第八話「ミナの名」
ミナの母は、早く死んだ。
父のことは知らなかった。
港の者は、彼女のことを海賊の娘だと言った。
誰の海賊かは、誰も言わなかった。
ただ、そう呼べば十分だった。
海賊の娘。
死体を洗う女。
海に近すぎる女。
ミナは、否定しなかった。
肯定もしなかった。
そう呼ぶ者の名前を覚えるだけだった。
ハルは、教会の古い婚姻台帳を調べていた。
母方の記録を追っていた。
ミナに頼まれたわけではなかった。
しかし、調べるべきだと思った。
記録の中に、同じ姓があった。
ミナの母方の姓だった。
百年前の洗礼台帳にも、同じ名があった。
航海日誌にも、似た名があった。
港の地下室の壁にも、削られかけた同じ名があった。
ハルは、紙を並べた。
線を引いた。
年号を見た。
一つの家系が浮かび上がった。
消された子供の一人。
海賊によって上陸させられた子供。
その後、山の集落に隠された可能性がある子供。
その子孫。
ミナの母。
ミナ。
ハルは、夕方まで迷った。
言うべきか。
言わないべきか。
言えば、何かが変わる。
言わなければ、何も変わらない。
しかし、何も変わらないことこそ、百年続いた嘘だった。
ハルは、浜へ行った。
ミナは、死者を洗っていた。
その日、若い水夫が一人、浜に上がった。
名前は分かっていた。
船も分かっていた。
家族も分かっていた。
ミナは、髪の砂を洗い流していた。
とても丁寧だった。
生きている者にするよりも丁寧だった。
ハルは、少し離れて待った。
ミナが布をかけ終えると、言った。
「話がある」
ミナは手を洗った。
「いい話か」
「分からない」
「悪い話か」
「それも分からない」
「なら聞く」
ハルは、紙を渡した。
ミナは読んだ。
読み終えるまで、何も言わなかった。
波の音だけがした。
ミナは言った。
「私は、海賊の娘ではなかったのか」
「少なくとも、その記録では違う」
「では何だ」
ハルは言った。
「売られかけた子供の、子孫かもしれない」
ミナは笑った。
笑い声は短かった。
「ひどいな」
ハルは何も言わなかった。
「海賊の娘の方が、まだましだった」
「ごめん」
「なぜ謝る」
「言ったから」
「言わない方がひどい」
ミナは紙を見た。
指で、古い名前をなぞった。
「この子は、生きたのか」
「たぶん」
「隠されたのか」
「たぶん」
「誰が隠した」
「分からない」
「海賊か」
「かもしれない」
ミナは海を見た。
「私は、ずっと海賊の血だと言われてきた」
「うん」
「でも、本当は、海賊に助けられた血かもしれない」
「そうなる」
「笑える」
ミナは笑わなかった。
海を見たまま、言った。
「ハル」
「何」
「私の名前を、書いて」
「記録に?」
「違う」
ミナは、死体を洗う石の台に手を置いた。
「今ここで」
ハルは紙を出した。
筆を取った。
ミナは言った。
「消されなかった名前として」
ハルは、ミナの名を書いた。
丁寧に。
今まで書いたどの名前よりも、丁寧に。
ミナはそれを見た。
「下手だ」
「すまない」
「でも、読める」
「読めるように書いた」
ミナは紙を畳んだ。
胸元にしまった。
「それでいい」
(第八話 了)




