追いかけて来た夫 2
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頭の中が真っ白になるとは、こういうことなのだろう。
ベアトリスは夫の熱いキスときつい抱擁を受けながら、思考が停止したように何も考えられなくなっていた。
ドクリドクリと聞こえてくるのは、己の鼓動だろうか。
はたまた、エドワードの鼓動だろうか。
どちらもかもしれない。
足の先から頭のてっぺんまで、びりびりと痺れるような感覚がする。
長いのか短いのかもわからない口づけの跡に、エドワードの熱い吐息がベアトリスの耳元にかかった。
ようやく少しずつ思考が戻って来る。
何故、と問うのはおかしいだろうか。
理由なんてわかっている。
だけど、問わずにはいられなかった。
「……どうして」
声になったかどうかわからないほどの、ささやかな囁き声を拾って、エドワードが顔を上げる。
彼の青く綺麗な瞳が、恐ろしいほどの熱量をもって至近距離でベアトリスを睨みつけた。
「どうして? そんなの、決まっているだろう!」
問われたこと自体が心外だと、エドワードは怒った顔で言う。
「あんな手紙一つ残して消えるのを許す俺だと思ったのか⁉」
ベアトリスに対してはいつも紳士で優しかった彼が、これほど声を荒げたのははじめてのこどだろう。
ひどく恐ろしいのに、怒られることが嬉しいと、相反する感情を覚える自分は、おかしいのだろうか。
だけど、ベアトリスは己の中の良心を絞り出して、彼の胸にそっと手を添えた。
ぐっと押して、距離を取る。
「エドワード、早く、帰って」
声が震える。
彼は巻き込めない。
「危ないの。きっと、わたしが、そしてあなたが思っている以上に、今のヘンウッド国は荒れているのでしょう。……あなたへの置手紙には書かなかったけれど、お兄様は、毒を盛られたそうよ。本当に、命の危険があるようなところなの。だから――」
「だったらなおのこと、君一人で行かせられるわけないだろう!」
「あなたはオルブライト国の王子よ。そしてわたしは、ヘンウッド国の王女なの」
何もなければ二人で幸せになれただろう。
だが、こうなってしまえば、それを望むべきではない。
ベアトリスはヘンウッド国の王女として、なすべきことをしに行く。
エドワードがヘンウッド国に婿に来ていたのならばまだしも、そうでない彼と、他国の問題に巻き込んではならない。
「わたしは祖国の問題を無視できないの。……だから」
離縁、してほしい。その言葉は、どうやっても口に出すことはできなくて、ベアトリスはきゅっと唇を噛む。
けれど、言葉に出さなかったベアトリスの言いたいことを正しく理解したエドワードが、いまだに怒りに燃える真剣な目を向けて、厳しい声で言った。
「二択だ」
「……え?」
「俺は君に、二択しか与えない。それ以外の選択肢は君にはないし、もし俺が提示する二択が選べないのならば、その足に枷をつけてでも連れ帰ると思って聞いてほしい」
ベアトリスはひゅっと息を呑む。
エドワードは、ベアトリスを逃がさないとばかりに彼女の手首を握り、続けた。
「選択肢一。このまま俺と一緒にオルブライト国に帰り、ヘンウッド国の問題には一切関わらない。選択肢二。俺と一緒にヘンウッド国へ向かい、問題を片付けたのちにオルブライト国へ帰る。さあ、選べ」
「そんなの――」
横暴だ、と言おうとしたけれど、エドワードの青い瞳に宿る激情に何も言えなくなる。
「考える時間が必要か。ならば今日が終わるまでだ。それまでに答えを出してくれ。出せないのならば、強制的に連れ帰る。いいな」
ああ、きっと。
ベアトリスは、優しかった彼にそこまで言わせるほど、彼を怒らせてしまったのだ。
あっという間に、ベアトリスのコンパートメントを使う許可を取り付けた彼は、当たり魔のような顔をして室内に自分の荷物を運ばせた。
エドワードは、ベアトリスがいないと気づいてすぐ、次の汽車でベアトリスを追いかけ、そして、モロニー・ロイヤル・エクスプレスが立ち往生しているのを知った彼は、救援に向かう汽車に強引に乗り込んだという。
もしここでエドワードがベアトリスに追いつかなかったとしても、彼は一日遅れでヘンウッド国に到着していたということだ。
ベアトリスは、自分の詰めの甘さを呪った。
まさかオルブライト国の公爵で第二王子の立場で、逃げた妻を追いかけて来るとは思わなかったのだ。
エドワードの愛を疑ったわけではなく、立場的に難しかろうと、そう思っていた。
なんて愚かなのだろう。
冷静であれば、エドワードの行動パターンなんて、いくつも予測できただろうに。
きっと、ベアトリスは自分で気づかないうちに追い詰められていたのだ。
視野が狭くなっていた。
これから狡猾なプリチェット公爵を敵に回さなくてはならないというのに、なんて無様なことだろう。
茫然とするベアトリスの顔を覗き込み、エドワードがやおら彼女を横抱きに抱え上げる。
驚いて彼の首にしがみついたベアトリスは、寝台の上に優しく下ろされて目を瞬いた。
「眠れていないのだろう。睡眠不足の頭では答えも出せないはずだ。少し寝るといい。大丈夫、俺が隣にいるから」
ベアトリスは自分が寝不足の顔をしていたのは認めるが、やはりエドワードにはお見通しなのだなと、諦めるよりほかはなかった。
気を張っていて、ずっとまともに眠れていなかった。
それなのに、彼が隣にいると思うだけで、これまで襲って来なかった睡魔が、恐ろしいほどの勢いでベアトリスの体を飲み込んでいく。
「お休み、俺の可愛いベアトリス」
そっと瞼の上を撫でられて、ベアトリスは全身の力を抜いて、ただ微睡みに身を任せた。
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