第二章4 意志
新しい朝が来た。希望の朝だ、と言うほど俺の朝は別に希望に満ち溢れてはいない。基本的には平凡で目的のない日々を怠惰に過ごしているだけである。
まだ朝だと言うのに外はギラギラとした太陽の主張が激しく、俺は目を細めた。太陽から逃れるように視線を下へ向けると、逃れたはずの太陽によって照らされたアスファルトがまたも俺の目を刺激する。上も下も前も目を開けていられない世界を呪いながら、いっそのこと目を閉ざしてしまおうかと思ったところに見知った後ろ姿が見えた。
小さな背丈の後ろ姿は歩幅も小さいようですぐに追いついた。人違いだったら生き恥が刻まれてしまうので、念のため顔を確認してから声を掛けようとする。そうして覗いた顔には小顔に合わない大きな黒縁メガネが付けられており、昨日知り合ったばかりの加藤だと確信する。
「おはよう。雲一つない良い朝だな」
思ってもない朝の感想を口にしながら話しかける。今日の目標は加藤に嘔吐させないことだ。そのためには程よいパーフェクトコミュニケーションが必要となる。つまり俺の得意分野だ。
そんな俺のパーフェクトコミュニケーションを受けた加藤は、顔を上げて目が合ったかと思うと光の速さで俯いた。そのまま歩く速度は加速していき、俺の傍から離れていく。
「待て待て待て待て!俺との出会いをなかったことにするな!昨日築き上げた関係値をなかったことにするな!」
そう大声を上げながら加藤のもとに駆け寄ると、一言も発さぬまま彼女は走り出した。
「逃げてんじゃねえよ!」
そう言って追いかけるがなかなかに追いつけない。細い足からは想像できないスピードで彼女は駆けていく。
「なんでそのキャラで運動神経いいんだよ!」
そんな理不尽なツコッミをしながら全力疾走で追いかける。が、追い付かない。ひょっとして俺より足速い?
そうして距離は離されていき、姿が見えなくなりそうになったところで俺は反則技を使う。身体能力を人の域を超えたものへと強化する憤怒の寵愛を発動した。発動したのは僅か二秒。だが二秒もあれば十分で俺は加藤を捕らえた。
「ぴぎゃー!」
加藤が珍獣のような鳴き声を上げるが知ったことではない。俺から逃げようとした大罪への裁きを下してやる。加藤の脇下を両腕で抱えるように持ち上げる。必然的に身長の低い加藤は宙に浮き、俺の胸の中でブラブラと揺れることしかできない。
「ぷぎゃー!」
相も変わらず珍獣として鳴く加藤に俺は物申す。
「俺から逃げようなんざ百年早いんだよ!さあ、まずは俺におはようの挨拶を返してもらおうか!」
「無理ですぅ。昨日は変なテンションになって喋れてただけなんです。家に帰って思い返してみたら豊富なやらかしと私なんかが人様に関わってはいけないという自戒を思い出して、関係をリセットしようと決めたんです。だからもう私は喋ることのない生き物になってしまったんですぅ!」
「そう言うわりにめっちゃ喋るな…」
卑屈さとテンションの高さを融合させながら喚く加藤の姿を見て、逆に俺は冷静さを取り戻す。自身を凌駕するハイテンションを目の前にすると冷めてしまうのが人の性だ。というか、俺はなぜ憤怒の寵愛を発動してまで加藤を捕らえたのだろうか。急に冷めてしまった俺は、とりあえず抱えた彼女を下ろしてやろうと思った。
「何してるのかな?柏木君?」
後ろから声が聞こえた。とても冷たい声だった。振り返ると肩まで伸びたパステルカラーの緑髪がよく似合っている東浜高校の三大美女の一角、速川 日和が立っていた。彼女は口角を上げた表情をしているが、内心では全く笑っていないということがひしひしと伝わってくる。いつもはプンプンという可愛らしい擬音を纏って怒る委員長が、今は全く擬音を感じさせない怒り方をしていることがわかり、背中に冷たい汗が伝う。
「な、何って、ただの朝の挨拶さ!良い天気だったからテンション上がってこうなってしまったわけだよ!」
そんな言い訳をするが、委員長の全く笑っていない瞳が俺たちの姿を映していた。真面目そうな女子高生を羽交い締めしている赤髪の不良みたいな男子高生の姿がそこにはあった。
「…今日は良い天気じゃない、、太陽が眩し過ぎる、、私こんな天気は嫌い、、光嫌い、、」
「お前はなぜ余計なタイミングで余計な口を挟むのかなぁ」
なぜか天気の話題に食い付いてきた加藤に苦言を呈する。
「そろそろ真面目に答えてほしいんだけど。どうして力の強い柏木君が、か弱い女子高生を羽交い締めにして、今こうしている間もその体勢のままなのかな?」
いつもの可愛らしい怒り方じゃない委員長に泣かされそうになりながら、俺は加藤を地面に下ろした。加藤はなぜか地面に両膝をついた体勢のまま固まる。
「ちょっと、加藤、加藤さーん、そんな様子だと俺が痛ぶってたみたいじゃないか。今すぐ立ち上がって元気な姿を見せてくれよ」
「私、疲れた」
俺の懇願に加藤は小さく呟くだけで動こうとしない。委員長の視線はますます厳しいものになっていく。
「よし、わかった。今は冷静に話し合おうじゃないか!」
人間には言葉という素晴らしい文明がある。会話という平和的解決のための手段がある。俺はその選択肢を提示した。
「あなた加藤さんっていうのね。大丈夫だった?」
俺の言葉を完全に無視して委員長は両膝をつく加藤へと駆け寄った。そして、あなたトトロっていうのね!みたいなセリフを吐いた後に、天使のような優しい声音で加藤を心配する声を発した。
その声を聞いて加藤もゆっくりと顔を上げる。そして東浜高校の三大美女と称される美しい女神と目が合った。
「天使…いや、女神様?」
茫然とした表情を浮かべながら加藤はぽつりと呟いた。そして、
「ヴォェー」
美しい女神とは対照的な聞くに堪えない声とともに、輝く太陽に照らされたアスファルトが汚されていく。
「…眩しすぎる」
吐き終わった加藤は短くそう呟いて意気消沈した。委員長は目の前で起きた突然の嘔吐にパニックのようであたふたしている。俺はその光景を見ながら、やはり加藤と委員長は混ぜるな危険だったかと一歩引いた位置から分析していた。
どうやら「良い朝だな」なんて思ってもいないことを言うべきではないらしい。今日は紛れもなく最悪の朝だった。
加藤に嘔吐させないという俺の今日の目標は、僅か数分で失敗したのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が所属する二年七組は学年内で当たりのクラスと呼ばれている。理由は単純にクラスの雰囲気がいいからだ。いじめとか嫌がらせとかはなく、学校行事に対しても斜に構えたりせず皆で楽しもうという姿勢を貫いている。一部、赤髪の問題児はいるのだが、クラスの皆が適度な距離感を保つことで平和は実現されている。
ではどうして赤髪の問題児を除けば何一つ不満のなくなるクラスが出来上がったのかと言えば、学級委員の二人のおかげである。
委員長の速川 日和は常に明るく振る舞い、誰にでも対等に話しかけ、いつだって困っている人に手を差し伸べる姿勢を貫いている。それに感化されたクラスメイトにも明るさと優しさが伝播し、自ずとクラスの雰囲気は良いものとなる。
一方で副委員長を務める安武 晴間は場の調整が上手い。クラスが揉めるような問題があれば、裏で個々人と話をして丸く収まる方向に誘導し、気付けば問題は問題ではなくなっている。それに委員長から話しかけられると身構えてしまうような、スクールカースト下位なんて呼ばれる連中からも安武は心を開かれている。委員長ほど陽のオーラを放っておらず、見た目や言動から誠実さが伝わってくる彼は万人に親しみやすさを抱かせるのであろう。
委員長がクラスを先導し、安武がクラスメイトを円からはみ出させない。そんな奇跡的なバランスによって二年七組は保たれている。逆に言うとこの二人の片方でも欠けてしまえばバランスは傾き、クラスの雰囲気にも大きく影響を与える。
そして今、二年七組の雰囲気はと言うと、一週間くらい雨が続いている空のようにどよーんとしていた。静まり返っているわけではないのだが、雑談を交わす生徒たちの声量はいつもの半分以下になっている。
「日和、大丈夫?」
そんなクラスに一声が投じられる。声を投じたのはクラスの陽キャ女子ことカッシーだ。苗字は確か神代。下の名前は忘れた。それなりに整った容姿の彼女は美人と呼んで差し支えないのだが、芸能界でも通用するような顔面偏差値を有する委員長がいるこのクラスでは霞んでしまう。
「…うん」
カッシーの心配の声に暗くて小さい返事をしたのは委員長だ。いつも元気いっぱいの委員長しか見てきていないクラスメイトからすればこれは異常事態であり、クラス中が彼女に気を遣っている状況だと伝わってくる。
「何かあったの?」
普段からクラスの雰囲気づくりに最も貢献している委員長自身が暗くどんよりしていることで、クラスの空気は重い。俺が勝手にクラスのお調子者枠と呼んでいるスズキングとオギコも余計な口を挟まないようにして、今はしっかり者のカッシーに任せている。ちなみにスズキングの苗字が鈴木であることは覚えているが、オギコについては原型も思い出せない。
「ううん。なんでもないの」
覇気のない返事をする委員長の姿が、よりクラスのどんより具合を加速させる。委員長がへこんでいるこの空間で笑って雑談してはいけないという空気が流れている。いつもは五月蝿い陽キャグループもこれには困ったご様子で、委員長になんと声を掛ければいいか決めあぐねている。
ふと視線を感じ、そちらを見ると安武と目が合った。彼はお前が原因だろとでも言いたげな表情をしている。失敬な。俺じゃねえよと視線を送り返すと、彼はこちらへと近づいてきた。
「司じゃないなら誰なんだよ?」
「当たり前のようにアイコンタクトでのやり取りの続きから話を始めるな」
以心伝心過ぎて怖い。友情とかより怖さが勝つ。
「悪い悪い。で、心当たりはあるのか?」
「ああ、俺の目の前で起こった悲しい事件だったからな」
「何があったんだ?」
夏によく合う短髪の頭を僅かに傾けて彼は問うてきた。
「委員長が俺に羽交い絞めされた女子生徒を助けようとしたんだけど、その女子生徒が委員長の顔を見た瞬間に嘔吐したんだよ」
「お前は何を言ってるんだ?」
呆れた顔でそう言われるが、俺としても起きた出来事をありのまま伝えただけだ。安武にそんな顔を向けられるのは心外である。
「事実をそのまま申し上げたんだよ」
「何を言ってるのかわからんから詳細も話せ」
皺の寄せられた眉間に手を添えた安武が出来事の詳細を要求してくる。説明がめんどくさいが仕方ないので教えてやることにする。
「その女子生徒とは昨日知り合ったんだ。ヒューマが肝試し大会の運営に勧誘したいって言ってた女子だよ」
「それはなんとなくそんな気がしてた。続けてくれ」
「名前は加藤って言うんだけど、ヒューマの言ってた通り凄い人見知りでさ。それでも俺のパーフェクトコミュニケーションで歩み寄って仲良くなったんだけど、今朝通学路で見かけて挨拶したら逃げられたんだよ。それで羽交い絞めして」
「おい、急にわかんなくなったぞ。なぜ羽交い絞めした?」
「おいおい、話を脱線させるな。委員長が落ち込んでるのと羽交い絞めは関係ないぞ。勢い次第で羽交い絞めする状況になることもあるだろ」
話の途中で口を挟む安武に呆れながら注意をする。すると安武は不服そうに返事をした。
「なんで俺が呆れられる側にいるんだよ。まあいい。一旦はいつもの司の奇行として置いておく」
「とんでもない置き方してんじゃねぇよ。俺が奇行に走ったことがあるか?」
求めた同意に対して想定していた反応はなく、己がよく奇行に走る人間として見られていることにショックを受ける。少し傷付いた自分の心を癒したいところではあるが、本題に戻さねばと思い咳払いを挟んで続きを話す。
「羽交い絞めにした光景を委員長に発見されて、俺は加藤を開放したんだ。両膝をついて下を向く加藤に委員長は駆け寄って声を掛けた」
「それで?」
「え?終わりだよ。それで加藤が吐いたって話さ」
「せっかく時系列順に説明してもらったのに、気になる点がわからないままなんだが…」
そう言われても起きた事実はこれ以上でも以下でもない。それでもなお理解してくれない察しの悪い男に俺は補足説明する。
「言ったろ?凄い人見知り…というかコミュ障なんだって。人と話そうとすると頭が真っ白になって喋れなくなるらし…いや、あいつそう言いながらめっちゃ喋るな」
補足説明中に俺自身が加藤のことをよくわからなくなってきた。なんなんだよあいつと思いながら、別の説明の仕方を考える。
「あれだ、緊張しすぎて吐く奴っているだろ。加藤もそんな感じなんだ。その緊張に加えて委員長から発せられる陽のオーラを過剰摂取した結果、嘔吐したんだよ」
「…わからんが、なんとなくだけわかった。慣れないことで緊張したんだな。その加藤さんは大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。昨日も俺の前で二回吐いてるし、今日はまだ余力があるはずだ」
「いったい何が大丈夫なのかわからないな…」
彼は再び眉間に手をやって頭を悩ませるが、こればかりは加藤と言う生き物の習性なので受け入れてもらうしかない。
「それで速川は自分のせいで嘔吐させてしまったことを落ち込んでるのか」
「そういうことだ」
加藤は吐いて、委員長は落ち込んで、俺はまた吐瀉物の掃除をさせられて、誰一人として幸せになっていない朝だな。
「そんな感じだから、もうしばらくは委員長を加藤には近づけられない。安武も近寄るなよ」
「俺もダメか?」
「たぶん異性ってだけで拒絶反応が起こるぞ。速川ほどではないにせよ陽のオーラ纏ってるし」
「わかった。肝試し大会の準備のほうは俺と速川で進めておくから、司は加藤さんを頼んだぞ」
そう言われて頷きはしたが、俺はいったい加藤の何を頼まれたのだろうか。とりあえずは人と関わっても吐かないように訓練させなくては。比較的に陽のオーラが出ていない七瀬に協力してもらって、徐々に慣らしていこう。
「柏木君」
そう方針を固めたところで声を掛けられた。声の主は委員長だ。きっと固まったばかりの方針に沿わないことを言ってくる。
「加藤さんともう一度話そうと思うんだけど、間を取り持ってくれない?まずは今朝のことを謝って、それから今度は仲良くなれるように色々と頑張ろうと思うの!」
悪意も悪気もゼロなので非常に言いにくいことではあるのだが、それはもう少し後にしてほしいことであった。まず委員長から謝られたら加藤の卑屈さが暴走して自傷行為に走りかねない。それに委員長が頑張ろう意気込んで距離を詰めるほど、加藤は太陽に焼かれる吸血鬼のように消失してしまうことだろう。
「気持ちは嬉しいんだけど…」
そう言いながら委員長の提案を拒絶しようとするが、キラキラとした瞳にやる気の炎が滾っており非常に申し上げにくい。
「加藤の吐瀉物の掃除とかもうしたくないから委員長はしばらく大人しくしてて」
申し上げにくいが、言いたいは言うのが柏木 司という男なのではっきりとそう伝えた。
「う、うぅぅ」
委員長が半泣きになる。瞬間、クラス中の視線が殺気となって俺に突き刺さるが気にしない。
「なんで司はそんな言い方しかできないんだ」
正面にいた安武が呆れた声音でそう言ってきた。俺としては委員長に大人しくしておいてほしい理由と指示を簡潔に述べただけのつもりなのだが。
「速川、加藤さんは初めて関わる人とのコミュニケーションが苦手らしい。今は昨日知り合ったばかりの司で手一杯みたいだから、俺たちが仲良くなるのはそれが落ち着いてからってことだ」
「…そっか。わかった」
渋々という表現がとても合う声音で委員長は納得してくれた。おかしいな、俺と安武で言っていることは一緒なんだけどな。
「まあ、数日後には加藤をお前らのところまで引っ張り出してくるから、もうちょっと待っててくれ」
「…乱暴しちゃだめだよ」
てっきり頼りにしてるねとかの言葉が返ってくるかと思ったのに、委員長から向けられる眼差しは警戒色の強いものだった。
「おいおい、何を言ってるんだ。俺は紳士でジェントルマンなんだ。レディに乱暴なんてするわけないだろ」
「うん、言葉はいいから行動で示してね」
きっとこの学校の誰も聞いたことのない委員長の冷たい声音が二年七組に静かに響いた。クラスメイトたちが身震いするのを感じた。俺の体も震えている気がするがきっと気のせいだ。俺は女の子から怒られたくらいじゃ気にしないのだ。
「も、もちろんだ。委員長、その、お、怒ってる?えっと、飴ちゃんいる?ジュースとか奢ろうか?」
「自分で怒らせておいてめっちゃビビってるじゃん。ダセえな」
俺の反応に安武が余計な感想を口にする。さっき俺に対して「なんでそんな言い方しかできないんだ」と言ってきたが、安武も大概である。
「もう!柏木君はいつも素直に謝らないんだから。加藤さんのこと頼りにしてるからね。何かあったらすぐに相談してね」
ぷりぷりと怒った表情で委員長がそう言った。その声音には先程の冷たさはなく、可愛らしく怒る女の子になっていた。とりあえずは本気で怒られるまでの執行猶予をいただけたらしい。
なんとしても加藤をイベントに参加させて、委員長たちと仲良しにさせなくては。でないと、もしまた委員長からあの冷たい声音を浴びせられたら、公衆の面前でも泣く自信がある。
「わかった。わかりました。頑張らせていただきます」
「本当にわかってるんだか」
誠心誠意に意思表明をしたつもりだったが、ぷんぷんと頭上に効果音を乗せたまま委員長は自席に戻っていった。安武も自席へと戻っていく。クラスは先程の委員長の冷たい声音のせいで極寒の空気のままだ。七月の暑さも今の二年七組には及ばないらしく、教室の空気が温まるのにはもう少し時間が掛かりそうだ。
肝試し大会なんて開催しなくても、本気で怒った委員長と対峙する方がよっぽど肝を試す行為だと、鳥肌の立った二の腕を抱えながらそう思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
七月の暑さと言えど今日は風がある。その風も生温いものではなく、冷たさを微かに感じられるものであるおかげで心地が良い。それでも炎天下に身を投じていれば暑さが勝ってしまうのだが、俺が今いる場所に太陽の攻撃は届かない。
その場所は大して暗くもないのだが、十数歩分離れた場所は非常に明るい世界であり、対照的に日差しの遮られたこの場所は暗く感じる。一週間前まで続いていた雨も既に乾いているはずなのに、ここの空気は若干じめじめしている。
場所は別棟の裏。東浜高校の敷地の端に位置する。別棟の南側は入り口の扉と教室の窓がある面であり、北側は教員用の駐車場となっている。本棟と別棟に挟まれた中庭に面しているのが東側である。
そして俺が今いる場所は別棟西側の外だ。野球のグラウンド上を除けばここが校門から最も遠い位置であり、生徒や教師もわざわざ足を運ぶことがない場所である。
南の空で輝く太陽も別棟西側の面はまだ照らせないらしく、影の地となったその場所には先程から涼やかな風が吹く。この西側の面には何も設置されていないというわけではなく、別棟の非常階段が設置されている。俺はその非常階段を一段一段ゆっくりと上る。上っている途中で上からガタッと音がしたが、音の正体はわかっているのでそのまま足を運んでいく。そして最上階である四階まで上ったところで先客に声を掛けた。
「よう、今日は太陽が眩しくて嫌な天気だな」
「な、なぜここが…!」
食べ掛けのサンドイッチを右手に持ちながら、仰け反るような体勢で俺を出迎えたのは黒縁メガネの女子生徒だ。
「一人ぼっちの人間がどこで昼食を取ってるかなんてお見通し、って言いたいところだけど実際はヒューマから聞いたんだ」
「またヒューマ君が私の安寧を妨げる」
加藤が東浜高校の果てにある別棟四階の非常階段で昼休みを過ごしているという情報をくれたヒューマの顔を思い出す。きっと凄い嫌そうな顔をするぞと彼は嬉しそうに話していた。意外とサディスティックなのかもしれない。
「まあ、そう言うなよ。昨日はドタバタしてゆっくり話せなかったからな。ここで昼飯を食べていいか?」
「私はここの管理者でもなんでもなくただ勝手に住みついているだけだから昼食の許可を与える権限はなくてそれに」
「わかったわかった。それなら俺も勝手にここで昼食を取るとしよう」
そう言って非常階段の最も高い段に座る加藤よりも三段下に腰を下ろす。
「そのサンドイッチはどこで買ってるんだ?学校の売店にはないよな?」
まずは何気ない雑談を始めようと話を振る。
「…」
返事はない。しかし俺はそれを気にせず、加藤を背にして購買で買ったパンを頬張る。そして二十秒くらいが経った後に、
「い、家の近くの川野マーケットっていうお店で買ったの。いっ、一個で百七十円。安い割に美味しい…おすすめ」
途中詰まりながら、声が裏返りながら彼女は答える。彼女なりの一生懸命さにフッと笑みが零れた。彼女を背にしているおかげで笑ったところは見られずに済む。
「それはいいな。食べてみたい」
「い、今から買ってこいと!?わわわわ私、午後の授業をサボる勇気ないので、その」
「そんな言葉の裏はねえよ。食べたいと思ったからそのまま言っただけだ」
「か、柏木様は優しいんですね。不良でも木村さん、尾形さん、花園さん、山野さん、片岡さんとは違うんですね!嬉しいです」
「俺は不良じゃねえ。知らない名前がたくさん出てきたな…誰だそいつら?」
「中学の頃の私の殿上人です。皆さんいつも私にお仕事を与えてくださいました。私のデスノートに毎日名前が綴られていた方々でもあります」
心を無にしたように加藤は語る。中学の頃に彼女がどのような状況に置かれていたのか少しだけ想像できた。
「いじめか?」
俺は振り返って後方にいる加藤の目を見て尋ねた。彼女がビクッと肩を震わせて怯えたのがわかった。せっかく雑談をしに来たのに一気に空気を凍り付かせてしまった点は申し訳ない。
「どう…でしょうね。いじめの定義にもよるというか、大体は面倒なお願いをされる程度で、たまに笑いものにされて、稀に叩かれたりした…程度です」
彼女はスカートの裾をぎゅっと握りしめて辛そうに答える。
「嫌なことを思い出させて悪かった。今はそのクズどもと関わりはないのか」
「はい、ありません。卒業以来、合わないように注意してるので」
いつも挙動不審な彼女にしては、やけに落ち着いた様子で言葉を口にした。
「加藤、俺はお前を嘲笑したり傷付けたりしない。もし誰かがお前に嫌がらせをしてきたら俺が必ず助ける。それは俺の周りにいる連中も一緒だ」
加藤の表情が僅かに驚きへと変わる。中学の頃、俺が助けることができなかったあの子にも、こういう反応をしてほしかった。あの子は何も期待していないという目をしていたから。
「そのうえで今朝のこと、悪かった。いきなりお前を追いかけて持ち上げて、嫌な思いをさせるつもりは一切なかったが、させていたらごめん」
俺は頭を下げる。今朝のアレは俺なりのコミュニケーションだったが、加藤の人柄、俺との関係値を考えれば配慮が欠けていた。
「だ、大丈夫!今朝のは、むしろありがとうございますというか、その、私が挨拶してもらったのに無視しちゃったから。もし柏木様があのまま追いかけて捕まえてくれなかったら、私すごい後悔してたと思う。それに混乱して叫んじゃったけど、嫌だったというより、どうすればいいかわかんなかっただけだから…」
「…そうか。ならよかったよ。改めてこれからよろしくな」
俺は手を差し伸べる。握手を交わすことで心の距離が縮まるのだと少し前に知ったのだ。
「てててて、手を、洗ってきます!」
「いや、大丈夫だから。加藤の手は汚くないし、仮に汚くても気にしないから」
それを聞いた加藤は恐る恐る震える手をこちらへと近づけて、ある程度まで近づいたところでピタリと止まる。どうやら今の彼女の精一杯はここまでのようだ。
「ひゃう!」
俺は中途半端な位置まで伸ばされた加藤の手を取る。交わされた握手からは温かい体温を感じた。
「ゆっくり慣れていこうぜ。肝試し大会、俺たちと一緒に運営して、そんでもって変わりたいんだろ」
慣れない状況に戸惑う彼女の瞳に、僅かな変化が生じたのを見逃さなかった。黒縁メガネの奥の瞳のさらに奥から、表面化しない強い意志が宿っているのを感じ取れた気がした。
「う、うんっ!」
声を裏返らせながらそう返事した瞬間だけ、握手を交わした彼女の右手に強く力が込められた。やる気なんて大してなかった肝試し大会というくだらないイベントに、ほんの少しだけ重たい腰が浮いたのを感じた。
今を変えたい加藤の手助けをする。俺の中でぐらついていた天秤がそちらに傾く。
傾いた理由が、中学時代に俺が犯した罪への贖罪代わりにしたいからだということに、薄っすらと気付きながらも、今はその気付きにそっと蓋をした。




