第32話 アイリーンの思い出
「君が入れてくれるお茶は、いつもおいしいよ」
始まりは、そんな言葉だった。ガスリー子爵家へ使用人として上がったアイリーンは、叱られてばかりだった。そんなとき、優しい声をかけてくれたのは、ジュリアンだった。
「女癖が悪い」
他の使用人は口をそろえて、ジュリアンをそう評価した。確かにジュリアンは、いつも様々な令嬢と親しげに振る舞っていた。女性への贈り物も多い。
(あれだけ美しい方なのだから女性におモテになるのは当たり前だわ。それにどの女性にも親切に接していらっしゃるのはご立派だわ)
アイリーンは、ジュリアンが様々な女性と浮名を流していても、彼が悪いとは思わなかった。アイリーンに、声をかけてくれるのはガスリー家ではジュリアンくらいだ。ペイジ家でも構われてこなかったアイリーンを、ジュリアンは初めて気にかけてくれた。
「アイリーン、君の大きな瞳は魅力的だね」
初めての口づけもジュリアンだった。アイリーンの手をそっと掴むと、ジュリアンはアイリーンの唇に、自分の唇を重ねた。驚いて黙り込むアイリーンに、ジュリアンは笑みを浮かべた。
「嫌だった?」
アイリーンは、戸惑いながら首を振った。深い口づけを何度かした後は、ジュリアンのことをずっと好きだったことに気が付いた。
ジュリアンとさらに深い関係になるのに時間はかからなかった。初めての温もりに、アイリーンは夢中になった。
「これ……。私に?」
「ああ。どう? 君に似合うと思って」
ジュリアンと関係を持って3カ月ほど経ったとき。ジュリアンは、アイリーンに流行りの髪飾りをくれた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
アイリーンの様子に何か気が付いた使用人が、声をかけてくることもあった。が、そんな忠告は全く耳に入らなかった。ジュリアンとの関係は順調だったから。
旦那様には言えない関係ではあったけれど、ジュリアンはアイリーンを大切にしてくれた。生理が1カ月遅れたときは、「もしかしたら……」という思いがよぎった。そのときは不安もあったが、もしかしたらこれが彼との関係を進展させるかもしれないという淡い期待もあった。
「それは、どういうこと?」
ジュリアンと夜を過ごした後、アイリーンはジュリアンに相談をした。
「どういうって……その、もしかしたら、私たちの赤ちゃんが……」
「私たちって言うのは、僕と君の、ということ?」
「もちろんです」
「本当に?」
「……どうして、そんなこと……」
「君は他の男性使用人とも親しげに話しているし」
「それはただ仕事の話をしているだけで、私、こんなことをするのは、ジュリアン様しか……」
アイリーンは思いも寄らないジュリアンの言葉に、動揺した。大きな瞳から、止めどなく涙があふれた。ジュリアンはそんなアイリーンを優しく抱きしめると「ごめん」と言った。
「僕も、驚いてしまって。君を疑ったわけではないんだ」
そう言って、アイリーンの涙をぬぐった。
「僕がなんとかするから、少し待っていてくれるかい?」
ジュリアンはアイリーンを抱きしめながら、優しく囁いた。アイリーンは、いつものジュリアンだと思い、安心した。ジュリアンが、なんとかしてくれる。そう信じていた。ところが――。
「コーディリア・ブラッドフォード伯爵令嬢……ですか」
ジュリアンの執務室で、アイリーンはその名を聞かされた。婚約の噂は聞いていたが、ジュリアンはずっと否定していたはず。彼は困ったように頭を掻いた。
「ああ。困ったことになった。僕の知らないところで、父が婚約を進めていたようなんだ。僕たちのことを知って、結婚を急がせ始めたんだ」
「そんな……」
「僕だって、そんな令嬢と結婚なんかしたくない。僕の心は君にあるんだから」
「だったら」
「でも、ブラッドフォード伯爵家は我が家よりも家格が上だ。断ることができない」
「そんなことって」
「僕だってつらい」
「じゃあ、この子は……」
アイリーンは自分のお腹に手を当てた。ジュリアンは黙り込んだ。
「残念だけど……。僕は君を傷つけたくない。できれば、早いうちに片付けた方がいいと思っているんだ」
「…………片付ける?」
ジュリアンは懐から取り出した小瓶をアイリーンに渡した。
「これ……は?」
「君を守るためなんだ」
「私を?」
「僕にとっては君が一番大切だ」
「それは、どういう」
「僕だって、君と子どもを持てたらどれほど嬉しいか」
ジュリアンは苦しげに眉を寄せた。
「けれど、今の僕たちには、それが許されないんだ。すぐにコーディリアとの婚約を解消できない今、君が僕の子どもを産んだと知られれば君の身も危ない。ブラッドフォード伯爵家に狙われる可能性もあると、僕は思っている」
「狙われる……? そんなことって」
ジュリアンは深刻な顔で黙り込んだ。
(そんな……馬鹿なこと。でも、ジュリアン様が、私に嘘を吐くわけなんて……)
「この薬を飲んでくれれば解決するんだ」
「……」
「遅くなると、君の身体をもっと傷つけなければならなくなる」
「そんな……」
震えるアイリーンを、ジュリアンはぎゅっと抱きしめてくれた。「コーディリアとは婚約解消に向けて必ず動く。そのときは、今度こそ君を迎えに行くから」そう囁いた。
「君と僕のために……頼むよ」
掠れたジュリアンの声が、アイリーンの胸に響いた。
(ジュリアン様の、ためになるなら……)
ジュリアンから渡された薬は、恐らく“堕胎薬”の類だと思った。父が裏でそういう薬を扱うグレーな商売をしていたのを知っていたから。あの薬が、女性にどんな負担になるかも、なんとなく知っていた。でも、何よりも、彼に嫌われるのが怖かった。
アイリーンはその日の晩、ジュリアンから渡された薬を飲んだ。その日から、ひどい貧血や腹痛、吐き気に襲われた。真っ赤な血が流れるのを見て、自分のお腹が空っぽになったのだと実感した。悲しいのか、苦しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、ジュリアンが約束を守ってくれることだけを考えていた。
「これって……」
体調が悪くしばらく実家に戻るという話をすると、ジュリアンはアイリーンにルビーのペンダントを贈ってくれた。
「プレゼントだよ。これを僕だと思って身に付けてほしい」
真っ赤なルビーが血を思い出させたけれど、ジュリアンからのプレゼントが何よりも嬉しかった。
一度は子どもを諦めた。身体を壊してまで、彼のために耐えた。ジュリアンは、いつか必ず迎えに来ると言ってくれた。
だから今度こそ、彼の言葉を信じたかった。
今から3カ月前だったろうか。
「コーディリア様に?」
「今度の王宮の夜会のときに」
「夜会の最中になんて」
「人が多い方が意外と隙ができるものなんだ」
「でも」
「薬はオブライエン侯爵の使用人が用意してくれる」
「オブライエン侯爵が? 何故です?」
「それは、君は知らなくていいことだよ」
「でも……」
「君との未来のためなんだ」
「どういう薬なんですか?」
「一時的に調子が悪くなるだけさ。僕とコーディリアの婚約を解消するために」
「……でも」
アイリーンが躊躇っていると、ジュリアンがアイリーンのおでこに優しく口づけた。
「僕と君の結婚のためなんだよ」
アイリーンは、ジュリアンの言葉に静かに頷くしかなかった。




