第二章2 嘔吐
最近、体の調子がいい。というのもここ数カ月はずっと筋肉痛の痛みに耐える日々だった。
特に酷かったのが五月だ。寵愛現象管理協会からの司令でゴールデンウィークに化け物と戦い、それに伴い憤怒の寵愛を発動した。憤怒の寵愛を発動すればわずか十数秒の使用でも五日は筋肉痛に悩まされる。にも拘わらずゴールデンウィーク明けでも力を発動し、林間学校ではかなり無茶をした。
おかげで激痛を耐える日々が一ヶ月以上続いたのだ。その激痛が最近ようやく引いてくれて、今は階段の上り下りをする際にわざわざ覚悟を決めなくてよくなった。
したがって、今こうして階段を上る行為も痛みからの解放を実感できて悪くない。そんな万全となった体に幸せを噛みしめながら、前を歩く人物を見る。彼のすぐ後ろを歩いていることもあって視界の半分以上が広い肩幅と大きな背中で埋まっている。筋肉質なその体は何かスポーツをしているのかと思わせる。
別棟二階から四階まで移動し、薄暗さの中に外からの強い光が差し込む廊下を歩く。別棟の四階は最も到達するまでに時間のかかる場所であることもあって人気はない。部室として割り当てられているのも別棟の三階までらしい。この階にあるのは空き教室だ。林間学校の実行委員だった委員長の手伝いをしたときに利用した教室なんかがここだった。
ガタイの良い金髪イケメンと腰まで伸びた赤髪を揺らす俺が歩いている姿はあまり学校内を歩く生徒の姿には見えない。二人とも普通の学生と呼ぶには派手過ぎる見た目だ。
「入るぞ」
別棟四階でも一番奥になる教室の前で立ち止まり、ヒューマがノックをした後、そう声を上げて扉に手を掛けた。ちゃんとノックをするという常識を身に着けているのであれば、我らの部室に来たときもノックをしてほしかったものである。
教室からの返事はなく、ヒューマの逞しい腕がゆっくりと扉を開ける。そのまま教室に入る彼に続いて俺も足を踏み入れたが、人の姿はどこにもなかった。教室内は逆さにされた椅子を乗せた机たちが後方に固められている。ヒューマは誰もいない部屋の中をズカズカと歩き、後方窓側の隅に向かって声を掛けた。
「かくれるなー」
そう言ったヒューマの声に反応するように、ガタッとその場所から音がした。ヒューマの元まで歩き、彼の視線の先に目を向けると女子生徒用の制服に身を包んだ人物がいた。その人物は膝を立てて座り込み、両手を目一杯広げて顔の前にバリアでも作るようなポーズを取っていた。
「ヒューマ、これが例の子か?」
俺の質問にヒューマは頷いて、教室の隅でバリアを展開し続ける女子生徒に声を掛ける。
「恐くないから出ておいで―」
まるで誘拐犯のようなセリフを優しい声音で発するが、女子生徒が目をぎゅっと瞑ったまま動こうとしない。膝を立てているせいでスカートの中が見えるが、そこから見えるのは体操着だ。その半ズボンから小さな膝とか細い脚が伸びている。
「仕方ない。このまま話そう」
「マジかよ」
バリアを展開された状態で俺たちは会話に臨む。
「こんにちは。俺の名前は柏木 司だ。木へんに白の柏に、林檎の木の木、司るの司で柏木 司」
自己紹介をするが反応はない。いや、バリアの手がグッドサインに変わった。なんだこいつ、ふざけてるのか。
「やっぱりつかたんを連れてきて正解だった。見てみろこのグッドサインを。返事をしてくれたぞ」
「これを返事扱いしていいのか…やる気を出してここまで来たけど、もう既に無理な気がしてきたぞ」
俺の呆れた感想を聞いて目の前の女子生徒の肩が僅か震える。失言だった。心を開かせるために来たのに、これではますます距離が開いてしまう。
「ほら、自己紹介して」
ヒューマが女子生徒にそう促すが、変わらず固まったままだ。
「しないなら俺から紹介するぞ。ラブマ」
「ワッーーー!!!!!」
急に教室に悲鳴が響き渡る。悲鳴の主は先程から一音も発声しようとしていなかった目の前の女子生徒だ。彼女から発せられた急な大声に俺の心臓は止まりかける。
「…びっくりした、、、寿命縮んだ」
そんな感想を口にすると、目の前の女子生徒はバッと立ち上がり、真下を向いたまま何かを言った。
「…です」
「え?なんて?」
その声があまりにも小さすぎて聞き取れず、反射的に聞き返す。
「加藤です。ただの加藤です」
「そ、そうか。加藤か。よろしくな加藤」
ここにきてようやく彼女の名前を知ることができた。
「えっと、それで今日は加藤に用があって来たんだ」
加藤は変わらず真下を向いているので、俺の目には小さな頭に付いているつむじしか見えない。
「実は俺、お助けクラブって変な部活…というか同好会みたいなのに入ってて」
仕方がないので話を続けようとしたところ、見ていたつむじが急に上下に揺れ出した。
「あ、もしかして俺がお助けクラブに入ってるって知ってた?」
俺がそう言うと再度ブンブンと頭が縦に振られる。どうやらコミュニケーションを取る気はあるらしい。
「で、そのお助けクラブとここにいるヒューマで一学期の終業式の日にイベントをやろうって話になってるんだ」
イベントという言葉を出した瞬間、加藤はピタリと静止する。
「そのイベントの運営を加藤にも協力してほしくて、勧誘のためにこの時間を作ってもらったんだ」
その言葉を聞いた途端、ずっと下を向いていた加藤の頭が上がり、ヒューマのほうへと視線が向けられた。おかげで顔が見えるようになり、加藤の顔を観察できた。
小さい顔に対して大きい黒縁メガネをしており、黒髪がその大きなメガネの上半分を隠すくらいに伸びている。前髪とメガネの隙間から見える目は小さく、メガネを乗せている鼻もちょんと小さい。おまけに口も小さく、身長も低く、腕や足も細いため全体的にとにかく小さく、ひ弱な印象を受ける。
しかし、ヒューマに向けられた視線は強い眼差しで、それは聞いてねえぞという怒りの類に見受けられた。
「ごめんごめん。だって俺からラブ…加藤にこの話を持ち掛けたところで逃げられるだけだと思って」
悪びれる様子もなくヒューマは謝罪の言葉を口にする。
「…イベント、、、私が、、、無理」
掠れた小さな声で彼女はそう言う。それを聞いて俺は既に諦めムードだ。まあ、本人がやりたがらないことを押し付けるのも悪い。俺のパーフェクトコミュニケーションを証明できなかったことは悔しいが、人手が足りなくなったら七瀬とか伊吹とかに頼めばいいだけだ。
「いいのか?変わりたいんだろ?友達欲しいんだろ?アオハルしたいんだろ?」
ヒューマが加藤にそう語りかけた途端、小さな目をクワッと見開いた彼女は怒涛の勢いで喋り始める。
「ちょっと一気に色々言わないで!パンクしちゃうから!頭真っ白になっちゃうから!私は思考できないと喋れなくなっちゃう陰キャなんだから!ああ、そうだ、私はいつもこうだ。自分で決断できない。すぐに拒絶する。それでいて拒絶したことを後から後悔する。でも後悔したからと言って、あのとき別の選択肢を取っていたら状況が変わったかと言われればそんなことはなく。もう無理だよ。私に構わないほうがいいよ。貴重な時間を人様に使わせるべきじゃないよ」
「めっちゃ喋るな」
「な、面白い奴だろ?」
小さい声でイントネーションを変えながら喋り続ける姿に感想を漏らすと、ヒューマがニッと笑って加藤を指差す。
「こんな面白い奴が一人寂しく高校生活を送るべきではない!ひいては今回のイベントをきっかけに友達たくさん作ろう大作戦だ!」
ヒューマが右手を掲げてそう宣言する。その姿を見て加藤は「ひえー」と悲鳴を上げた。
友達たくさん作ろう大作戦という言葉を聞いて、ここ最近にも似たような作戦を立てたことが思い出される。それは伊吹のときもそうだし、その前の黒木 まこのときもそうだった。予言の寵愛を黒木 まこが授かった原因は未来への不安からだ。四月に我らがお助けクラブを尋ねた彼女が抱えていた不安は、新しい高校生活で友達ができるかという内容だった。
春に続いて夏も友達のいない女の子の相手をしないといけないらしい。
「それで加藤はどうしたい?無理かどうかじゃなくて、やってみたい気持ちはあるのか?」
頭を抱えながらブツブツとネガティブは言葉を唱え続ける彼女に俺は問いかける。
「…」
その問いかけに彼女は固まってしまった。それから十秒後に俯いて、さらに十秒後に蹲った。俺は答えを急かさずただじっと待つ。
正直、彼女がイベントに参加するかはどうでもいい。そもそもイベント自体がどうでもいいという気持ちもあるが、それは一旦置いておく。今重要なのは彼女の意思だ。できるできないで考えたときにできないという結論に至ったから選択しないというのもダメではないが、人間の原動力はそれをやりたいという気持ちだ。その原動力があるのに行動せずに頭の中だけで済ませてしまうのは勿体ない気がした。
全然似ていないのに、彼女の姿があの子と重なる。中学時代、いじめにより屋上から飛び降り、もう会うことのなくなった女の子の姿が脳裏によぎった。
似てはいない。あの子も内向的だったが目の前の加藤ほど極端なコミュ障ではなかったし、多くはないが仲の良い友達は複数人いた。当時は俺もその友達の一人だった。
なぜあの子と重ねてしまうのだろう。こんな大きな黒縁メガネではなかったが、あの子もメガネをしていたからだろうか。そうして目の前に蹲る加藤の姿を見ていると、その答えに気付いてしまう。その姿は、受けた嫌がらせから自分を守るように蹲って動かなくなったあの子の姿と同じなのだ。
あぁ、こんなことを考えてはいけない。それは酷く傲慢で、あまりにも自分に都合の良いことだからだ。
俺は今、あの子と姿を重ねた加藤を助けることで、加藤の望みを叶えることで、あの子への贖罪になるのではという考えがよぎってしまった。それが如何に最低な事なのかを自覚し、自分自身に反吐が出る。
「…たい」
そう自己嫌悪に陥っている間に加藤が何かを呟いた。
「何かが変わるかもしれないなら、私、やってみたい…かも、、、やっぱり嘘かも、、、」
言葉にすればするほど小さくなっていく声を聞いてヒューマは返事をする。
「やってみたいんだな。それが聞けて嬉しいよ。一緒に頑張ろう」
都合の良い部分のみを聞こえたことにしたヒューマの声音はとても暖かなものだった。彼はしゃがみ込んで加藤と目線を合わせる。
「これでまずは一歩だな」
彼がニッと笑った表情をしているのが背中越しでもわかった。
「うん、私踏み出した。頑張った。もう無理。今日はもう無理。帰る。その前にトイレ。吐きそう」
加藤のそんな返事を聞いた瞬間、ヒューマの顔が青ざめる。それはまるで吐いてしまった前科があるような表情に見えて、口を手で押さえた加藤の姿がその想像の説得力を強くした。
「つかたん!加藤を抱えてトイレにダッシュ!」
「え!?お、おう!」
焦った声で指示をするヒューマに言われるがまま、俺は小さくて軽い女の子を抱えてトレイへと走った。
その結果、俺たちは廊下に散乱した吐瀉物を掃除する羽目になった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ほ、本当にごめんなさい」
「それは本当にそう」
「う、罪悪感でまた吐き気が…」
「ごめん!うそうそ!全然怒ってない!全然気にしてない!」
せっかく綺麗にした廊下が再度汚されそうになったのを察して俺は急いで言葉を訂正する。
「うぅ、生まれてきてごめんなさい」
半泣きになった彼女から吐瀉物が溢れないかを監視していると後ろからヒューマが話しかけてくる。
「まあ、こうして一緒に掃除もして仲良くなったことだし、結果的によかったんじゃないか?」
度を越えたネガティブな加藤とは対照的に、度を超えたポジティブなヒューマがそう口にする。俺はその両極端な二人に挟まれ、温度差で風邪を引きそうである。
「ほんと?私たち仲良くなれましたか?」
「いや、別に仲良くは…冗談!嘘!仲良くなった!」
またも俺の発言により口を押さえた彼女に対して必死に言葉を訂正する。
「ほ、ほんとですか。じゃ、じゃあ、柏木様、サインもらっていいですか?」
「へ?」
加藤からの脈絡のない急な要望に困惑してヒューマのほうを見ると、彼は「あちゃー」と頭を抱えながら言葉を漏らす。
「距離の詰め方間違ってるなぁ。まあ、でも安心しろ!こんなこともあろうかとラブマ…加藤がつかたんのファンであることは事前に伝えていたのだ」
「いや、それは聞いてたけど、流石にこの急展開にはついていけねえよ」
ヒューマから聞いていたのは彼女が俺のファンだという情報だけ。半信半疑どころか彼の嘘だと思っていたので、それがガチっぽくて困惑している。
「え!?なんで言っちゃうの!?そんなのバレたら私生きていけない!」
「いや、そうは言うが加藤から柏木様呼びでサインを要求してたぞ」
「え!?、、、、、アゥ、あ、あの、さっきのは違くて…」
どうやらサインを要求したことに自覚がなかったらしく、加藤はボタボタを冷や汗をかきながら前言撤回を試みている。その冷や汗が炎天下の中でマラソンでもしたのかと思える量で心配になってくる。
「さっきは胃の中の物を吐いて、今は体から水分を出して、倒れたりしないよな?」
「前例はある!」
俺の心配は杞憂ではなかったようで、今は彼女を落ち着かせることに全力を注ごうと決める。
「加藤、大丈夫だ。落ち着け。ゆっくり深呼吸しよう。吸ってー、吐いてー、ま、待て!吐くな!耐えろ!」
大きく息を吸い込んだ加藤は再び口に手を添える。俺の必死の叫びが今度は届いたらしく、なんとか廊下は汚れずに済んだ。
「とりあえず加藤が俺のことをどう思っていようとも、俺はどうでもいいとしか思わないから大丈夫だ!」
自分で言っておいて酷い本音だと自覚する。今の発言によって加藤がまた異常行動を取らないか心配になったが、今度はなぜか急に落ち着きを見せた。
「俺が言うのもなんだけど、なんで今の発言で落ち着いたんだ?」
「わからん」
ヒューマに聞いてみるが一蹴されて終わる。代わりになんと加藤自身が答えた。
「私が何をしたとしても、どうでもいいとしか思わないのは、とても気が楽。ふへへ」
気持ち悪い笑みを浮かべる彼女に、どう思われてもどうでもいいとしか思わないのは本当だが、何をされてもどうでもいいとしか思わないわけではないんだよなと内心で思う。
実際、この一連の騒動のせいで強制的に加藤をどうでもいいとは思えなくなってしまっている。しかし、それを加藤に伝えてしまうとせっかく落ち着いた彼女がまた乱心するかもしれないので黙っておく。
「それで、えーっと、本当に俺のサイン欲しいのか?」
自分で言っていて恥ずかしくなる確認を加藤にする。
「サイン欲しがっても引きません…よね?」
加藤は恐る恐るという言葉がぴったりの様子で聞いてきた。その質問にどう答えるべきか悩む。前述した通り加藤が俺に対してどんな感情を抱いていたとしても、どうでもいいという気持ち自体は嘘ではない。
嘘ではないが、芸能人でもなければスポーツ選手でもないのに同級生の女子がサインを要求してくる行為自体には普通に恐怖を感じる。なので、引くか引かないかで問われれば引く。
「引くわけないだろ。サインの要求くらいで俺の感情は動かないさ」
俺は平気で嘘を付くことにした。これ以上、加藤に暴走してもらっては困る。
「よかった…。じゃあ明日色紙を持ってきます」
思ってたより本気で要求してくるんだ。ノートの切れ端とかに書くんじゃないんだ。恐いよぉ。
「ちなみになんで俺のファンなんだ?」
やはり顔が良いからだろうか。身内に絶世の美女と呼ばれる姉妹がいるだけあり、我ながら俺の顔はかなり整っていると思う。目はぱちくりと大きいし、眉はキリっとしていて男らしい。背丈も平均よりは高い。腹筋が薄っすらと浮き出るくらいには筋肉だってある。
そう考えると俺が気付いていなかっただけで柏木 司ファンクラブが東浜高校に存在していてもおかしくない。やれやれ、これから忙しくなりそうだ。小学生時代、サインの練習に費やした時間がようやく日の目を見るときが来たらしい。
「態度がふてぶてしくて強そうで、悪い噂が絶えないのに全く気にしている様子がなくて、赤髪でしかも長髪の変な頭してるところが漫画のキャラみたいで、私が持ってないものをたくさん持ってるところが激推しです!」
本日一番の笑顔で放たれた俺への愛が溢れる言葉を浴びる。愛の言葉ってこんなにチクチクするものだっけかと錯覚するくらいには強い愛の告白だった。
「ヒューマ、俺は今の俺のままで生きていて大丈夫なんだろうか…」
「俺は改善すべきと思うけど、加藤みたいにファンになってくれる子もいるんだからそのままでもいいんじゃないか?俺は改善すべきと思うけど」
自己の在り方を見つめ直そうかと思ったところ、ヒューマがそのままでもいいと励ましてくれる。改善すべきという大事なことなので二回も言われた意見には耳を塞ぐことにした。
「他にもいっぱい、体育のときに最初からペア組む素振りも見せずに独りでいるところとか、本を読んでるとき一ページめくるのに五分くらい掛かるところとか、常に自分のペースで生きててカッコいいです!」
体育の話、傍から聞くとかなり痛い奴だな。読書時間を見られているのも恐い。俺の読書スピードが遅いだけなのに肯定的に捉えられている点も恥ずかしい。
「それから!」
「まだあるの…。もうやめてよぉ…」
誹謗中傷と紙一重な愛のメッセージに耐えられなくなり涙目で弱音を零すが、彼女が止まる様子はない。ヒューマから憐みの視線を向けられているのに気付き、さらに深く傷付く。
「それから、体の半分がドラゴンみたいになった伊吹さんが空高くから落ちるのを、空まで跳んで受け止めたのもカッコよかったです!異能って感じで!私もそういう特殊能力に憧れます!」
「、、、、、、、、、、は?」
突如として語られたドラゴンというワードに、空から落ちる伊吹の話に、空まで跳んだ俺のエピソードに、頭は追い付かず、追い付きかけて変な声が口から漏れた。
「、、、今…なんて?」
「伊吹さんの話ですよ?覚えてませんか?今、私たちがいるこの別棟で炎を吐いて、その後に浮上して雷を落とした伊吹さんを柏木様が受け止めた話ですよ。ハッ!まさかあんな世にも珍しいエピソードも埋もれてしまう程の日々をお過ごしなんですか?私、推しへの観察も理解も足りていなかったです。あ、あのよろしければもっと非日常の体験談をお聞かせ願いたい…いや!私なんかがおこがましかったですね!忘れてください。私いつもこうなんです。相手の話を聞かずに一方的に話して、改善しようとは思ってるんですが…でも改善できる気もしないので、社会不適合者でも強く逞しく生きてる柏木様のようになりたいと思い日頃から観察を…」
話し続ける彼女にストップを掛けられなかった。混乱した頭を整理するので精一杯だった。
見られていた?あの光景を?寵愛現象を?
ハッとした俺はヒューマのほうを見る。彼も知っていたのか、それとも今加藤の口から初めて聞いたのか確かめなければと思った。彼は困惑した表情を浮かべており、何も知らないようにも見える。
「加藤黙れ!」
「ひゃい!」
頭の中での最低限の整理が済んだところで喋り続ける彼女を止めた。止めるための言葉が強くなりすぎてしまったと反省する前に、加藤の目元からポロポロと涙が零れ始めた。
「あ、あの、私、ごめんなさい」
「わ、悪い、強く言い過ぎた」
そう謝罪の言葉を口にするが加藤に気持ちを落ち着かせるのは間に合わなかったようで、口に手を当てたまま彼女が嘔吐する。もう吐く物も残っていない胃からは胃液だけが零れた。
彼女を恐がらせ、再び嘔吐させてしまったことへの申し訳なさで気持ちが満たされていく一方で、あの一幕を見られていた事実への対処について思考が割かれる。
ただ人見知りの女子高生を勧誘するだけのはずだったのに随分とまあ面倒な事態になったものだと頭を抱え、現実逃避するように逸らした視線の先には、雷を落としそうな黒々とした雲が夏空に浮かんでいた。




