第10話 聖女様、珍生物に護衛任務は早すぎます
神殿内部の管理印。
その言葉が、部屋の空気を一気に重くした。
リリアの部屋は静かだった。
白い壁。
淡いカーテン。
花の香り。
ベッドの横に置かれた俺のかご。
いつもなら、ここは神殿の中で一番穏やかな場所のはずだった。
だが今は違う。
扉の前にはアリアが立ち、封書を握りしめている。
リリアは椅子に座ったまま、真剣な表情でその言葉を受け止めていた。
そして俺は、机の上に敷かれた柔らかい布の上で、小さく丸まっている。
丸まっている理由は二つ。
一つ。
さっき影尾鼠に突っ込んで、普通に疲れたから。
二つ。
頭の硬質突起が伸びて、布に当たるたびに存在を主張してくるから。
こつん。
少し動くと、頭の先が机の上の小皿に当たった。
嫌だ。
自分の頭から音がするの、かなり嫌だ。
俺は低級魔物だ。
周囲からは珍しい小動物扱いだ。
なのに頭から、明らかに小動物ではないものが生えつつある。
しかも今、神殿内部にリリアを狙う者がいるかもしれないという話をしている。
情報量が多すぎる。
まずはどちらか一つにしてほしい。
頭の角か。
神殿の陰謀か。
初心者向け異世界転生なら、もう少し段階を踏むべきだ。
「神殿内部の管理印……」
リリアが静かに呟いた。
「つまり、神殿の誰かが関わっているかもしれない、ということですね」
アリアは表情を硬くしたまま頷く。
「可能性は高いです。影尾鼠に付いていた金属片は、神殿内の備品管理に使われる封印具の一部でした」
「外部の人が持ち出した可能性は?」
「あります。ですが、普通は保管庫にあるものです。出入りできる者は限られます」
リリアは目を伏せた。
悲しそうだった。
怒っているというより、傷ついている顔だった。
この神殿は、リリアにとって家のような場所なのだろう。
その中の誰かが、自分や孤児院を危険に晒したかもしれない。
それは、リリアにとってかなり苦しいはずだ。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
大丈夫ですか。
そう言ったつもりだった。
リリアは俺を見て、少しだけ微笑んだ。
「ノア、心配してくれているのですか?」
「きゅ」
はい。
たぶん。
「ありがとうございます」
リリアは俺の背中を撫でようとして、また手を止めた。
俺に聖属性が負担になるかもしれないから。
その手は空中で少し迷い、結局、俺の前にそっと置かれた。
触れない。
でも、近くにいる。
その距離が、少しだけ温かかった。
俺はその手に鼻先を近づける。
ちり、と微かに刺激が来る。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:67% → 68%
---
触れてなくても増えた。
近いだけで増えるのか。
もうリリア、経験値の空気清浄機みたいになっている。
いや、魔物の俺にとっては清浄されると死ぬのだが。
アリアが俺を見る。
「ノア、反応しましたか」
「きゅ」
反応しました。
いろんな意味で。
アリアは封書を畳み、リリアへ向き直った。
「聖女様。今後、あなたの周囲に近づく者はさらに制限します。食事、飲み物、衣類、寝具、書類、贈り物。すべて確認します」
「分かりました」
「孤児院への訪問も、しばらくは控えていただきます」
「……それは」
リリアが少しだけ言葉に詰まった。
アリアの表情は厳しい。
「聖女様が大切にしている場所だからこそ、狙われた可能性があります。今、あなたが動けば、孤児院の子どもたちも危険に晒されます」
リリアは唇を結んだ。
そして、ゆっくり頷く。
「分かりました。子どもたちの安全が確認できるまでは、控えます」
偉い。
俺は素直にそう思った。
リリアは優しい。
放っておけない。
困っている人がいれば手を伸ばす。
でも、アリアの言葉を聞いて、ちゃんと我慢もできる。
危なっかしいけれど、無鉄砲ではない。
それはこの数日で分かってきた。
いや、数日と言ったが、リリアと出会ってからはまだ二日も経っていない。
おかしい。
体感では一週間くらい過ごしている。
異世界序盤、濃すぎる。
◇
少しして、司祭長が部屋にやって来た。
いつもの白と金の祭服。
長い白髭。
穏やかな目。
ただし、今日はその目の奥に、はっきりとした厳しさがあった。
「リリア様。お休みのところ、失礼します」
「いいえ。司祭長、何か分かりましたか?」
「少しだけ」
司祭長はアリアに目を向けた。
アリアが扉を閉め、外の神官兵に目配せする。
部屋の中には、リリア、司祭長、アリア、そして俺だけが残った。
俺も含まれるのか。
含まれているらしい。
俺は珍生物なのに。
司祭長は椅子に座らず、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、神殿内部の簡単な配置図と、いくつかの名前が書かれている。
「管理印の保管庫に出入りできる者を絞りました」
アリアが紙を見る。
「少ないですね」
「ええ。司祭長である私、管理担当の神官長、備品記録係が二名、鍵を預かる守衛が一名。そして、緊急時のみ一部の司祭が入れます」
リリアが眉を寄せる。
「その中の誰かが?」
「まだ断定はできません。印そのものを盗んだ者が犯人とは限りませんからな」
司祭長は静かに言った。
「ただ、影尾鼠を操るために使われた金属片は、保管庫の封印具と一致しました。つまり、神殿内の物が使われたことは確かです」
俺は紙を見た。
名前がいくつか並んでいる。
読める。
しかし、誰が怪しいのかは分からない。
神官長。
備品記録係。
守衛。
司祭。
どれも普通に怪しく見えるし、普通に無実にも見える。
推理ものの序盤で全員怪しく見える現象だ。
俺は探偵ではない。
転がる珍生物だ。
犯人当ては専門外である。
リリアが静かに尋ねた。
「狙いは、私なのでしょうか」
司祭長は少しだけ目を伏せた。
「その可能性はあります」
「なぜですか?」
「リリア様の活動を快く思わぬ者がいるからです」
昨日も聞いた話だ。
孤児院や貧民区への施療。
神殿の資源の使い方。
リリアの方針。
それを不満に思う者がいる。
アリアが低い声で言う。
「だからといって、魔性生物を入れる理由にはなりません」
「もちろんです」
司祭長は頷いた。
「ただし、目的が直接の殺害とは限りません」
「どういうことですか?」
リリアが問う。
「リリア様の周辺で魔性生物の被害が出る。孤児院で子どもが怪我をする。神殿内で異変が起きる。そうなれば、リリア様の管理能力や判断が問われます」
俺は耳を立てた。
殺すためではなく、失脚させるため。
リリアが助けたい場所を危険に晒し、その責任をリリアに向ける。
もしそうなら、かなり性格が悪い。
「聖女様が善意で関わった場所ほど、被害が出れば批判されやすい」
アリアが険しい顔で言った。
「そうです」
司祭長は静かに頷いた。
「リリア様は人々に慕われています。ですが、神殿内の全員が同じ思いではありません」
リリアは黙っていた。
悲しそうではある。
でも、折れてはいない。
「それでも、私は孤児院の子どもたちを助けたいです」
「分かっております」
司祭長は穏やかに言った。
「だからこそ、今は守りを固めましょう」
守り。
俺はその言葉に少し反応した。
危険察知が、かすかに震えている。
今すぐの危険ではない。
でも、リリアの周囲に危険がある。
その感覚が、ずっと消えない。
まるで、部屋の外に雨雲が広がっているのが分かるのに、まだ雨が降っていないような気持ち悪さ。
傘は手に入れた。
でも、どこで降るか分からない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
アリアが俺を見る。
「ノア?」
俺は神殿の図面を見た。
東側搬入口。
地下倉庫。
孤児院。
そして、紙に書かれた保管庫。
危険察知が、保管庫の文字に小さく反応した。
---
危険察知:微反応
対象:管理印保管庫
危険度:低
備考:痕跡が残っている可能性があります。
---
保管庫。
痕跡。
俺は前足を動かした。
机の上に乗りたい。
だが、今の俺は机の上の布にいる。
珍しく届く位置だ。
俺は慎重に歩き、紙の上へ前足を乗せた。
アリアが目を細める。
「ノア、そこですか」
「きゅ」
たぶん。
俺は保管庫の文字を、ぽふ、と前足で叩いた。
肉球で。
俺の渾身の推理行動が、見た目はほぼ肉球スタンプだった。
リリアが少し目を輝かせる。
「ノアが押しました」
「聖女様、かわいさより意味を見てください」
「はい。保管庫ですね」
アリアが司祭長を見る。
「司祭長。保管庫を確認しましょう」
「そうですな」
司祭長は俺を見た。
「ノアの危険察知は、リリア様に関わる危険に反応しやすいようですな」
ぎくり。
かなり核心に近い。
観察だけでそこまで行くのか。
やっぱりこの人、怖い。
俺は目をそらした。
「きゅう?」
何のことでしょう。
ただの珍しい小動物です。
司祭長は静かに笑った。
「リリア様。ノアを連れて保管庫へ向かうことになりますが、よろしいですかな」
よくないです。
俺としてはかなりよくないです。
しかしリリアは俺を見た。
「ノア、行けますか?」
ちゃんと聞いてくれる。
無理やりではない。
そこはありがたい。
俺は考えた。
行きたくない。
でも、保管庫に何か痕跡が残っているなら、今見ないと消されるかもしれない。
リリアを狙っている者がいる。
その手がかりがあるかもしれない。
俺は弱い。
戦えない。
でも、危険に気づくことはできる。
なら。
「きゅ」
俺は小さく鳴いた。
行きます。
ただし、できれば安全にお願いします。
リリアは安心したように微笑んだ。
「ありがとう、ノア」
アリアが即座に言う。
「ただし、ノアは聖女様が抱いてください。司祭長の聖力には反応が強い。私が周囲を警戒します」
「分かりました」
リリアが俺を抱き上げる。
聖属性が近い。
でも、司祭長よりはまし。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:68% → 69%
---
また増えた。
保管庫に行くだけで、第一進化が近づいていく。
このペース、本当に大丈夫か。
いや、大丈夫ではない。
だが止まらない。
◇
管理印保管庫は、神殿の中央棟の奥にあった。
人目につきにくい廊下。
厚い扉。
扉の左右には、二人の守衛。
壁には聖印。
床にも細かい浄化文様が刻まれている。
俺にとっては、近づくだけで体がぞわぞわする場所だった。
---
高濃度聖域に接近しています。
注意:長時間滞在を避けてください。
---
でしょうね。
見た目からして危険そうです。
俺はリリアの腕の中で小さく丸まった。
「ノア、大丈夫ですか?」
「きゅ……」
大丈夫ではないですが、まだ生きています。
アリアが守衛に声をかける。
「司祭長の許可だ。保管庫を開ける」
守衛たちは緊張した顔で頷いた。
一人が鍵を取り出し、もう一人が扉の聖印に手をかざす。
白い光が走り、重い鍵の音が響いた。
扉が開く。
中は小さな部屋だった。
棚が並び、箱が置かれ、ひとつひとつに管理札が付いている。
金属製の封印具。
古い鍵。
聖印入りの札。
儀式用の小道具。
神殿の裏方感が強い。
俺は鼻を動かした。
金属。
紙。
古い木。
聖属性。
そして、ほんの少しだけ。
黒い、嫌な匂い。
影尾鼠に付いていた金属片と同じ匂い。
危険察知が反応する。
---
危険察知:微反応
対象:右奥の棚
危険度:低
備考:異物の痕跡あり。
---
右奥。
俺はリリアの腕から身を乗り出した。
「きゅ」
アリアがすぐ気づく。
「右奥ですね」
伝わるのが早い。
最近のアリアは、俺の鳴き声と視線だけでかなり理解してくる。
ありがたい。
同時に、俺が普通の小動物ではないことの証明にもなっている。
困る。
俺たちは右奥の棚へ向かった。
そこには小さな金属片が並ぶ箱があった。
管理札には、封印補助具と書かれている。
アリアが箱を確認する。
「一つ、欠けています」
司祭長が目を細める。
「記録上は、昨日まで数が揃っていたはずです」
つまり、ここから持ち出された。
俺は箱の隅を見た。
木箱の角。
そこに、ほんの少し黒い粉のようなものが付いている。
危険察知が微かに震える。
「きゅ」
俺はその方を見た。
アリアが布を取り出し、黒い粉を慎重に取る。
「これは……鼠の毛ではありません。炭?」
司祭長が顔を近づける。
「いや、焦げた聖印紙の粉かもしれません」
焦げた聖印紙。
俺には分からない。
だが、嫌な匂いはそこから出ていた。
司祭長は静かに言った。
「封印具を持ち出す際、聖印紙の封を焼いた可能性があります」
「つまり、正規の手順ではなく?」
「ええ」
アリアの表情がさらに険しくなる。
「保管庫に入れる者が、わざわざ封を壊して持ち出した」
「もしくは、入ってはいけない者がここに入った」
どちらにしても内部犯の可能性が高まる。
俺はリリアの腕の中で、嫌な気配を追った。
箱。
棚。
床。
扉。
そこで、匂いが切れている。
いや、扉の方に少し残っている。
俺は扉の下を見た。
「きゅ」
アリアがしゃがみ込む。
扉の下の隙間。
そこに、細い傷があった。
「これは……」
アリアが指でなぞる。
「外から細い道具を差し込んだ跡?」
司祭長の顔が険しくなった。
「鍵を持たずに開けた可能性がありますな」
守衛たちが青ざめる。
「そんな、我々は何も……!」
司祭長は手で制した。
「まだ責めているわけではありません」
でも、空気は重い。
誰かが保管庫を開けた。
封印具を持ち出した。
それを影尾鼠に付けた。
リリアを狙わせた。
かなり繋がってきた。
その時、危険察知が急に強く反応した。
場所は、保管庫の中。
棚の上。
小さな箱の陰。
何かが動いた。
---
危険察知:中反応
対象:封印具の箱裏
危険度:中
警告:小型魔性生物
---
いる。
まだいる。
俺は全身の毛を逆立てた。
「きゅっ!」
アリアが即座に剣を抜く。
「下がってください!」
箱の裏から、黒い影が飛び出した。
鼠ではない。
もっと細い。
虫のような体。
小さな爪。
黒い羽。
ステータス画面が出る。
---
対象:封虫
危険度:中
特徴:封印具や聖印紙に潜み、聖力を弱める。
注意:潰すと黒い粉を撒き散らします。
---
潰すと黒い粉。
つまり、さっきの粉はこいつのせいか。
封虫は棚から飛び、リリアの方へ向かってきた。
俺の危険察知が叫ぶ。
リリア。
狙われている。
アリアが剣を振る。
だが、封虫は小さく、速い。
刃を避け、空中を不規則に飛ぶ。
神官が聖印を向ける。
白い光が走るが、封虫はその光を嫌がりつつも、完全には止まらない。
俺はリリアの腕の中で息を呑んだ。
動くな。
俺は動くな。
危ない。
また飛び出したら、今度こそどうなるか分からない。
だが、封虫はリリアの顔に向かって飛んだ。
小さな黒い点。
でも、嫌な気配が濃い。
俺の体が、また勝手に動いた。
「きゅっ!」
リリアの腕から飛び出す。
「ノア!」
空中。
封虫。
届かない。
俺の前足では届かない。
だが、その瞬間、頭の突起がまた熱くなった。
リリアの聖力。
保管庫の聖印。
封虫の黒い魔性。
それらが、俺の中でぶつかった。
ステータス画面が開く。
---
聖属性と魔性反応の同時接触を確認しました。
固有特性:浄化適性が発動します。
第一進化予兆が加速します。
---
またか。
また加速か。
もう少しゆっくりでお願いします。
俺は空中で、封虫に向かって前足を伸ばした。
届かない。
しかし頭の小さな角から、ぱちん、と白い火花が散った。
昨日より大きい。
影尾鼠をひるませた時より、はっきりしている。
白い火花は封虫に当たり、黒い羽を焦がした。
「ギィッ!」
封虫が落ちる。
アリアがすかさず布で包み、押さえ込む。
潰さない。
黒い粉を撒き散らさないためだ。
完璧な対応だった。
俺はそのまま床に落ちた。
ぽふん。
……とはいかなかった。
着地に失敗して、ころんと転がる。
---
能力:よく転がる が発動しました。
落下衝撃を軽減しました。
---
ありがとう、よく転がる。
最近、俺の命の大半は転がることで守られている。
リリアが駆け寄る。
「ノア!」
俺は床の上で伏せていた。
頭が熱い。
体の奥が震えている。
危険察知が収まり、代わりに進化ゲージが動く感覚があった。
---
封虫への対処に成功しました。
聖属性接触を確認しました。
消滅判定……失敗。
変質判定……成功。
進化ゲージ:69% → 82%
身体変化:頭部硬質突起がさらに成長しました。
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
---
八十二%。
増えすぎ。
本当に増えすぎ。
だが、それより少しだけ安心した。
まだ進化は始まらない。
ゲージは八十%を超えた。
頭の突起も伸びている。
それでも、三日間生存の条件がまだ満たされていないらしい。
つまり今の俺は、ゲージだけが進んで、体が先に予兆を出している状態だ。
よかった。
いや、よくない。
全然よくない。
進化が始まらないだけで、見た目は順調におかしくなっている。
周囲が静まり返っている。
リリア。
アリア。
司祭長。
守衛。
神官。
全員が俺の頭を見ている。
見ないで。
そこまで見ないで。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
ただの珍しい小動物です。
たぶん。
もう厳しいですか?
リリアが俺をそっと抱き上げた。
今回は、頭に触れないように本当に慎重だった。
その手が少し震えている。
「ノア……また無茶をして」
「きゅ……」
すみません。
体が動きました。
アリアは封虫を布で包んだまま、低い声で言った。
「これは、偶然保管庫にいたわけではありません」
司祭長が頷く。
「封虫は封印具や聖印紙に潜み、聖力を弱める魔性生物です。自然に神殿内部へ入り込むことは、まずありません」
「誰かが仕込んだ」
「ええ」
内部犯疑惑が、さらに強まった。
リリアを狙う影尾鼠。
保管庫の封虫。
壊された浄化印。
持ち出された管理印。
神殿の中に、明確な悪意がある。
俺はリリアの腕の中で震えた。
疲れたのもある。
怖いのもある。
そして何より、自分の体が進化に近づきすぎているのが怖い。
このままだと、ゲージはすぐに百%へ届く。
けれど、三日間生存の条件はまだ残っている。
満たされるまで、俺の体はどこまで予兆を出すのだろう。
頭の角だけで済むのか。
尻尾が増えたりしないか。
翼が出たりしないか。
頼む。
珍しい小動物でギリギリ通せる範囲にしてほしい。
リリアは俺を抱きしめたいのを我慢して、胸元ではなく腕の中でそっと支えた。
「ノア、すぐお部屋に戻りましょう」
「きゅ……」
はい。
戻りたいです。
ものすごく。
司祭長は重々しく言った。
「保管庫を封鎖します。出入りした者を再確認しなさい」
「はっ」
「それと、リリア様の周囲をさらに固めます」
アリアが頷く。
「私が常時つきます」
常時。
俺は少し安心した。
アリアがいるのは怖い。
でも、リリアを守るという意味では、この上なく頼もしい。
司祭長は俺を見た。
「ノア」
「きゅ……」
「あなたには、また助けられましたな」
また。
まただ。
俺の肩書きに「また助けた珍生物」が追加されそうだ。
司祭長は静かに続けた。
「しかし、その体への負担も大きい。しばらくは休ませるべきでしょう」
それ。
それです。
俺は全力で頷きたくなった。
だが、頷く元気がない。
小さく鳴くだけだった。
「きゅ」
休ませてください。
今度こそ本当に。
◇
リリアの部屋に戻ると、俺はかごに入れられた。
毛布はさらに増えた。
昨日から増え続けている。
このままだと、俺のかごだけ高級宿のベッドみたいになりそうだ。
悪くない。
いや、かなり良い。
だが、頭の突起が邪魔だった。
丸くなると、毛布に当たる。
角っぽいものが、存在を主張してくる。
俺は少し姿勢を変えた。
横向きになる。
これなら当たりにくい。
リリアはかごの横に座り、心配そうに俺を見ていた。
「ノア、痛くないですか?」
「きゅ」
痛くはないです。
ただ、いろいろ怖いです。
「今日は本当に、たくさん頑張りましたね」
頑張った。
そうかもしれない。
朝食の確認。
司祭長への報告。
保管庫。
封虫。
そして進化ゲージ八十二%。
これを一日でやるのは、珍生物には過酷すぎる。
リリアは俺を撫でたいのを我慢している。
手が何度か動きかけて、そのたびに止まる。
俺は少しだけ申し訳なくなった。
撫でられると進化ゲージが上がる。
聖属性が刺激になる。
危険もある。
でも、リリアが俺を大切にしてくれているのは分かる。
俺はかごの中から、そっと前足を伸ばした。
リリアの指先に、軽く触れる。
ちり。
刺激。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:82% → 83%
---
触っただけで増えた。
もう止まらない。
でも、俺は前足を引っ込めなかった。
「きゅ」
大丈夫です。
少しだけなら。
リリアは目を丸くした後、泣きそうに笑った。
「ノアは、優しいですね」
アリアが横で静かに言った。
「聖女様。短時間だけです」
「はい」
アリアも止めなかった。
ただ、時間を区切った。
そのくらいなら許してくれるらしい。
リリアは俺の前足に指をそっと添えた。
撫でるのではなく、ただ触れるだけ。
温かい。
ちりちりする。
でも、嫌ではなかった。
俺は目を閉じた。
ステータス画面が、薄く浮かぶ。
---
進化ゲージ:83%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
第一進化まで、あと17%
予兆:進行中
注意:ゲージが100%に到達しても、条件達成までは完全進化しません。
---
そういう仕様らしい。
ゲージが先に満ちても、三日間生存するまでは完全進化しない。
つまり俺は、進化寸前のまま、この状態を耐えなければならない。
安心したような。
さらに不安が増えたような。
どちらかと言えば、後者だ。
リリアが気づく。
「ノア?」
「きゅ……」
何でもありません。
いや、何でもあります。
でも言えません。
アリアは俺をじっと見ていた。
たぶん、俺の様子が普通ではないことに気づいている。
だが、今は何も言わなかった。
部屋の外では、神殿内の調査が続いている。
誰かが浄化印を壊した。
誰かが魔性生物を使った。
誰かがリリアの近くに危険を置いた。
その誰かは、まだ見つかっていない。
敵は近い。
俺の進化も近い。
どちらが先に来るのか。
考えたくない。
しかし、危険察知は静かに震えている。
まだ終わっていない。
むしろ、ここからだ。
俺はリリアの指先に前足を添えたまま、小さく鳴いた。
「きゅ」
聖女様。
俺はまだ弱いです。
でも、もう少しだけなら。
あなたのそばで、転がってみます。
それが守るということなのかは、まだ分からない。
けれど、今の俺にできることは、それくらいだった。




