第一話「嵐の後の箱」
朝の海は、青かった。
嵐の後の海だった。
夜の間、風が島を叩いた。
雨が屋根を叩いた。
波が港の石段を越えた。
朝になると、空は何もなかったように晴れていた。
海だけが、荒れたものを浜に残していた。
折れた櫂。
破れた帆布。
見知らぬ船の板。
魚の死骸。
貝。
それから、木箱が一つ。
ハルは、教会の鐘を鳴らすために浜を通っていた。
二十三歳だった。
教会で記録係をしていた。
生まれた者の名前。
死んだ者の名前。
結婚した者の名前。
島を出た者の名前。
島に戻らなかった者の名前。
それらを書き写す仕事だった。
ハルは、浜に打ち上げられた木箱を見た。
古かった。
鉄の留め具が錆びていた。
海藻が絡んでいた。
箱の側面に、焼き印があった。
ほとんど消えていた。
しかし、文字は少しだけ読めた。
聖女殺し号。
ハルは、息を止めた。
その名前を知っていた。
百年前、カリブ海を荒らした海賊船の名だった。
島の子供たちは、その名を聞かされて育った。
夜に泣く子供には、大人が言った。
泣きやまなければ、聖女殺し号が迎えに来る、と。
ハルは箱に手をかけた。
重かった。
水を吸っていた。
ふたは開かなかった。
「触らない方がいい」
声がした。
振り向くと、ミナが立っていた。
港で死体を洗う女だった。
海で死んだ者が浜に上がると、彼女が洗った。
名前が分かる者は家族へ返した。
名前が分からない者は、教会の裏に埋めた。
ミナは、まだ若かった。
しかし、海で死んだ者の顔を見慣れた目をしていた。
「なぜ」とハルは言った。
「海が返したものは、何かを持っているから」
「金かもしれない」
「金なら、もっと悪い」
ミナは箱に近づいた。
焼き印を見た。
目を細めた。
「本当に、その船のものだと思うか」
「名前はそう読める」
「百年前の船だ」
「百年たっても、海は返す」
ミナはしばらく黙っていた。
それから言った。
「開けるなら、教会で開けた方がいい」
「なぜ」
「ここで開けると、港の者が集まる」
「集まると困るのか」
「金が入っていなくても、金が入っていたことになる」
ハルは、箱を見た。
波が近くまで来て、引いていった。
箱は濡れていた。
古い。
重い。
沈んでいたものが、戻ってきた重さだった。
ハルは言った。
「手を貸してくれ」
ミナは何も言わず、箱の片側を持った。
二人で持ち上げた。
箱は、ずしりと重かった。
海水が、木の隙間から落ちた。
青い朝の浜を、二人は歩いた。
背後で、海が静かに鳴っていた。
まるで何も知らないように。
(第一話 了)




