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第9話 聖女様、珍生物を毒見係にしないでください

 俺の肩書きが、また増えた。


 森で拾われた珍しい小動物。


 少し個性的な鳴き声の猫。


 聖女様の大切な子。


 きゅーちゃん。


 探偵。


 見回り要員。


 危険物検知係。


 そして今朝から、新たに追加された役割がある。


 毒見係。


 いや、正確には毒見ではない。


 俺は何も食べていない。


 食べてはいないのだが、リリアが口にするものを前にすると、なぜか全員が俺を見るようになった。


 お茶が運ばれる。


 俺を見る。


 朝食が置かれる。


 俺を見る。


 果物が皿に乗る。


 俺を見る。


 やめてほしい。


 俺は低級魔物である。


 毒物検査機ではない。


 ステータス画面にも、そんな職業は出ていない。


 ただ、危険察知を持っているだけだ。


 しかしその危険察知で、リリアの茶器近くにあった腐食鼠の体毛らしき異物を見つけてしまった。


 そのせいで、神殿内の空気は少し変わった。


 リリアの部屋には、これまで以上に警戒が増えた。


 アリアは常に厳しい顔をしている。


 侍女たちは怯えたように動き、出入りする者の名前をすべて記録するようになった。


 そして俺は、かごの中から小さく見守っている。


 ただの珍生物として。


 いや、もうただの珍生物では済まなくなっている気がする。


 俺はかごの中で小さく息を吐いた。


「きゅ……」


 平和が欲しい。


 ふかふかのかごとミルクだけで十分だ。


 陰謀とか、犯人探しとか、聖女暗殺未遂っぽいものとか、低級魔物には荷が重い。


 俺はまだ第一進化もしていない。


 転がることと丸くなることが主戦力なのだ。


 それなのに、事件だけが勝手に大きくなっていく。


 ステータス画面が開いた。


---


進化ゲージ:53%


第一進化の予兆:進行中


身体変化:頭部硬質突起


スキル:危険察知


現在の保護対象:リリア・セレスティア


---


 進化ゲージは五十三%。


 半分は超えた。


 頭の硬質突起は、昨日よりさらに存在感を増している。


 まだ小さい。


 まだ小さいが、もう寝癖と言うにはだいぶ苦しい。


 苦しいのに、リリアはまだ寝癖扱いしている。


 というより、最近は「寝癖」から「個性」へ表現が変わりつつある。


 これは危険だ。


 個性という単語は便利すぎる。


 鳴き声も個性。


 成長速度も個性。


 頭の硬い突起も個性。


 このままだと、俺が第一進化しても個性で済まされる可能性がある。


 いや、リリアなら本当に済ませる。


 怖い。


 この聖女、世界の常識をふわっと曲げる力がある。


 扉が開いた。


 アリアが入ってくる。


 片手には小さな盆。


 その上には、リリア用の朝食が乗っていた。


 パン。


 スープ。


 小さな果物。


 それから、俺用のミルク。


 俺はミルクを見て、少しだけ耳を立てた。


 うまそうだ。


 悔しいが、俺はもうミルクにかなり心を許している。


 アリアは盆を机の上に置くと、まず自分で周囲を確認した。


 銀の匙でスープをすくい、匂いを嗅ぐ。


 パンを割る。


 果物を見る。


 そして、俺を見る。


「ノア」


「きゅ」


 来た。


「何か感じますか」


 俺はかごから顔を出した。


 危険察知は反応していない。


 スープ。


 パン。


 果物。


 ミルク。


 全部、今のところ嫌な気配はない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 大丈夫そうです。


 たぶん。


 アリアは少しだけ頷いた。


「反応なし、と」


 記録しないで。


 俺の鳴き声を検査結果みたいに扱わないで。


 リリアが椅子に座り、困ったように笑った。


「ノアに全部確認してもらうのは、少し悪いですね」


「きゅ」


 そうです。


 かなり悪いです。


「ですが、昨日のことがあります」


 アリアは淡々と言った。


「聖女様が口にするものは、しばらく厳重に確認します」


「それは分かります。でも、ノアに負担をかけたくありません」


 リリアが俺を見る。


 優しい。


 ちゃんと俺を気にしてくれている。


 リリアは本当に、俺を道具扱いしない。


 そこはありがたい。


 するとアリアが少しだけ考えた。


「では、ノアは最終確認だけにしましょう。基本的な確認は私と侍女で行います」


「最終確認」


 リリアが首を傾げる。


「つまり、ノアは最後に見るだけですか?」


「はい」


「それなら、ノアも疲れにくいですね」


「きゅ……」


 いや、そういう問題なのか?


 最終確認でも仕事は仕事だ。


 だが、毎回全品チェックよりはましだ。


 俺は小さく頷きそうになって、途中で止めた。


 アリアに見られる。


 アリアはもう、俺がかなり言葉を理解していると確信している。


 だから最近は、俺の反応を普通に確認してくる。


 リリアはまだ、


「ノアは賢いですね」


 で流している。


 この温度差が怖い。


 アリアは俺のミルク皿をかごの前に置いた。


「あなたの分も確認済みです」


「きゅ」


 ありがとうございます。


 俺は皿に近づき、ミルクを舐めた。


 うまい。


 今日もミルクは正義だった。


 リリアはそれを見て、嬉しそうに微笑む。


「ノア、よく飲みますね」


「昨日よりまた量が増えています」


 アリアが言う。


「成長期ですから」


「聖女様、その説明でどこまで押し通すおつもりですか」


「ノアが大人になるまででしょうか」


「この子がどのような大人になるのか、誰にも分かりません」


 まったくその通りだ。


 俺にも分からない。


 できれば、見た目はかわいい範囲に収まってほしい。


 いや、俺は元男だ。


 かわいさにこだわる必要はない。


 でも、神殿内で生き延びるには、かわいいは防御力になる。


 かわいい。


 ふわふわ。


 珍しい。


 この三つが今の俺を守っている。


 角が伸びて、牙が出て、翼が生えたら、その防御力がどこまで通じるか分からない。


 リリアには通じる。


 アリアには通じない。


 神殿全体には、たぶん厳しい。


 俺はミルクを飲みながら、少しだけ憂鬱になった。


     ◇


 朝食の後、司祭長から呼び出しがあった。


 東側の物資搬入口の調査について、追加報告があるらしい。


 俺は行きたくなかった。


 ものすごく行きたくなかった。


 だが、リリアが行く。


 アリアが行く。


 そして俺は、危険察知を持つ珍生物として同行することになった。


 リリアは俺を抱き上げる前に、ちゃんと聞いてくれた。


「ノア、一緒に来られますか?」


「きゅ……」


 できれば来たくありません。


 しかし、来ないと不安です。


 俺はリリアを見た。


 アリアを見た。


 そして、部屋の外を見る。


 危険察知は、神殿東側の方角に微かに反応していた。


 強い危険ではない。


 だが、昨日からずっと残っている違和感。


 それが気持ち悪い。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 行きます。


 短時間だけ。


 リリアはほっとしたように笑った。


「ありがとう、ノア。でも、無理はしないでくださいね」


 無理はしたくありません。


 本当に。


 アリアは俺の頭の硬質突起をちらりと見た。


「聖女様、抱く時に頭部へ触れないように」


「はい。寝癖を大切にします」


「寝癖ではありません」


「では、個性を大切にします」


「……それならまだましです」


 アリアが折れた。


 寝癖よりは個性の方がましらしい。


 俺としては、どちらも正解ではない。


 たぶん角です。


 言えないけど。


 リリアは俺を両腕でそっと抱き上げた。


 頭に触れないように気をつけている。


 その気遣いはありがたい。


 ただ、抱かれると聖属性が近い。


 また微かにちりちりする。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:53% → 54%


---


 また増えた。


 俺は小さく息を吐いた。


 このままリリアに大事にされればされるほど、俺は進化に近づく。


 そして進化に近づくほど、普通の珍生物から遠ざかる。


 なかなか皮肉な話だ。


     ◇


 司祭長の執務室には、昨日より多くの書類が広げられていた。


 神殿の見取り図。


 排水路の図面。


 物資搬入の記録。


 孤児院への配送記録。


 出入りした業者の名簿。


 俺はリリアの腕の中から、それらを眺めた。


 文字は読める。


 異世界文字なのに、なぜか読める。


 ステータスの影響なのか、転生特典なのかは分からない。


 ただ、俺は文字を読めることを周囲に悟られないよう、視線を泳がせた。


 アリアにはたぶんバレる。


 だから、できるだけ見ない。


 司祭長は俺を見るなり、少しだけ微笑んだ。


「ノア、今日も頭の個性が育っていますな」


 個性になった。


 司祭長まで個性に寄ってきた。


 リリアの言葉が神殿上層部にまで浸透している。


 危険だ。


 いや、俺にとっては助かる。


 アリアは小さくため息をついた。


「司祭長まで、その言い方をされますか」


「寝癖よりは良いでしょう」


「それはそうですが」


 アリアの折れ方が昨日より早くなっている。


 神殿の常識が少しずつ削れている気がする。


 司祭長は机の上の記録を指した。


「昨夜から今朝にかけて、東側の物資搬入口を調べました。浄化印は三つ傷つけられており、黒牙鼠の死骸が七体。腐食鼠の痕跡が二か所」


 七体。


 思ったより多い。


 俺は耳を伏せた。


「さらに、外に残っていた足跡ですが、神殿の者の靴とは一致しませんでした」


 アリアが眉を寄せる。


「外部の人間ですか」


「その可能性が高い。ただし、神殿内に協力者がいないとは言い切れません」


 協力者。


 神殿内。


 リリアの表情が少し曇る。


 俺も尻尾を丸めた。


 外部犯だけならまだ分かりやすい。


 だが神殿内に協力者がいるとなると、厄介だ。


 リリアの周りにいる誰かが、リリアの大切な場所へ危険を近づけた可能性がある。


 考えたくない。


 でも、茶器の近くにあった腐食鼠の体毛のことを考えると、完全には否定できない。


 司祭長は続けた。


「物資搬入の記録では、昨日の夕刻、孤児院へ食料が運ばれています。その直後に、搬入口付近の浄化印が傷つけられた可能性があります」


「食料を運んだ者は?」


 アリアが問う。


「登録された業者は三名。うち二名は確認済み。一名が今朝から行方をくらませています」


 来た。


 いかにも怪しい人物。


 俺はリリアの腕の中で耳を立てる。


「その者が犯人でしょうか」


 リリアが尋ねる。


「まだ分かりません。使われただけかもしれませんし、名を借りられただけかもしれません」


 司祭長は慎重だった。


 こういうところはかなり信頼できる。


 すぐに断定しない。


 だが、見逃しもしない。


「そこで、東側の搬入口をリリア様にも確認していただきたい」


「私も、ですか?」


「ええ。浄化印の修復には、あなたの聖力が必要です」


 聖力。


 俺はびくりとした。


 浄化印の修復。


 つまり、リリアが聖属性を使う。


 それもたぶん、強めに。


 近くにいたら俺は危ない。


 危険察知が、ほんのり震えた。


---


危険察知:微反応


予測:高濃度聖属性の発生


推奨:距離を取ってください。


---


 出た。


 距離を取ってください。


 ぜひそうしたい。


 俺はリリアの腕の中で小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 アリアも気づいた。


「聖女様。ノアは聖力に敏感です。修復中は離した方がいいでしょう」


 ナイス。


 アリアさん、かなりナイスです。


 リリアもすぐに頷く。


「そうですね。ノアが怖がらないように、少し離れてもらいましょう」


 司祭長も頷いた。


「それがよろしいでしょう」


 助かった。


 今回の俺は見学だけで済むかもしれない。


 そう思った。


 この時点では。


     ◇


 東側の物資搬入口は、神殿の外壁近くにあった。


 大きな木の扉。


 荷車が通れる広い石畳。


 壁際には浄化印が刻まれた石板がいくつも埋め込まれている。


 だが、そのうち数か所に傷があった。


 斜めに削られた跡。


 何か硬いもので引っかいたような傷。


 そこだけ、空気が少し濁っている。


 俺でも分かる。


 神殿の聖属性の流れが、そこだけ途切れているような感じがした。


 穴のあいた網戸みたいなものだ。


 虫が入ってくる。


 この場合、虫ではなく黒牙鼠だが。


 俺はアリアに抱かれていた。


 リリアが修復をする間、俺を少し離すためだ。


 リリアの腕の中より、アリアの腕の中の方が聖属性の刺激は少ない。


 安全だ。


 ただし、緊張感は強い。


 アリアは抱き方がしっかりしている。


 落とされる不安はない。


 しかし、監視されている感がすごい。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 アリアが俺を見る。


「暴れないでください」


 暴れません。


 あなたの腕の中で暴れたら即拘束されそうなので。


 リリアは傷ついた浄化印の前に立った。


 司祭長が隣で補助をする。


 数人の神官たちが周囲を見守っている。


 リリアは両手を胸の前で組み、静かに祈り始めた。


 白い光が、彼女の周囲に集まる。


 柔らかい。


 でも、いつもの撫でや治癒とは違う。


 もっと濃い。


 もっと広い。


 空気そのものが白く染まっていく。


 俺の毛が逆立った。


---


高濃度聖属性を確認しました。


距離:安全圏ぎりぎり


推奨:これ以上近づかないでください。


---


 安全圏ぎりぎり。


 怖い。


 これ以上近づいたらアウトらしい。


 俺はアリアの腕の中で、さらに丸くなった。


 アリアが小声で言う。


「やはり反応しますか」


「きゅ……」


 します。


 めちゃくちゃします。


 リリアの光が、傷ついた浄化印に触れた。


 欠けた線が、白く輝く。


 傷がゆっくり埋まっていく。


 まるで、割れた陶器に光を流し込んでいるようだった。


 神聖で、美しい光景。


 ただし、俺にとっては巨大な殺虫灯を見ている気分である。


 綺麗。


 でも近づいたら死ぬ。


 リリアは集中していた。


 額に少し汗が浮かぶ。


 浄化印の修復は簡単ではないらしい。


 司祭長が静かに杖を構え、光の流れを整えている。


 その時だった。


 危険察知が、鋭く鳴った。


 ぴり、ではない。


 びりっ、と体の奥を叩かれるような感覚。


---


危険察知:強反応


対象:物資搬入口の影


危険度:中


警告:保護対象に接近する危険あり。


---


 影。


 俺は反射的に顔を上げた。


 物資搬入口の大きな扉。


 その隅。


 積まれた木箱の裏。


 何かが動いた。


 黒い。


 小さい。


 鼠か?


 いや、違う。


 昨日の黒牙鼠より大きい。


 腐食鼠よりも速そうだ。


 体は細く、尾が長い。


 赤い目が、リリアを見ていた。


 ステータス画面が開く。


---


対象:影尾鼠


危険度:中


特徴:影に潜み、隙を見て飛びかかる。


注意:聖力発動中の術者を狙っています。


---


 最悪だ。


 リリアは今、浄化印の修復中。


 動けない。


 アリアは俺を抱いている。


 距離がある。


 神官たちはリリアの光に意識を取られている。


 影尾鼠が動いた。


 木箱の影を滑るように抜け、リリアの背後へ向かう。


 俺は鳴いた。


「きゅっ!」


 アリアが即座に反応する。


「何かいます!」


 さすが。


 伝わった。


 だが、影尾鼠は速かった。


 神官の足元を抜け、石畳を駆ける。


 リリアはまだ気づいていない。


 俺はアリアの腕の中で暴れた。


「ノア!」


 アリアの声。


 だが、止まれなかった。


 俺はアリアの腕から飛び出した。


 自分で飛んだ。


 初めて、転がるためではなく、前に出るために。


「きゅうっ!」


 着地。


 少し失敗。


 前足が滑る。


 そのままころんと転がる。


 だが、転がった勢いで影尾鼠の進路に入った。


---


能力:よく転がる が発動しました。


対象の進路を妨害しました。


---


 また転がりが仕事をした。


 俺はもう、転がる珍生物として生きていけるかもしれない。


 影尾鼠が急停止する。


 赤い目が俺を見る。


 近い。


 思ったより大きい。


 牙も長い。


 こいつは黒牙鼠より危険だ。


 影尾鼠が飛びかかる。


 俺は反射的に丸くなった。


---


能力:丸くなる が発動しました。


被害を軽減します。


---


 だが、今回は衝撃が強かった。


 体が弾き飛ばされる。


「きゅっ!」


 石畳を転がる。


 痛い。


 毛で守られているが、普通に痛い。


 影尾鼠がもう一度飛ぶ。


 その先には俺ではなく、リリア。


 まずい。


 俺は立ち上がろうとした。


 足が震える。


 間に合わない。


 アリアが剣を抜いて走る。


 でも、距離がある。


 リリアは浄化印に力を注いでいる。


 司祭長が気づいたが、補助を止められない。


 影尾鼠がリリアの足元へ飛びかかった。


 その瞬間。


 俺の頭の硬質突起が、熱くなった。


 いや、熱いというより、体の奥から何かが集まってくる感覚。


 聖属性。


 魔力。


 リリアの光の余波。


 神殿の浄化印。


 全部が、俺の頭の小さな突起に引っかかる。


 ステータス画面が赤く光る。


---


高濃度聖属性を受けています。


消滅判定……発生。


固有特性:浄化適性が発動します。


変質判定……発生。


第一進化予兆が加速します。


---


 やめろ。


 今それどころじゃない。


 消えるな。


 進化するな。


 いや、するなら役に立て。


 俺は必死に前足を踏み出した。


 届かない。


 でも、頭の突起から、白い小さな光が弾けた。


 ぱちん。


 豆粒みたいな光。


 しかしその光は、影尾鼠の目の前で弾けた。


「キィッ!?」


 影尾鼠がひるむ。


 一瞬。


 本当に一瞬。


 だが、その一瞬でアリアが間に合った。


 鞘ではない。


 今度は剣の腹で、影尾鼠を横から叩き落とす。


 影尾鼠は石畳を転がり、神官兵がすぐに布で押さえ込んだ。


 リリアの浄化印修復が完了する。


 白い光が収まり、傷ついた印が元通りの輝きを取り戻した。


 空気の濁りが消えた。


 そして俺は、石畳の上でぺたりと伏せた。


「きゅ……」


 無理。


 もう無理。


 今度こそ休ませてください。


 リリアが振り返る。


「ノア!」


 血相を変えて駆け寄ってくる。


 アリアもすぐに俺を確認する。


「噛まれてはいません。打撲程度です」


 打撲。


 小動物には十分重い単語だと思う。


 リリアの目が潤んでいた。


「ノア、また……」


「きゅ……」


 またです。


 またやりました。


 俺もなぜ毎回飛び出すのか分かりません。


 リリアが俺を抱き上げようとして、手を止める。


 俺の頭を見たからだ。


 俺も気づいた。


 頭が熱い。


 小さな硬質突起が、じんじんしている。


 ステータス画面が開く。


---


高濃度聖属性接触を確認しました。


消滅判定……失敗。


変質判定……成功。


進化ゲージ:54% → 67%


身体変化:頭部硬質突起が成長しました。


---


 増えすぎ。


 いや、助かった。


 助かったけど増えすぎ。


 五十四%から六十七%。


 一気に進みすぎだ。


 そして、身体変化。


 頭部硬質突起が成長しました。


 俺は恐る恐るリリアを見る。


 リリアは、俺の頭を見ていた。


 アリアも見ていた。


 司祭長も見ていた。


 神官たちも見ていた。


 全員が見ていた。


 嫌な沈黙。


 非常に嫌な沈黙。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 何もありません。


 珍しい小動物です。


 少し個性的な鳴き声の猫です。


 寝癖です。


 そう思っていたら、リリアが震える声で言った。


「ノア……」


 来る。


 ついに来る。


 さすがのリリアも、これは寝癖では済ませないのかもしれない。


 俺の頭の突起は、明らかに少し伸びていた。


 小さな角。


 もう、そう言われても仕方がない。


 リリアは俺をそっと抱き上げた。


 そして、泣きそうな顔で微笑んだ。


「寝癖が……強くなりましたね」


 そこ?


 まだそこ?


 アリアが即座に言った。


「聖女様、これはもう寝癖ではありません」


「でも、ノアは怖がっています」


「それと寝癖かどうかは別です」


「では、怖がっている個性です」


「混ぜないでください」


 いつもの会話。


 だが、アリアの声にも焦りがあった。


 司祭長は静かに近づいてきた。


 俺の頭を見て、目を細める。


「……ふむ」


 ふむ、じゃない。


 怖い。


 司祭長は触れなかった。


 それだけは助かった。


「リリア様。ノアを部屋へ。今の接触で、かなり負担がかかっているはずです」


「はい」


 リリアはすぐに頷いた。


 アリアが影尾鼠を神官兵に任せ、俺たちの周囲を固める。


「聖女様、急ぎましょう」


 その時、捕らえられた影尾鼠が小さく鳴いた。


「キィ……」


 嫌な声だった。


 ただの魔性生物の鳴き声ではない。


 危険察知が、かすかに震える。


 俺は影尾鼠を見る。


 その首元に、小さな黒い紐のようなものが巻かれていた。


 いや、紐ではない。


 何かの印。


 黒い糸で結ばれた、小さな金属片。


 アリアも気づいた。


「待ってください」


 彼女は影尾鼠の首元を確認する。


 そして、表情を険しくした。


「これは……誰かがつけたものです」


 空気が凍った。


 影尾鼠は野生ではない。


 誰かが使った。


 リリアを狙うために。


 俺はリリアの腕の中で、ぞっとした。


 今のは偶然ではない。


 影尾鼠は、リリアが浄化印を修復して動けない瞬間を狙った。


 つまり、誰かはリリアがここに来ることを知っていた。


 俺の危険察知が、遠くでまた小さく震える。


 神殿の中。


 人の気配の中。


 何か、嫌なものが混ざっている。


 リリアは俺を抱く腕に力を込めた。


「ノア、ありがとう」


「きゅ……」


 どういたしまして。


 でも、まずいです。


 たぶんこれ、ただの鼠騒動ではありません。


 俺はそう伝えたかった。


 だが、出てくるのは小さな鳴き声だけ。


 リリアは俺の震えを、痛みだと思ったのだろう。


「すぐに戻りましょう。治癒します」


「きゅう!?」


 治癒。


 待って。


 今、高濃度聖属性を浴びて進化ゲージが爆上がりした直後です。


 追加の治癒は危険では?


 アリアがすぐに止めた。


「聖女様。治癒は最小限に。ノアは聖力に過敏です」


「でも、痛そうです」


「普通の手当てを先にしましょう」


「……分かりました」


 アリアさん。


 本当にありがとう。


 あなたがいなかったら、俺は善意で進化させられて消えるかもしれない。


 リリアは俺を慎重に抱いたまま、神殿内へ戻った。


     ◇


 部屋に戻ると、俺はかごではなく、机の上に置かれた柔らかい布の上へ下ろされた。


 アリアが俺の体を確認する。


 前足。


 背中。


 尻尾。


 頭の突起。


 最後のところで、彼女の手が止まる。


「……明らかに伸びています」


「きゅ……」


 言わないで。


 分かってます。


 リリアは心配そうに覗き込む。


「痛いですか?」


「きゅ」


 痛くはないです。


 ただ、心が痛いです。


 アリアは俺の体に傷がないことを確認すると、普通の布で冷やすことにした。


 聖水ではない。


 治癒でもない。


 普通の冷たい布。


 ありがたい。


 非常にありがたい。


 俺は布を当てられながら、ステータス画面を見た。


---


進化ゲージ:67%


第一進化の予兆:中段階


身体変化:頭部硬質突起


備考:寝癖と言い張るには厳しくなってきました。


---


 ステータスまで認めた。


 言い張るには厳しい。


 そうだろう。


 俺もそう思う。


 だがリリアは隣で、真剣に言った。


「ノアの寝癖、痛まないように守らないといけませんね」


 まだ言い張る気だ。


 強い。


 強すぎる。


 アリアはもう訂正する気力を失ったのか、ただ小さく言った。


「……個性ということにしておきましょう」


 寝癖から個性へ昇格した。


 角ではない。


 個性。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 個性で通るなら、もうそれでいいです。


 リリアは俺の背中をそっと撫でようとして、手を止めた。


 そして、自分の手をぎゅっと握る。


「今日は、撫でるのも少し我慢します」


 俺は耳を立てた。


 リリアが、我慢した。


 俺に聖属性が負担になるかもしれないから。


 それをちゃんと考えて、撫でたいのを我慢した。


 俺は少し驚いた。


 リリアは鈍感だ。


 ポジティブすぎる。


 寝癖で押し切ろうとする。


 でも、俺が苦しむことにはちゃんと気づく。


 完全に何も見ていないわけではない。


 ただ、見る方向が人と違うだけなのだ。


「きゅ」


 俺は小さく鳴いた。


 大丈夫です。


 そう言いたかった。


 リリアは微笑んだ。


「ノアは優しいですね」


 いや、今の鳴き声でそこまで分かるのか。


 分からないだろう。


 でも、まあいい。


 アリアが窓の外を見る。


「影尾鼠に付いていた金属片は、司祭長が調べています。あれが手がかりになるでしょう」


「誰かが、私を狙っているのでしょうか」


 リリアの声は静かだった。


 俺は彼女を見る。


 アリアは少しだけ沈黙した後、答えた。


「その可能性はあります」


 リリアは目を伏せた。


「私だけなら、まだいいのです」


「よくありません」


 アリアが即答した。


「ですが、孤児院を巻き込んだのなら……それは、許せません」


 リリアの声は柔らかい。


 でも、その奥に強いものがあった。


 俺はその横顔を見て、少しだけ思った。


 この子は守られるだけの聖女ではない。


 危なっかしいけれど、ちゃんと立っている。


 誰かを助けるために。


 誰かを守るために。


 だから俺も、つい飛び出してしまうのかもしれない。


 転がることしかできなくても。


 丸くなることしかできなくても。


 あの子の足元に牙が迫ったら、体が動いてしまう。


 俺は小さく息を吐いた。


 進化ゲージは六十七%。


 第一進化まで、あと三十三%。


 近づいている。


 確実に。


 そして、事件も近づいている。


 犯人。


 黒い金属片。


 壊された浄化印。


 リリアを狙った影尾鼠。


 俺が進化するより先に、何かが動き出している。


 その時、扉の外から足音が聞こえた。


 アリアが即座に剣に手をかける。


「誰です」


「司祭長より伝言です」


 神官の声。


 アリアが扉を少し開け、慎重に確認する。


 神官は一通の封書を差し出した。


「影尾鼠に付いていた金属片について、至急お伝えしたいことがあると」


 アリアが封書を受け取る。


 リリアが表情を引き締める。


 俺の危険察知が、かすかに震えた。


 アリアが封を開き、中を読んだ。


 その表情が、わずかに変わる。


「……聖女様」


「何か分かりましたか?」


 アリアは封書を握りしめる。


「金属片に刻まれていた印ですが」


 部屋の空気が重くなる。


「神殿内部の管理印です」


 リリアが息を呑んだ。


 俺も固まった。


 神殿内部。


 つまり。


 リリアを狙った影尾鼠には、神殿の中で使われる印が付いていた。


 外部の誰かではない。


 少なくとも、神殿内部に関わる者がいる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 聖女様。


 やっぱりこの神殿、思ったより危ないです。


 そしてたぶん。


 敵は、もうかなり近くにいます。

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