第二話「死体を洗う女」
教会の裏に、小さな石の台があった。
死体を洗うための台だった。
昔は洗礼に使っていたという者もいた。
ハルは、そうは思わなかった。
洗礼台にしては低すぎた。
祈りのための石ではなく、作業のための石に見えた。
ミナは、そこで何度も死者を洗っていた。
海にふやけた手。
砂の入った髪。
魚にかじられた頬。
壊れた指。
ハルは、記録帳に名前を書いた。
ミナは、名前の前の顔を見た。
二人の仕事は似ていた。
しかし、同じではなかった。
ハルは、生きていた証を紙に残した。
ミナは、生きていた身体を土に返した。
箱は、教会の物置に置かれた。
神父は港へ出ていて、まだ戻っていなかった。
ハルは錆びた留め具に小刀を入れた。
ミナが蝋燭を持っていた。
留め具が折れた。
ふたが、ゆっくり開いた。
中には、金貨はなかった。
宝石もなかった。
剣もなかった。
入っていたのは、革の包みだった。
油で固められていた。
その中に、本があった。
黒い表紙の本だった。
角は腐りかけていた。
しかし、ページは残っていた。
ハルは、慎重に開いた。
字があった。
細かい字だった。
船の記録だった。
日付。
風向き。
積荷。
水の残量。
病人の数。
死んだ者の数。
そして、名前。
ハルは読み上げた。
「聖女殺し号、航海日誌」
ミナは蝋燭を近づけた。
「海賊の記録か」
「そうだと思う」
「金貨より悪い」
「なぜ」
「金貨なら数えれば終わる」
ミナは本を見た。
「名前は、終わらない」
ハルはページをめくった。
百年前の字だった。
所々、海水で滲んでいた。
それでも読めるところがあった。
島の名が出てきた。
ハルたちの島の、古い名だった。
今は誰も使わない名だった。
ハルは顔を上げた。
「この島だ」
「分かっている」
「ここに来ていた」
「海賊なら、どこの島にも来る」
「違う」
ハルは、ページを指した。
「ここに、子供の名前がある」
ミナは黙った。
ハルは読んだ。
古い名前だった。
島の古い家の名前が混じっていた。
今も残る家の名前もあった。
消えた家の名前もあった。
名前の横に、印がついていた。
十字ではなかった。
売買の印でもなかった。
何かを数えた印だった。
ミナは言った。
「死者か」
「分からない」
「攫われた子供か」
「それも分からない」
ハルはページを閉じなかった。
閉じると、二度と開けない気がした。
ミナは蝋燭を持ったまま言った。
「調べるのか」
「記録係だから」
「記録係は、死んだ紙を写すだけだと思っていた」
「僕も、昨日まではそう思っていた」
ミナは少しだけ笑った。
笑ったように見えただけかもしれなかった。
「なら、今日からは違う」
外で、教会の鐘が鳴った。
朝の祈りの時間だった。
しかしハルは、鐘を鳴らし忘れていた。
(第二話 了)




