第三話「百年前の航海日誌」
航海日誌には、島の名が何度も出てきた。
古い名だった。
サンタ・ルシアナ。
今の島は、ただ青い島と呼ばれていた。
地図には別の名が書かれていた。
しかし、古い者は知っていた。
この島には、昔、聖女の名がついていた。
その名を嫌って、後の総督が変えたのだと。
ハルは、教会の机に座って日誌を読んだ。
ミナは向かいに座っていた。
死体を洗う桶は、空だった。
その日は、海が誰も返さなかった。
日誌には、海賊の生活が書かれていた。
酒。
水。
火薬。
壊れた帆。
病気。
逃げた水夫。
捕まえた船。
撃った数。
撃たれた数。
それから、島の子供たち。
ハルは、その箇所を何度も読んだ。
「ここに、こうある」
ミナは顔を上げた。
ハルは読んだ。
「子ら十二名、夜明け前に上陸。泣く者あり。二名、熱あり。女の一人、名を言わず」
「海賊が子供を連れてきたのか」
「そう読める」
「攫ったのではなく」
「分からない」
ハルは次の行を見た。
「総督の兵、港にあり。取引は行われず」
ミナは眉を寄せた。
「取引」
「そう書いてある」
「何を取引するつもりだった」
「子供かもしれない」
ミナは黙った。
外では、港の声がした。
魚を売る声。
網を直す声。
桶を転がす音。
島はいつも通りだった。
百年前の子供の名前など、誰も知らないようだった。
ハルは言った。
「教会の地下に、古い台帳がある」
「洗礼台帳か」
「死亡台帳もある」
「見れば分かるか」
「分かるかもしれない」
「分からないかもしれない」
「それでも見る」
ミナは立ち上がった。
「行こう」
「君も来るのか」
「名前が出てきたなら、誰かが顔を見なければいけない」
「紙に顔はない」
「だから見る」
ハルは、ミナを見た。
彼女は、いつも死体を見る時の顔をしていた。
怖がっていなかった。
悲しんでもいなかった。
逃げるつもりのない顔だった。
教会の地下は、涼しかった。
石段を降りると、湿った匂いがした。
古い紙。
黴。
蝋。
塩。
海の近い島では、地下にも海の匂いが入り込む。
棚には、古い台帳が並んでいた。
皮表紙がひび割れていた。
ハルは、一冊を取り出した。
百年前の年号を探した。
指が震えていた。
ミナがそれを見た。
「怖いのか」
「怖い」
「何が」
「名前が、合うこと」
ミナは言った。
「合わない方が怖い」
ハルは台帳を開いた。
洗礼名が並んでいた。
その中に、航海日誌と同じ名前があった。
一人。
二人。
三人。
十二人。
すべて、あった。
ハルは、息を吐いた。
「いた」
ミナは台帳を覗いた。
「死んだ記録は」
ハルは別の台帳を開いた。
死亡記録を探した。
同じ年。
同じ月。
その前後。
名前はなかった。
一人もなかった。
洗礼を受けた子供たちが、死なずに消えていた。
ハルは言った。
「この島から、消えている」
ミナは静かに言った。
「海賊の話ではなくなった」
(第三話 了)




