第30話 アナベルの夢
「愛しているよ。アナベル。世界が違うなんて、そんな寂しいことを言わないでくれ。俺が君に本気だってことは、本当は分かっているだろう?」
セドリックは、壁際にアナベルを追いやりながら、そっと耳元で囁いた。
「あっ……愛してるって……」
「戸惑ってる? 可愛いな。なあ、キスしたい」
「キ、キス!?」
「3秒だけだから」
「だ、だ、だめーーーっ!!!」
アナベルは自分の絶叫に驚き、目を覚ました。部屋の窓からは朝日が差し込み、小鳥が平穏な日常の訪れをさえずりで知らせる。アナベルがセドリック代わりに抱きしめていたものは、ただの枕だった。
(私……なんていう夢を……)
夜会で抱きしめられて以来、アナベルはほぼ毎晩、セドリックが甘い言葉を囁く夢を見ていた。現実の彼より少し強引で、都合よく自分だけを愛してくれる夢だ。
夜会の魔法は解けた。ドレスは返却し、コーディリアのパンプスもナニーからもらったバックルも、今は大切にしまってある。けれど、セドリックから贈られたリボンだけは、毎朝眺めてしまう。
エメラルドグリーンのリボンを見る度に、自分に甘く囁くセドリックを妄想してしまう。
(重症だわ……)
抱擁のとき、アナベルの手は、セドリックの背を抱きしめ返そうとしていた。
(私とセドリック様は住む世界が違うの! 好きになったって、どうせ傷つく。身分違いの恋が実るのは、小説の中だけだわ)
アナベルは身支度を整えながら、セドリックのことばかりを思い出した。髪にはセドリックが贈ってくれたブルーのリボンをつけた。今日は夜会ぶりに王宮へ行くことになっている。
(このリボンをつけた姿を見たら……)
アナベルは、妄想の中のセドリックに甘く囁かれて顔を赤らめた。
「アナベル、夜会はどうだった? マスティフ似の男にでも出会ったか?」
執務室へ行くと、待っていたのはスペンサーだった。
「別に男性との出会いを求めて行ったわけではありませんし」
「求めていなくたって、夜会は若い男女にはそういう場所なんだからさ。声をかけられたり、ダンスを申し込まれたりとか」
「ありません」
アナベルはスペンサーの言葉に、少し空しくなった。
(そういう目的で行ったわけではないけれど、一人でいたって男性に声をかけられることなんてなかった)
「まあ、セドリックと一緒に行ったら、声をかける勇気のある男は中々いないか」
ぽそっとスペンサーが呟いた言葉は、アナベルには届いていなかった。
「何か言いました?」
「いや、なんでも。そういえば、アナベル、そのリボン可愛いな」
アナベルは「可愛い」という言葉に、思わず反応した。いつもなら「ありがとうございます」と微笑んで終わりだ。それなのに、急に顔を赤らめたアナベルに、スペンサーは「え?」と戸惑った。
「待たせてすまない。打ち合わせが長引いて」
赤面したアナベルとスペンサーが見つめ合っていた瞬間、セドリックが扉を開けた。
「え?」
セドリックはいつもと違うアナベルの様子に、スペンサーを睨んだ。
「何をした、スペンサー」
「何もしてないよ。ただ『可愛い』って言っただけ」
「可愛い? なんでお前にそんなこと言われたくらいで、彼女が顔を赤らめる?」
アナベルはいたたまれず、セドリックの上着の裾を引っ張った。
「スペンサー様は何もなさっていません。私が、変な反応をしてしまっただけで……」
セドリックはアナベルを振り返った。
(冷静にならなきゃ……)
アナベルは決死の覚悟で、“いつもの笑顔”を保った。
「……何もないならいいが……」
セドリックはアナベルの笑顔に引っかかりを持っていそうな顔をしたが、それ以上は何も聞いて来なかった。
「それで、アイリーン嬢の件だろ?」
スペンサーは妙な雰囲気を察して、努めて明るく振る舞った。
「ああ。その前に、あの化粧水の調査結果も出た」
セドリックは手にしていた報告書をアナベルに見せた。
「高濃度ではなかったが、想像通りヒ素は出た。あの化粧水が原因かは不明なものもあるが、使い続けた者の中で体調不良者もいるらしい」
「とんでもない化粧水だな」
最近は“美白”にこだわるあまり、危険な美容法も増えている。血を抜くなど過激な方法も聞く。
(体調が悪くなっても、効果があれば使用をやめない令嬢がいてもおかしくないわ)
「それと、アイリーン嬢の件。ガスリー子爵家の使用人から聞く話だと、半年ほど前に体調不良で1カ月休みを取っていたらしい」
「1ヶ月も?」
スペンサーは眉を顰めた。
「原因不明の体調不良だったらしい。難病だという噂もあったが、使用人たちも詳しいことは知らされていない。その後、戻ってきてからも、情緒不安定な様子が続いていたそうだ」
「それで、ジュリアン様との関係は何か分かったのですか?」
「一年ほど前から、二人が親しげにしている姿が目撃されている。例のコーヒーハウスでも、アイリーンらしき女性とジュリアンの姿があったそうだ」
例の“連れ込み部屋”なのかもしれない。
「サロモンの店でも、ジュリアンが女性用の小物を購入していた。アイリーンらしき女性と来たことも何度かあるようで、店主も覚えていた」
アイリーンとジュリアンが親密な仲だった。
「二人の間に何があったか、それ以上は想像の域を出ない」
セドリックは、アナベルを見た。
「アイリーンと、直接話してみようと思う」
「……え?」
「もし、想像しているような関係だとしたら、彼女はジュリアンの被害者の可能性もある。もしかしたら、彼女から何か聞き出すことも可能かもしれない」
「それは……確かに」
アイリーンのことが、コーディリアのことに関係があるのか。それはよく分からない。でも、調べてみる価値はありそうだった。
「私も一緒に行っていいですか?」
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