第二章6 開幕
夕方の校舎は薄暗い。なんてことはなく真昼のように明るい。これがクリスマスの季節ならば薄暗いどころか闇に包まれているのだろうが、今は七月の前半だ。太陽が西に傾く速度も随分と遅くなった。
生徒会室まで道のりは遠く、その理由は生徒会室の立地の悪さではなく、俺の出発地点の問題だ。出発したのは別棟の二階。お助けクラブとかいうよくわからん集団の活動拠点だ。そこから本校舎の二階まで足を運ばなければならない。ちなみに本校舎二階のどこに生徒会室があるのかまでは知らない。あんまりこの学校に何の教室があるのかを俺は把握していなかった。
西に傾いてなお明るすぎる太陽は渡り廊下を照らす。窓の前を通るたびに直射日光を浴びて肌がじんわりと熱さられるのを感じた。程よく長い渡り廊下は短距離走の良い舞台となれる器があるのではないかなどと考えていると、思わず走り出したくなってしまう。廊下を走ってはいけませんなんて幼少期から習う常識の効力と、己の中に生まれた走り出したい衝動が鬩ぎ合っている最中、見知った人影が視界に映った。
「あ」
視線の先の女子生徒が声を上げた。いつもは奇抜という印象が先行するパステルカラーの緑髪は、この暑い季節には爽やかな印象を与えてくれる。目が大きく、わかりやすく美少女だとわかるその容姿は笑顔に変化しながら俺に話しかけてきた。
「どうしたの?サボり?」
「委員長が俺のことをどういう風に見ているかがよくわかるな。サボりじゃない。仕事だ仕事」
悪意なく俺の行動をサボりと推測した彼女に反論をする。
「生徒会に用があるんだよ」
「柏木君も?」
「え?委員長たちも生徒会に用があるのか?」
俺はそう言いながら彼女の隣に立っている安武 晴間に視線を向ける。
「ああ、肝試し大会の許可を生徒会から貰う必要がある」
「許可って…その許可を貰いに職員室に行ってたんじゃないのか?」
俺たち工作チームと違って、彼女たち調整チームは各所へと出向いていった。まずは当然、教師からイベントの開催許可を貰うことだ。
「先生たちからの許可は概ね得られたと言っていい。だけど決定打として生徒会の許可が必要だ」
「そんなもん教師がイベントしていいって言ってるならその時点で解決だろ?」
「普通ならな。ただうちの生徒会は権力持ってるから」
「権力って…漫画やアニメじゃあるまいし。現実の生徒会ってのは地味で何の権力もなくて内申点のために雑用をしている連中だろ?」
教師よりも権力のあるビックリ生徒会なんて現実で見たことも聞いたこともない。中学生になった俺は希望を抱いて生徒会室の扉を叩いたが、あったのは雑務の愚痴を零しながらも真面目に活動する労働者の姿だった。学園アニメを好んでいた俺としてはその現実に耐えられず、そっと生徒会室の扉を閉じたのだった。
「その言い方は嫌な感じだけど…うちの生徒会は凄いんだよ。校則や学校行事に対して先生たちよりも意見を通せるんだから」
委員長が声優のようなよく通る美声で俺の失礼な物言いに言い返してきた。
「なんでそんなことになってるんだよ、うちの生徒会は。生徒の意志を尊重すべしみたいな学校側の方針か?」
「学校の方針はその通りなんだが、そもそもそんな方針にさせた人がいるんだよ。二年前に卒業した生徒会長らしい」
「なんでもその敏腕生徒会長が校則から学校行事まで変更しまくってたんだって。多様性を重視して髪色自由の校則にしたり、修学旅行を一泊二日から三泊四日に変更したり。文化祭の規模も大きくしたり。その他にもすっごいたくさんの功績があるんだよ」
安武からの情報に加えて委員長が目をキラキラさせながら補足する。
「はー、それは大層なことで。まあ、俺からしたら髪色も修学旅行も文化祭もどうでもいいけどな」
「よくその赤髪で言えるな」
「これは地毛なんだから仕方ないだろうが」
学校行事なんて全て手短に済ませたい俺としてはいい迷惑だ。
「多くの生徒が感謝してるっていうのに、柏木君の考えは相変わらず変わってるね」
「ハッ、むしろその卒業したっていう生徒会長に苦情を入れたいくらいだぜ」
「その生徒会長の名前、柏木 翼っていうんだけど」
「姉貴じゃねえか!」
安武から告げられたまさかの事実に驚く。姉がこの学校に在籍していたのは知っていたが、生徒会長であることも伝説のように語られていることも知らなかった。知りたくなかった。
「それで柏木 翼元生徒会長に苦情を入れるのか?」
「入れるわけねえだろ。この世には逆らってはいけない存在がいるんだ。神と柏木 翼だ」
意地悪な笑みを向けてくる安武にそう返して話題を変える。委員長は俺の姉と面識もないからか、元生徒会長の正体に驚いている様子もない。
「まあ、姉貴が関わっているなら生徒会が教師以上に権力を持っていることは納得だ。むしろ教師をしもべにしていないほうが不自然なくらいだぜ」
「お前は翼さんを何だと思ってるんだ…」
安武に呆れた顔を向けられるが、姉貴の恐ろしさを知っている彼がその反応なのは個人的に納得いかない。
「生徒会の激動の歴史はわかったが、姉貴がいなくなった今も権力を有しているのは驚きだな」
当然、姉貴はもうこの学校にはいない。ならば生徒会の権力も失われているはずだが、先程の彼らの口ぶりだと現生徒会も権力を保有しているように聞こえる。
「それは今の生徒会長の影響だな。翼さんに負けず劣らずの手腕なんだよ」
安武が疑問に答えるが、その内容はいまいち信じ難い。あの姉と同列に扱われるほど優秀な人間がそんなにぽんぽんと現れてもらっても困る。
「現生徒会長ってアレだよな。確かあの髪が銀色で褐色肌の…」
全校集会なりでそんな生徒を見た覚えがある。見た目もそうだが声の発し方とか纏うオーラは確かに他の有象無象とは違っていた気がする。だが、全校集会での居眠り率九十パーセント越えの俺はあまりその記憶に自信がない。
「この学校にいて出てくる言葉がそれだけというのは、柏木君は本当に周囲に関心がないんだね。全く誇張抜きで会長は校長先生よりも強く広く認知されてるんだから」
呆れた様子で委員長はそう言うが、姿をなんとなくでも覚えているだけ褒めてほしいものである。それこそ直接的な関わりがないのに俺が姿を覚えているのなんてその生徒会長くらいだ。うちの校長については名前どころか顔も覚えていない。
「で、現会長様はいったい何をそんなに評価されてるんだ?」
これから交渉に赴くわけだから、少しくらい情報を仕入れようと二人に尋ねた。
「色々」
「たくさん」
「その色々とたくさんを答えてくれ」
二人して具体的な回答をしないものだから、俺はより強く情報を求める。二人は何から話そうかと悩んでいるような素振りをした後、まずは委員長が口を開いた。
「去年の文化祭で踊ってたんだけど、凄かった!」
「俺は会長様の手腕について聞いたわけであって、ダンスの能力を知りたかったわけではねえよ」
まず出てくる情報が文化祭で披露したダンスなあたり、本当は大したことのない人物なのではないかと思い始めてしまう。
「むー、本当に凄かったんだから。みんな会長の踊りに釘付け。体育館にいた全員が息を呑んで視線を注がせてたんだよ!」
委員長は食い下がるが、そんなに踊りの上手さを熱弁されても困る。俺が知りたいのはどんな実績を残しており、どんな人格の持ち主なのかという点だ。
「実際凄かったよ。俺もあの舞には見惚れてたし、去年の文化祭のステージパフォーマンスを思い出そうとしても、あの踊りの光景しか思い出せない程だ」
安武が補足することによって、委員長のオーバーな発言ではないということはわかった。彼をも唸らせるのであれば確かに素晴らしい踊りだったのだろう。
「まあ踊りが上手いのはわかったが、俺が聞きたいのはその他の情報だよ」
「歌もすっごく上手いんだよ!歌姫だよ!歌姫!」
「いや、だからそういうことではなくてだな…」
踊りが上手かろうが、歌が上手かろうが、他にギターやピアノが上手かろうが、そんなのは正直どうでもいい。
「学校の校則とかを変えたとかは特にないな。多少は変更があったが、些細な内容だった。まあ、校則については翼さんが魔改造した後だったし、そんなに変えたいと思える内容もないしな」
「だったら何がそんなに凄いんだ?」
話を聞けば聞くほど、生徒会という組織に教師以上の権力を持たせているという話の説得力は欠けている。
「会長自身が文武両道であることは確かなんだが、じゃあそれが今の生徒会の立ち位置になった理由かと言われれば違うしな」
安武は書庫から一冊の本を選び取るように言葉を模索しながら答えた。
「カリスマ性…ってやつだな」
「カリスマ性?」
思わず聞き返す。カリスマ性、言いたいことはなんとなくわかるが、どうしてもふわっとした印象を受ける言葉だ。具体的ではなく、明確な説明になっていない。
「この人ならできる、この人の言うことを聞けば上手くいく、この人についていけば自分では辿り着けないところまでいける。そんな風に思わせてくれる人だよ」
安武の絞り出した回答に委員長がウンウンと頷いている。俺は釈然としないながらも、これ以上聞いても無駄そうだと思い、話を切り替える。
「まあ、二人の言いたいことはよくわからんが、何はともあれ実際に会えばわかる話か。それじゃあ生徒会室に行くか」
俺はそう言いながら二人が立っている間を通り、先頭を歩き出す。
「あ、待って」
そうして足を前に進め始めた俺に待ったをかけたのは委員長だ。
「なんだよ?二人も生徒会室に行くところだったんだろ?」
「えっと…、うん、だから、私たち二人で行くから大丈夫だよ?」
委員長はなぜか気まずそうな表情をしながらそう答えた。
「ん?別に俺も同行するぞ。せっかく別棟からここまで歩いてきたことだしな」
もしかするとイベント開催のための各所との調整役は彼女らの仕事だから俺に気を遣っているのかもしれない。しかし配慮はご無用だ。それで言うと各所との調整役のヒューマも現在は小道具作成班の仕事をしている。一応は役割分担をしたわけだが、何もそこまできっちり線引きする必要はあるまい。
「…いや、ほら、何事も適材適所というか…、得手不得手があるというか、計画通りに進めるためというか…」
いまいち煮え切らない言葉を紡ぐ委員長に対して疑問を顔に浮かべると、安武が淡々とした口調で言葉を発した。
「司がいると余計なこと言って交渉決裂になりそうだから、生徒会との交渉は俺と速川に任せてくれ」
彼の紡ぐ言葉の一音一音を丁寧に咀嚼するように俺は脳に浸透させた。彼らの言いたいことを理解した俺は反射的に言葉を発する。
「俺を信用してないってことか!?酷いな!俺も交渉の一つや二つくらいできるっていうのに!」
癇癪を起した子供のように俺は二人に抗議する。
「だって司は失礼な態度と無礼な言葉を発しそうじゃん」
「失礼な!俺はいつだって礼儀を重んじて生きてるんだぞ。いいから二人ともつべこべ言わずに俺に従え!」
「凄い。私たちに対しての礼儀を感じられない言葉が速攻で出てきた」
委員長の零した感想がまるで決め手になったとでも言うように、二人は俺を置いて歩き出した。
「まあ、今のやり取りは半分冗談として」
「半分本気なのかよ」
俺はツッコミを入れるが、安武は気にせず言葉を続けた。
「司に頼るタイミングは今後も出てくるよ思うから、今回の生徒会長との交渉については俺たちに任せてくれよ」
「…わかったよ。別に俺も交渉がしたいってわけではないしな」
なんだか丸め込まれた気がするが、今回は受け入れてやろう。
「それなら二人に頼みがある。交渉条件の変更だ。もともと俺が生徒会に行くことになったのはそれが理由だ」
「というと?」
「肝試し大会の許可を貰うのではなく、肝試し大会の運営として生徒会も巻き込む。それで予算と人員を確保する」
「なるほど、了解した」
安武が微笑みを浮かべて交渉条件の変更を受け入れた。そうして二人は生徒会室へと向かっていく。俺は結局生徒会室の場所を知れずに終わった。まあ、生徒会室に行くような用事は今後も発生しないだろうから別にいいのだが。
模範生徒と呼べる委員長と安武の二人ならイベント開催の許可を貰うことは容易だろう。生徒会の協力まで得られるかはわからないが、そこは任せるしかない。
そうして重大ミッションを二人に奪われた俺は、蒸されたように暑い校舎によって渇かされた喉を潤そうと自販機に向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数々の品が丁寧に並べられた自販機で、三秒と悩むことなくビタミンが豊富であることを売りにしているようなパッケージの炭酸水を購入した。自販機の下部のほうに吐き出されたペットボトルを取り出すために屈むと、長い髪の毛が汗ばんだ頬に張り付いた。その気持ち悪い感覚を拭うようにペットボトルのキャップを回す。回したキャップからは炭酸が弾けるような快音が轟き、心なしか上がった体温を下げてくれた気がした。
舌でシュワシュワとした刺激を有するレモン味を感じる前に、まず初めにピリピリとした感覚が喉を通る。遅れて甘ったるいジュースの味が口内に蔓延した。爽快感を感じられるのに体に悪そうな味がするという飲料水に僅かな矛盾を感じるが、深く考えることなくゴクゴクと腹の中に水分を流し込んだ。
流石に傾いた太陽もオレンジ色を帯びてきたらしく、世界の色どりは爽やかな青からノスタルジックを感じさせる橙色へと変貌を始める。そうして西日に目を向けていたところ、その光景の中に三人の男子生徒が映った。彼らは三人とも同じ場所へ視線を向けて何やら話している。一体何に話しかけているのかと目を凝らすと、男子生徒三人に隠れるような形で女子生徒が立っているのが見えた。
まさか校内でナンパだろうか。それはなかなか手近なところで済ませようとしているなと思っていると、彼らの姿にほんの少しだけ違和感を覚えた。何と言えばいいのだろう。彼らの表情が高揚していて、もっと言えば興奮しているようにも見えた。まさか教師に見られてもおかしくないこの場所で性欲を抑えられなくなった思春期のオスどもが無理やり女子生徒に迫っているのだろうか。
考えすぎかと思いながらも、万が一に備えて俺は男子生徒たちのほうへと近づいていった。距離が縮まる度に彼らの声が耳へと入ってくるが、まだ単語を聞き取ることはできない。だが彼らの声が非常に上擦った音域に達していることがわかる。女子生徒の表情はこの位置からではまだよく見えないが、自分よりも大きい生き物に囲まれて恐がっているように見えなくもない。
とりあえず俺は声を掛けてみることにした。もしこれがナンパではなく、ただ仲良しグループで談笑しているだけであれば俺は赤っ恥をかくことになるが、もし女子生徒が困ってるのであれば恥をかく可能性などいくらでも受け入れよう。俺は紳士的でジェントルマンで高潔なのだ。
「そんな自分から要求してきたのにあんまりっすよ。絶対楽しいからこの後一緒に行きましょうよ」
男子生徒の一人が半笑いの表情を浮かべながら女子生徒に一歩迫る。鼻の下が伸びているという言葉をここまで体現できるのかと思わせる表情だ。どうやら本当にナンパしていたらしい。まったく、場所も考えずにおめでたい奴らだ。
「おい、どういう状況だ。その子困ってるんじゃ」
背後から歩いてきた俺に気付く様子もない彼らにそう話しかけた瞬間だった。
「ふん。つまらん」
そんな渇いた言葉とは裏腹にやけに鮮明に耳に響く音がした。そして目の前の男子生徒がカクンと前のめりに体勢を崩した。
「へ?」と間抜けな声が男子生徒から漏れる。その状況に俺も残りの男子生徒二人も理解が追い付かぬまま、間抜け声を上げた男子生徒は宙を舞った。宙を舞った彼はいつの間にか回転しており、俺の顔と逆さになった彼の顔が同じ高さへと来て、目が合った。同じ目線なのに片方は逆さまという貴重な体験をしながら、俺は固まっていると「ぶへっ」と不細工な声が足元から鳴った。
足元を見る。不細工な声の主の正体は宙を舞った男子生徒だ。鮮やかに宙を一回転した彼はいつの間にか地面に落ち、綺麗に受け身を取れずに不細工な声を漏らしたらしい。
「お前らも転がしてやる」
また脳を刺激するような声が聞こえた。推しの声優なんかがいる人は、永遠にその声を聴いていたいと本気で言っていたりするものだ。俺としてはいい声だなと思っても、永遠に聞いていたいなんて思ったことはなかった。今日、初めてそういう風に語る人たちの気持ちがわかった気がする。
脳が状況を把握する前に、またしても男子生徒が宙を舞った。先程と違うのは宙を舞う男子生徒の個体だけでなく、宙の舞い方だ。足元に倒れている男子生徒は側転をするかのように宙を舞った。つまりは綺麗に頭と足の位置が反転していた。現在進行形で宙を舞ってる男子生徒は斜めだ。斜めに回転している。
これだけ聞くと最初に宙を舞った男子生徒のほうが綺麗な舞だったかのように聞こえるが、斜めに回転している彼もなかなかに美しい軌道を描いているように思う。
そんな俺の感想の途中で「ううぇっ」「ぶえっ」とカエルの鳴き声のような音が足元から鳴った。どうやら、一人目が倒れている位置に二人目も綺麗に重なったらしい。
「ふむ、お前らの芸は評価に値しなかったが、これはなかなか愉快だぞ」
またも聞いていたい音域の声がした。そしてもはやお決まりとでも言うように、三人目の男子生徒が宙を舞った。今度は綺麗に横回転をしている。俺は幼少期に熱中していたベイブレードを思い出していた。
「ぐふっ」「うっ」「あいたっ」と三つの声が足元から鳴って、俺はようやく口を開けるターンが回ってきたと思った。それまでは状況を理解するのが間に合っていなかったし、なんとなく男子生徒を投げ飛ばすという女子生徒の暴挙を邪魔してはいけないと思ってしまっていた。
「おい、いくらなんでもやり過ぎじゃ」
「興が乗ってきた」
「へ?」
女子生徒を助けるつもりが、何故か男子生徒を擁護する立場になってしまった俺は抗議の言葉を掛けようとするが、その途中で耳心地の良い声音が挟まれる。俺は先ほど投げ飛ばされた男子生徒三名と大差ない間抜け声を上げる。
次の瞬間、あまりに滑らかな動きで袖を彼女に捕まれ、俺の比重はカクンと前に傾く。これはマズイと思い考えるより先に体が抵抗をして、何とか体勢を立て直した。
「ほう、抗うか。一点やろう。百点満点中だがな」
不意打ちを回避した俺は一矢報いた気持ちにすらなれないまま視界が激変した。まるで空を飛んでいるような、スカイダイビングとはこんな感じなのだろうかと思ってしまうような時間だった。そもそも林間学校で高所から落ちるというスカイダイビングを経験している俺がこんな感想を抱くのもおかしな話ではあるのだが、そんな感想を抱いてしまうほどに初めての体験だった。
いや、初めてではない。世界の時間がゆっくりと流れる中で、俺は走馬灯のように過去を回想していた。思い返せば、小学生の頃に本で読んだ武術の技を試したいからとかいう理不尽な理由で姉に投げ飛ばされていたのだ。あの時もこんな感覚だったな。ということは現在俺は投げ飛ばされた後ということらしい。それを理解して受け身の準備を始める。が、長い。なかなか落ちない。
あれ?本当に宙に浮いてしまったのだろうか?そんな疑問が頭によぎった頃、落ちない理由に気が付いた。何も走馬灯を見ており時間がスローになっていたわけではない。単純に投げ飛ばされた高さが下で這いつくばっている彼らよりも高いのだ。その証拠に一回転で地面まで辿り着けた彼らと違って、俺の体は既に一回転半している。地面に落ちる頃にはさらに一回転半して、合計三回転を決めていることだろう。これがフィギュアスケートなら高得点を得られるかもしれないが、残念ながらここはスケートリングの上ではなく高等学校の中庭である。落下先が芝生なことが救いだ。
いや、このままだと既に三つに重なっている男子高生の肉塊の上に俺も落ちることになりそうだ。そもそも上手く着地ができない時点で何回転してようがスケートの得点には加算されないか。
落ちるまで考えることもないので、そんな下らないことに頭を使っていると「ふんぐべぇっ」と今日聞いた中で最も不細工な声が耳に届いた。俺の声だった。
「…なにしやがる」
三人の男子生徒を下敷きにしながら俺は目先に立つ女子生徒を見上げる。まず目に映るのは赤色のスリッパだ。東浜高校は学年別にスリッパの色を変えており、赤色は三年生の証だった。そのまま視線を上に映すと、足首とふくらはぎの間くらいで溜められた白のルーズソックスが見える。そして膝下から膝小僧を過ぎて太ももに目をやるとハリのある褐色肌があった。
数こそ少ないがこの学校に褐色肌の生徒は複数いる。母国が南のほうなのだろうと思われる見た目の生徒をこれまでの高校生活で三人くらいは見たことある気がする。彼女はそのうちの一人ではないだろうか。
そうして太ももからさらに上へと視線が進むと、見慣れた学校指定のスカートが微かに揺らいでいた。スカートにタックインされた白シャツが褐色肌とよく似合う印象を与えてくる。そしてようやく女子生徒のご尊顔を拝む。
「ぶへっ」
その瞬間、視界が急にブラックアウトした。何事かと顔の神経に集中してみると、硬くも柔らかくもない材質の何かが俺の顔面を踏みつけている。いや、踏みつけているという表現をした時点で現状の構図には気付いていた。赤色のスリッパが俺の顔面と接していた。
「何しやがるッ!」
先ほど投げかけた問いと同じ言葉を使って叫ぶが、先ほどよりさらに語気が強まった。
「不細工な視線を私に向けようとしたから止めてやったんだ。獅子が威嚇する様ならまだしも、お前のような不細工が顔を歪めるだけの滑稽な様は見たくもない」
俺の男らしい睨み顔を滑稽と一蹴した彼女は、俺の顔面に置いた足を元の位置に戻す。そうしてようやく目と目が合った。息が止まった。
目の前の女性は美しい。浅黒い肌に形として完成された銀色の眉が一体化している。形の良いのは眉に限らず、目も鼻も口も耳もだ。パッチリと大きい目はキリっと美しい曲線を描いた睫毛によって切れ長な印象も与えてくる。何より美しいのは宝石のように、いや宝石すら霞んでしまう程に綺麗な翠色の瞳だ。その瞳が俺の赤い目を捕らえている。
彼女が三歩分の距離を詰め、しゃがんだ。俺の目の前に彼女の顔がある。肩に届かない短めの銀髪が視線の先で揺れた。見惚れる、なんて言葉を使いたくはないし、もちろん惚れたわけでもないのだが、それでも今の自分を表す言葉は見惚れている人間だった。
しかし、見惚れていたのは彼女の美しさだけが理由ではない。確かに非常に整っている容姿ではあるが、それだけなら委員長や俺の姉なんかも十二分に整った容姿をしている。彼女らは芸能界に入ったとしても埋もれない美貌を有している。
だが、目の前で何かを考えるようにこちらを見つめる彼女はそれ以上の何かがあった。芸能界にいれば埋もれないどころか、数多の美の中でも最も目を引く何かがあった。カリスマ、オーラ、唯一無二、そんな言葉では彼女を言い表すのに陳腐だが、俺にはそんな言葉しか当て嵌められない。凡人も秀才も天才も有していない、生まれ持った特別な何かが彼女にはある。
「お前、間抜けな表情をしていなければ最低限整った顔をしているな」
目の前の彼女がこちらに語りかける。彼女の息が掛かるほどに顔は近づいている。きっといい匂いがするのであろう息も、俺自身が無意識のうちに呼吸を止めてしまっているため感じられない。
「赤い髪も赤い瞳も悪くない」
どうやら俺に興味を持ち始めたらしい彼女は、急に表情がムッとなった。そんな彼女からは先程まで感じていた美しさに加えて可愛らしさを覚える。
「お前、アレの弟か」
アレ、というのがどれのことかはわかった。
「なんだ、姉貴を知っているのか。ご愁傷様」
見惚れていたことなど悟られぬよう、俺は平静を努めながら彼女に同情の言葉を贈る。実際、あの恐ろしくて面倒な姉と関係があることは同情に値する。
「アレの弟にしては随分と不細工だな」
「余計な感想だな!」
再び俺の顔をまじまじと見た彼女の感想がそんなものだったので、俺は声を荒げて抗議した。
「そう叫ぶな。唾が不快だ。あと臭い」
傷付けられた俺にさらに追い打ちがかけられる。臭いって、キモいとかウザいより精神的ダメージがあるな…。毎日朝昼晩、歯磨きに加えて舌磨きまでしてるんだけどな。
「それでお前は誰なんだよ!」
傷付いた内心から逃げるように俺は話題を変える。問うたものの彼女の正体は知っている。この学校の生徒会長だ。俺も全校集会なんかで見たような記憶があるが、基本的に集会系の行事はサボるか参加しても寝てるかなので記憶が朧気だ。そんな校長の顔も思い出せない俺でも彼女の容姿に見覚えはあった。特徴的な見た目だから覚えていたのだと思っていたが、今にして思えば彼女の纏っているオーラに影響されていたのかもしれない。
「私を知らないのか?」
「生徒会長だろ?だけど名前は知らねえよ」
「名も知らぬとは恥を知れ。無知は恥なのだぞ。お前の名は何だ?」
「名も知らない無知は恥じゃないのかよ…。俺の名前は柏木 つか」
「私はホウオウ アスカ。中国神話に名を馳せる鳳凰に、明日も羨望される香りで明日香だ」
「聞いてきたくせに俺の自己紹介を遮るな!あと名前の説明ですら偉そうだな!」
傍若無人な態度の彼女に苦言を進言するが、予想していた通り届いている様子はない。
「それで愚弟は何しに近づいてきたのだ?」
「まさか姉貴以外から愚弟と呼ばれる日が来るとは思わなかったぜ。何しにって、ナンパされて困ってるのかなと思って助けに来たんだよ」
「それはとんだ勘違いだな。勘違いで生涯の恥を刻むとは、あまりに憐れで笑いを誘う」
「そこまでの恥じゃねえし、人の恥で笑おうとしてんじゃねえよ」
そうして先程の見惚れていた時間が嘘だったかのように彼女を睨んだタイミングで「あ、あの」という声が下から聞こえてきた。
「そろそろ退いてくれないですかね…。俺たち、もう帰るんで」
すっかり意気消沈した様子の男子生徒三人は疲れた表情をしている。俺が退いてやると彼らは「失礼しました」と言ってこの場をそそくさと去って行った。
「それで、ナンパじゃなかったんなら一体どういう状況だったんだ」
立ち上がった俺は再び彼女と向かい合う。意外なことに彼女の身長は低い。低いと言っても女子の平均よりは僅かに高いのだろうが、それでも俺との身長差は頭一個分ほどあった。
「私のことを遠巻きに見てひそひそと喋っていたからな。何か余興をしろを命令したんだ」
「いきなり何言ってるかわかんねぇ…」
「そしたら奴らは猿のような顔と動きを披露した。つまらんかったが慈悲深い私は何度かチャンスをやった」
おそらくあの陽キャ男子たちは内輪ノリだと大好評の一発芸でも披露したのだろうが、彼女からは猿としか評されなかったのだろう。まあ、鼻の下も伸びてたしな。
「しかし芸とも呼べない醜態しかこの美しい瞳には映らなかった。猿のほうがまだ私を楽しませる芸ができるというのに」
それはたぶんその猿が凄いんだよと思ったが口にはしない。
「寛大な心で罰を与えることもせず奴らに去れと命令したが、愚かにも奴らは食い下がった」
「なるほど。だからムカついて投げ飛ばしたのか」
「違うぞ」
「違うのかよ」
さっきから全然彼女の思考回路を読み解くことができない。
「奴らがあまりにも憐れに思えてな。慈悲の心を以てして私の芸に参加させてやったのだ」
「お前は人を投げ飛ばすのを芸と呼んでいるのか!…ということは俺も芸の一環で投げ飛ばされたのかよ」
「だから疑問に思ったのだ。浅ましくも私の芸に参加したいと思い近づいてきたのだと思ったからお望み通り投げてやったのに、この私に罵倒を向けたからな。まさかナンパから女子を救うというシチュエーションに酔い痴れるために近づいてきたとは思わなかった」
「人の善意をそんな風に受け取るんじゃねえ。あと投げられたいと思って近づいてくる奴なんてこの世にいて堪るか」
勝手な事ばかりを口走る彼女には怒りを通り越して呆れが押し寄せてくる。
「話を戻すが愚弟よ」
「愚弟と呼ぶな。お前は俺の姉なのかよ。俺には司っていう賢そうな名前があるんだ」
「贅沢な名だな」
「湯婆婆か、お前は」
危うく名前を奪われそうだ。でも名が一文字の場合、どういうふうに命名されるのだろうか。ツカサの"ツ"を取られてカサとかになったりするのだろうか。それはそれでコードネームみたいでカッコいいな。
「それで愚者は」
「愚弟が愚者になっただけかよ!酷いなお前!」
「いちいち口を挟むな。もう少し利口にならねば猿とも呼んでやれん」
「お前の中で俺は猿以下なのかよ」
「未満だ」
「より酷いっ!」
言葉を交わせば交わすだけ俺の傷口が広がっていくという恐ろしい状況だ。俺はこれ以上傷口を広げまいと余計なツッコミは封じることにする。
「それで愚者はアレのなんだ?子分か?奴隷か?」
彼女が俺に聞きたいのはどうやら姉関連のことらしい。上げられた関係性のチョイスが嫌なものしかない。
「子分でも奴隷でもないよ。あんなのとは敵だ。姉貴がどんなにこき使ってこようと、俺は些細な抵抗を続けると心に決めてるんだ」
些細な抵抗、というのが肝である。これが本気の抵抗になってしまうと殺されかねない。でも俺、林間学校で本気の抵抗をしたな…。いや、あのときは殺されかけたからやっぱり俺の感覚は正しいのか。思い返せば思い返すほど、あんな姉を持って生まれた不運を呪いたくなる。
「ほう、悪くない。お前はアレが嫌いなのか。私も奴は気に食わん」
そう言った鳳凰先輩はご機嫌を良くしたご様子だ。
「共通の嫌いな人を見つけたからって喜び過ぎじゃないか?」
「アレが対象でなければ他者の評価など微塵も気にならん。ただアレに関しては他からの評価が異様に高くてな。私からすれば多少能力があるのをいいことに傲慢に振る舞うだけの女なのだがな」
自己紹介かな?と思ったが口にはしない。どうやら彼女は同族嫌悪的な意味で姉を嫌っているらしい。俺が姉を嫌いな理由はいじめてくるからなので、嫌っているという結果は同じでも根幹は異なるようだ。わかり合えそうでわかり合えない。
「まあ、確かに周りから褒められる姉貴の姿は鼻につくな。世の中、もっと謙虚で高潔な人間が褒められるべきだ」
俺みたいに、と内心呟く。頭の中で友人たちからのツッコミの声が響いた気がしたが、きっと気のせいだ。
「私みたいに」
「うわ、この人、声に出して言っちゃったよ…」
俺が内心で留めた言葉を迷いなく放った彼女にドン引きする。
「良い気分になったからお前の望みを一つ叶えてやろう」
嫌いな人が一緒という醜い共通点を見つけて上機嫌になった彼女はそんな提案をしてくる。
「こんなことで望みを叶えようとするなんてチョロ過ぎないか?というか望みを叶えるってお前は神か何かなのか?」
「いるのかいないのかもわからん影の薄い神なんかと一緒にするな。私は世界の中心に最も美しく気高く荘厳に存在しているのだぞ」
彼女は胸を張って堂々と言い放つ。胸の位置に添えられた左手も、太ももの外側にピンと伸ばされた右手の指先も、変なポーズなのにやけにサマになる。きっと俺が同じポーズを取れば滑稽なのだろうが、それが彼女だと世界で最も美しいポーズにすら見えてくる。
「神を落として自分を上げるとは畏れ入った。望みねぇ…別に美人の先輩に叶えてほしい望みなんて」
そこまで口を動かして思考が回る。僅か一秒にも満たぬ間に目の前の美女にしてほしいことの候補が次々と浮かんで、目まぐるしく脳内を回る。
「フンヌッ!」
俺はそう奇声を上げながら己の両頬をバシンッと叩く。思ったよりも凄い音が響き、脳が揺れたのか目眩がした。
「急に自傷行為に走って何をしている?マゾヒストなのか?私は喜ぶ奴を痛めつけるのはつまらんからせんぞ」
「はは、俺はマゾヒストでもサディストでもありませんよ。強いて言うなら紳士でジェントルマンで高潔な男子高生です。よって美女が何でも言うことを聞いてくれるとしても、俺は何も望まない」
両頬の痛みが自身を覚醒させ、ジェントルマンとなった俺はイケボで鳳凰先輩に返事をする。百二十点の返しができる自分に惚れ惚れしながら彼女の反応を待った。
「何やら気持ち悪い顔と声で訳のわからん言葉を発しているようだが、私が望みを叶えると言ったのだから何か申せ。さもなくば処す」
どうやら俺の紳士さは伝わらなかったらしく、淡々とした口調で望みを言えと脅迫される。
「といっても別に望みなんて…あ」
言葉を呟きながら俺は仕事の内容を思い出す。むしろ生徒会長を前にして今まで忘れていた方が不思議なくらいだ。
「終業式の日の夜に学校で肝試し大会を開催する。生徒会もスタッフとして協力してくれ」
「よかろう、叶えてやる。少しは楽しませろよ」
望みを叶える立場の彼女は楽しませろとおかしな要求をしてくる。が、これで生徒会の協力を得られるのであれば御の字だ。
鳳凰先輩はくるんと体を反転させ、日が昇る方角へと歩き出す。
「ついてこい」
ただそう一言発して彼女は進んでいく。夜が近づいてきたので当然太陽は背面の西へと沈む最中なのだが、俺は彼女が歩く先のほうに太陽があるのだと錯覚した。そう思ってしまう程に優雅に歩く後ろ姿は神々しく輝いて見えた。
姉のような天才とも違う、委員長のような人気者とも違う、鳳凰 明日香という個体だけに授けられた特別な何かを感じながら、俺は彼女の背中を追った。
これが俺の人生における鳳凰 明日香の初登場であり、俺の瞳の中心でも美しく気高く荘厳に存在する彼女の舞台の開幕である。




