の娘にいじめを続ける生徒たちのことも見て見ぬふりをする。虹川さんが最も恨んでいたのは、愛していたはずの父親だった。
まあ、全て委員長の創作なのだが。「そこまで設定を作り込むの怖えよ」と言ったところ、「私って役に入り込んで初めて真価を発揮するタイプだから、その人の辿ってきた道って重要なんだよねー」とのことだった。高校生主催の肝試しというイベントに対してプロ意識が高すぎる。
七不思議のもう一つ、『林間学校に現れる老婆の怪異』を演じるのは七瀬だ。いや、まあ、これについてはその怪異の正体自体が本当に七瀬なのだ。
今年の五月に開催された林間学校で七瀬が俺を脅かすためだけに老婆の怪異を演じた。そのときに一組の女子生徒たちにだけお化け役をしてみせたところ、実行委員も知らないお化けが出たということで騒ぎになり、東浜高校の七不思議としてカウントされたのだ。
ちなみに七不思議の内容が更新される以前は『トイレの花子さん』が七不思議に含まれていたらしい。オリジナリティの欠片もないため丁度良い老婆の怪異と入れ替えたのだろう。
以上の二人が猛威を振るうことで、ゴールに辿り着いた生徒たちは震えながら感想を言い合うことになる。楽しんでくれていそうで何よりだ。悲鳴の数からしても、俺を冷笑した生徒たちも真打二人には腰を抜かしていそうだ。
そんなこんなで肝試し大会は順調に進み、俺は次なる参加者に備える。頭の中でカウントしていた数に間違いがなければ次が七十組目のはずだ。
「ウガァー!」
練習した回数を含めれば今日だけで百回近く狼男として吠えていることになる。そろそろ喉へのダメージが心配だ。目の前の参加者たちは男子のグループだったが、冷笑系の人間はいないらしく良い悲鳴を上げてくれる。全員がこのくらいの悲鳴を上げてくれればやりがいがあるのだが、そう上手くもいかないのが人生らしい。
七十組目が逃げるように去っていく。次の七十一組目はリアクションが薄かった。その次は小さく悲鳴を上げてくれた生徒もいたが、他の者たちは無反応に近かった。その次は冷笑されて終わる。そこで培われた殺意を全開にして次のグループに名演をぶつけたところよく通る甲高い悲鳴を得ることができた。
そうして次が七十五組目。何組目まであるのか正確な数はわからないが。生徒数から考えると次が最後でもおかしくない。正直飽き始めていた狼男も最後かもしれないと思うと名残惜しい。気合を入れて次の生徒たちを待つが一向に姿を現さない。
九十秒間隔でやってきていた生徒は三分待っても現れず、そこからさらに二分が経ったが現れる気配もなかった。どうやら先程の七十四組目が最後のグループだったらしい。最後の名演に向けて入れ直していた気合が発揮される場面を失い、少しだけ悲しかった。
だが、これでようやく終わりだ。思い返せば無茶な要求が多く大変なイベントだったが、やり切れたことへの達成感は大きい。念のため最後の組が通過してから十分待ってみたが、俺より後のお化け役がいる方角から悲鳴が聞こえるだけで、俺の周りはしんと静まり返っている。隠れているポイントから離れ、長い廊下まで出てくるが人の姿はないため、全参加者が通過し終えたと確信し、狼男の衣装を脱いだ。
夜といっても蒸し暑く、用意していたペットボトルから天然水をがぶ飲みする。九十秒間隔で生徒が来るものだから、給水のタイミングは少なかった。三十分おきに一口飲んですぐに脅かす準備をするという動きを繰り返していたので、飲み足りていなかったのだ。
どこかの山から取ったと書かれている天然水が俺の胃に入っていく。渇いていた喉の奥が潤ったことで呼吸がしやすくなったように感じる。汗で額に張り付いた赤髪をかき上げ、タオルで雑に拭っていく。少しばかりスッキリできたが、早くシャワーを浴びたいという欲求はなくならない。
しかし、シャワーを浴びる前に本日最後の仕事が残っている。お片付けだ。流石に全域の片付けを今日中に終わらせるのは無理なので、明日の午前中から部活動や補修で使われる教室だけ先に片付ける手筈だ。
これから肝試し大会の閉会式が行われ、一般生徒たちはこのまま解散となる。その辺の指揮はお化け役以外のスタッフがやってくれるため、俺は閉会式に顔を出すこともなく、役目を終えた教室の片付けに取り掛かった。教室よりも廊下のほうが色々な小道具を設置しているのだが、それらを片付けるのは明日だ。
暗く長い廊下を歩き、肝試しの順路となっていた教室に入る。輝く月明りが窓辺から侵入し、教室内を控えめに照らす。残念ながらその程度の光では片付けに支障をきたすので照明のボタンをカチッと押した。
暗闇の校舎に明るい部屋が生成され、外から見ればかなり目立っていることだろう。ずっと暗い場所にいた俺の目はゆっくりと眩い世界に適応していく。
肝試しに参加していた生徒たちからは見えない位置に置いていた大きな袋を取り出す。片付けがスムーズに行えるように、小道具を多く設置した教室には袋を忍ばせていたのだ。俺は大きい物から順に袋へと詰め込んでいく。
『只今より、肝試し大会の閉会式を執り行います。もしまだ校舎内やグラウンドから離れた場所にいる生徒がいましたら、至急グラウンドまでお集まりください』
校内アナウンスが流れる。どうやら最後の組もゴールに辿り着いたらしい。教室に設置された時計に目をやれば、針は二十時三十四分を差している。一般生徒は二十時三十分までに帰らせるという教師陣との約束は守れなかったようだ。まあ、数分くらい誤差の範囲だろう。怒られても平謝りで乗り切ろう。
閉会式が終われば一般生徒には速やかに帰宅することになる。おそらく我らがスタッフよりも教師陣のほうが張り切って「早く帰れ」「くれぐれも寄り道しないように」「事故には気を付けろよ」などと言って一般生徒を追い出すはずだ。まあ、有象無象が談笑目的でいつまでも校内に残るとスタッフ的にも迷惑なので、さっさと追い出してくれる分には有難い。
大きな袋が全て埋まる。しかし教室内の小道具はまだ半分程残っていた。念のため二枚の袋を用意していてよかったと思いながら小道具を片していく。すると「ワーッ」という歓声が耳に届いた。歓声はグラウンドの方角からだ。状況はわからないが、鳳凰先輩あたりが場を盛り上げるようなことを言ったのであろう。続いてパチパチと拍手が聞こえてくる。
それなりに離れた俺の位置まで聞こえてくるので、生徒たちはそれなりにはしゃいでいるらしい。それが楽しんでもらえたことの証明ではあるが、その盛り上がりのせいで近隣住民から騒音の苦情が来ないか心配である。まあ、苦情が来ても教師陣が対応し、生徒会がお説教されるだけだから俺としては別に構わないのだが。
グラウンドから聞こえる生徒たちの賑やかな声は次第に聞こえなくなっていく。気付けば時計の針は二十時五十六分を差していた。教室内の片付けももうすぐ終わる。俺は最後に壁に貼られた赤い手形の紙を剥がして、小道具とは別のゴミ用の袋に放り込んでいく。
コツン、コツン、と足音が聞こえた。閉会式も終わり、一般生徒たちが帰ったことで他のスタッフが片付けを始めたのだろう。スタッフの誰かがこちらに向かってくる。
足音は教室の前まで辿り着き、俺はドアのほうを振り返る。
「この教室の片付けなら丁度終わったから、次は向こうの音楽室を」
背の高い人物が立っていた。その高さに目を見張る。二メートルは超えているだろうか。教室のドアの最上部より高いせいで顔が見えない。
「えっと」
事態が把握できないまま声を漏らす。こんなに背の高いスタッフは知らない。目の前の人物は黙ったままこちらに体を向けている。
嫌な予感がした。なぜそんな予感がしたのか、その理由は単純明快だった。
それは白いドレスに身を包んでいた。
『東浜高校七不思議三つ目』
『音楽室のピアノを奏でる白いドレスの女』
そんなくだらない学校の七不思議を思い出す。急に教室の電気が消えた。暗闇の中でドレスの白色がよく見えた。
「お前、いったい何者だ!」
俺は叫ぶ。白いドレスの女は屈みながら教室に入ってきた。暗闇で顔はよく見えないが、肌は青白く見える。ボサボサの長い黒髪の隙間から剥き出しの血走った目がこちらを覗いていた。
暗闇に少しだけ目が慣れたことでその顔がより認識できた。口がやけに大きく、薄く真っ赤な唇の下には小さく尖った歯が並んでいる。その本数があまりに多く、人間ではないことを確信できた。
『この夏、先輩はお化けに会う』
予言の寵愛を有する黒木 まこの言葉が脳裏を駆け巡った。
そして、白いドレスの怪異はその巨体を不気味で捻り、白く長く鋭い指を握り込んだ。
次の瞬間、その拳が俺の腹部を強く穿つ。壁に叩きつけられ、意識が飛ぶ寸前で留まった俺の視界はチカチカと火花が散っている。
あばら骨は砕け、押しつぶされた胃の中身が食道を逆流する。幸いというべきか昼食後は何も食べていない空腹状態の俺からは胃液しか零れなかった。
ほとんど反射で憤怒の寵愛を発動する。その再生力を発揮して折れたあばら骨を瞬時に癒した。すぐに反撃に出ようと対象を睨んだ瞬間、目の前に白く細く大きい拳が映し出された。その拳は俺の顔面に文字通りめり込む形で穿たれた。
顔が歪む。視界が歪む。思考が歪む。歪む歪む歪む歪む歪む歪む歪むゆがががががが―――。
おかしくなりかけた頭は憤怒の寵愛の恩恵で脳みそが修復し、正常な状態に戻った。崩れた顔面は整った目鼻立ちに戻り、三度白いドレスの女を視界に捉えた。
すぐ傍で不気味に笑い、ありえない本数の小さく鋭い歯を覗かせている。また殺すための攻撃が仕掛けられると察し、全身全霊で回避する。が、避け切れずに右足がぺしゃりと潰れてしまった。
その痛みに発狂させられる前に憤怒の寵愛をフル稼働し、機動力を取り戻す。
理解が追い付かないまま、状況を理解するために俺は廊下へと飛び出し、走り出す。憤怒の寵愛で学校の長い廊下も一瞬で行き止まりまで到達する。振り返ると白いドレスの女は不気味な走り方でこちらへと向かっている。その走り方には見覚えがある気がして―――。
「なっ!」
そう声を上げたのは女の怪異がどこから出したのかわからない黒く大きいグランドピアノを持ち上げていたからだ。そのピアノは勢いよく放たれ、柏木 司という人間の人体をべちゃりと潰した。
黒いグランドピアノの下から流れる赤い血を、窓辺から差し込まれる月夜の光が照らしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「何、今の音…」
下駄箱の周辺に集まった全員が音の方角を見る。肝試し大会は無事に終了し、一般生徒は全員が帰っていった。今校内に残っているのは生徒会役員九名とお助けクラブ三名にその協力者四名、そして教師が一名だ。
それらの人たちが肝試しのスタート地点に集まって、誰がどこから片付けるのかを打ち合わせしている最中、大きな物音がした。音の発生源は音楽室がある方角だ。
「何か大きな物を落としたのかな?」
私は推測の言葉を発する。
「そんな重量のある小道具はなかったと思うけど。まさかまだ校内に残っている生徒がいるのかな?」
生徒会の女子生徒が不安げにそう言った。それに返事をしたのは安武君だ。
「ここに司と加藤さんの姿が見えないから、あの二人が片付けをしようとして何か落としたんじゃないかな」
冷静な分析。すぐ目の前のことでいっぱいいっぱいになっちゃう私や柏木君と違って、彼はいつも冷静だからお助けクラブ部長の私としても大変助かっている。
「もしそうだったら怪我してるかも…!私、見てきます」
閉会式が終わったら片付けの打ち合わせをすると話していたのに、柏木君と加藤さん、ヒューマ君の三人は現れなかった。柏木君がさっさと片付けを始めたほうが早く終わると判断して、加藤さんとヒューマ君を連れているのかもしれない。その結果、大きい物でも落として怪我をしていたら大変である。
「あ、ちょっと待っ」
誰かがそう言った気がするが、ほぼ反射的に動いてしまった私の体は止まらない。仮に柏木君が怪我をしていた場合は憤怒の寵愛ですぐに治ってしまうのだろうが、加藤さんやヒューマ君が怪我した場合はそうもいかない。緊急を要する可能性もあるのだ。
「日和!私もついていく!」
後ろからそう言って走ってきたのは伊吹 凛だ。
「ありがとう!」
私はそう返事して彼女と並んで走る。出会ってまだ二か月と少しの関係だが、凛とはすっかり仲良しさんだ。友達がいてくれるだけで心強い。
「まーた柏木が何かやらかしたのかな?」
冗談交じりの声音で彼女はそう言った。その発言に私の頬は緩む。
「もし学校の備品壊してたらお説教なんだから」
暗い校内なので走る速度は控えめだ。これで転んで私たちが怪我したら元も子もない。それに凛は足が遅いので私が全力疾走してしまったらついてこれない。
「そのときはどうやって隠蔽しようか?」
「隠蔽しないよ!?ちゃんと一緒に謝るよ」
とんでもないことを言う彼女にびっくりしながら言葉を返す。前々から思っていたが、柏木君と凛は思考回路が結構似ている。私は基本的に誰かにお説教することはないのだが、その例外が柏木君だ。それに加えて最近は凛にもお説教をすることが多かったりする。
「そこで一緒に謝ってくれるあたり、日和は本当に陽姫だよね」
うっとりした表情でそう言われるが、私としては複雑だ。東浜高校三大美女『陽姫』なんて呼ばれ方をしていることを最近知った。正直とても恥ずかしいのでやめてほしいが、「陽姫と呼ぶのはやめてください」と皆に訴えかけるのは自意識過剰な感じがしてもっと恥ずかしいので何もできないでいる。
私たちは音楽室へと続く階段まで辿り着く。段差を一段飛ばししながら駆け上がっていると、あまり運動の得意ではない凛との距離が開く。
「日和速い~。待って~」
凛の情けない声が下から聞こえてくる。
「ごめーん、先行くねー」
彼女と冗談交じりの言葉を言い合って和んでいたが、誰かが怪我していないか心配である気持ちはなくならない。目的地までもう少しになったことで逸る気持ちを優先してしまった。
「ひどーい!」
凛の嘆きが上から聞こえてくる。
…上から聞こえてきた。
「え!?なんで!?」
そう声を上げたのは凛だ。彼女は自分より下の段にいる私を見て驚きの表情を浮かべている。
「どうやったの!?ドッキリ!?マジック!?」
信じられない光景を前にしてなぜかワクワクしてそうな凛の表情に内心呆れつつ、とある内容が頭の中によぎった。
「…凛、ちょっとそこでじっとしてて!」
「え?あ、うん」
そう言って何事かとこちらを見ている彼女を追い越して、また私は階段を上がっていく。そして、
「え?マジでどうやってるのそれ?日和って実はマジシャン?」
また凛の下に位置に現れた私に驚きのリアクションが返ってきた。
「凛、落ち着いて聞いて。マズいかも」
ワクワク顔だった彼女は不思議そうな表情に変化し、首を傾げた。
「これたぶん、寵愛現象だよ…」
「…寵愛現象」
凛の表情が固まるのが見えた。その現象は二か月前に彼女を苦しめたのだ。
「もしくは、本物の怪異現象かも…」
自分でそう言っておいて鳥肌が立った。心が恐怖で支配されそうだったが、目の前に凛が居てくれることで平静を保つ。今起きている事象について、冷や汗を浮かべた私の頭に思い浮かぶものがあった。
『東浜高校七不思議一つ目』
『どこまでも続くエンドレス階段』
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「何か音しません?」
生徒会の男子生徒がそう口にした。速川さんと伊吹が飛び出していき、残った面々は片付けの段取りについて認識合わせする。その最中だった。
「なんだろう…。ボールが跳ねるみたいな音」
生徒会の女子生徒が聞こえてくる音にそんな感想を漏らす。彼女の言う通り、それの音はボールが床を跳ねる音に聞こえる。
「体育館のほうからだな。まさかまだ学校に残ってボール遊びしようとしてる生徒がいるのか?」
不機嫌な口調でそう言ったのは男の先生だ。四十代くらいであろう老け始めた顔に皺が寄る。
「私、見てきましょうか?」
ローテンションなハスキーボイスが発せられる。私の声だ。皆の視線がこっちに集中したのを確認してから言葉を続ける。
「生徒が残っているようなら片付け手伝ってくれるか頼んでみますよ。手伝ってくれないならさっさと帰ってねーって呼び掛けときます」
私はこう見えてコミュニケーション能力には自信がある。今この場にいる皆は疲労困憊だ。そんなときに遊びたい欲を優先して学校に残る生徒がいれば余計な口論が生まれかねない。事実、先生や一部の生徒会役員は体育館のほうに視線をやり、しかめっ面だ。
穏便に生徒に帰ってもらう、もしくは片付けを手伝ってもらう。そのミッションを最もスマートにこなせるのは自分だと判断した。
「いや、俺が行こう。あれだけ早く帰れと言ったのに残っている生徒には説教せんといかん」
私の考えに反して先生は説教モードに入っているようだった。こうなってしまえば仕方がない。
「わかりました。じゃあ、一緒に行きましょ。生徒たちに説教した後はついでに私たちで片付けも開始しときましょうか」
体育館も肝試しスポットの一つだったので片付けが必要だ。私がついていけば苛立った先生の説教も多少和らげることができるだろう。ルールを守らない生徒への説教は必要だが、せっかく明日から夏休みなのだ。皆できるだけ良い気分で夏休みを迎えられるに越したことはないだろう。
「わかった。じゃあ行くか」
そう言って先生は歩き出した。ガニ股で肩を大きく振りながら歩く後ろ姿は、怒る助走をしているようにも見えた。私はそんな助走の後をついていく。
その場に残っているは生徒会役員と安武だが、鳳凰会長と安武がいれば何も心配はない。適切に残りのメンバーを配置して、段取りよく片付けを進めてくれることだろう。
体育館の傍まで来ると、先程より明確にボールの跳ねる音が聞こえる。ダム、ダム、ダム。ダムダムダム。不規則に複数のボールが跳ねているのがわかる。聞き覚えのあるその音は、先日の球技大会で耳に馴染んだバスケットボールが体育館の床を叩く音だ。
「おい!こんな時間に残って何をしてる!」
体育館の扉をガッと開いた先生が生徒たちに呼び掛ける。
「…」
生徒たちから返事はない。体育館はシーンとしていて、バスケットボールが跳ねる音だけが響いている。謝罪の言葉も返さない生徒たちにご立腹なのか先生も言葉を失っている。と思ったのだが、先生の顔を伺ってみると唖然とした表情を浮かべている。
「先生?」
私は先生のリアクションを疑問に思いながら、先生がこじ開けた扉の隙間から体育館の中を見た。
唖然とした。私も先生が浮かべているものと同じ表情になっていることだろう。
体育館の中にはニ十個以上のバスケットボールが跳ねている。ボールたちは次第に跳ねる高さを失い、ダムダムとなる音は加速して終息する。
「おい!どこかに隠れてるのか!余計に怒られる前に出てこい!」
生徒が隠れているのだと考えた先生は体育館中に響き渡る声量でそう言った。しかし、生徒が出てくる気配はない。
「はぁ、仕方ない」
苛立ちと不安を含んだ呟きをしながら、先生は体育館の照明を点けに行った。私はその後ろ姿に目をやる。すると高度を失い跳ね終わったはずのダムダム音がまた体育館中に響いた。
「え?」
私は体の温度が一気に下がる感覚を味わいながら、体育館のほうに目をやる。先生もその音の変化に不気味な違和感を覚え、こちらを振り返った。
「っ」
私は息を呑んだ。なぜなら、先程まで跳ね終わり地面に転がっていたはずのニ十個のボールは、それぞれが様々な高度を取り戻し、不規則に跳ねいていたからだ。
先生が急いで体育館の照明ボタンを押していく。
「クソ!なんでだ!」
しかし、体育館は闇に包まれたままで、先生は悪態の言葉をついた。
「仕方ない。暗くてよく見えんが、隠れてる生徒を見つけてくる。ったく、教師相手にイタズラを仕掛けやがって」
そう言って先生は体育館の中に入っていった。恐怖心を覚えながら、私も後をついていく。
先程と同様に、跳ねていたボールは高度を落とし、最後は床に転がる。
ダム、ダム、ダム、ダム。
全てのボールが床に転がり、跳ねる音がしなくなったと思ったときだった。体育館の中央あたりまで進んだ私たちの後方でまたボールの跳ねる音がした。
私も先生も急いで振り向く。するとそこにはまた高い位置から跳ねている複数のバスケットボールがあった。そして、開けて入ってきたはずの扉が閉まっていた。
「クソ!入口のほうに隠れてたのか!」
そう言って先生が扉のほうに駆けていく。すると、
ダム、ダム、ダム、ダム、ダム。
先程まで私たちが見ていたステージ側のほうからまた音がした。振り返ればまたバスケットボールが跳ねており、気のせいかもしれないがボールの数が増えているように見えた。視線を入り口側に戻すとこちらを振り返った先生と目が合う。その表情は怒りよりも恐怖の色を濃くしていた。
先生が閉められた扉に手を掛ける。しかし、
「あ?なんだ?開かない!?クソ!鍵を閉めやがった!」
状況は刻々と悪くなる。先生の怒りの声にも先程までの圧は感じられない。動揺が勝っている。
私は体育館全体を見回す。ニ十個程に見えていたバスケットボールの数は四十を超えているようにも見える。
背筋が凍る。手の指先から腕を通過し背中まで鳥肌が立つ。体育館の中心で、その異様な光景を見て思い出した。
『東浜高校七不思議五つ目』
『誰もいない体育館に響き渡るバスケットボールの音』
目を離せばまた高い位置から跳ね始めるバスケットボールを、体育館二階の大きな窓から覗く月明りが照らしていた。




