第六話「総督の嘘」
島には、総督の屋敷が残っていた。
今は使われていなかった。
白い壁は、雨で剥がれていた。
窓は割れていた。
庭は草に埋もれていた。
昔は、島で一番高い建物だった。
海から来る船は、まずその屋敷を見たという。
総督家の者は、もう島にいなかった。
本土へ移った。
名前だけが残った。
道の名。
広場の名。
古い英雄譚。
海賊を討った総督。
島を救った総督。
子供たちを守った総督。
ハルは、その名前を何度も記録帳で見ていた。
祝祭の日には、教会でもその名を読んだ。
ミナと共に、屋敷に入った。
床が軋んだ。
天井から雨が落ちていた。
壁には、破れた肖像画が残っていた。
赤い服の男。
白い鬘。
片手に剣。
もう片方の手に、聖書。
ハルは肖像画を見た。
「この人が、島を救った総督」
ミナは言った。
「顔は、誰でも救い主に描ける」
屋敷の書庫には、まだ本が残っていた。
湿気で膨らんでいた。
虫に食われていた。
それでも、箱に入った書類は残っていた。
ハルは、総督の報告書を見つけた。
王都へ送った写しだった。
そこには、海賊討伐の記録があった。
聖女殺し号の襲撃。
子供たちの誘拐。
総督の勇敢な反撃。
海賊たちの捕縛。
処刑。
島の救済。
ハルは、読みながら眉を寄せた。
「日付が違う」
「どこが」
「航海日誌では、海賊は夜明け前に上陸している。でも報告書では、夜中に襲撃したことになっている」
「他には」
「子供たちは救出されたと書いてある」
「死亡記録はなかった」
「戻った記録もない」
ミナは、別の紙を見つけた。
そこには、品目が書かれていた。
砂糖。
ラム。
火薬。
鉄砲。
布。
それから、人。
数ではなく、年齢で書かれていた。
七歳。
九歳。
十一歳。
十二歳。
名前はなかった。
ミナは紙を握った。
「名前を消したんだ」
ハルは言った。
「売るために」
「物にするために」
ミナの声は低かった。
怒っているようには聞こえなかった。
怒りより深いところにある声だった。
ハルは、初めて彼女の手が震えているのを見た。
「ミナ」
呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「私は、死体を洗う」
「知っている」
「死んだ者には、まだ顔がある」
「うん」
「でも、ここに書かれた子供たちには、顔も名前もない」
ミナは紙を机に置いた。
「これが一番ひどい」
ハルは、何も言えなかった。
外では、青い海が光っていた。
総督の屋敷の窓から見える海は、美しかった。
昔も、きっと美しかった。
その美しい海から、船が来た。
船が去った。
人が売られた。
嘘が残った。
ハルは報告書を閉じた。
「書き直さないといけない」
ミナは言った。
「誰のために」
ハルは少し考えた。
「名前を消された人のために」
「それだけか」
「それと」
ハルは、窓の外の海を見た。
「これから名前を書く人のために」
(第六話 了)




