幕間 ヘンウッド城にて SIDEハンナ
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ちょっと長めです。
(ごめんなさい、ベアトリス様)
ハンナは強い決意を胸に、王城の廊下を歩いていた。
三年前にベアトリスが結婚したのち、ハンナも婚約者と結婚し、今はハンナ・エイムス子爵夫人となっていた。
ベアトリスがオルブライト国へ向かったあと、ハンナには王妃の侍女になるかという話も持ち上がったが丁重に断っていた。
ハンナが仕えたいと思うのは、優しく不器用で自己犠牲的なところのあるベアトリスだけだ。
聡明で危なっかしいベアトリスを生涯守ろうと決めて、ハンナは侍女になった。
それだけではない。
ハンナにとってベアトリスは、自分を救ってくれた天使のような存在だった。
この国の多くの人間が知らないことだが、ハンナはヘンウッド国の人間ではない。
圧政が敷かれていたラドゥロフ帝国より、幼い頃に親と共にこの国に逃れついた。おそらく五歳に満たない頃だったろうが、前後の記憶があやふやなので定かではない。
ハンナの父親は、ラドゥロフ帝国の皇帝の命令で殺害されたらしい。
母は命からがらラドゥロフ帝国から逃れたが、その無理がたたってか、ヘンウッド国に来て二年とたたずに命を落とした。
途方に暮れていた幼いハンナを育てたのは、ブロック子爵だった。
ハンナは母が亡くなってから孤児院で暮らしていたが、養子縁組を考えていたブロック子爵がその地を訪れ、ハンナに目をつけたのだ。
とはいえ、ブロック子爵はある一点を除けば、悪くない養父だったと言えよう。
温かい寝床に食事、教養、彼は養女であったハンナを、きちんと子爵令嬢として教育した。
だが一点、ハンナの意思では決して逆らえなかった訓練があった。
暗殺術の訓練だ。
ブロック子爵は当時、暗部をまとめる総帥だった。
王都の影とも言われる暗部の入れ替わりは激しい。
任務中に命を落とすこともあれば、暗部に所属していることが他人に知られそうになれば解雇される。暗部はあくまでも影の存在でなければならない。
ゆえに暗部所属の、とりわけ上層部の人間は、自分や部下の後継者を探しては育てる。ハンナは、ブロック子爵に将来暗部に入ることを期待されて引き取られたのだ。
幸か不幸か、アンナはこの手の仕事に向いていた。
身体能力は高かったし、手先も器用。教えられた暗殺術はあっという間に覚えた。
けれども、才能があったからと言って、心までそうかといえばそうでもない。
ハンナは人を傷つけるのが嫌いだった。
父を殺された経験を持つハンナにとって、誰かの命を奪うということは吐き気がするほどに苦しいことだった。
でも、やらなければならない。
ハンナを拾って、ブロック子爵令嬢の地位を与えてくれた養父のためにも。この国で生きていくためにも。
十五歳で暗部に所属したハンナは、十六歳で、当時七歳だったベアトリスの侍女になった。
幼いベアトリスに敵が多すぎると養父が判断し、暗部から一人、彼女の元に護衛を兼務して侍女を入れることになったためだ。
けれども、表向きは侍女のために、暗部の人間だと気づかれてはならない。
ハンナはただの侍女としてふるまいながら、ベアトリスの周辺に気を配り続けた。
運命の日は、ハンナが二十歳、ベアトリスが十一歳の時に訪れた。
ベアトリスが暗殺されそうになったのだ。
ハンナはいち早くそれに気づき、仕向けられた暗殺者を屠った。深夜のことだった。だから、まさかベアトリスが起き出すなんて思ってもいなかったのだ。
屠った暗殺者を片付けようとしたとき、ベアトリスが目を開けた。
『ハンナ?』
寝起きのかすれた声で名前を呼ばれたハンナはぎくりとした。
ハンナは細い鋼糸を武器とする。もちろん他の武器も使えるが、ハンナは鋼糸を武器とするのが一番自分に会っていると思った。
ハンナは血が苦手なのだ。だから極力、相手の血を流さずに屠る術を選んだのである。
だから、部屋の中に転がっている暗殺者は、幼いベアトリスの目にはただ眠っているだけに見えるだろう。
目立たない黒色の衣を着ている男だ。灯りを落とした部屋では気づかれないかもしれない。
ここは早くベアトリスを再び寝かしつけるべきだ。
ハンナはそう判断し、ベッドに近づいた。
だが、ベアトリスはその前に、枕元のランプのつまみを回してしまった。
部屋がオレンジ色の光に照らされる。
鋼糸はお仕着せのドレスの下に隠したが、さすがに遺体は隠せない。
ベアトリスは悲鳴を上げたりはしなかった。
ただじっと床に転がっている男の死体を見つめて、しばらく硬直したように動かなかった。
やがて――
『あなたじゃないといいなと思っていたの……』
ベアトリスは遺体からハンナに視線を向けて言った。
その顔は泣きそうに歪んでいて、ハンナの心がぎゅっとなる。
『なんとなくだけど、わたしの周りに、わたしにも秘密の護衛が紛れ込んでいるのには気づいていたの。だけど、ハンナじゃないといいなと思っていた。だって、ハンナはとっても優しいもの……』
ベアトリスはベッドから降りて歩いてくると、きゅっとハンナの手を握った。
ハンナはびくりと震えた。
この幼い王女は、ハンナの血に汚れた手を見て何を思っただろう。
この手で入れた紅茶を飲んでいたことに、どれほど嫌悪感を覚えただろう。
騙していたことへのどうしようもない罪悪感に胸がつぶれそうだった。
しかしベアトリスは、しばらくぎゅっとハンナの手を握り締めた後で、ふわりと微笑んだ。
『守ってくれてありがとう。それから、嫌な仕事をさせてごめんなさい。ハンナがもう嫌な仕事をしなくていいように、わたし、頑張るから』
『いえ、わたくしこそ、お見苦しいものを――』
『いいの。……わたしは、今のこの現状を、きちんと見つめないといけないの。王女だもの』
ベアトリスは遺体を一瞥して、ハンナを見上げる。
『あなたがわたしを守ってくれたように、わたしもあなたを守れるようになるわ。……嫌な思いをしてまでわたしを守ってくれたあなたの気持ちは、絶対に忘れないわ』
人を殺すのが嫌だ。
この仕事が嫌だ。
わたしはもっと平穏に、穏やかに、ナイフなど持ったことのない純真無垢なただの一人の女として暮らしてみたかった。
まるでその気持ちを、ベアトリスに見透かされたようだ。
そんな自由など、ハンナには許されていないのに、ベアトリスはハンナを守ると言ってくれる。
十一歳のベアトリスは、ハンナが同じ年の頃と比べ物にならないくらい強くて優しい。
そしてそれは、とても脆くハンナの目には映った。
強くあらねばならないベアトリスは、優しすぎるゆえに自分の心を顧みない。
ベアトリスは自分よりも他人を優先する。
本来、守られるべき王女であるベアトリスが、護衛対象を守るなんて考えるはずもないことだった。
『姫様――』
『あんまりこうしているとまずいわね。暗部所属の人は、正体が知られてはいけないんでしょう? わたしは気づかないふりをしているわ』
『よろしいのですか? その、この部屋で休むのは、気分が悪いのではありませんか?』
『わたしが部屋を移ったら、それこそ何かあったと思われるわ。……わたしは何も見なかった。おやすみなさい、ハンナ』
ベアトリスはそういうとベッドに戻ってランプの灯りを消した。
まるで、何事もなかったように。
けれど、その日からベアトリスの様子が変わったのは間違いない。
もともと周囲に気を配っていたベアトリスは、より周りを警戒するようになった。
そして自己犠牲をもってして、周囲の敵をあぶり出そうとしはじめた。
時にはわざとおとりになって見たり、アンジェリカを怒らせて彼女から情報を得ようとして見たり。自分が動いていると知られることなく、ベアトリスは無知のふりをしながらあらゆるところから情報を得た。
それにより、ハンナが手を汚す機会が格段に減ったのは確かだ。
ベアトリスはそうやって、ハンナの心を守ろうとした。
(ベアトリス様――)
本当なら、ベアトリスと共にオルブライト国に行きたかった。
だけどハンナは、普通の貴族令嬢と同じく――まあ、普通よりはだいぶ遅かったが――親の紹介でエイムス子爵令息と婚約していた。
彼もまた暗部所属の人間で、血に汚れた自分の手を気にするハンナにとっては、それを気にしなくていい数少ない相手だった。
侍女をやめたくないと言えば、婚約期間を長く取ってくれた。
ハンナは彼に惹かれていたし、うぬぼれでなければ彼もそうだったろう。
ベアトリスはハンナのそんな気持ちに気づいていて、仕事から離れて幸せになってほしいと言った。
それから三年。
夫は家を継ぎ、ハンナは一人息子を出産し、仕事からは遠ざかって、心穏やかに暮らしていた。
幸せだった。それは間違いない。いや、今も幸せだ。
(でも、ベアトリス様が戻って来るのなら話は別だわ)
夫から、王太子ニコラスがベアトリスに内密な手紙を出したと聞いた。
国王もニコラス王太子も、そろそろプリチェット公爵と決着をつけようというのだろう。
なかなか尻尾を掴ませないプリチェット公爵相手に、ニコラス王太子は自身の身を危険に晒すことで切り込む隙を作った。
このチャンスは逃せない。
そして、畳みかけるには――『王家の頭脳』が必要だ。ベアトリスだ。ニコラスはそう考えたのだろう。
ハンナは王太子の寝室へ急ぐ。
表向き、ニコラスは毒にやられて予断の許さない状況ということになっていた。
ゆえに寝室から出られない。
ハンナはエイムス子爵夫人として、王太子を見舞うという名目で寝室を訪れた。
面会謝絶の王太子は、けれども、愛する妹の侍女だったハンナならばと特別に面会を受け入れた――という体を取っている。
部屋に入るとそこには、養父のブロック子爵と侍医のキルナーがいた。キルナーは侍医でもあるが、暗部所属の人間でもある。
ニコラスはベッドに上体を起こして、ベッドに置かれたテーブルを使って書き物をしていたが、ハンナが入室すると顔を上げた。
毒の影響は完全に抜けているのだろう。ニコラスの顔色はとてもいい。キルナーは優秀な医者なので心配はしていなかったが、この様子では後遺症もなさそうだ。
(ニコラス殿下に後遺症なんて残ったら、ベアトリス様がとても傷つくもの)
正直なところ、ハンナはニコラスに思うところがある。
妹を頼りすぎで、そして利用することをまったく厭わないからだ。
兄として妹を愛しているのは本当だろう。しかしそれ以上に、彼は王太子として国のために妹王女をチェスの駒のように使う。
とはいえ、ベアトリスはただの駒に収まるような女性ではなく、きっとベアトリスの中ではニコラスこそがチェスの駒なのだろうが。
ベアトリスは、決して取られてはならないキングの立場に、ニコラスと国王を置いている。
だからニコラスは気づかないだろうが、ゲームのプレイヤーはニコラスではなくベアトリスだ。ハンナはそう信じている。
「ハンナ、急に会いたいなんてどうしたの?」
ニコラスは穏やかに訊ねるが、その綺麗な碧色の双眸は油断なく光っていた。
顔立ちこそそっくりなニコラスとベアトリスだが、性格は違う。ハンナはニコラスのことを蛇のようだと思う。
ゆったりとしているように見えて、獲物を見つけた瞬間に素早い動作で食らいつき、毒をもって動きを封じる、そんな蛇。
なるほど、王にはこういうタイプが向くだろう。
ニコラスは目的のためにはあらゆる犠牲も厭わない。
この王太子相手に、くだらない腹の探り合いは無駄だった。
「ベアトリス様が戻って来るとお聞きしました」
「ああ、そうなんだ。だけどちょっと厄介事に巻き込まれたみたいでね。ベアトリスの行動を監視させていた人間から報告がきたよ」
監視という言葉にハンナの頬が引きつる。
ニコラスは穏やかに微笑んだ。
「勘違いしないで。ベアトリスが僕の手紙を握りつぶし、平穏の中に身を置き続けることを選択したら、計画は一から練り直し里なるだろう? だから僕のお願いを聞いてくれるかどうかを確かめるために監視させていただけだよ。そしてベアトリスは、ヘンウッド国に向けて出発した。……あの子の夫がくっついてきたのは想定外だったけど、まあ、彼は意外と使える。戦力が増えたと考えていいだろう」
大国の第二王子で公爵を「意外と使える」と言い放ったニコラスに、ハンナはゾッとした。
ヘンウッド国とオルブライト国では国力が違いすぎる。圧倒的にオルブライト国の方が上だ。
ベアトリスとの婚姻でオルブライト国の後ろ盾は得たけれど、ベアトリスの夫エドワードはニコラスがそのように評していい相手ではない。
ハンナの表情の変化に、ニコラスがそっと口元に指をあてる。
「ああ、今の話は内緒ね。知られたらエドワード君に怒られちゃうよ。彼、怒ると怖いんだ」
エドワードの怒りがすさまじいことはハンナも知っていた。
そしてエドワードは何よりもベアトリスを優先する。溺愛している。もしもニコラスがベアトリスの命を危険に晒したら、エドワードはニコラスを決して許しはしないだろう。
ハンナはこくりと喉を鳴らした。
「ベアトリス様が厄介事に巻き込まれたというのは、どういうことでしょうか」
「ああ、うん。どうやらベアトリスが乗っていた寝台列車で殺人事件が起きたようでね。詳細はわからないんだけど、ダインリル国のエルガー駅でしばらく足止めされそうなんだ。捜査の関係だろうね。王女という立場を振りかざせば捜査から逃れられるだろうけど、ベアトリスはそういう権力の使い方を嫌うからね。大人しく足止めされるんじゃないかな」
予定が狂ったなぁとニコラスがぼやく。
「もう少し早く来てほしかったんだけど、仕方がないね。そしていつまで拘束されるかは、エルガー駅にいる国際警察の手腕次第ってところかな。監視者から次の報告が来るのを待つしかないけど、いつまでも監視をくっつけていたらベアトリスは気づくからね。ベアトリスが気づくのはまあいいんだけど、エドワード君がねえ……。そろそろ帰らせた方がよさそうだ」
「その監視者はどのくらい信用できるんですか?」
「信用はできるけど、気づかれないようにあまり近づかないように言っておいたからね。細かい部分の情報は得られない。ま、僕が知りたかったのはベアトリスがこちらに向かうか否かだから、それでよかったんだけど」
すると、これまで黙っていたブロック子爵が口を開いた。
「ダインリル国には諜報員を何名か潜り込ませています。探らせますか?」
「いや、いいよ。殺人事件の真相が何にせよ、その程度で逃げるような妹じゃないし。……もしその殺人事件が、こちらに有利になるような情報があるのならば、ベアトリスはきっとそれごと持ち帰る。下手に干渉してベアトリスが自由に動けなくなる方が困る。彼女は自由にさせている時が一番有能だ。鷹は空を飛び回ってこそだろう?」
「確かにそうですね」
「そう。だからね、本当はエドワード君がいない方がいいにはいいんだよね。彼のせいでベアトリスの自由度が下がる。彼、過保護だからね」
ハンナは逆に、エドワードがベアトリスに同行していてよかったと考えたが、口には出さなかった。
エドワードが同行していなければ、ベアトリスはどこまでも無茶をするだろう。自分を犠牲にして。だが、エドワードが側にいれば、ベアトリスの自己犠牲は抑えられる。彼が許さないからだ。
ベアトリスを国家のために利用するのを当然と考える国王と王太子の取った行動のうち、この縁談だけがベアトリスの幸福につながるものだった。
二人が心の底からベアトリスの平穏を望んだのかどうかはわからない。政略結婚だったのも確かだ。
けれども、父として、兄として、彼らがベアトリスに平穏をもたらしたのは確かで、もしもベアトリス抜きでプリチェット公爵に対応で来ていたら、彼女は呼び戻されなかったろう。
彼らもまた、可哀想な立場といえばそうだった。
父として兄としてベアトリスを愛しているだけでは許されない立場なのだ。
彼らが真っ先に考えるべきことは国のことで――そのためには、たとえ愛する人でも利用しなければならないと考える。
その点、何を置いてもベアトリスを優先するエドワードとは真逆の性質だろう。
「それで、ハンナ。君、ベアトリスの近況が知りたかったの?」
「いえ――」
ハンナは表情を引き締めた。
ベアトリスが帰って来る。
その身を犠牲にして、この国の混乱を平定するために。
ならばハンナの平穏も、これで終わる。終わりにする。
ハンナにとって、何よりも優先するのはベアトリスだ。
愛する夫よりも。――愛する息子よりも。
母親失格と言われるかもしれないが、それでも。
「ベアトリス様が戻って来られるのならば、お願いがございます」
暗部への復帰を――ベアトリスの、侍女兼護衛として。
ニコラスはちらりとブロック子爵に目を向けた。
ブロック子爵が静かに頷いたのを見て、にこりと笑う。
「わかった。では、ベアトリスが戻って気次第、彼女の侍女に復帰しなさい。戦力は多いに越したことはないし、武術に明るくないベアトリスには、身を挺して守ってくれる護衛が必要だ」
それは、何かあればベアトリスを庇って死ねといっているに等しい。
けれどもハンナは笑う。
ベアトリスの盾になれるのならば、本望だ。
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