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赤と青のハルハル  作者: 高野 ぱら
第二章 七不思議ゴースト
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第二章13 勇気を振り絞っても

 終業式当日。つまるところ肝試し大会のイベント当日である。天気予報では夜まで晴れマークが表示されていた。


 珍しくスマホのアラーム四回目で起きることに成功した俺は洗面台へと向かう。するとそこには家族の一人がいた。もしこれが恐い姉や怖いほうの妹であれば「げっ」と声を漏らしていたことだろう。しかし、洗面台で顔を洗っているのは平凡なほうの妹だった。


「げっ」


 俺が声を漏らさなかった代わりに平凡なほうの妹が声を上げた。偉大なる兄を前にしてそのリアクションは失礼極まりない。


「出てけよ。口臭えから」


 開口一番に妹から発されたセリフはあまりに酷い。もしこれが委員長とかから言われていたら自殺を考えるまである。だが相手は何とも思っていない妹だ。こいつにどんな罵詈雑言を吐かれたところでダイヤモンドでできた俺の心は傷つかない。


「朝起きた人間の口は誰であっても臭えんだよ。お前の口だって臭いぞ」


 言われたら言い返す。倍返しにはしないところが兄としての優しい点だった。


「は!?臭くないし!大体なんでこの時間帯に洗面台来るわけ?いっつも五月蠅いアラームを何度も鳴らして眠りこけてるじゃん!」


 朝から大声で怒鳴られて俺はうんざりする。すぐにヒステリックを起こしてしまうのは思春期真っ只中の証である。…いや、こいつ小さい頃から割とヒステリックだったな。


「俺が何時に起きて何時に洗面台に来ようと自由だろ。やだやだ、他人の行動を束縛する奴はモテないぞ」


「っ!うっさいバカ!!!」


 顔をしかめて妹は叫ぶ。もしこれが七瀬相手だったら「そういう発言をするから柏木はモテないんだよ」とカウンターを食らっていたことだろう。口達者とは程遠い凡愚な妹は幼稚な罵倒の言葉を叫ぶので精一杯だ。


「とにかくそこをどけよ。もう顔は洗い終わっただろ?俺も顔を洗いたい」


「はぁ?今から歯を磨くところだから無理!」


「別に洗面台から三歩下がった位置でも歯は磨けるだろ。俺は洗面台の水を使いたい。お前は散歩後ろに下がって歯を磨く。これでいいだろう」


「鏡見ながら磨きたいの!いいからさっさと出ていけ!」


 正論で説き伏せようとするが、妹の感情論で反発される。まったく、面倒なものである。


「お前なぁ、家族の共有スペースなのにそういう言い方は」


「大体!お前と鉢合わせしないようにこっちは早起きして身支度を済ませてんの!たまたま早起きしたからって偉そうに上から喋んないでくれる?」


 ギッとこちらを睨む妹の顔は恐くない。これが姉相手なら微笑まれただけで恐怖を感じるが、ヒステリックなだけの妹から何を言われようとも少しばかりイラっとするだけだ。


「はいはい、わかったよ。出ていくよ。俺は子供の喧嘩に付き合ってるほど暇じゃないんだ」


 大人な俺は妹の意見を尊重し洗面台から退散しようとするが、


「何その言い方!?全然自分が悪いと思ってないじゃん!ほんとムカつく!」


 眉間に皺をよせ、歯を噛みしめている顔が見える。美しい顔立ちではない。別に不細工という程でもないのだが、大きくも小さくもない目、やや低い鼻、眉の上で短く刈り揃えられた茶髪、やや大き目の口、それらから抱く感想は凡庸な顔立ちである。怒った表情ですら美しさを感じさせる姉やもう一人の妹と違い、目の前の妹はまさしく等身大の中学三年生といった感じだ。


「二人とも何をさっきからおっきい声出してるの?」


 殺伐とした洗面台にゆったりとした口調の呑気な声音が響く。振り返れば母が立っていた。


「別に何でもない!こいつが偉そうでウザいから出てけって言ってただけ!」


 絶賛反抗期中の妹は母に対しても強めの口調だ。母は「あらあら~」とでも言わんばかりの表情をしている。どんな顔かと言えば困り眉を浮かべているがそれ以外は平常時と変わらない顔だ。内心では目の前の口喧嘩を大したことではないと捉えているのだろう。


「喧嘩はダメじゃない~」


 ヒステリックで早口の妹とは対照的に、良く言えば落ち着いていて、悪く言えば鈍間な母の口調が返される。


「司も意地悪しちゃダメよ~」


 ふわふわした表情でそう注意してくるが、子供に注意する表情と声には感じられない。母の顔に目をやると老けてきたなと感想を抱く。昔はどちらかと言えば美人よりな顔つきだったが、皺が増えほうれい線のラインも視認できるようになった顔からは美人の面影を感じ取るのでやっとだ。


「別に意地悪なんてしてねえよ。ただ自分勝手な妹に物申しただけだ」


「なっ!お前が」


「はいはい、そこまで。司は先に朝ご飯食べちゃいなさい」


 また声を荒げて反論しようとする妹の言葉を遮り、母はのんびりとした口調でそう言った。俺はこれ以上何か言って妹に叫ばれるのを避けるために無言で踵を返した。妹はべーっと舌を出して不細工な顔を披露している。その怒りの表現にまだ可愛げがあるなと感想を抱いた。これが姉なら薄っすら笑みを浮かべてこちらを見るので超恐い。優秀なほうの妹ならいつもの変わらぬ天使のスマイルを浮かべていて、これはこれで怖さが際立つ。その二人に比べると目の前の妹は可愛いものだった。


「こーら、姫もそんな顔しない」


 妹は母に注意される。柏木 姫。これが凡庸なほうの妹の名だ。


 俺は洗面台から台所へと移動する。後ろから母もついてくる。俺と姫の口喧嘩を止めるためにわざわざ出向いたのだろう。あのまま口喧嘩をしていれば俺が姫を言い負かして泣かしていただろうから良い判断だ。


「司は今日帰りが遅いんだったっけ?」


 母がそう確認してきた。数日前に帰りが遅くなる旨は伝えている。


「ああ、二十二時までには帰り着くと思う」


 肝試し大会の開始の挨拶が十八時で、収量は二十時三十分の予定だ。そこから翌日の朝には各部活が使用する体育館や一部の教室などは今日中に片付けるため、下校できるのは早くても二十一時過ぎになりそうだ。


 実際のところ、この時間帯というのが一番苦労したポイントである。当然ながら高校生が夜遅くまで出歩くのはよろしくない。遅くとも二十三時までには全ての生徒が帰宅している必要がある。しかし、肝試しという性質上、可能であれば陽が沈んでから開始したい。協議を重ねた結果、陽が傾き薄暗くなってくる十八時三十分に一組目が入場することとなった。


 終了の時間帯も二十時を要求してくる教師たちと長期戦の交渉を繰り広げ、かなり手こずったものである。最終的には鳳凰先輩が論じ説き伏せ、一般生徒は二十時三十分まで、スタッフは二十一時三十分までというタイムリミットで承認を獲得した。


 複数回に渡って教師陣相手に何時間もの交渉をした俺としては、たった五分程度の鳳凰先輩の説得で首を縦に振った教師陣に大きな不満を抱いたものだ。しかし、それよりも普段は「そんなものか」とか「愚かで凡庸だな」とか言ってくる鳳凰先輩が、その交渉のときに限って「お前の働き、悪くなかったぞ」と言ったことが何より複雑な気持ちだった。


 振り返るだけで疲れた気分になったが、そんなお仕事も今日までだ。俺は気合を入れる代わりに朝食を腹の中にぶち込んでいく。朝食が半分ほど減ったあたりでようやく姫が洗面台から出てきたのが見えた。この後、顔を洗って今日一日の活を入れるとしよう。


 母は姫が食べ終えた朝食の皿を洗っている。専業主婦とは言っても中学生の娘の皿洗いまですることないのにと姫に対して不満を抱く。


「司も食べ終わったら食器持ってきてね~。私が洗っておくから」


「…じゃあ、お言葉に甘えて」


 妹に不満を抱いた数秒後に前言を撤回せざる得ない状況となってしまった。洗ってあげると言われてそれに頼ってしまう己の幼稚さを自覚しつつも、俺もまだ高校生で子供だしと開き直る。もし母が病気とかになったときは俺が家事をしようと罪悪感から逃れるための謎の決意だけ固めて、朝食に「ご馳走様」と言葉を掛けた。


 現在、柏木家には母と俺と姫の三人が暮らしている。単身赴任でワンシーズンに一回しか帰って来れない父も、結構な頻度で帰省してくる姉も、大人気女優として世界中を飛び回っている妹もいないこの時期はある意味で平和なものだ。それこそ俺と姫の口喧嘩くらいしか問題はない。


 明後日から夏休みが開始する。別にいてもいなくても大差ない父は兎も角、俺を全否定する恐い姉と俺を全肯定する怖い妹が帰って来ないことを切に願った。


 それなりに立派な一軒家の中庭に目をやる。母が趣味で育て始めたトマトの茎から青い実がぶら下がっていた。赤く熟すのはもう少し先になりそうだ。昨夜、寝ている間に一振りしたらしい雨粒の残骸が、そっと青い実から雫となって零れ落ちた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 とうとうこの日が、この時がやってきた。とても長い三週間だったはずなのに、気付けばこの時間はやってきて、数十人で作り上げた肝試し大会という作品のお披露目を間近にしている。


 時刻は十七時五十八分。辺りは薄暗くなり始めた。いつもならこの時刻はまだ西の空が明るいのだが、今日は太陽の方角に分厚い雲があり、世界を照らす光は遮られている。私はグラウンドと校舎の間に位置する緩やかな階段に立っていた。


 黒縁メガネの分厚いレンズ越しに、先程までグラウンド内に散らばっていた生徒たちが整列して開催の挨拶を待ち浴びている光景が見えた。グラウンドの校舎寄りの場所に集められた生徒たちの後ろには四つの屋台が並べられている。たこ焼き、焼きそば、フランクフルト、綿菓子。どれも美味しそうだが、直前まで準備に時間を割いていた私たちには食べる暇はなかった。


 一般生徒の集合時間は十七時二十五分。十七時三十分ではなく、敢えて二十五分にしたのは奈良先輩の案だ。こういうのは区切りの良い時刻よりも、中途半端な時刻のほうが遅刻を抑制する効果がある、とのことらしい。真偽は不明だが、数分遅刻した生徒も十七時三十分には会場に来ており、予定通り開会できそうだ。


 といっても、参加生徒の半数はこの学校内に残っていた者たちだ。午前中に学校自体は終わって、夕方にまた来るのは面倒だから滞在していたのだろう。それと部活動で残っていた生徒たちもいる。こうして考えると、午前中に学校が終わって夕方から全校生徒強制参加というのは非常に面倒なスケジュールだ。私が一般生徒側にいた場合、絶対にイベントには欠席していただろう。


 しかし、意外にも眼前に整列する生徒の総数は多い。全校生徒強制参加なのだから当然と言えば当然だが、先に述べた通り無茶なスケジュールを組んでいるので、もっとサボる生徒がいると予想していた。


 目算で数えてみるが四百五十人はいるように見える。東浜高校の生徒数は約七百二十人なので六割以上の生徒が参加していることになる。塾や習い事、私用で欠席する生徒に加え、野球部総勢四十一名が明日の早朝から遠征が入ったらしく欠席となったのだが、それにしては悪くない参加率だ。


 受験生の三年生は参加率が低いと思っていたが、三学年での人数の割合はそう変わらない。残り少ない高校生活で思い出を残そうと考えている生徒が案外多いのかもしれない。


 風に連れてこられたのか美味しそうな食べ物の匂いが鼻孔をくすぐる。これは焼きそばの匂いだろうか。空腹を感じそうなものだが、緊張している私からは食欲は生まれない。それでも数十分前に屋台の食べ物を頬張る生徒たちの笑顔を見て、私の胸は満たされていた。


 不思議だ。私は別に他人の幸せに価値を見出さない。そりゃ幸せに越したことはないと思うけど、他人の幸せで胸を満たすような人間じゃなかったのだ。今日この時間のために一生懸命に準備をしてきたからか、少なくない生徒との交流があったからか、私の中の価値観が僅かに変化した気がする。


 生徒たちはただ屋台で腹を満たすことだけで時間を潰していたわけではない。グラウンドの後方に簡易なステージを設け、ダンス部などの部活動に協力してもらい余興を披露していた。そこでは明日香様の舞踊も繰り広げられ、本日一番の歓声を巻き起こしていた。


 明日香様は東浜高校の三大美女と呼ばれており、異名は『紅女王』。その由来になったのは彼女が一年生のときに文化祭で披露した舞踊がきっかけらしい。深紅のドレスに身を包み、美しく洗練された舞は伝説となり、普段のまるで王様みたいな立ち振る舞いと合わさって『紅女王』と呼ばれるようになった。

 これはななちから聞いた話だ。友人のいなかった私はこういう情報に疎い。ここ数日でななちから東浜高校に関するありとあらゆる情報を吸収中だ。


 今日もわざわざ深紅のドレスに身を包んだ明日香様が舞い終わったところで、いよいよ肝試し大会の開会式が始まる。太陽が予定より早く姿を隠してくれたのでスケジュールは前倒しだ。


「既に私や我が校の素晴らしい部活動が諸君らを楽しませたところだが、祭りはまだまだ続く!」


 厳粛な言葉選びではなく、明日香様自身の言葉で開催を宣言する。先程の紅女王の舞を見て興奮が冷めない状態の生徒は大盛り上がりだ。大盛り上がりしてるけど、今から行われるのは肝試しなんだよな…。


「生徒諸君には肝を試してもらうわけだが、これから入る順番や順路を説明する。一言一句漏らさずに聞け!」


 明日香様のその言葉と共に生徒たちは声を静める。彼女の発言に大勢の生徒が従うような光景は少し恐ろしさを感じた。


 私は歩き出す。前に出る。そう、肝試し大会の説明は私がすることになっているのだ。なぜそんな流れになったのかを思い出す。


『肝試しの説明、加藤さんがやってみるのはどうかな?』


 打ち合わせの場で発言したのは平和島さんだ。平和島 飾寧、私と同じクラスのマドンナだ。最初は作業の手伝いだけをしてもらっていた彼女だが、積極的にイベントの準備を行ってくれて、いつの間にかスタッフの主要メンバーに名を連ねていた。


『…!』


 私はびっくりするが、びっくりし過ぎて声にならない。助けを求めたい気持ちでいっぱいになったが、私が頼れるななちは用事があると言って帰っていたし、ヒューマ君の姿も見えない。偶然なのかわからないけど、司君は平和島さんが打ち合わせに参加しているときには必ず欠席していた。一応明日香様のほうに視線を向けてみるが、何を考えているのかわからない無表情でこちらを伺っていた。


『あ、急にごめんね。びっくりしちゃったよね』


 平和島さんが優しい声音で謝罪の言葉を口にする。聞いていて落ち着くその声音は続きの言葉を響かせた。


『私、加藤さんと同じクラスだけどあんまりお話したことなかったから、どんな子なんだろうってずっと気になってたの』


 耳心地の良い音が鼓膜を叩く。


『それが今回のお手伝いで色々と教えてくれて、その姿が一生懸命で、私なんだか凄く嬉しい気持ちになって…あ、ごめんなさい。何というか、上手く言語化できないんだけど』


 生徒会室にいる全員の顔を見渡しながら語っていた彼女は、私の瞳にロックオンして次の言葉を紡いだ。


『加藤さんは今頑張って踏み出してるところなんじゃないかなって思ったの。だから、全校生徒に肝試しの説明をするってのも良いきっかけになるんじゃないかなって』


 彼女の瞳の奥を見る。可愛らしい顔に備えられた瞳の奥には純白な何かがあるような気がして、『聖女』と呼ばれている理由をなんとなく理解できた気がした。


『ここにいる生徒会の皆さんは全校生徒の前で話す程度で何をって思っちゃうかもしれないですけど、私だったらそんな大役震えちゃって上手くできる自信もないんです。だから、やりたくないって気持ちもわかるから無理にとは言わないけど、もし加藤さんさえ良ければ引き受けてくれないかな?』


 いつの間にか私の傍まで駆け寄って来た彼女は綺麗な両手で私の手を持ち上げる。


『説明の文言は一緒に考えるし、練習にもいくらでも付き合うから、どうかな?』


 彼女の懇願があまりにも必死に見えて、大きな瞳は潤んでいるようにも見えて、私の心は揺れ動く。


 思い出されるのはオレンジ色の景色。二十人もの生徒を前にして必死で作業の説明をした後、分厚いレンズ越しに見えた美しいオレンジ色の世界。もしかしたらまた、あの光景を見られるかもしれない。

 変わりたいと思って、きっかけを作ってくれたのはヒューマ君だったけど、それでも私なりに一生懸命に取り組んでここまで来れた。


 まだまだ理想には程遠い。でも三週間前と比べて、今の私は変われている気がした。そして今踏み出すことでもっと大きく変われる気がした。


『や、やや、やってみます!!!』


 裏返った私の声が響いた。私みたいな人間がそんなことを言って冷たい視線を向けられていないか怖くなる。でも視界に映るのは優しく温かいリアクションをくれる人たちだ。嫌いな人、苦手な人が山のようにいる自分。でも、この生徒会室にいる皆のことは好きと言えるようになれる気がした。


 そして今に至る。私は明日香様からマイクを受け取る。手が震える。足が震える。心臓が震える。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。二十人の前で説明したときも上手く…はなかったかもしれないけど、なんとか乗り越えられた。私は肩の感触を確認する。今はあの日のように『だいじょーぶ!!!!!』と肩を叩いてくれるヒューマ君の存在はない。心配そうに見つめる司君の姿もない。彼らは今、最終チェックで校内を回っている。それでも大丈夫。きっと大丈夫。


 マイクを強く握る。深呼吸をする。上手く息を吸い込めずに、浅い呼吸音がマイクに乗った。覚悟を決めてギュッと瞑った目を開く。


 瞬間、目の前に四百五十人の人間が映った。


 ―――――。


 真っ白になる。


 頭が、真っ白になる。


 あれ?


 えっと?


 なんだっけ?何するんだっけ?なんでいるんだっけ?


 体の震えは止まっていた。…いや、止まっていない。あれ?どっちだ?止まっている?震えている?

 震えているのは良い事なんだっけ?悪い事なんだっけ?


 そうだ。何か、何か言わなきゃ。


「え、あ、その、あっ」


 声が響く。グラウンドに響く。世界中に響いているんじゃないかと思うくらい、大きな音で。音で、音が―――。


 静かだ。大きな音でびっくりしたのに急に静かだ。何も聞こえない。何も見えない。見えないのに、四百五十人の顔がこちらを見ていた。


 時間が過ぎる。長い。長い。あっという間に、長い、過ぎる―――。


「あのっ!」


 また大きな音が響いた。私の声に聞こえたけど、今私は発声したのだろうか。もう、何が何だかよくわからない。


 ああ、あぁ、あぁぁぁ、早く家に帰って眠りたい。


 手の力が抜ける。ぶらんと下がった腕を持ち上げられない。気持ち悪い。吐きそう。吐きそう。吐きそう。


「加藤さん!大丈夫!?」


 小さな声でそう聞こえた。さっきみたいに大きな音じゃない。響いていない。


「っ、っう、うぁ」


 私は返事をしようと努めるのに、体が上手く動いてくれない。私の体なのに、動いてくれない。


「え、えーと、ちょっと説明ど忘れしちゃったみたいです。私から説明しますので、気を取り直して、よく聞いてください!」


 明るく、動揺した様子の声が響いた。そう、今度は響いた。

 気付けば強く握り締めていたはずのマイクが手元にない。


 聞き慣れた女の子の声が肝試しの説明を始める。私と平和島さんで一生懸命に考えて、私の声で説明するはずだった文言が使われず、私からマイクを奪った彼女がアドリブで上手に説明する。


 彼女の名前は何だっただろうか。生徒会で同じ学年の女子生徒だ。コミュ障の私は雑談とか上手くできなかったけど、業務連絡で何度か会話をした。そのときに彼女の名前も呼んだ。なのに思い出せない。彼女の名前も、この三週間の記憶も、思い出せない。


 動かないはずの私の体はグラウンド脇に移動したらしく、ふと顔を上げると本校舎の外壁に設置された時計が見えた。

 十八時七分。私がマイクを握ったのは丁度十八時ぴったしだった。私は肝試しの説明を一文字もしていない。名前の思い出せない彼女にマイクを取られて何分経ったのだろう。私はどれくらいの時間、四百五十人の前で、四百五十人の時間を奪って、そこにいたのだろう。


「ハァ、ハァ」


 呼吸が浅くなる。


「ハァ、ハァ」


 周りから「大丈夫?」と声が聞こえた。それが誰かわからないまま、私はひたすらに「大丈夫です、大丈夫です」と返事をし続けた。


「大丈夫です、大丈夫です」


 もう周りの声も聞こえなくなって、それでも言い聞かせるようにそう言い続けた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 取り返さなきゃ。取り返さなきゃ。


 その言葉が頭をぐるぐると回り続ける。


「大丈夫です、大丈夫です」


 それと同時にそう言葉を発する。


 私はお化け役だ。たくさん練習した。ホラー映画が大好きで、誰かを脅かすシチュエーションをよく妄想していた。


「加藤さん、顔色悪いけど大丈夫?」


 誰かがそう言った。


「大丈夫です、大丈夫です」


 大丈夫だ。私は大丈夫だ。もともと私はそんなにできる人間じゃない。失敗なんて当たり前。取り返せばいい。取り返せばいい。


 お化けの衣装に身を包む。皆で一生懸命に作った衣装だ。衣装に身を包めば、私が私じゃなくなった気がしてほんの少し落ち着いた。


 生徒が来る。記念すべき一組目の生徒だ。怯えている。私より前のお化け役が頑張ってくれている証拠だろう。

 次は私の番だ。大丈夫、大丈夫。できる、できる。取り返さなきゃ、取り返さなきゃ。


 生徒たちがポイントに足を踏み入れた。私はここで飛び出る。


 …。


 私はここで飛び出る。


 動かない。焦る。そして飛び出した。


「あっ、わっ、ぁ、ぁ…」


 生徒たちが随分と通り過ぎた後に私は飛び出した。上手く発生できず、変な声が出る。


「わ、びっくりした…あれ、お化け役の子?」


 お化けにびっくりしたというよりは、電車の中とかで急に奇声を上げた人に対してびっくりしたというようなリアクションに近かった。


「…どうだろ?お化けにしてはタイミングとか変じゃない?」


「ま、まあ、とりあえず進もうか」


 そう言って一組目の生徒たちは歩いていく。ある程度距離が離れてから、


「なんか他のお化けと比べて怖くなくない?」


「わかる。ちょっと冷めたよな」


 半笑いの音を含んだ声が私の耳に届いた。


「っぁ、私、せっかく皆が準備したのに、私のせいで、台無しに」


 視界が滲む。ボロボロと涙が出る。零れる。溢れる。


『泣けばいいと思ってんの?』


『またラブマリンの奴が泣いてるぞ』


『もー、そのくらいで泣かないでよ。また私が悪者にされるよ』


 言葉が聞こえた。過去に言われて、胸の奥深くに捨てて、蓋をして、必死に忘れようとした言葉だった。


「結局、私は…」


 呟く。黒縁メガネのレンズに溜まった水滴が廊下の床に零れた。まるで吐瀉物のように、べちゃりと床に零れた。


「まだだ」


 そう呟いた。嘯いた。ヒューマ君が、司君が、ななちが、明日香様が、私に希望を与えてくれたから。


 取り返さなきゃ。取り返さなきゃ。


「とりかえ、、さなきゃ、、」


 睨む。虚空を睨む。いつの間にか膝をついて蹲っていた体を無理やりに起こす。立ち上がって、「さあやろう」と声にならないまま口の中だけで呟いて、後ろから声が聞こえた。


「さっきの加藤さんさー、マジウケるよね」


 下卑た笑い声だった。


「クラスでいっつも縮こまって黙ってるのにさー」


 聞いたことがある声だ。同じクラスの女子生徒だ。


「最近なんか生徒会の人たちと一緒にいると思ったら」


 肝試し二組目は二年一組の女子六人組らしい。


「さっきのアレ、なに?変な声だけ漏らして固まって、超キショかったんですけどー!」


 そんな声の後に他五人の笑い声が響いた。薄暗い廊下に響いた。


「生徒会もパシリとして使ったんじゃね?」


 顔が見える。名前は確か、後藤さん、脇坂さん、林さん、伊集院さん。残りの二人は知らない顔だから他のクラスの生徒なのだろう。


「いやいや、皆待ってるのにマイク握り締めて嗚咽漏らす奴はパシリにもならないって!」


 伊集院さんが嘲りの笑みを浮かべてそう言った。林さんが声を裏返らせて笑っている。後藤さんは口角を上げて楽しそうだ。脇坂さんは口元に手を添えて肩を震わせていた。名前の知らない二人も一緒になって嘲笑う。


 世界が真っ暗になる。


 暗い。


 暗い。


 何も見えない。


 怖い。


 恐い。


 何も見えない。


 何も見たくない。


 誰も見ないで。


 私を見ないで。


 彼女たち六人が目の前を通る。私はそこにいたのに、気付かなかったのかそのまま通り過ぎていく。


 私は一人、ストンと暗い世界の底にいる。


 あぁ、まただ。

 またあのフレーズが頭に浮かんだ。


 なぜ私は生まれてきてしまったのでしょうか。

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