第29話 熱い抱擁
「エイムズ伯爵令嬢の侍女の名前はアイリーン・ペイジ。ペイジ商会の三女でした」
帰りの馬車の中で、アナベルはエイミーから聞いた情報をセドリックに報告した。あの後、結局大広間には戻ることなく、セドリックと言葉を交わすことはなかった。
「ペイジ商会か。ガスリー子爵家とつながりのある商家だな。裏の顔も持つ商会としても知られている」
「そう、なんですか」
アイリーンの横顔からは、そんな生家で育ったことは微塵も感じなかった。
「ああ。それで、どうして彼女がシンディーの侍女に?」
アナベルはエイムズ伯爵令嬢の呼び方が変わったことに、微かに口元が引きつった。
(シンディー……)
「お名前を呼ぶほど、親しくなられたんですね」
「え? 別にそういうわけではない。しつこくて根負けしただけだ。呼ぶまで離さないとしがみついてくるから……」
セドリックはうんざりしたように言った。アナベルはもやもやした思いを切り替えるために、咳払いをした。
「アイリーンがエイムズ伯爵令嬢の侍女になったのは、訳ありの転職だと言われてはいるようです。が、その“訳”までは分からないと」
実力を評価されての転職ではないようではあった。
「ただ」
「ただ?」
「悪魔が取り付いていると、エイムズ伯爵家の使用人が言っていたのを聞いたようで」
「悪魔? なんだ、それは」
精神を患う者を、“悪魔が取り付いた”と言っていた。
「なぜそんな馬鹿げた話が?」
今日見かけた彼女は多少挙動不審ではあったものの、心を病んでいるようには見えなかった。
「夜な夜な歩き回ったり、夜中に一人で何かブツブツと話したりと、同室の女性が話していたそうです。ガスリー子爵家の同僚は、明るくて愛嬌のある子だと言っていたようなのですが、昨年辺りから体調を崩したようで……」
「体調? 何か病いか?」
「いえ、そういうわけではなかったようですが……。食欲がなかったり、嘔吐をしたりということがあったようです」
昨年というと、コーディリアとジュリアンの婚約が決まった頃だ。
「……体調を崩したのに、なんで他家の侍女に?」
「何か、口止めをしたいことがあったということでしょうか?」
ただの転職とは思えなかった。しかも、口利きをしたのはローズだ。アイリーンの身に何かが起こり、それを知る者たちが彼女を別の家へ移したのだとしたら――。
「……ジュリアンが、彼女に乱暴を働いたのだとしたら?」
「有り得るな」
ただ、それだけで、ここまでのことをするだろうか。
「……妊娠、していたとしたら?」
アナベルは、ぽろっと言葉が零れた。嫌な予感がした。セドリックも同じだったようだ。
「だとしたら、秘密裏に出産して、実家が引き取ったか、孤児院か。あるいは……中絶、させたか」
聞きたくない言葉だった。でも、ジュリアンなら大いに有り得る。言葉にしてみて思ったが、それくらいのことが起こっていないとおかしいような気もする。そして、彼女が心を病んでいるのだとしたら、十分な原因になっていそうだ。
「まだ推測だ。裏を取る必要がある。その線も、少し調べてみよう」
「よろしくお願いします」
一通り話し終わると、急に車内に沈黙が訪れた。ブラッドフォード伯爵家までの帰り道が、妙に長く感じる。セドリックも気まずさを感じているようだった。
「……ジュリアン様は、お越しではありませんでしたね」
「ああ。ローズとの婚約はまだ水面下の話だから、こういう場では会わないようにしているのかもしれないな」
「そうですね」
また、話が終わってしまった。
「大広間に戻って来ると思っていたが……」
気まずい沈黙を埋めようとしてか、セドリックがそんなことを口にした。
「……セドリック様とダンスをしたいご令嬢が列を成していたようですし」
口を開いて「しまった」と思った。なんでこんなに嫌味っぽく言ってしまうのだろう。セドリックもアナベルの言葉の棘を感じ取ったのだろう。微妙な顔をしたが、アナベルを静かに見た。
「今日は君がパートナーなんだから、君が遠慮をする必要はないだろう」
「でも、私は“今夜限り”ですから」
アナベルの言葉に、セドリックは妙にムッとした顔をした。
「そんなことは分からないだろう」
「分かります。セドリック様と、私は住む世界が違います」
「住む世界って……。世界は一つだ。複数あって堪るか」
妙に子どもっぽく噛みついてきた。
「何を怒っていらっしゃるんです?」
「君が不機嫌だからだろう。ファーストダンスのときは、そんな顔はしてなかった。何に怒っているんだ? シンディーと踊ったからか?」
「なっ……なんで私がそんなことで?」
「じゃあ、なんでそんなに急に機嫌が悪くなるんだ」
「悪くなってなんか……」
「ない」とは確かに言い切れない。つい、棘のある言葉が口をついて出ていた。でも、なんでそうなったかなんて、セドリックに言えるわけがない。
「……申し訳ございません。少し、疲れたのかもしれません。気を付けます」
「別に謝ってほしいわけじゃない。俺も、すまなかった。慣れない場で緊張している君を放っておくことになって」
「とんでもございません。私も王宮の夜会を楽しませていただきました」
「そうか。俺も君とのダンスは楽しかった」
セドリックがアナベルの瞳を覗いた。青い瞳に、自分だけが映っていた。馬車はゆっくりと止まった。ブラッドフォード伯爵家に着いたようだ。馬車の扉を従僕がノックした。
「ちょっと待て」
アナベルが腰を浮かそうとすると、セドリックが外に向けてそう言った。セドリックが椅子から立ち上がると、アナベルの顔の横に両手を置いた。
「セドリック様……?」
「抱きしめても、いいか?」
「………………え?」
アナベルが固まっている間に、セドリックはクスッと笑った。
「ずいぶん時間がかかったな。仲直りのしるしだ。さっき、お互い謝っただろう?」
「それは、そうですけど……」
「3秒だけ。すぐに離す」
「なんで、そんな……」
「理由が分かれば、させてくれるのか?」
「それは……」
「世界が違うと君に言われて、俺は悲しかった。傷ついた。だから、慰めてほしい」
セドリックは耳元で甘えるように囁いた。
「……3秒……だけ、なら」
アナベルは思わず許してしまった。そしてそのままアナベルをぎゅっと抱きしめた。セドリックの腕が、アナベルの背中に回った。思っていたよりも力強い腕だった。胸元に頬が触れ、彼の体温がじんわりと伝わってくる。先ほどまで胸の奥に刺さっていた棘が、少しずつ抜けていくようだった。
(なんで……こんな……)
アナベルの手がセドリックの背中に回りかけた瞬間。アナベルはハッとしてセドリックの身体を押しのけた。
「3秒は、もう、経ってます!」
慌てるアナベルに、セドリックは声を出して笑った。
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