第一章3 厄災の芽
目が覚める。体が重く、心地良いベットの吸引力が強いため、全力で足掻いたのにも拘らず意識は闇へと飲まれていく―――。
目が覚める。カーテンから漏れ出す陽の光は強いものへと変わっており、それら光を浴びるためにゆっくりと体を起こし、カーテンへと手を掛ける。手を掛けたはずだった。しかし俺の体はなぜか未だにベットの中にあり、時間が巻き戻ったのかと重いながら意識は深い湖へと沈んでいく―――。
目が覚める。これでもう三度目だ、一度目も二度目もきっかけは心地良いメロディだった。人類の発明した天才的な科学の結晶。人間は社会的な動物だ。一人では生きていけない。つまるところ群れを成す生命体であり、つながりを求める生命体である。そんな人間同士がいつでも会話できるようになるという夢を実現した科学の結晶から鳴り響くメロディに目覚めを促進されたのだ。普段からお世話になっている科学の結晶への恩返しのためにも体を起こし、この世界で生きる活動を開始しなければ。そこまで考えて三度意識は天へと昇っていく―――。
「いい加減にして」
最近仲良くなったとすら言えないほど短い時間しか共にしていない相手からの初めてのモーニングコールはそんな言葉だった。しかし彼女を責めないでやってほしい。彼女だって最初の二回は申し訳ないという気持ちを抱きながら俺に電話を掛けたのだ。その証拠に一回目と二回目の電話の間には二時間の時間が空いていたし、二回目と三回目の電話にも二時間の時間が空いていた。そして三回目と四回目の電話にも同様の時間を空けてくれていたのだ。
「色々と私事で助けてもらっている立場だから言い辛くはあるんだけど」
しっかりとそう前置きする彼女の親切さに胸を打たれながら続きの言葉を待った。
「電話を切るのはやめようよ。一分間の呼び出し時間で出なかったのであればまだ寝てるんだなと思えるけど、十秒くらいで一方的に切るのはよくないよ」
彼女のごもっともな指摘に対して俺は正面から反省する。しかし俺を責めないでやってほしい。先述した通り俺は全力で抗っていた。それでも闇へと、深い湖へと、天へと引きづりこまれてしまったのはきっと悪魔の仕業なのだ。人間の力ではどうしようもない強大で凶悪な悪魔の仕業に違いないのだ。
「言い訳しない」
そんな弁明を彼女に伝えるがバッサリと切り捨てられたので、仕方なく謝罪の言葉を口にする。
「大体、今何時だと思ってるの?」
「朝のうちに起きれなかったのは悪かったと思ってるよ」
「昼のうちに起きれたみたいな言い方やめてくれる!?五時だよ!PM五時!十七時!」
そう時刻を強調してくる彼女への言い訳を考えるのを諦め、話を先へ進めることを優先する。
「とりあえずノコギリ買いに行くか。寝坊したお詫びにお代は俺が出すよ」
「いや、もう買ってきたよ。ちなみに角ももう削ぎ落としたよ」
「え!マジで!?」
彼女の行動力に驚きつつも、日中帯行動していなかった自分のせいでもあるなと気づく。
「大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫。我ながら綺麗に削ぎ落とせて、角の断面のヤスリ掛けまで綺麗に済ませたよ」
「なんかお前楽しそうだな」
電話越しなので彼女の表情は見えないが、その声音から結構楽しんで角折作業をしていたのではと疑念を抱く。
「それで、どうしよっか。今後の作戦会議、付き合ってくれる?」
「ああ、それはもちろん。今日はぐっすり眠れたから何時まででも付き合えるぜ」
俺の寄り添ったコメントに「でしょうね」と冷たい口調で返されたのが悲しい。
「じゃあ、今から会うか。場所はどこがいい?」
「あ、それなんだけど」
そう言って彼女は一拍置いた後、こう言った。
「私の部屋にしない?」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
柏木 司。高校二年生。彼女いない歴年齢。美しい女性のような顔つきだがキリっとした眉毛のおかげか女性に間違われることは少ない。そんな美形男子を見た人々が抱く感想は、そのご尊顔よりも真っ赤で腰まで伸びた長髪のほうに引っ張られる。程よい美形よりも奇抜な髪型に注目が行ってしまうが、それでも美形は美形。そんな男に恋人ができたことがないという事実に驚かれる方々もいるだろう。
そんなモテる要素に溢れる俺がモテない理由を、俺の二人しかいない友人のうちの一人、四白眼と癖毛が特徴的な女子高生はこう語る。
「柏木は見た目からして近寄り難いのに、話しかけてもぶっきらぼうに返事するだけじゃん。そんなんじゃ女の子は恐がるかムカつくかで去っていくよ」
友人の言ったごもっともな言葉を思い出しながら、俺は出掛ける準備を進める。お出掛け先は知り合ったばかりの女子高生ドラゴン伊吹 凛の住まう部屋だ。別に動揺もしていなければドキドキもしていない。柏木 司とはクールな男であり、女性の扱いなどフェルマーの定理を解き明かすことくらい容易なことである。そんなクールな俺は着ていく服を僅か一時間で決定し、意気揚々と自宅を後にしたのだった。
「おはよ。どうぞ入って」
なぜか冷たく聞こえる声音で玄関を開けてくれた伊吹の後を追って彼女の部屋に入る。部屋は特にこれといった特徴はない。数冊の本が並んだ勉強机、薄い水色のカーテン、いくつかのアウター類が掛かったハンガーラック。ちらりと机の隅を見ればゲーム機が置かれている。
「お母様は?」
念のため確認しておく。重要なのは柏木 司という男の来訪を伝えているか否かだ。不審者扱いされて通報でもされたら泣いてしまう。
「隣の部屋にいるよ。朝が早いからそろそろ寝るんじゃないかな。男友達が来るって言ってるから大丈夫だよ」
俺が心配しているのを見破ってか、そう注釈を入れられる。
「そうか。それにしてもこんな夜分に男が押しかけてきて大丈夫なのか」
部屋のシンプルな形をした時計が目に付く。時刻は二十時三十分。
「うちの親はそんなの気にしないよ。ノリと勢いで生きてる人だから」
いまいち納得に欠ける答えだが、通報されたりしないのであれば良しとしよう。
「それじゃあ、今後の方針について話し合うか」
俺はそう話を切り出した。今回の目的は当然彼女とおうちデートをすることではない。なぜこんな時間にこんな場所で集まったかというと理由は二つ。
まずは時間について。それは昨日も一昨日も彼女がドラゴンに成ったのは日付が変わった後だった。法則性から今日もそのタイミングでドラゴン化する可能性が高く、その時間帯は一緒にいたほうが良いと判断した。
次になぜ彼女の部屋になったのかというと、当然高校生が夜分に出歩いていれば補導されかねない。加えて赤髪長髪の目立つ男と灰色髪の頭に包帯を巻いた目立つ女だ。
「それにしても本当に角折ったんだな」
そんな包帯を巻かれた彼女の頭を見て言った。正確には折ったではなく切ったという表現が正しいか。
「うん。意外と簡単に切り落とせたよ」
呑気な声でそう言う彼女に呆れながら言葉を返す。
「その包帯は、血が出たとか痛みがあるとかではないんだよな?」
「大丈夫。血も出なかったし痛みもなかった。断面が目立つから包帯巻いてるだけだよ」
そう言いながら彼女は巻かれた包帯を解いていく。そうして姿を現した頭部には親指と人差し指で丸を作ったくらいの大きさの黒い角の断面があった。彼女がヤスリ掛けまでしたと言っていた通り、角の断面は綺麗に整えられている。
「その頭、親御さんにはどう説明したんだ?」
角を隠すための包帯ももちろんだが、灰色になった髪だって説明が必要だろう。
「うちの母親については心配ないよ。さっきも言った通りノリと勢いで生きてる人だから。髪は染めた、包帯は頭打って怪我したから巻いてるで納得した」
「それで納得できるのはなかなかすごいな…」
「怪我したって言ったことに関しては心配してたけどね」
いまいち彼女の母親の人物像は掴み切れないが、事が荒立つ方向に向いていないのなら良しとしよう。
「学校にはその髪で行くのか?」
俺は質問を重ねる。校則的にはどんな髪型でも問題ない。その証拠に赤髪長髪の俺も、緑のパステルカラー髪の委員長も許容されている。流石に俺と委員長ほど奇抜な髪型の人間はあまりいないが、髪色を染めている生徒自体は少なくない。
「いや、これ買ってきた」
そう言った彼女が取り出したのは黒染めカラー剤だ。校則的には問題なくとも、彼女は黒く染めるつもりらしい。
「洗っても落ちにくいやつみたいだから、しばらくはこれで凌ごうかと」
「ああ、それでいいんじゃないか。角は包帯で隠すのか?」
「帽子で隠すほうがいいかもだけど、授業中とかは帽子だと脱げって言われるよね」
「だな。頭怪我したで通すしかないか」
そんなやり取りの末、とりあえずは明日からは黒髪に包帯を巻いた状態で過ごすことが決まる。
「じゃあ、ここからが本題だな」
俺がそう切り出すと部屋の中にほんの少しの緊張感が生まれる。
「昨日も説明した通り、伊吹がドラゴンに成ったのは十中八九寵愛現象が原因だ。寵愛現象とは寵愛者っていう神的存在が悩みを抱える人間を助けようと一方的に力を授けるものだ」
昨日も説明した寵愛現象の概要を話す。
「今回は伊吹をドラゴンにするっていう力が授けられた。つまり、少なくとも寵愛者は伊吹がドラゴンに成ることで対象の悩みが解決すると思ってるわけだ」
俺はそのまま言葉を続ける。そこらの人が聞けばぶっ飛んだ話ではあるが、実際に己の体がドラゴンに成り変わった彼女は真剣な表情で話を聞いていた。
「伊吹の悩み、ではなく敢えて対象の悩みと表現したのは、寵愛を授かったのが伊吹とは限らないからだ。例えば伊吹に対して負の感情を抱いている者が寵愛を授かった結果、伊吹をドラゴンに変える力を手に入れた可能性もある」
可能性としては低い。しかし捨て切れない可能性である以上は考えなければならない。
「もちろん一番可能性が高いのは伊吹が龍の寵愛を授かった可能性だ。伊吹の何らかの悩みをドラゴンに成ることで解決できるのであれば、寵愛現象の条件は満たせる。ここで言う解決は少し斜め上の解決でも該当する」
斜め上の解決方法。これが寵愛現象の最も厄介な部分だと言っていいだろう。
例えば、体育祭でリレーのアンカーに選ばれた運動神経の悪い少年が、リレーで恥をかきたくないという悩みを持つ。特に少年が危惧していたのは、先頭の走者としてバトンが渡され、そこから他の全走者に抜かされてビリになってしまうことだった。ここで授けられる寵愛は俊足の寵愛ではない。俊足になれば解決できる悩みを、寵愛者はアンカーまでバトンが辿り着かないという形で悩みを解決する。つまるところアンカーの前の走者が転び、それに巻き込まれて他の全走者が転ぶ。そして全員が続行不可の怪我を負う。一方的に授けられた転倒の寵愛が周りにまで危害を与えるのだ。さらに転倒の寵愛は体育祭が終わっても消失しない。少なくともその少年が学生のうちは、翌年も翌々年も体育祭はあるから。そして体育祭が終わった後も転倒の寵愛は発動され、駅でも、路側帯でも、階段でも、少年の周りの人間が転倒する。
そんな寵愛現象の一例を思い浮かべるが、敢えて彼女には伝えない。危険性を説くことは重要だが、現時点で彼女の心的負担を増やすべきではないと判断する。
「だから教えてほしい。伊吹の悩みで該当しそうなものを」
彼女を観察する。考えている、というより言うのを躊躇している風に見受けられた。ドラゴンに成ってしまうほどの悩み、それを出会ったばかりの俺に言うのは躊躇われるのだろう。痛いほど気持ちはわかる。それでも彼女の言葉を待った。急かすことも、撤回することもせず、ただじっと彼女からの返答を待つ。
「私の悩み…」
そう呟かれ、続きの言葉を聞き逃すまいと意識を集中させる。
「…私、学校に友達がいないの」
彼女の小さな口から出た答えは思春期の少年少女が抱えるには定番の悩みだった。大人たちや赤の他人が聞けば鼻で笑われるような、しかしそれはドラゴンに成るほど強力な悩みでも何らおかしくない、そんな悩みだった。
俺は彼女の悩みを決して軽んじない。人それぞれ考え方や感じ方、置かれた状況は異なるものだ。それなのに誰が人の悩みを一蹴できようか。
「もう少し詳しく聞かせてくれ。伊吹が話せる範囲で構わないから」
俺を信頼すべきか疑い迷うような眼差しを向けた後、彼女はありふれた一人ぼっちの話を語り始めた。ありふれていて、その苦しみを知らない人々や、考え方も感じ方も異なる俺には本当の意味で理解してあげることのできない、地獄のような日々の話を。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼女からの話を聞き終える。一時間弱で語り終えた後は、それに関連する俺との他愛ないやり取りを一時間以上話す。そんな時間の中で彼女との距離を僅かに縮めながら、話が中断された。中断された理由は時間である。二十三時五十九分。あと数十秒で日付が変わる。
一昨日は日付が変わるタイミングだったらしい。昨日は日付が変わって二十分後に変化が生じたとのことだ。
日付が変わる。彼女の体に変化はない。
二十分が経過する。彼女の体に変化はない。
四十分が経過する。彼女の体に変化はない。
一時間が経過する。彼女の体に変化はない。
二時間が経過する。彼女の体に変化はなかった。
「それじゃあ、夜が明けたら学校で」
そんな言葉を残して俺は伊吹家を玄関に手を掛ける。
「うん、今日はありがとう。ドラゴンに成らなかったね。角を折ったからかな?」
「わからん。まあ、慎重に分析していこう」
そう短いやり取りを交わして伊吹家を去った。
夜は暗く、気温はやはり低い。ナイロン製のジャケットが風から身を守ってくれることにありがたさを感じつつ、補導されないように周囲を警戒しながら歩いた。そうして周囲を警戒していたから、俺の後を追ってくる人物の存在にはすぐに気づいた。
「こんばんわ。挨拶ができてなくて申し訳ない」
夜中に見知らぬ人物から声を掛けられるのは恐い体験ではあるが、今に関して言えば問題ない。その見知らぬ人物が誰なのか見当がついた。
「伊吹さんのお母様ですか?」
俺の問いかけに目の前の女性は頷く。
「今日はこんな時間までありがとね」
伊吹の母親はハキハキとした口調で話す。身長が百五十センチちょっとしかない伊吹よりも十センチほど背は高いが、顔つきはやはり親子なだけあって似ていた。
「あなたはどこまで娘さんの状況を知っているんですか?」
まず最初にそう確認した。どこまで話すべきかを見定める。
「まあまあ、質問より先に名前くらい名乗らせてよ。私は伊吹 洋子。君は?」
「ああ、すみません。僕は柏木 司。伊吹さん…凛さんと同じ東浜高校の二年生です」
早とちりしたことに反省しつつ、お互いに自己紹介をする。この自己紹介だとあたかも学内で知り合ったみたいだが、実際は校外で昨日知り合ったばかりだ。そんな情報は余計と判断して伏せる。
「うん、よろしく。司君」
「はい、よろしくお願いします」
伊吹の母、洋子さんに俺を警戒するような態度は感じられない。娘が急に家へと連れ込み、真夜中まで時間を共にしていたのだから警戒されていてもおかしくない。それに加えて赤く長い髪という悪目立ちポイントまで俺は備えているのだ。
「そんな緊張しなくても大丈夫だよ。実を言うと私は君のことを知ってるんだ。といっても、今名前を聞いて確信したんだけどね」
「…僕を知ってる?」
「だからそんな緊張感を漂わせなくても大丈夫だって。ただ司君が有名人ってだけの話だよ」
有名人。伊吹からも言われた言葉。極悪非道の不良を更生させたなどの噂のせいで知られている。もしくは超有名人の柏木 聖菜の兄という点で知られている。おそらく後者だと思いつつも洋子さんの言葉を待つ。
「司君って藪岡組を壊滅させたでしょ。それで知ってるんだ」
予想は外れ、一年前に壊滅したヤクザグループの名前が出てくる。
「その藪岡組の関係者と私友達でさ。あっ、私は別に悪事に手を染めたことはないよ。そいつとは高校が同じで、ヤクザと関係を持ち始めてからは関わってなかったしね。んで、君が藪岡組を壊滅させた後にひょんなことから再開して、話を聞いていたってわけ。そいつも事件の現場にいたらしくて、高校生二人を見たって。そのうちの一人は赤くて長い髪の男だったって」
丁寧に解説してもらえて俺の存在を知られていた理由はわかったが、知られ方が特殊で少し動揺する。いくつか訂正しなければいけないこともある。
「僕のことを知っている理由はわかりました。ただ訂正させてください。確かに僕は藪岡組の事件と関わっていましたが、壊滅させたのは他の大人たちと現場にいたもう一人の高校生です」
当時のことを思い出す。あのとき俺は寵愛の力を使わなかったし、別に組員を倒したりもしていない。他の大人たちが巧みに藪岡組壊滅へのストーリーを作り、俺の友人がバトル漫画ばりに組員たちを倒していっただけだ。現場に目立つ赤髪の高校生がいただけで、あのときの俺の立ち位置はおまけみたいなものだった。
「なのでトラブルには関わってましたけど、今回凛さんが俺と関わることで危険な人たちに巻き込まれるようなことはありません」
確かに経歴だけを見れば俺は不良どころかヤバい奴だろう。しかし、それが理由で伊吹との関係を断ち切られ、彼女が最悪のケースに身を落とすなんてのは御免だ。だから俺は洋子さんにそう断言した。
「それについては別に心配してなかった…と言ったら噓にはなるね。君を警戒する気持ちは多少あった。でも、君を信頼する気持ちも私はちゃんと持っている」
伊吹ほど鋭くない瞳なのに、洋子さんの目には力があり、不思議と伝えられた言葉は信じられた。真っ直ぐな想いというべきか、不純物のない声音と態度を感じ取る。
「一つだけ確認したい。私は娘が抱えている問題を把握していない。凛は私に何も話さなかった。そして君には話した。君から見て、私は娘の問題に踏み込むべきだと思うか?」
回答に躊躇いが生じる。寵愛現象という常識外れの問題が関わっている以上は踏み込んでほしくないというのが俺の本音だ。伊吹だって自分がドラゴンに成っているなんて知られたくないだろう。しかし、伊吹と洋子さんは無関係ではない。正真正銘の親子であり、隠し通すという選択が正しいとはとても言い切れない。
「…もし、司君が私に気を遣って答えを躊躇しているなら、気なんか使わなくていい。私が凛の抱えている問題に踏み込むのと踏み込まないの、どっちが最終的に凛のためになると思う?」
俺の心情を察した洋子さんは、変わらない真っ直ぐな瞳で再び問うてきた。
「踏み込まない方がいい。これは伊吹自身が解決する問題で、俺はそのきっかけに過ぎません。だから洋子さんが深く干渉すべきではないと思います。少なくとも今は」
目の前の女性の真っ直ぐな瞳に当てられて、俺自身も誠実さを最大限示す意気込みで答えた。言葉に力が入ると同時に、装った一人称が崩れる。
「わかった。答えてくれてありがとう。一旦は様子見とさせてもらうよ」
そんな洋子さんの回答に安心した直後、眼前の光景に俺は目を見張った。洋子さんが深々と頭を下げたのだ。
「え、えっと、どうしたんで…」
「凛のこと、よろしくお願いします」
俺が当惑の言葉を言い終える前に、洋子さんの口からそう告げられる。この数年で様々な大人に出会ってきたが、ここまで誠実な態度の大人はいなかったように思う。それは関わってきた大人のほとんどが誠実さとは無縁の人種だったこともあるが、それでも柏木家のどこにでもいるような凡庸な両親を比べても、しっかりとした大人という印象を受ける。
伊吹はノリと勢いで生きている人なんて称していたが、俺から見た洋子さんは誠実さと力強さの人という印象である。
「わかりました。俺にできることはやります」
格好の良い返事など特に思いつかず、あるがままの意志を伝える。
「こんな真夜中まで凛に付き合ってもらって悪いね。そのうえ引き止めてしまって申し訳ない。夜道は危ないから気を付けて帰りなさい」
「はい。そうします」
そう言って去ろうとする最後に洋子さんは言った。
「もし私が踏み込むべき時が来たら、いつでも教えてほしい」
「わかりました」
洋子さんの言葉にはっきりとそう返事をして、俺は再び夜の道へと溶け込んでいった。
外灯の明るさと夜の暗さで光と闇をわかりやすく表現する世界を眺めながら、伊吹 凛のことを考える。
三白眼の鋭い目つきに似合う気の強い性格の彼女。気の強いと言うと大袈裟かもしれないが、話し方や態度からは気の弱いという印象は全く受けなかった。それは体がドラゴンに成るという異常事態を割とすんなり受け入れたこともそうだし、生えた角を躊躇なく切り落としたこともそうだ。
そんなどちらかと言えば気の強そうな彼女がドラゴンに成ってしまうほどの悩みは、学校に友人がいないことだと彼女の口から語られた。おそらくそれは嘘ではない。嘘ではないが、絶妙に腑に落ちない感覚があった。
今回の問題を解決する糸口はまだ足りえない。俺はできるだけ穏便に、かつ迅速に、問題を解決しなければならない。
この問題が引き起こす最悪のケース。ドラゴンが世界を滅ぼそうとしてしまう前に。




