第一章14 月下
ふわふわする。気分がいい。まるで翼が生えて、この広い世界の空を飛んでいるような気分だ。
爽快だ。快適だ。愉快だ。
心のモヤモヤが浄化されていくように、体が軽くなるのを感じる。
いったい何にモヤモヤしていたのか思い出せない。
いったい何にモヤモヤしていたのかなどどうでもよい。
ようやく成れたのだ。理想の自分に。面倒事とはおさらばだ。
フワフワと、ユラユラと、漂って、空を泳いで、眠たくなって、うつらうつらと彷徨って、とても気分が良い。
なのに、そうして気分良くしている私の邪魔をする虫がいる。
目の前をプンプンと飛び回って、耳元でワーワーと鳴いて、せっかくの良い気分が台無しだ。
だから私は、邪魔な虫を払うために腕をブンブンと振り回すのをやめて、溜まったイライラを吐き出すようにワッと声を吐いた。
声で虫を撃退できるはずなんてないのに、なんだかそれができる気がして、思いっきり声を吐いたのだ。
そうしてようやく、飛び回っていた虫は焼かれて死んだかと思ったのに、また私の目の前まで飛んでくる。
ここまでしつこいと話を聞いてあげたくなってくる。いったい私に何の用なんですかって。
これが蚊とかなら血くらい吸わせてあげるのに、この虫さんの目的は何なんだろうか。
と、考えている間にも目の前をピョンピョン飛び回る虫にイラっとして、私はまたワーッと声を吐いた。
まったくもう、イライラし過ぎて口から火が出そうだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
焼かれると体の再生が遅い。これは知っていたことだ。けれど知っていたからと言ってどうしようもない。ドラゴンを引きずり下ろすには接近しなければならず、接近すれば広範囲の炎を吐かれて焼かれる。幸い、その炎では憤怒の寵愛で強化された俺の命には届かない。
しかし、こちらの攻撃は効いていない。正確には攻撃は効いているが、ヒットポイントが高すぎて終わりが見えない感覚だ。既に十発は全力で殴ったのだが、ドラゴンは今も元気にお空を漂っている。
これが漫画なら体を焼かれてもズボンは焼かれずに残るのがお約束だ。だけど炎に焼かれれば普通は全ての服が燃える。だから俺も全裸になってしまうのを覚悟した。しかし、今の俺はズボンどころか上着すらも焼けずに残っている。どういう理屈かは不明だが、服を燃やさず俺の肉体だけを燃やせるらしい。さらには焼かれたはずの森も何事もなかったようにそこにあった。
「まあ、全裸じゃ伊吹が人間に戻ったとしても話を聞いてくれそうにないから助かるかな」
そう呑気な意見を口にしているのは己の心を折れないようにするためだと薄々気付いていた。あんなデカいドラゴンにどうやって勝つんだよという考えがよぎるのを抑えて、俺は再び飛び上がった。
「ヴガアァァー!」
再びドラゴンが俺に向かって灰色の炎を吐くが、今回は炎が命中することはなかった。先程までドラゴンの眼前を目的地として跳躍していたが、今回はさらにその上を目掛けて跳躍したのだ。結果、眼前に来た瞬間の吐き出された炎を通り過ぎて、ドラゴンの頭上へと到達した。
そのまま自由落下してドラゴンの背中に華麗に着地したいところだったが、普通に失敗して鱗の割れ目に右手の指四本を引っ掛けてギリギリでドラゴンに搭乗できた。ザックリ切れた指から赤々とした血が流れ出るのを見ないようにしながら、ドラゴンの背中に両膝を置いて座る。
その間に回復した右手と元々無事だった左手を握り合わせて、己の頭上に持ってくる。全身全霊の力を込めて握り合わせた腕を振り下ろした。
ブウォーンを聞き慣れない音が夜空に響いた。そしてドラゴンは大きく仰け反り、声にならない悲鳴を上げた。背中に乗れたときに一枚だけ灰色ではなく黒々とした鱗があったのだ。おそらくは逆鱗というやつだ。
痛みで暴れるドラゴンから振り落とされ、自由落下しながら地面に叩きつけられる。そして一秒ほど意識が飛ぶ。先程から落ちるたびに一秒ほど意識が飛んでいるのでもう慣れたが、頭に後遺症とかが残りそうで不安になる。
まあ、もっと酷い目になったときも後遺症は残らなかったからきっと今回も大丈夫だろう、と願う。
そして、痛みに悶えるドラゴンに向けて俺は叫んだ。
「伊吹!話をしよう!お前の話を!どんなに酷い内容でも聞いてやる!だからいい加減目つきの悪いただの女子高生に戻りやがれぇ!」
結局はなぜ彼女がドラゴンに成るのかわからないままだ。今度こそちゃんと聞き出してやる。
俺の言葉が届いたのか否か、ドラゴンの次なる挙動は大きく異なるものだった。ドラゴンの鱗と鱗の隙間から、つまりはザラついた灰色の皮から煙が噴き出した。その灰色の煙は広範囲に、森の大部分を飲み込んだ。
そして、声が聞こえた。
『あー、めんどくせー。こんな世界滅ぼしてぇー』
それはドラゴンの重低音ではなかった。
僅か一か月未満でもうすっかり聞き慣れてしまった伊吹 凛の声だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『お前じゃあ勝てないよ』
そんな美声を思い出す。もっとも、美しい声というだけで、その口から出る言葉は酷いものである。
柏木 翼。二十歳手前の女性であり、寵愛現象管理協会の幹部。そんな若人が歴史ある協会の幹部を務めるのは数年前に紆余曲折があったからであり、彼女の異常と呼べる優秀さが発揮された結果である。
そんな彼女が言った。
『お前じゃあ勝てないよ』
僕は自分のことを強いだなんて思っていない。あらゆる武道を広く浅く習得し、そこらの一般人が相手なら一切の攻撃を受けることなく圧倒できるだろう。しかし世の中にはただの人間でありながら常軌を逸した強さを有する者がいる。
僕にとってそれは寵愛現象管理協会で鬼殺しと呼ばれる僕の師匠だった。まあ、師匠と呼ぶには何かを教えてくれたことなどなく、鍛えてやるという名目で一方的に蹂躙されるだけだ。
『鬼殺しと戦うつもりで臨みたまえ』
女性につけられるとは思えない師匠の異名を出されたことには驚いた。この世の全てを知っているような顔をしている柏木 翼がそう評するのだから、今回の任務が一筋縄ではいかないことは明確だった。
『にわかには信じられんなぁ。師匠と同格っちゅうことは、人類最強と言っているようなもんやで。憤怒の寵愛で人の域を超えた翼はんの弟君が相手っちゅうなら百歩譲って信じるけど、そのお友達の安武君やっけ?正真正銘、本当にただの人間なんやろ?』
憤怒の寵愛については全協会員が把握しているだろう。寵愛者は対象者に膨大な力を与えることもある。それは怪異の中でも位の高いとされる吸血鬼さえも超える力だったりする。翼はんの弟君、柏木 司はまさにその典型だった。憤怒の寵愛の効果は身体能力の強化であり、ビルより高く飛んだり、拳で石壁を砕けたり、とんでもない力ではあるが、もっとも常軌を逸しているのはその再生力である。純潔の吸血鬼すらも超える再生力を有する憤怒の寵愛はこの界隈では有名である。
したがってその憤怒の寵愛を持つ柏木 司は協会の中では有名人なのだが、その友人である安武 晴間の存在もそれなりに有名だった。僕も噂だけは聞いていた。藪岡組を壊滅させた男子高生。
実際は協会内で悪人と称されるオッサンが誘導した結果として藪岡組は壊滅したのだが、その過程で安武君が刀や銃を装備した大人たちを一蹴したこともまた事実。とても恐ろしい話である。
そんな噂話は聞いていたけれど、別に僕は安武君を脅威とは思っていなかった。別に銃を持った集団なんて僕の師匠であれば傷一つ負うことなく圧倒できるからだ。そしてその弟子である僕も、傷だらけにはなってしまうだろうが、おそらくは藪岡組を殲滅することができるだろう。
『安武はただの人間だよ。私だってにわかには信じられず、しっかりと調べさせてもらったんだ。その結果わかったのは、安武 晴間がただ強いだけの人間だということだけだった』
『本当に師匠と同格なら、普通に戦っても勝てへんな』
『だから言っている。お前じゃあ勝てないよ。でも幸いなことに安武と戦闘になる可能性は低い。説明した通り不干渉の寵愛が発動している。おそらくは安武や愚弟も不干渉の寵愛の影響下に入る。そうなれば誰も伊吹 凛に干渉できず、戦う理由を失い、部屋でおねんねする可能性が高い』
『それはラッキーなことやけど、嫌な話やなー。二つの寵愛現象が同時に起こるなんて』
『まあ、今の時点では伊吹 凛は普通の女子高生だ。邪魔がなければ難なく拘束できるだろう。だがリスクヘッジは重要だ。もし邪魔が入るようであればお前に安武の相手をしてもらう』
今年で二十六歳になる僕に対して彼女が当たり前のように溜口であることについては何も思わない。もしこれが自分に対してのみの態度であれば不快に思うのかもしれないが、柏木 翼という女は誰に対してもこういう態度である。おっかない協会のボスにも同じ態度なので、そういう生き物なのだろと受け入れてしまった。
『安武君だけでええの?司君も邪魔する気満々みたいやん。それにその不干渉の寵愛っちゅうのは空気を読まない人間ほど影響を受けにくいんやろ?司君って翼はんと同じで空気読まんやん』
『仮に愚弟が何をしようが障壁とはならないさ。蟻に道を塞がれても踏み潰せばいいだけだろ?』
こんな姉を持たなくてよかったと心底思いながら、寵愛現象の中でも危険度が高い部類に位置される憤怒の寵愛の保有者への警戒がそんなものでいいのかと疑問に思う。が、柏木 翼がそう言うのであればそうなのだろう。根拠なしにそう思えるほどには、彼女の協会員としての実績は凄まじい。
『まあ、仕事やからな。真面目に頑張るわ』
『安武が邪魔してきた場合は、ちゃんと死ぬ気で、そして殺す気でやりたまえ』
『殺す気って…物騒やな。寵愛現象のことを知っているだけで、ただの民間人やろ?殺したらあかんやろ』
『お前にそんなことを考えている暇はないよ。お前の全てを出し尽くせ』
以上が、恐い女子大生兼協会幹部と楽しくドライブしてたときの記憶である。そして、翼はんの読みでは安武君と戦闘になる可能性は低いとのことだったが、残念ながら予想は外れ、僕と彼との戦いの火蓋は切られた。
柔道も空手も合気道も、フェンシングもボクシングもその他の様々な格闘技も、オリンピックに出られる程度の実力を僕は有している。それは努力によるものではあるのだが、それ以前に生まれ持った運動神経が高さが理由だった。
そして何より、試合を前提とした武術ではなく、僕がもっとも鍛え上げたのは殺し合いを前提とした武術だ。師匠のオリジナルの武術を僕でも実行可能なレベルに落とした代物。それを行使して僕はただの男子高生である安武君と戦闘を繰り広げた。
僕は寵愛現象管理協会の戦闘員だ。調査員の連中は最低限の護身術を扱える程度だが、戦闘員と呼ばれるものたちは格が違う。それも当然である。協会の戦闘員が相手にするのは、司君みたいな人の域を超えた寵愛を授かった者たち、それからそもそも人ではない吸血鬼やビックフッドなどの化け物である。そして僕には奥の手を残した状態で混血の吸血鬼を討伐した実績もある。
僕は僕を最強だなんて奢っていない。かといって自分は弱いなどと卑下してもいない。正しく己の実力を把握し、協会員として、つまりは仕事として与えられた任務を速やかに遂行した。
安武君が僕の脳天を目掛けて放った拳を難なく避けてカウンターを彼の顔に叩き込んだ。内心では申し訳なく思っているのに、己の拳に籠められた力に一切の手加減はなかった。
あまりに一方的だった。圧倒だった。戦いにすらならなかった。
安武 晴間は強すぎた。
「終わりです。翼さんはどこですか?」
自然豊かな土地に仰向けで倒れていると、安武君に見下ろされる。いい大人が十も歳の離れた子供相手に情けないものである。
「教えんよ。守秘義務っちゅーやつや」
強がってそう答えるが、とてもカッコはついていない。戦いは僅か二十秒だった。もちろん僕も二十秒の間ただ立っていただけではない。その二十秒には凄まじい攻防があった。きっと武道に通ずる格闘家たちが見れば、瞬きすることなくそのハイレベルの武のぶつかり合いを目と脳と魂に刻んでいたことだろう。
それでも彼に与えた四発の攻撃は有効打にはならず、彼から浴びせられた八発の攻撃は十分に僕への有効打になった。それでも僕が彼に四発入れることに成功したと聞けば、多少善戦したように聞こえるかもしれないが、種明かしをしてしまえば彼が最速で僕を倒すために敢えて有効打とならない攻撃を受けただけのことであった。
武道家としてのプライドがズタズタになった、なんてことはない。そんなプライドは最初から持ち合わせてなどいない。けれど。
「そうですか。一旦あなたを気絶させます。翼さんと、もし他にも協会員が来ているなら全員俺が倒します。絶対に宿泊所には入らせない」
そんなおっかないことを言われるが、少し笑いが込み上げてしまう。今も彼の守る宿泊所の遥か後方の森の上で、彼の守る対象のドラゴンは飛び回っている。にも拘らずドラゴンでなく宿泊所を守ろうとする彼が少し滑稽だ。不干渉の寵愛の影響下にある彼は、派手なドラゴンに干渉できない。
しかし、滑稽に思おうがその宿泊所を守るという目的を設定されたことで僕は彼と戦う羽目になり、こうして地べたに寝転んでいる。
彼の腕が僕の首目掛けて近づいてくる。このままでは絞め落とされてしまう。
『お前じゃあ勝てないよ』
偉そうな声が頭の中で繰り返された。
『ちゃんと死ぬ気で、そして殺す気でやりたまえ』
わかっとるわ。これでも勤務四年の協会員や。修羅場も潜ってきた。命も奪ってきた。もしドラゴンが暴れればどれほどの被害が出るのかも理解している。
仰向けに倒れる僕の瞳には夜空が映っている。ドラゴンが視界の隅に映ってうっとおしいが、綺麗な満月もしっかり見える。
武道家としてのプライドなど持ち合わせてなどいない。けれど。
けれど、人間としてのプライドは持ち合わせていた。
『ちゃんと死ぬ気で、そして殺す気でやりたまえ』
あの言葉の意味はわかっていた。
安武君の手が僕の体に触れる寸前、僕はそれを振り払った。武術に長ける僕の四発の攻撃は彼への有効打にはならなかった。だから今のが初めてだ。
彼の腕を振り払った。とっさにガードした彼の両腕には深い傷から赤々とした血が流れ始めた。今のが初めての有効打となった。
僕にも人間としてのプライドがある。
人間としての自負がある。
だから、嫌やった。
「あなたは、、、いったい、、、」
目を見開いて心底驚いた表情で安武君はそう尋ねてきた。
「今日はくっきりしてて、まん丸くて、えらい眩しい満月や」
そう口にしたのは、全身が固い質感の毛に覆われ、大きく鋭い牙と爪を見せ、禍々しい殺気を放つ獣だった。
その姿はまるで―――。
「狼男」
安武 晴間がそう呟いた時には、人の域を超えた速さで鋭利な爪が彼の喉元まで到達していた。残りコンマ数秒のところで躱し、彼は一旦考えるのをやめる。
そうして、化け物を相手に仕事をしている化け物の協会員と、ただ強いだけの普通の男子高生による戦いの第二ラウンドが開戦した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
戦いは今も続いている。ドラゴンから灰色の霧が発せられてからも、視界の悪い霧の中で俺はドラゴンと殴り合った。
逆鱗を打たれ飛べなくなったのか、戦術として飛ばないことを選択したのかわからないが、地上を生きる生物の俺としては今の状況のほうが有難い。
碌に何も見えない森の中を走り回りながら、巨体へ蹴りや殴打を入れていく。足場が悪いせいで途中で派手に転び、綺麗に折れた足を寵愛の力で癒しながら走る。
俺が攻撃する度にドラゴンは悲痛の声を漏らすが、逆鱗への攻撃以外で有効打を与えられた感覚はない。ならばと再び逆鱗のある背中へと近づくが、流石に警戒されているのか尻尾や翼や爪で迎撃される。
そんな迎撃をされる度に致命傷を受け、傷を癒し続けた。
憤怒の寵愛で身体能力が強化されているのにも拘らず、この異常な再生力がなければ既に五十回は死んでいる。それでも諦めずにドラゴンへの攻撃と、逆鱗への接近を続ける。
そんな攻防の中でもずっと声が聞こえていた。
『本当は―――なんて―――よかった』
伊吹の声だ。彼女の可愛らしさとハスキーさどちらも感じられる声質が脳内に響く。耳にではなく、脳内に響いていた。
『―――の度、―――と思っていた』
その不思議な現象は次第に声だけではなくなった。見覚えのない景色が見える。これもその景色が視界に広がっているわけではなく、脳内に映し出されている感覚だ。
どこかの小学校だろうか。見覚えはない。だが、学校特有の設備が見える。
変な感覚だ。耳に入ってくるのは息切れした自分の吐息と薙ぎ倒されていく木々の音、ドラゴンから漏れ出る悲痛の呻き。なのに途切れ途切れに伊吹の声が脳内に響く。灰色の霧のせいで視界は悪いがドラゴンの姿も倒れた木も視界に映っている。なのに脳内には小学校の廊下を歩く少女が映し出されていた。
現実と幻影のどちらも見えて混乱する。その混乱の中でもドラゴンとの戦闘は続けられ、だが脳内に広がっていく幻影も濃くなっていく。
ドラゴンのザラついた灰色の皮膚からは同色の霧が放出され続けており、その霧を吸い込んでしまったことが原因かもしれないと思った。
途切れ途切れだった声が次第に鮮明になっていく。
『―――ために、―――読むのだろう』
『何のために、空気を読むのだろう』
『本当にめんどくさい』
脳内に広がり続ける映像は、次第に現実と区別できないほどの光景となっていく。
聞こえるのは、映し出されるのは、感じるのは、体験するのは、ある一人の少女の人生だった。
ドラゴンとなった女子高生の人生だった。




