第一章19 土俵
怖い怖い怖い怖い怖い。
恐い恐い恐い恐い恐い。
もしかしたらアレがこちらへと迫ってきているかもしれない。
怖い。恐ろしい。誰も助けてくれない。
なにせ私が作り出した状況なのだから。
怖い恐い怖い恐い。
できる限り逃げようとして、階段を駆け上がって、屋上へと辿り着くと、視界にはアレが映り込む。
もしアレがこっちに来たなら。自分を狙って来たなら。
重なる恐怖に耐えきれず、屋上から階段へと戻って、隅っこに蹲りながら震える。
泣きそうになるが、誰も私を助けてくれない。だって誰もアレから私を助けようとはできないのだから。
そうして阿賀 華蓮は林間学校の宿泊所の階段の隅で、ただ一人震える体を抱え込んでいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私は可愛くない。それを知ったのは小学一年生のときだった。
デリカシーという概念を知らない同じクラスの男子にブスだブスだとからかわれ、私は可愛くないのだと自覚した。
人の外見に対して悪口を言う奴らはゴミクズと分類して、必死に気にしないようにした。
だけど、同じクラスの顔がカッコよくて足が速くて気になっていた男の子からブスだと言われたとき、私は私の外見を無視できなくなった。
可愛い子が妬ましい。たまたま可愛い顔で生まれただけなのにチヤホヤされるあの子たちが妬ましい。
ハキハキと大きい声で話せるだけでクラスの中心人物になれるあの子たちが妬ましい。
私も可愛く生まれたかった。私もチヤホヤされたかった。私もクラスの中心にいたかった。
そうして私は、自己肯定感を満たすために生きる生き物になった。
発言権の強い子たちと仲良くする。媚びを売る。気に入られる。たまにしくじって無視の対象になることもあったけど、大抵はそれでクラスの中心にいられる。安心できる。
小学生の頃は苦労してそういう生き方を身に着けた。
中学生になってメイクの仕方を覚えて、強い喋り方を己に染み込ませて、誰にでも自慢できるような趣味を実行する。大変ではある。窮屈ではある。でも安心していられる。自分を嫌いにならずにいられる。私より下の連中を見て優越感に浸れる。私はこの社会での生き方を習得していた。
可愛い子は妬ましい。でも私のほうがスクールカーストの上にいるから許すことができる。
ハキハキと大きい声で話せるだけでクラスの中心人物になれるあの子たちが妬ましい。でも私もそんな話し方をできるようになったから許せた。
妬ましいけど、もう許せる。
だけど、たまに許せない人間が現れるのだ。
私はスクールカーストとか気にしていませんよみたいな顔で澄ましていて、グループ内での己の地位を良くするための努力もせずに、そのくせ周りからそんな生き方がカッコいいとかいう理由で羨望の眼差しを向けられていたりする。そしてそんな奴に限って、結構顔が可愛かったりする。何もしてないくせにモテたりする。
ウザいウザいウザいウザい。死ね死ね死ね死ね。
私がこんなに気にして、苦しんで、恐れて、割り切って、努力して手に入れている立場を何一つ価値はないとでも言うような目で見てくる。整った顔で見てくる。
妬ましい。妬ましい。妬ましい。羨ましい。
小学生の頃もそういう奴が一人いて、中学生の頃は一年のときと三年のときにそれぞれ一人ずついて、高校では見ないとと思っていたのに現れた。
堂々としていて、スクールカーストなど気にせず誰にでも対等ですって態度で気軽に話しかけて、平気でこっちからの誘いは断って、なのにクラスから受け入れられる待遇を受ける。
幼い頃の私は受け入れられなかったぞ。ブスと言われ、オドオドしてたら舐められて、私が的とでも言うかのように消しゴムを投げつけられて、誰も助けてくれなくて、奇声を上げながら反撃したら笑い者にされて、そういうトラウマを抱えながら努力して、高校二年生にしてようやくクラスの中心人物になれたのだ。
そんな私が中心のクラスでお前みたいなやつが受け入れられて堪るか。
苦しめ。泣け。苦労しろ。後悔しろ。伊吹 凛。
そう強く思って、強く妬んで、私は力を授けられた。
伊吹 凛への干渉の妨げる力を自分が中心のクラスである二年六組を対象に発動した。
それが阿賀 華蓮が不干渉の寵愛を発動するに至った経緯だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
これまでも二年六組は伊吹 凛に対する気まずい空気は流れていた。それは寵愛の力ではなく、阿賀 華蓮を中心としたグループがクラス全体を威圧することで作り出した状況だった。
それに対して伊吹は不服そうな態度をしていた。が、それでも飄々とした生き方は崩さず、平然に近い状態で過ごしていた。
それが自身に与えられた不思議な力を発動した途端、明らかな変化が見えた。クラスは伊吹に干渉しなくなった。伊吹も飄々とした生意気な態度を保てず、あからさまに負の感情に支配された顔になっていた。
とても気分がよかった。生まれ持った容姿とふてぶてしい精神だけで、何の苦労もせずに生きてきた伊吹が苦しんでいる姿に胸がスッとした。わかればいいのだと思ったし、孤独を避けるために私に媚びでも売ってくれば力を解除してやってもいいくらいに思っていた。
そんな日々が続いて、私は変わらずクラスの中心人物で、目立てて、発言権があって、実に充実した学校生活だった。このまま充実した生活が、いや、充実した人生が送れると思ったときだった。
「伊吹 凛が居づらい空気を作ってる奴はどいつだ?」
長い赤髪の男子生徒が昼休みに突然クラスに入ってきて、開口一番クラス中にそう問いかけた。
彼はヤクザを潰したとか、前科持ちだとか、あの超有名人の柏木 聖菜の兄だとか、そんな噂が絶えない東浜高校の有名人だった。
初めは彼を意識的に無視していた二年六組であったが、生徒の一人が名指しで問いかけられたことで答えなければならない空気が作り出され、最悪な空気の中で会話が展開される。
会話のラリーが数回交わされた後、二年六組全体を責めるような発言をされたことで私は口を開いた。私はこのクラスの中心人物だ。ここで声を上げなければ威厳が薄れてしまう。本当は恐くて話したくなかったけど、クラスの中心でいるためには仕方がなかった。
「なんなの?伊吹さんの彼氏か何か?言いにくいんだけど、高校生にもなったら班決めくらい自分でどうにかしてほしいし。私たちが悪いみたいに言われてもウザいんだけど」
私の強気の反論なんて気にせず、柏木 司は言い返してくる。あぁ、こいつも空気とかを気にせずに生きてきた人種なのかと反吐が出た。
そんな調子で彼との言い合いをしている間も不快な気持ちと、彼に対する恐怖で非常に嫌な時間だった。悪い噂を多く持つ柏木 司に目を付けられるだけで恐かった。そしてやっぱりこういうタイプの人間に限って顔が良いのが憎かった。彼の美しい女性のような顔つきに嫉妬し、そんな顔でも男の人だと思わせるキリっとした少し太めの眉が、生まれながらに目つきの悪い私の瞳に映っていた。
私だって生まれながらに顔が良ければ、何か誇れるようなものを持って生まれてきていれば、こんなに苦しまずに済んだのに。そうやってまた他人を妬んで、世界を呪った。
柏木 司が教室を出て行った後、私は伊吹を苦しませるために発動した力を解除した。このまま二年六組が伊吹への不干渉を貫くことで、柏木 司の怒りの矛先が私に向くのが恐かった。
そうして数週間が過ぎて林間学校の日がやってきた。
林間学校までの日々はとても私の心がささくれ立つものだった。
憎くて妬ましくて死んでほしい伊吹が随分と幸せそうだった。隣のクラスの速川さん、安武君と仲良くしている。私だってあの二人ほど生徒たちから羨望の眼差しを向けられることはないのに、その二人と伊吹程度が友達のように振る舞っていることが許せなかった。そのうえ二年六組の陰キャグループとも楽しそうに話している姿がちらほら見られた。
なんでお前が、お前なんかが、そう強く思う度、伊吹への干渉を妨げるあの力を使いそうになった。それでも、まだ柏木 司の存在が恐ろしかったので我慢をした。
そんな我慢に限界が来たのは林間学校の夜だった。肝試しイベントが終わった後、生徒たちは本物のお化けが出たという話題で盛り上がっていた。なんでも実行委員も把握してない老婆のお化けが出たらしい。
その老婆のお化けに出くわしたのが伊吹がいる陰キャグループで、スクールカースト下位の分際で、伊吹の分際で、周りから何があったのかと質問され、楽しそうに話す輪の中心に伊吹がいた。二年六組の枠を超えて、他クラスの中心人物たちが伊吹を取り囲んでいた。
許せなかった。我慢ならなかった。私が努力して獲得した場所に、何の努力もせずふてぶてしく生きているだけの伊吹が立っている事実を拒絶したくて堪らなかった。
だから私は、頑張ってきた私にだけ与えられた特別なあの力を再び発動した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
伊吹と同じ部屋だったのは憂鬱だったが、その憂鬱は愉悦へと変換される結果となった。
仲良くなっていたクラスメイトから再び無視のような扱いをされるようになった伊吹はかなり取り乱していた。
同部屋の私たちに怒鳴って、叫んで、喚く。私はそれを煽る。また胸がスッとするのを感じた。
私の力の影響下に二年六組以外も含めることができるのか不安だったが、己の中にあった感覚を信じて力を発動すると、東浜高校の皆が伊吹を無視するようになった。これで柏木 司が私に危害を加える理由もなくなった。私の充実した日々がまた動き出す予感があった。
伊吹が部屋を飛び出す。これまでの生き方を反省していろと内心で思いながらその背を見ていた。
速川 日和が部屋を訪ねてきたときはまさか力の影響下に彼女はいないのかと少し焦った。けれどそれも杞憂だった。
少し迷った後に部屋を出て様子を見に行った私は、速川さんと廊下で会うことができた。そのときの彼女は伊吹 凛の存在などすっかり頭から消え去っており、私の力の影響下にいると確信できた。
そうして部屋に戻って就寝時間を守らず女子トークをしようとしたとき、遠くから大きな音が聞こえた。それはまるで雄叫びのようだった。
驚いた私はカーテンを開けて音がした方角を見ると、そこには巨大な何かがいた。遠目でもわかるその巨大な何かは暴れ回って森の木々を薙ぎ倒しているように見える。大きな灰色の塊を吹いたようにも見えて、その姿はまるでドラゴンみたいだった。
「なにあれ…皆、あれヤバくない!?」
同部屋の女子生徒にそう声を掛ける。そして皆も空に浮かぶソレを目にしたが、その反応があまりにも薄かった。見覚えのある反応だった。伊吹 凛に対する反応と同じものだった。
私は部屋を飛び出して、生徒の見張りのために廊下に居座っている先生に話しかける。先生にも同じようにドラゴンを見せるが、返ってくる反応は同じだった。
理解できなかった。理解はできなかったのに、あれが伊吹 凛だというありえない想像は確信に近いものがあった。
私は特別な力を使って伊吹への干渉を妨げている感覚があった。その感覚が森のほうで暴れているアレに対して反応していた。
伊吹の正体は化け物だったのか。それとも私のように特別な力でも授かったのか。考えはするがどれもありえなくて、ありえないと強く思うが、胸の中の確信は強まっていく。
もし仮にあれが伊吹だとしたならば、伊吹が私に恨みを持って襲ってきたなら…。
怖い怖い怖い怖い怖い。
恐い恐い恐い恐い恐い。
私は逃げるように廊下を走る。階段が見えて、その階段を駆け上がる。そして屋上まで来てしまったことで、より鮮明にアレの姿を見てしまった。
大きい。とても大きい。森の木々がスナック菓子のように崩れていく。今度は飛び上がって口から灰色の光を吐き出す。
怖い恐い怖い恐い。
階段の隅で蹲って、ただただ悪い夢が早く終わってくれることを祈って、時間が経つのをじっと待っていた。どれくらいそうしていたかはわからない。いつの間にか夜更かしした生徒たちの部屋から漏れ出る声も聞こえなくなって、夜風の音だけが耳を掠めていた。
そんな静寂な夜の中で、コツン、コツンと音がした。コツン、コツンと近づいてくる。
怖くて恐くて強張る体の軋む音を聞きながら、私は微かに目を開けた。
「阿賀さん、私、ケリを付けにきたの」
目の前に立っているのは、憎くて妬ましくて死んでほしい伊吹 凛だった。
化け物かもしれない彼女は私に会いに来た。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私じゃない!そう叫ぼうとした。だけど発声するのに十分な酸素を取り込めておらず、ヒュッと変な音が口から零れただけだった。
過呼吸気味になりながら空気を取り込み、吐き出して、取り込み、むせる。
「大丈夫?」
そう声を掛けてきたのは私がこうなってしまっている原因そのものだ。道で躓いた人とかに声を掛ける程度の「大丈夫?」の声音だった。その態度に先程まで恐怖に支配されていた私の心に怒りが湧く。恐怖から逃げるようにその怒りの波に乗り、私は目の前の彼女を睨みつけた。
「何しに来たの?」
ドスの聞いた声で返答する。私が恐れていることを悟られてはいけない。劣勢になってはいけない。
「もう一回言うね。ケリを付けに来たの」
そう言った伊吹の淡々とした口調に腹が立つ。私に対して恐怖も負い目も同情すらも持ち合わせていない口調だった。
「何のケリ?私が何かした?暴力も振るってないし、そっちから突っかかってきたとき以外は暴言も吐いてないでしょ?私は何もしてない。それとも何?被害妄想?クラスの皆から嫌われてるからって私のせいにしないでくれる?嫌われてるのはお前自身が原因だから」
捲し立てるように私は言葉を繋げていく。少しでも彼女が傷付けばいいと思って。
「うん、阿賀さんは私に暴力を振るってないし、いじめという程の行為もしてない。私のこと無視するのも阿賀さんだけじゃないしね」
彼女は私の意見を肯定する。なのにその肯定の言葉の中に傷付いた様子は微塵もない。
「だったらなんで!」
私は叫ぶ。威嚇する。ならなぜ私の前に現れた。先程、森から姿を消したアレの正体は本当にお前なのか。もしお前じゃないなら私はこんなに怯えなくて済むのに。腹が立つ。怯えているのに、奥底で怒りが燻り続ける。
「私がここに来たのは、不干渉の寵愛を発動しているのが阿賀さんだからだよ」
「…不干渉の寵愛?」
聞き慣れない言葉だった。でもその言葉の意味が私に授けられた特別な力のことを言っているのだとすぐに気付いてしまった。
「なにそれ?私そんなの知らない。知らない!」
否定する。必死に否定する。この否定が通ればもうコイツとは関わらなくて済む。もうこんな奴と関わりたくない。
「まあ、阿賀さんがそう言うならどっちでもいいや」
「へ?」
私の否定を彼女はあっさりと認めた。これで逃れられるのか、この得体の知れない恐怖を回避することに成功したのか、そう思ったときだった。
「私、阿賀さんと会話をするためにここに来たんじゃないの。ただ一方的に伝えに来たの」
そう言いながら彼女は一歩私に近づいた。それを見て私は立ち上がり後ろに大きく後退った。が、すぐ後ろの壁にぶつかる。
「いったい私に何を…?」
威勢よく言い放ったつもりの言葉はあまりにも情けない震え方をしていた。
「今から伝える言葉は阿賀さんが不干渉の寵愛の発動者だと思って言うね。まあ、仮に違ったとしても阿賀さんには知っておいてほしい内容だからちゃんと聞いててね」
開けっ放しにしていた屋上の扉から月明かりが入り込む。目の前の彼女の三白眼に鋭く月の光が差し込まれた。その眼光の下で微笑まれた唇から淡々とした業務連絡かのように冷たい言葉が紡がれていく。
「皆が私に不干渉を貫いたとしても、もう私は大丈夫になっちゃった。強がりでもなんでもなく、もうちっとも痛くない。あなたや私のことを気に入らない誰かがどれだけ私の邪魔をしようと、私は大事な友達と楽しく生き続けるの。その覚悟を済ませたの。だからね、私に不干渉の寵愛を使っても無駄だよ。それでも力を使いたければそれでもいいと思うけど、あなたじゃもう私を苦しませることはできない。それだけ覚えといて」
小さな体で私を見上げる彼女は、変わらぬ微笑を浮かべたまま涙を漏らす私の顔を見ていた。彼女の瞳に私の姿が映る。恐怖で支配された女子高生の姿があった。
「阿賀さんから言っておきたいことある?私ばっかり一方的に伝えるのもよくないし」
目からは大量の粒を零し、唇も肩も膝も極寒の中にいるように震えている私に対して、表情も声音も変えぬまま彼女は問いかけてくる。
何かを言い返そうとした。声は出なかった。何も思い浮かばなかった。ただこの時間の終わりを願った。
もう彼女が化け物かどうかなどの問題ではなかった。私がどれだけ彼女を傷付けようとしても、人の理から外れた特別な力を使ったとしても、彼女は傷付かないし気にも留めない。そう確信させる程のものが彼女の言葉の中にはあった。彼女には自信があるとかそういうレベルの話ではなく、もう決まったことなのだと、不変の理なのだと、彼女の全身から溢れる全てがそう告げていた。
あぁ、そうか。彼女は土俵から降りたのか。私がこれまでの人生を使って必死にしがみついてきた土俵から降りて、もう手も足も出せないところへと行ったのだ。
同じ土俵にいない相手は傷付けられない。干渉もできない。私が彼女への干渉を妨げたって何の意味もない。違う土俵で彼女は幸せに生きる。憎くて妬ましくて死んでほしい、そんな私の悪意も届くことはなく、彼女は笑うのだろう。
苦しい。気分が悪い。だってそうだろう。私がたくさん傷付いて、泣いて、喚いて、針の穴に糸を通し続けるように神経を擦り減らして、ようやく土俵の中心に立てたのに、私を守ってくれる人たちを周りに置けたのに、彼女はそんな土俵を価値がないと判断して、捨て去って、別の土俵で幸せそうに笑うのだ。
憎い。妬ましい。死んでほしい。そして何より羨ましい。
私だって本当はそっちに行きたかった。でも何かを持って生まれてこなかったから、弱い私一人じゃ周りの悪意を跳ね除けられない。だから諦めたのだ。だから今の土俵で生き抜く術を身に着けたのだ。なんでお前が、なんでお前なんかが、そう怒りと悲しみが込み上げる。
「何もないみたいだから私はもう行くね」
何も言い返せなかった私に対して勝ち誇る様子もなく、優越感に浸ることもなく、当然心配することもなく、淡々とそう告げて彼女は去ろうとする。
私は言い返そうとする。体の中を駆け回る怒りを全て彼女にぶつけようと息を吸い込む。
しかし、私の唇から吐き出されるのは吸い込んだ分の嗚咽だけだった。震えていた膝はとうとう私を跪かせ、その衝撃で頭を垂れるように下を向いた。
せめてもの抵抗でボロボロとみっともなく涙を垂れ流すその瞳で彼女を睨みつける。
「それじゃ」
睨みつけた先に見えたのは、そう一言発して踵を返しながら私を見下ろす彼女の瞳だった。
私に対して憎悪も憤怒も軽蔑も何もない、全く以て興味がないとそう告げる温度を感じられない瞳だった。
階段を下りていく彼女の後ろ姿を見ながら、私は無力感に蝕まれて、蝕まれ続けながら伊吹 凛を傷付けるための力は解かれた。
苦しめ。泣け。苦労しろ。後悔しろ。伊吹 凛。
そう強く思ったことで授けられた力は、もう伊吹 凛を苦しめることも、泣かせることも、苦労させることも、後悔させることも不可能になったことで失われた。




