第一章15 伊吹 凛
本当は、友達なんていらなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
初めて友達ができたのは保育所のリスさん組の頃。うちは幼稚園じゃなくて保育所だった。リスさん組は三歳の幼児たちが集められる場所だった。
けいちゃん。かんた。あーちゃん。ぱっと思い出せるのはその三人だ。他にも遊んでいた子たちはいたと思うが、呼び名も顔も思い出せない。その三人だってフルネームで覚えていないし、どんな漢字だったのかはそもそも知らない。
でも、仲は良かった。一回か二回、けいちゃんとは家族ぐるみで遠出した気がする。けいちゃんと一緒に海で遊んだ記憶だけが残っている。
友達というのは明確な基準がない関係だ。でも、あの頃の私と彼女たちは間違いなく友達だったのだろう。ほとんど覚えてはいないが、楽しかった記憶だけが残っている。きっと楽しくない時間や喧嘩して不機嫌な時間もあったのだろうが、全くと言っていいくらい覚えてはいない。
リスさん組からキリンさん組になって、ゾウさん組になって、多少交友関係は変わったのだろうが、きっと私自身に変化はなかった。もちろん育ち盛りの子供なのでぐんぐんと成長はしていたのだろうが、何かしら自分自身を改善しようとする意識などはなかったはずだ。
小学生になった。この頃の記憶もあまりないのだが、保育所にいた頃よりは覚えている。友達の名前もフルネームで覚えている。漢字まで覚えているかと聞かれれば、少し自信がない。
「りんちゃんはさー、大人だよね」
そう言うのは朝倉 亜美だ。漢字まで覚えているのは中学までを共にした友人であり、今もワンシーズンに一回くらいは会って遊ぶ相手だからだ。そんな彼女と小学校低学年の頃に交わした会話を思い出していた。
「ほらー、うちのクラスってお子ちゃまばかりでしょ?その点、りんちゃんは大人だよねー」
それは大人ぶりたい子供が自分は他の子と違うのだと思いたいがために、落ち着きのある友達を巻き込んでそう言い出しただけの話であった。
「そう?」
淡泊な返事をする。全然ピンとは来なかった。しかし、他の子たちと自分自身が少し異なっている自覚はその頃から薄々あった。
例えば、なぜお昼休みは友達と遊ぶのが当たり前なのかわからなかった。別に友達がいなかったわけでも、嫌いだったわけでも、楽しくなかったわけでもない。ただ、図書室で絵本を読みたい日もあるし、先生とお喋りしていたい日もあるし、ぼんやりとお空を眺めていたい日もある。
だから私は何度か友達の誘いを断って、気が向くままにお昼休みを過ごしていた。絵本を読んだり、先生とお喋りしたりしていたときはまだ受け入れられていたが、一時間ずっと運動場の隅っこで寝転んでお空の雲を眺めていたときや、一人で校内に貼られた掲示物を片っ端から読んで回ったときなんかは、周りから嫌な視線を向けられたものである。
それでも私は気にすることなく、その日の気分で友達と遊んだり、先生とお喋りしたり、一人で気の向くままに歩いたりした。
「りんはさー、変だよね」
そう言うのは朝倉 亜美だ。小学三年生になった私への評価は大人ではなく変人だった。
「そう?」
また私は淡泊な返事をした。そうかもと思って、そうかもと思うだけだった。
小学四年生の頃、クラス内で嫌がらせがあった。いじめとまで呼べるのかは微妙なところで、嫌がらせを受けた本人がいじめと思えばいじめだという理論を用いるのであれば、その嫌がらせはいじめではなかった。
嫌がらせの標的は私だった。誰にでも回ってくる順番のような嫌がらせが私に襲い掛かっただけの話で、今にして思えば私は標的として据えやすい性格だったのだと思う。要は態度がふてぶてしくて偉そうなのだ。
嫌がらせに対して悲しいとも苦しいとも思わなかった。ただめんどくせぇなという苛立ちだけがあったのを覚えている。嫌がらせしてきた男子二人と女子三人の顔を一発ずつぶん殴って、ちょっとだけ騒ぎになって、丁度三月だったからクラス替えがすぐに来て嫌がらせは終わった。
小学五年生になった私はなぜか尊敬の眼差しを向けられていた。例の嫌がらせしてきた連中は一部の生徒たちから嫌われていたようで、そいつらをぶん殴ったから評価されたらしい。凄いねとかカッコいいとか凛ちゃんは間違ってないとか、そんな言葉を浴びせられた。
私は別にぶん殴ったことを凄いともカッコいいとも思っていなかった。間違ってないと言われたことも、別に正しい間違ってるを理由にぶん殴ったわけじゃないしなと思っていた。あの時はただムカついたからぶん殴っただけである。
そんな出来事が知れ渡ったからか、それ以降私が嫌がらせの標的とされるようなことはなかった。
「凛はさー、ガキだよね」
そう言うのは朝倉 亜美だ。それは私を傷つけたり見下したりする意図の発言ではなく、雑談の中で出てきた彼女から見た私への正直な評価である。
「そう?」
またまた私は淡泊な返事をした。別に自分のことをガキともガキじゃないとも思っていなかった。
朝倉 亜美は小学校という社会での生き方を覚え、基本的には誰からも好かれていて、随分と上手く生きていた。確かに彼女と比べれば私はガキなのだろうと思った。
「凛ちゃん、変だよ。なんで私たちと遊ぶのを断ったのに」
そう言ったのはもう名前も思い出せないクラスメイトだ。小学六年生となり、ここ最近の昼休みは彼女たちといるのが当たり前となっていたが、彼女たちといても微妙に楽しくなく、その日は気分的にぼんやりしていたかったので、遊ぶのを断って、特に何をするわけでもなく教室の自席に座って黒板の辺りを眺めていた。
変だと言われた。そういえば数年前に亜美からも同じことを言われたなと呑気に考えていたら彼女たちは怒りだした。
「私たちが嫌いならはっきり言ってよ!気を遣って遊びに誘ってあげたのにさ!失礼だよ!」
叫び声が五月蝿くて怪訝になってしまった表情のまま私は答えた。
「別に嫌いじゃないよ。気分が向かないとき以外は遊ぶよ」
あの頃は気にもしていなかったが、今思うとそのときの私の声は彼女たちに好意を示すような感情が全く籠っていなかった。ただ淡々と伝えた。
めんどくさいな。
そのときもそう思った。
おそらく、生きてきた中で私が一番思ってきた言葉はめんどくさいだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
中学一年生。同じ小学校の人たちが五十人くらいはいたけれど、友人と呼べるのは朝倉 亜美くらいだった。幼い頃はもっと友人が多かった気がするけれど、気付けば両の手があれば数えるには十分な数で、そんな多くはない友人も亜美以外は別の中学校だった。
私は、気にしなかった。
気にならなかった。
そして私は孤立した、なんてことはなく新たな友人がすぐにできた。私は隣の席になった人に気安く話しかけられる性格だ。気付けば中学での友人の数は両の手では数え切れないほどになった。
たぶん私は自分にも人にもあまり関心がなく、どう思われてもいいと思っていて、だからこそ嫌われたらとか考えずに誰にでも気安く話しかけることができるのだろう。
「伊吹さん、一緒にトイレ行こ」
めんどくさい。断った。
「伊吹って好きな人いんの?いない?嘘つくなよ~。俺たちの年齢で好きな人いないとかありえねーから」
めんどくさい。無視をした。
「なんで既読だけ付けて返信しないの?グループメッセだから?何それ?グループに入ってるならリアクションしてよ」
めんどくさい。メッセージを見なくなった。
「高峰君から告白されて断るって…お高くとまってるね」
めんどくさい。話しかけるな。
「本当は私のこと見下してるんでしょ」
めんどくさい。なんとも思ってない。
「お前そんなんじゃ社会で生きていけないぞ~。もっと空気読めよ」
めんどくさい。誰だお前は。
「私たち友達じゃなかったの?なんで私のお願い聞いてくれないの!」
めんどくさい。一緒にいるときだけ楽しくお喋りしてればいいじゃないか。
「伊吹さんはもっと場の空気を読まないと、今みたいにクラスで孤立するわよ。困るのは伊吹さんなのよ」
めんどくさい。用意された言葉だけを浴びせらえるこの時間のほうが困っている。
「伊吹さんは」「伊吹は」「凛ちゃんは」「あんたは」「凛は」「お前は」「伊吹ちゃんは」「伊吹さんは」
皆が私にこう言った。
「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」「おかしいよ」
あぁ、本当に、めんどくさい。
「凛はさー」
朝倉 亜美がいつもの調子でそう言った。
「私って、おかしい?」
亜美が言葉を言い切る前に私は彼女に聞いた。
「…どうしたの急に?」
怪訝な顔にほんの少しの心配を混ぜて亜美はそう聞いてきた。
「私っておかしいかな?」
私は淡泊な口調で質問した。
「…。まあ、変ではある。私は昔から凛のこと知ってるからもう慣れたけど。なに?変わりたいの?」
そんな問いを投げかけられたが、私の頭の中で答えは出なかった。
「わかんないけど、変わった方がいいなら」
私は淡泊な口調で答えた。
「変わっても変わらなくてもどっちもどっちだと思うけど、、、おかしくない側の人間の私としては、空気を読んで過ごしたほうが楽だよ」
彼女のその言葉を聞いて、私はすぐに淡泊な口調のまま答えた。
「私、空気を読んで生きる人間に変わるよ」
自分自身では気付かないうちに、片方の目からだけ一粒の涙が零れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「凛は返信早いから楽だわ~。あいつも見習ってほしいよね。輪を乱すなって感じ」
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「まーじでこのメンバーに巡り合えたことは奇跡だわ。土日なにして遊ぶ~?伊吹っちも空いてるでしょ?」
■■■■■■。
「お前が絡みやすくなってよかったよ。一年前とかお前が悪くした空気をフォローするのに大変だったわ」
■■■■■■。
「伊吹さんも大人になったみたいで良かったわ」
■■■■■■。
私は空気が読めるようになった。見えないものを読むなんて凄いことのはずだが、当たり前のようにほとんどの人間が習得している技術だ。
もっとも、その技術を習得するのに別に苦労はしていない。もともと場の空気を読めていなかったわけではないからだ。■■■■■■から読む気がなかっただけなのだ。
そうして、嫌われることもなくなって、孤立することもなくなって、責められることもなくなって、否定されることもなくなって、説教されることもなくなって、いつも周りに人がいて、何をするにも友達と一緒で、独りじゃないから皆も強気で、自分を大きい存在だと思い込めて、楽で、楽しくて、幸せで、幸福で、■■■■■■。
よく眠れない日が増えた。
急に体調を崩す日が増えた。
朝起きると枕元に落ちている髪の毛の量が増えた。
頭を掻き毟る仕草をすることが増えた。
突然叫びたくなる衝動に駆られる機会が増えた。
前触れなく涙が出ることが増えた。
「あいつマジ空気読めないよね。凛ちゃんもそう思うでしょ?もうあいつのこと無視しよーよ。こういうのは痛い目に合わないとわからないって。むしろあいつのために無視してあげるようなもんでしょ」
「なあなあ、伊吹って好きな奴いんの?俺はねー、いるよ。あ、今度のテストで点数低かった方が好きな人発表しようぜ」
「伊吹さんは手が掛からなくて助かるわ。もうちょっと他の生徒も先生の視点に立って、仕事が増えるようなことしないでくれると助かるんだけどね。そうだ、伊吹さんにお願いがあるの。生徒たちが問題行動を起こしそうになったら、やめるようにいい感じに誘導してくれないかしら。あなたならできると思うの」
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「本当に最後がこのクラスでよかった!マジで一生の思い出だわ。全員が仲良いクラスとかこのクラスだけじゃない?」
なんで、無視される子がいたこのクラスでそんなことが言えるのだろう。
「なあ、伊吹も本当は気付いてるんだろ?俺の好きな人。別々の高校じゃあんまり会えなくなるし、俺たちさ…」
なんで、私と同じグループの女の子の元カレで、今も実は別の中学に恋人がいるこの人が、そんなことを言えるのだろう。
「伊吹さん、卒業おめでとう。それから受験も合格おめでとう。一番の教え子が倍率の高い東浜高校に受かって、先生も鼻が高いわ。あら、一番の教え子だなんて、教師が不平等な発言をしちゃダメね」
なんで、私にお願いという言葉を使って色々と指示をしてきただけのこの人が、そんなことを言えるのだろう。
■■■■■■。
め■■■■■。
め■■■さ■。
め■ど■さい。
本当に、本当に本当に本当に。
めんどくさい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「凛はさー、変わったよね」
朝倉 亜美がいつもとは違う調子でそう言った。
「そうだね」
私は疲れた声でそう答えた。
「私の…せいだよね。ごめんね」
それが卒業式の帰り道、亜美から発せられた言葉だった。
「…いいよ。決めたのは私だから」
最終的にこの生き方を選んだのは自分自身なのだ。誰かのせいにはできない。
「私より成績悪かったはずの凛が難関の東浜高校に受かっちゃったからさー、私たちバラバラになっちゃうね」
「まあ、そうだね」
空は爽やかな淡いブルーで覆われていて、眩しい日差しが心地良い温度を生み出していた。
「こういうとき、高校生になってもたくさん遊ぼうねとか言うのが普通だと思うんだけど、私、なんだか凛にはそれが言えないや」
横目で亜美の顔を見ると、その瞳には涙が溜まっていた。少し驚いた。
「まあ、たくさんじゃなくても、たまには遊ぼうよ」
何と答えればいいのかわからないままに口から出た言葉だった。
「そう言ってくれて嬉しい。…凛は、高校ではどんな感じで生きるの?」
「生きるって、何それ?」
私は半笑いを声音に混ぜて聞き返す。
「今みたいに生きるの?」
亜美はこっちを見ないまま、真剣な声で聞いてきた。
「…もう、いいかな」
私も亜美の方は向かないまま、真剣な声で答えた。
「高校で友達できるかな?友達できないの怖くない?私は、怖い」
私たちは青空の下を肩を並べて歩く。歩幅も地面に足が付くタイミングも全然違うけれど、歩く速さだけは同じだった。
「私は、怖くない」
そう答えた。私はやっぱり変なのだろう。
「本当は、友達なんていらなかった」
中学校で約二年間、己を偽り続けた私の、腹の底から出た本音だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
高校一年生。同じ中学の子が一人いたけれど、元々接点がなく、同じ高校だと決まってから数回だけ言葉を交わした関係だった。
高校でのクラスも一緒にはならなかったため、私に知り合いはいなかった。
話しかけられれば言葉を返す。気が向いたら近くの席の人にも話しかける。そうして数人と友達未満の関係が構築されていく。
「伊吹さん、一緒にトイレ行こー」
「めんどくさいから行かない」
そんなやり取りをしていると、伊吹 凛とはそういう系統の人間なのだと認識された。それでいじめられたりするようなことはなく、クラスメイトは適度な距離感で私に接してくれた。
高校生活が楽しいかと言われれば楽しくない。けれど、全く以て辛くも苦しくもなかった。
気付けば一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と過ぎ、半年、一年と時間が過ぎた。
二年六組の生徒になった後も、特にこれといって私に心境の変化はなく、変わらずの学校生活を過ごしていく。はずだった。
どこのクラスにも象徴となるようなグループがいて、二年六組は阿賀、井野、宇都という三人の女子生徒だった。見事にあいうえお順で、心の中であいうコンビと呼んでいた。
「伊吹さーん、次の移動教室一緒に行こー」
そう声を掛けてきたのは井野さんだった。
「あー、うん、いいよー」
誘いに乗って適当な雑談を交わしながら教室へ向かう。井野さんともタイミングが合えば話す程度の友達未満の関係になるのだろうと思っていた。
「伊吹さーん、トイレ行こー」
「めんどくさいから行かない」
いつも通り、私は思ったままに答えた。
その次の日からあいうコンビの私に対する態度が変わった。私の陰口で盛り上がり、無視して、些細な嫌がらせをする。何度も見てきたよくある話である。別に気にしていなかった。傷つきもしなかった。
ただ、めんどくさいと、そう思った。
あいうコンビから嫌われていることなど気にせずに私は学校生活を過ごしていた。クラスには伊吹 凛と関わればあいうコンビを敵に回すことになるという暗黙の了解があったことには、私も気付いていた。
めんどくさいとは思いつつも、大きな支障があるわけではない。二人一組でペアを作れと言われれば、近くの人に声を掛ければ済むし、昼食もその日の気分で教室とか食堂とか中庭とかで自由に食べた。
しかし、四月の終わりに差し掛かった頃、クラスに変化があった。誰も私と目を合わせなくなった。話しかければ受け答えはしてくれるが、常に気まずそうで、目は合わせてくれず、質問しても曖昧な返事しか返ってこなかった。
二人一組でペアを作るとき、私から話しかけても曖昧な返事ではぐらかすように皆が離れていった。仕方がないので余った子らしく先生とペアを組んでその場はやり過ごした。
めんどくさい。
またそのフレーズが頭の中を回った。
ゴールデンウィークになった。長い休みの中で一日だけ亜美と遊んで、残りは家でぐうたらと過ごすか、自由気ままに買い物に行ったり映画を見に行ったりした。クラスの嫌な空気の中で過ごさずに済んで、ゴールデンウィーク中は本当に気が楽だった。
ゴールデンウィーク最終日、昼食を食べに喫茶店へと向かい、お気に入りのサンドイッチを平らげ、家に帰る途中だった。
ちょっとした高台に上って、広いようで狭い平凡な街並みを眺めていた。その日は天気も良く、暖かな気温の中に涼やかな風が通り過ぎて、満たされたお腹が睡魔を呼び、非常に心地の良い時間だった。
街並みを眺め尽くして、空を見た。薄く小さい雲が点在する青空を眺める。私は昔からぼんやりと空を眺めるのが好きだった。そうして無心のまま数分が過ぎたところで、ふと明日から学校かーという思考が頭に入ってきた。
二年六組のあの空気の中にいる自分を想像した。天気も気温も良い休日なのに、息苦しくなったのを感じた。
あぁ、私は今辛いのだと、自覚した。
どうすればよかったのだろうか。
空気を読めば苦しくて、空気を読まなくても苦しくて。
めんどくさい。人間関係がめんどくさい。空気を読むのがめんどくさい。読まないといけない空気なんて生み出す人間がめんどくさい。
人間なんて滅べばいいのに。目の前に広がる大空を見ながらそう思った。本気でそう思ったわけではないが、本気でそう思っている自分もいる気がした。
大空の中を鳥が羽ばたいている。羨ましい。幼い頃から自由に気の向くままに空を漂ってみたいと思っていたのだった。
小学生の頃、図書室で読んだ絵本の中にドラゴンとお姫様の物語があった。内容はよく覚えていない。魔王に襲われたお姫様をドラゴンが助け、最後は背中にお姫様を乗せて世界中の空を飛び回ったみたいな終わり方だった。
その絵本を読んだとき、私が憧れたのはお姫さまではなくドラゴンだった。銀色のキラキラとした鱗を持ったドラゴン。強くて、大きくて、自由で、広い世界を余すことなく飛び回ることができて。
大空を眺めながら私はあんなドラゴンに成りたいと思った。人間でいることで悩みに囚われてしまうのなら、人間なんて域を遥かに超えたドラゴンとなって、大空を舞って、自由気ままに生きて、気が向いたら人助けでもして、めんどくさいことは炎でも吐いて全て焼き尽くしてしまう。
人間が作り出しためんどくさいだけの読まないといけない空気なんて、とても強いドラゴンの力で滅ぼしてしまえばいい。
そういう存在に成りたいと思った。そういう存在に成りたいと希った。
そして、ゴールデンウィークが終わり、学校が始まる日付に変わった瞬間、私はドラゴンに成った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
最初は焦って、部屋を飛び出した。ベランダから飛んで、夜を舞って、気分はよく、夢心地のまま時間が過ぎて、気付けば河川敷の草原の上に横たわっていた。
見慣れた街を見慣れない角度から見下ろし、自由に飛び回って、満足したように河川敷に着地した記憶は確かにあるのだが、モヤがかかったようにぼやけていて鮮明には思い出せない。
まだ夜は深く、補導されることを恐れながら今いる位置を把握し、家まで歩く。当然私は裸足で、コンクリートは硬く、踏み込むごとに足裏に食い込む小石が痛い。痛いけれど、あまり痛くない。夏に川辺を裸足で歩いた記憶が呼び起こされ、あのときに比べると痛みが弱いのだ。
自分の体が急変したことで痛覚もおかしくなってしまったのかと頭を抱える。そして気付く。頭に何かある。硬い。そういえばいつもより頭が重い。その何かを手触りで確かめながら、内心ではないないと言い聞かせつつ、通りかかった服屋の窓ガラスに映った自分の姿を見て驚愕する。
そこには二本の太く黒い角の生えた女性の姿があった。ついでに髪色が灰色になっていた。
現実味を帯びていなかった状況から次第に冷めていき、自分が今ヤバい状況にいるのだと理解した。
そう焦り始めたときだった。再び自分の体が変化を始めた。ぶわぶわっとした感覚が体のあちこちで起きて身震いする。すぐに自分の腕がザラザラした灰色の皮のような見た目に変化し、次第に意識が遠のいていく。完全に意識を失うことはなく、意識が遠のいた感覚のままま再び夜空へと吸い込まれるように飛行を始めた。
再び始まった飛行にどれくらいの時間を費やしていたのかはわからない。気付けばゆらゆらと落ちるように自宅のベランダに着地し、体が人の姿に戻る感覚を味わいながら眠りに落ちた。
眠りから目覚めたのは午前十時を過ぎたタイミングで、朝の早い母は既に仕事に行っていた。
学校に体調が悪いため休むと連絡を入れ、鏡に映った己の姿を見ながら途方に暮れる。灰色になった髪はいいとして、この角はどうしたものだろうかと。時間が経つ度に実感が湧いてきて、どんどん不安は高まり、泣きそうになる。
部屋に閉じ籠って、頭から毛布に包まって、私がいったい何をしたのだと神様に悪態をついた。
母が返ってきてからも部屋の扉越しに会話をして、体調が悪くて寝てるから入ってくるなと強く伝えた。
部屋で一人、考える。いつまでもこうしてはいられない。母は明日の朝も早くに家を出るだろうから、夕方までは誰にも自分の姿を見られずに済む。けれどそれ以降は必ずバレる。まず母にバレる。バレたとしてどうなる。起きている現象は突飛すぎて全く想像がつかない。わからない、恐い、わからない、誰か助けて。
カチッと時計の針が鳴って、日付が変わったことを確認した。今回は体に変化はない。それに安堵しながら、でも明日からどうすればと不安になりながら数十分が過ぎた。
そうしてぐるぐると考え事をしていると、また急に体に異変が起きた。昨日と一緒だ。肌がおかしくなって、体が大きくなって、逃げるようにベランダから飛び出して、そこからはさっきまで悩んでいたことが嘘のように心地良い感覚となり、月のない夜空を舞う。
夜を駆けて、夜空を舞って、大気を泳いで、全部夢なのかと思いついて、夢ならば満喫しようと自由に飛んだ。
飛んで飛んで飛んで、声が聞こえた。
「灰色のドラゴン!」
空の中で急に人の声が聞こえて跳ね上がる。驚きのままに目を見開くと赤髪の人間と目が合った。さらに私は驚いて、思わず口から火を吹いた。そんなこともできたのかと自身に驚きつつ、意図せず吐き出された灰色の炎は赤髪の人間の頭上を通過していった。
それにホッとする暇もなく、驚いて心が乱れたからか体の制御も利かなくなり、ビルより高く雲よりは低い位置から真っ逆さまに私は落ちる。
一瞬意識が飛んだと思ったら私は地面にいて、いててと呟きながら体を起こす。
「いったい、、お前は、、」
自分の真下からそんな声が聞こえたので見てみると、そこには赤髪の男子高生がいた。
それが柏木 司との出会いだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それからの学校生活は一変した。
柏木と仲良くなって、日和と仲良くなって、尾澤さんと仲良くなって、安武と仲良くなって、林間学校の同じ班の人たちとも仲良くなった。
もちろんその間も色々あって、嫌な思いもしたし、迷惑もたくさん掛けたけれど、特に柏木と日和のおかげで私の学校生活は楽しいものへとなった。そこに安武も加わった四人と一緒にいる時間は楽しくて、めんどくさくもなかったのだ。
尾澤さんたちも私に気を遣っているようで、意図的にめんどくさいと思ってしまうような関わり方を避けてくれていたように思う。その点は申し訳ない気持ちもあるのだけど、とても有難かった。
『本当は、友達なんていらなかった』
中学の卒業式の帰り道に吐き出したあの言葉は嘘ではない。けれど、この半月を柏木たちと過ごして、こういう友達なら悪くないと、これからも一緒にいてほしいと、そう思った。
柏木には本当に感謝している。私と友達になりたがらないのは実はちょっと寂しくもあるのだが、私にとって柏木は友達とかそういう対象以前に恩人だった。
日和にも感謝している。私が独りぼっちでいることを回避するためではなく、私という存在に正面から向き合ってくれた。だから私が嫌がるようなことはしないし、その上で一緒に雑談したり遊びに行ったりしてくれた。
安武にも感謝している。適度な距離感を保ってくれて、気の遣い方が誰よりも自然で、一緒にいると割と心地良かった。これからもっと仲良くなりたいと思えた。
尾澤さんたちにも感謝している。クラスで孤立していた私を同じ班に入れてくれるだけではなく、適度に話しかけてきてくれて、暖かい空気を作ってくれていた。そう空気だ。私が忌み嫌っている空気。でもそれはめんどくさいと感じる空気ではなくて、居心地の良い空気だった。
彼女たちとは林間学校の準備から少しずつ中を深めて、林間学校で一緒にカレーを作って、肝試しをして、より深く関係を築いていった。まだ内心で友達とは呼べていない彼女たちとも、この林間学校中に友達と呼べるくらい仲良くなれると思った。
なのに、二年六組のあの息苦しさは急に訪れた。
肝試しが終わって私がトイレから戻ってくると、尾澤さんも、田中さんも、浜口さんも、河野さんも、佐坂さんも、誰も私と目を合わせなくなった。
話しかけてもまた困ったようなめんどくさそうな表情を浮かべながら、曖昧な返事だけをして苦笑いするだけだった。
あぁ、またなのか。結局なのか。そう思うと、これまでの人生で何度も繰り返されたフレーズが頭に浮かんだ。
「何でそういう態度を取るの?誰かに何か言われた?別に私と関わることで尾澤さんが嫌な思いするなら関わらなくていいけどさ、そうならはっきり言ってよ!さっきまで普通に喋ってたじゃん!」
尾澤さんに対してそう叫ぶが、眉を下げて目を逸らしながら曖昧な相槌が返ってくるだけだった。
胸の辺りに気持ちの悪いモヤモヤが渦巻いたまま部屋に戻る。部屋の中でも同じだった。誰も私を視界に入れようとしない。私をいない存在のように扱う。
機嫌の悪い私は彼女らに物申した。
「そういう態度取るのやめてくれる!ウザいんだけど!別に喋らなくていいし、嫌ってくれていてもいいけどさ、全員で無視とかするなよ!」
しかし、私の怒った声は彼女らに届かない、いや、届きはしたが、まるで大きな音がしたからそちらを見ただけというような様子で視線だけを私がいる方角に向けた。
「空気読まずに偉そうにしてんのが悪いんじゃん」
唯一、私を見てそう言ったのは阿賀さんだった。苛ついているのを隠しもしない表情と声音で私にそう告げた。
「ハァ!?そんな理由で無視してんの?なんで私があんたらの作り出しためんどくさい空気を読まないといけないんだよ!」
頭に血が昇ったまま反論する。
「別に空気読まないならそのままハブられてればいいんじゃない?皆もそんなあんたのこと嫌いだから話したくもないんでしょ」
阿賀さんが冷笑して、こちらから視線を外す。部屋の中にいる他の人たちは何事もなかったかのように雑談をしている。
あー、めんどくさい。ムカつく、ウザい、腹立つ、めんどくさい。
阿賀さんに掴みかかるのを我慢しながら、一旦冷静になろうと部屋を出た。部屋を出ると先生が見張りをしている。今は外の空気を吸いたい気分だ。どう言い訳して外に出るかを考えながら先生に声を掛けた。
「先生、ちょっと気分が悪くなったので外の空気を吸ってきていいですか?」
先生の目の前まで歩いていき、私はそう言った。
「…」
返事は返ってこなかった。
「先生!外出てきていいですか?」
さらに苛立った私は大きめの声で先生にそう言った。
「…あぁ。まあ、はぁ」
先生は私と目を合わせることなく、曖昧な返事をした。私の苛立ちはピークまで達し、全身の血が頭に昇ってくる錯覚を味わいながら私は外に飛び出した。
お前もなのか!全員私が目障りなのか!私が何した!お前らが勝手に都合の良い存在を求めて、それに従わなかっただけじゃないか!
めんどくさい。めんどくさい!めんどくさい!めんどくさい!
森の中を駆ける。叫ぶ。叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
そうして森の奥まで辿り着いて、ポロっと頬に何かが伝うのを感じながら夜空を見上げた。
私の心情など全く気にしないように、満天の星空が広がり、煌々と輝く満月が浮かんでいた。
空を見上げるのが好きだった。このめんどくさくて醜い世界で、空はいつだって美しかった。そんな美しい世界で私は生きたかった。
そうだ。またドラゴンに成ってこの美しい夜空を駆けよう。
…いや、もうめんどくさい人間なんてやめてドラゴンとして生きていこう。
ドラゴンとして美しい世界で自由に生きていこう。
めんどくさい人間なんて滅ぼしてしまおう。ドラゴンは強いのだ。炎を吐ける。雷を落とせる。竜巻だって起こせるかもしれない。
もうめんどくさいのは懲り懲りだ。人間関係なんて懲り懲りだ。
体が変化していくのを感じる。その変化が恐くて心地良い。
そうして私は完全なドラゴンとなった。
女子高生のドラゴンではなく、ただのドラゴンとなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふわふわする。気分がいい。まるで翼が生えて、この広い世界の空を飛んでいるような気分だ。
爽快だ。快適だ。愉快だ。
心のモヤモヤが浄化されていくように、体が軽くなるのを感じる。
いったい何にモヤモヤしていたのか思い出せない。
いったい何にモヤモヤしていたのかなどどうでもよい。
ようやく成れたのだ。理想の自分に。面倒事とはおさらばだ。
フワフワと、ユラユラと、漂って、空を泳いで、眠たくなって、うつらうつらと彷徨って、とても気分が良い。
なのに、そうして気分良くしている私の邪魔をする虫がいる。
目の前をプンプンと飛び回って、耳元でワーワーと鳴いて、せっかくの良い気分が台無しだ。
だから私は、邪魔な虫を払うために腕をブンブンと振り回すのをやめて、溜まったイライラを吐き出すようにワッと声を吐いた。
声で虫を撃退できるはずなんてないのに、なんだかそれができる気がして、思いっきり声を吐いたのだ。
そうしてようやく、飛び回っていた虫は焼かれて死んだかと思ったのに、また私の目の前まで飛んでくる。
ここまでしつこいと話を聞いてあげたくなってくる。いったい私に何の用なんですかって。
これが蚊とかなら血くらい吸わせてあげるのに、この虫さんの目的は何なんだろうか。
と、考えている間にも目の前をピョンピョン飛び回る虫にイラっとして、私はまたワーッと声を吐いた。
まったくもう、イライラし過ぎて口から火が出そうだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
また声がする。聞き慣れた声だ。
背中を思いっきり叩かれた。とても痛い。
目の前を跳ね回っていたのは、虫ではなく赤髪の人間だった。
見覚えがある。聞き覚えがある。とても大事で、とても大切で、今は振り払いたくて仕方がなかった。
やっと成れたのに、もう考えたくないのに、迷いが生じる。
この人間なら私のことをどう思うのだろうか。
この人間はどんな人生を送ってきたのだろうか。
知ってほしい。
知りたい。
せっかくスッキリしていた思考に白黒付かないモヤモヤが混ざって、白黒付かないモヤモヤは灰色の霧となって放出される。
小学生の頃に読んだ絵本のドラゴンはキラキラと光る銀色の鱗だった。
私の皮と鱗はなぜ灰色だったのだろうか。炎の息吹はなぜ灰色だったのだろうか。
私はずっと迷っている。
どう生きればいいのかずっと迷っている。
空気を読まずに生きていくべきか、空気を読んで生きていくべきか。
友達を作らずに生きていくべきか、友達を作って生きていくべきか。
人に対して不干渉に生きていくべきか、人に干渉して生きていくべきか。
ずっと迷っている。
白と黒を付けられずにいる。
そんな迷いが混ざり合って、白と黒が混ざり合って、キラキラとした銀色ではなく、くすんだ灰色が出来上がる。
「本当は、友達なんて」
そこまで言いかけて止まる。
『俺は友達を作らない』
そう言ったあなたは、何故そう言うようになったのだろうか。
知りたい。白黒付けられない私が答えを出すために、あなたのことを知りたい。
そう思って、そう願って、そう希うと、あなたの人生が私の中に流れ込んできた。
赤髪の人間の、柏木 司の人生が私の中に流れ込んできた。
それは赤い春の記憶だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
赤髪の人間の記憶を覗き見た。
柏木 司が今に至る経緯を知ってしまった。
大切な友達を守れずに、大切な友達に裏切られて、真っ赤な血に染まって、心からも真っ赤な血がドバドバと溢れ出て、怒って、憤慨して、憤怒して、力を授かって、それでも憤怒を鎮める選択肢を取らず、ただ友達を作らないと決めた男の子の記憶だった。
可哀想で、心優しい男の子の記憶だった。
私の生きた道と、彼の生きた道を、見比べて、考えて、考えて、考えて、じっくりと考えて、私は決めた。
考えてみても、どう生きるべきかという白黒付けたかった答えは出せなかったけれど、代わりにこれから先の選択は決めることができた。
その選択に従って私は彼と話す時間を望む。
彼に伝えて終わりにしよう。
伊吹 凛を終わりにしよう。




