第33話 アイリーンの決意
「ありがとう」
ワインを渡したとき、コーディリアはそうアイリーンに言った。アイリーンは、あのときコーディリアが口にした言葉を忘れられなかった。
『私にとってお嬢様は、主人であり、家族であり、親友のような方でした。何者にも代えがたい、大切な人だったんです。あなたにも、そういう方がいらっしゃるのではありませんか?』
アイリーンは、先日話したアナベルのことを思い出していた。
(彼女が、コーディリア様がおっしゃっていたアナベルなのね)
アイリーンは、自室でぼんやりと考え込んでいた。
(もう取り返しがつかない)
あの夜会の日。
夜会の終盤に、ジュリアンがコーディリアに休憩室で休むように促すと言っていた。アイリーンが3階フロアで待っていると、本当にコーディリアが現れた。
「静かな部屋でご休憩なさったらどうですか? 夜会の喧騒がお辛かったのでは?」
そう声をかけ、アイリーンはコーディリアを最も人気のない奥の部屋へと案内した。
使用人たちは忙しなく行き交っていた。王宮の使用人たちと同じ制服を着たアイリーンを気にする者はいない。部屋に入りソファに座ると、部屋付きの使用人が声をかけた。
「夜会も終盤で忙しいのでしょう? 私は一人で休むだけだから、構わなくていいわ」
コーディリアはそう使用人に声をかけた。彼女の優しさは、アイリーンにとっては好都合だった。
使用人が用意した赤ワインをアイリーンが受け取った。ちょうど同じタイミングで彼女を呼ぶ別の使用人の声が聞こえた。彼女はコーディリアに挨拶をすると、アイリーンに後を任せて部屋をあとにした。
怖いほどに、計画通りだった。
この部屋に来る前に、オブライエン侯爵の使用人を名乗る長髪の男から小瓶も受け取った。その小瓶を見ると、少し胸が痛んだが、もう引き返すことはできなかった。
「あなたも大丈夫? 私だったら一人で大丈夫よ」
コーディリアはアイリーンのことも気遣うように声をかけた。赤ワインに薬を数滴垂らした。自分が堕胎薬を飲んだときの苦しみを思い出し、手が震えた。
(ジュリアン様が言うような、嫌な女性には……思えないけれど)
アイリーンは違和感を抱きながら、コーディリアに赤ワインを渡した。
「ありがとう」
そういうと、コーディリアはアイリーンに微笑んだ。
「あなたは、いくつなの?」
「19歳です」
「そう。じゃあ、私の侍女より一つ年上ね」
“私の侍女”というコーディリアの声音が、あまりに優しかった。
「アナベルに声をかけ忘れたから、心配しているかもしれないわね。少し休んだら、控え室に行かないと」
コーディリアはレティキュールからハンカチを取り出し、そっと唇を押さえてから、グラスに口をつけた。侍女の話をしながら、コーディリアがワインを飲み下すのを、アイリーンはじっと見ていた。一口飲んでも、コーディリアには何も変化はなかった。
『一時的に調子が悪くなるだけさ』
「大したものではない」というジュリアンの言葉が真実だと分かり、アイリーンは安堵した。
(そうだ。ちょっと具合が悪くなるだけだと言っていた。良かった。ジュリアン様と一緒になるためと言っても、やっぱり誰かが苦しむのは辛いもの)
「お嬢様とアナベル様は、仲がよろしいのですね」
「ええ。アナベルとは、10歳の頃から一緒だから、もう8年ね」
「そうでしたか」
コーディリアとそんな話をしていた瞬間だった。コーディリアが急に黙り込み、喉元を押さえた。
アイリーンが駆け寄ると、コーディリアは喉元を押さえ、苦しそうに腹部をかばうようにして倒れた。
「お、お嬢様……!」
「喉が……焼けるように……」
アイリーンは慌ててリネン布を口元に当てた。吐き気に苦しむコーディリアの背中をさすりながら、何度も名前を呼ぶ。
けれど、苦しみは治まらなかった。
やがてコーディリアの手から力が抜け、呼びかけへの反応も弱くなっていった。
何度名前を呼んでも、コーディリアは答えなかった。
(どうしよう。誰かに見られたら……)
助けを呼ばなければと思う一方で、自分が何をしたのか知られる恐怖が、アイリーンをその場に縛りつけていた。
アイリーンは、床に倒れたコーディリアをソファに座らせ、吐しゃ物を丁寧に片付けた。
口元を拭ったとき、コーディリアの口紅まで落としてしまったことに気づいた。
(どうしよう……)
アイリーンは震える手で、自分の口紅を取り出した。
(確か……こんな色だった)
眠っているだけに見えればいい。そんなことを願いながら、アイリーンはコーディリアの唇に色を重ねた。
口紅を塗ったコーディリアを見ると、ただ眠っているだけのようにも見える。アイリーンは、自分がしてしまったことから逃げるように、そっと部屋をあとにした。幸い、使用人たちは相変わらず忙しそうで、3階の奥の部屋のことを気にかけるものはいなかった。
あの日から、アイリーンは眠ることが難しくなった。夜になると、あの日のことを思い出す。ジュリアンには、「今度はローズとの婚約を勝手に進められている」と言われた。裏切られたと思った。でも、もう、私は何も言えなかった。
(私が……あの人を、殺してしまった……)
アナベルとセドリックのことは、知っていた。彼らがコーディリアの死を追っていることも。
こんな日がいつか来ることを願っていたような、恐れていたような、不思議な感覚だった。
ソファに並んでアイリーンに話しかけるアナベルとセドリックは、息が合っていた。セドリックを見るアナベルの目に、アイリーンは自分の姿が重なった。そして、セドリックの姿には、ジュリアンが。彼も夜会で様々な令嬢とダンスを踊っていた。
(……騙されているのかもしれない)
セドリックの姿にジュリアンを重ねたとき、アイリーンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。アナベルまで、自分と同じ思いをする必要はない。
せめて彼女には、真実を知ってほしい。自分が何をしたのかを話すことは、まだ怖かった。それでも、もう何も知らないふりをしてはいけない気がした。
(明日、アナベルに会いに行こう)
今度こそ、彼女に本当のことを伝えなければ。
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