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第11話 聖女様、珍生物にも休暇をください

 俺は、休むことになった。


 ようやく。


 本当にようやくである。


 リリアの部屋。


 ベッドの横に置かれた俺専用のかご。


 その中には、柔らかい毛布が何枚も敷かれている。


 最初はただの小さな寝床だったはずなのに、事件が起きるたびに一枚ずつ増えていった。


 黒牙鼠と戦って一枚。


 腐食鼠と出会って一枚。


 影尾鼠に突っ込んで一枚。


 封虫を落として、さらに一枚。


 俺のかごは今、もはや珍生物用の寝床ではなく、戦功に応じて増築される勲章置き場みたいになっている。


 ふかふかだ。


 かなりふかふかだ。


 ありがたい。


 ただ、俺としては毛布より平和が欲しい。


 ステータス画面が薄く浮かぶ。


---


進化ゲージ:83%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


第一進化まで、あと17%


予兆:進行中


身体変化:頭部硬質突起


---


 八十三%。


 数字だけ見ると、もうかなり進んでいる。


 あと少しだ。


 でも、完全進化にはまだ時間条件が残っている。


 聖女のそばで三日間生存する。


 その条件が満たされるまでは、ゲージが百%に達しても進化しないらしい。


 つまり俺は今、進化寸前のまま待たされている。


 ゲージはどんどん溜まっている。


 体の変化も、もう始まっている。


 なのに、三日間生存の条件が満たされるまでは完全には進化できない。


 止まっているようで、止まっていない。


 やめてほしい。


 せめて、止まるならちゃんと止まってほしい。


「ノア、楽な姿勢で寝られていますか?」


 リリアがかごの横に座って、心配そうに俺を覗き込んだ。


「きゅ」


 まあまあです。


 頭の角っぽいやつが邪魔ですが。


 俺は毛布の上で横向きになっていた。


 丸くなると、頭の硬質突起が毛布に当たる。


 こつん、と音がする。


 それが地味に嫌だった。


 自分の頭から硬い音がする生活。


 前世ではなかった。


 いや、普通ない。


 リリアは俺の頭をじっと見つめる。


「個性、少し大きくなりましたね」


 とうとう寝癖ではなく、個性で固定された。


 進歩なのか、後退なのか分からない。


 アリアは扉の近くで腕を組んでいた。


「聖女様。それはもう個性という言葉で済ませるには無理があります」


「では、立派な個性です」


「大きくすればよいわけではありません」


「ノアの大切な一部ですから」


 リリアはそう言って、俺の頭には触れず、かごの縁にそっと手を置いた。


 触れない距離。


 でも、近くにいる距離。


 ちり、と微かな刺激が走る。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:83% → 84%


---


 近いだけで増える。


 もう俺は、リリアのそばにいるだけで少しずつ進化へ近づいている。


 逆に言えば、リリアのそばにいるだけで普通の珍生物から遠ざかっている。


 困る。


 かなり困る。


 だが、離れたいかと言われると、それも違った。


 リリアのそばは危険だ。


 聖属性が地味に刺さる。


 善意で消されかける可能性もある。


 だが、それでも森でひとり黒狼に追われるよりはずっといい。


 あの時、リリアが拾ってくれなかったら、俺はもう生きていなかったかもしれない。


 そう考えると、危険な膝の上でも、処刑場みたいな神殿でも、ここは俺の居場所になりつつあった。


「今日はもう、何もしなくていいです」


 リリアが静かに言った。


「休むことだけ、頑張ってください」


「きゅ……」


 それなら頑張れそうです。


 というか、そういう頑張りだけでお願いします。


 アリアも頷く。


「聖女様の言う通りです。ノアは連日の接触で負担が大きい。今日は部屋から出さない方がいいでしょう」


 アリアさん。


 今日のあなたは最高です。


 俺は心の中で深く頭を下げた。


 実際に頭を下げると、角が毛布に当たりそうなのでやめた。


「リリア様もです」


 アリアが続けた。


「今日は部屋から出る予定を最小限にします。治癒も、緊急性の高いもの以外は延期してください」


「分かりました」


 リリアは素直に頷いた。


「神殿の調査が落ち着くまでは、私が動くことで周りに迷惑をかけてしまうかもしれませんから」


 その言い方は少し悲しい。


 リリアは人を助けたいだけなのに。


 それを利用しようとする誰かがいる。


 孤児院に魔性生物が入り込んだのも、リリアが大切にしている場所だからかもしれない。


 もしそうなら、本当に性格が悪い。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 俺は彼女の手に、そっと前足を伸ばした。


 触れない。


 触れるとゲージが増える。


 でも、近づけるだけ。


 リリアは少し驚いた後、柔らかく笑った。


「心配してくれているのですね」


 そうです。


 たぶん。


 アリアはそれを見て、小さく息を吐いた。


「……本当に、どこまで理解しているのか」


 かなり理解しています。


 ただ、鳴けるだけです。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 アリアは目を細める。


「今のは、何か言い返したように見えました」


「気のせいです」


 リリアが即答した。


「ノアはいい子なので」


「いい子でも言い返すことはあります」


「ノアは控えめに言い返す子です」


「認めるのですか」


 部屋に、少しだけいつもの空気が戻った。


 俺は毛布に顎を乗せる。


 やっと休める。


 今度こそ、何も起きるな。


 俺はそう願った。


 だが、異世界は俺に優しくなかった。


     ◇


 昼前。


 リリアの部屋に、司祭長からの伝言が届いた。


 持ってきたのは、昨日からリリアの部屋の出入りを許可されている侍女の一人だった。


 アリアが扉の前で伝言を受け取り、内容を確認する。


「司祭長からです。保管庫の封虫について追加調査を進めるため、神官長と備品係を一時的に取り調べるとのこと」


 取り調べ。


 俺は耳を動かした。


 だんだん話が本格的になってきた。


 陰謀というか、事件である。


 低級魔物の俺が、かごの中で聞くには重い話だ。


「神官長もですか?」


 リリアが少し驚いたように言う。


「保管庫に出入りできる立場ですから」


 アリアは淡々と答えた。


「もちろん、疑いがあると決まったわけではありません。ですが、確認は必要です」


「そうですね」


 リリアは目を伏せた。


 神官長がどんな人物なのか、俺はまだよく知らない。


 名前だけは聞いた。


 保管庫に入れる者の一人。


 神殿の管理に関わっている者。


 つまり、今回の事件に関われる立場にいる。


 それだけで怪しく見える。


 だが、推理ものなら怪しく見える人物ほど犯人ではないことも多い。


 俺は探偵ではない。


 転がる珍生物だ。


 犯人探しは人間側に任せたい。


 侍女が小さな盆を持っていた。


「聖女様。昼食の前に、お茶をお持ちしました」


 アリアの目が鋭くなる。


 侍女は慌てて言った。


「もちろん、確認済みです。厨房でも、廊下でも、私が目を離しておりません」


「こちらで再確認します」


「はい」


 アリアは茶器を受け取ると、机に置いた。


 匂いを見る。


 茶器の裏を見る。


 茶托を見る。


 布の下を見る。


 徹底している。


 リリアは少し申し訳なさそうに侍女を見た。


「手間をかけてしまってごめんなさい」


「とんでもありません。聖女様の安全が第一ですから」


 侍女はそう言った。


 その表情に嘘はなさそうだった。


 少なくとも、俺にはそう見えた。


 だが、危険察知は表情を見抜くスキルではない。


 俺はかごの中から茶器を見る。


 危険反応はない。


 今のところ、何も感じない。


 アリアが俺を見る。


「ノア」


「きゅ」


 大丈夫そうです。


 俺は小さく鳴いた。


 アリアは頷く。


「反応なし」


 やめて。


 やっぱり検査機みたいになっている。


 リリアが苦笑する。


「ノアに確認してもらうのは、少し変な気分ですね」


「ノアが嫌なら無理にはさせません」


 アリアが言う。


「きゅ」


 嫌です。


 わりと。


 リリアが俺を見た。


「嫌そうです」


「……そうですね」


 アリアが認めた。


 認めたうえで、茶器を少し離した。


「では、確認は最小限にします」


 ありがたい。


 俺は尻尾を少しだけ動かした。


 その時だった。


 危険察知が、ぴり、と小さく震えた。


 茶器ではない。


 侍女でもない。


 扉の向こう。


 廊下のさらに先。


 足音。


 複数。


 その中に、嫌な気配が一つ混ざっている。


 俺の耳が立った。


 アリアが即座に反応する。


「ノア?」


「きゅ……」


 俺は扉の方を見た。


 リリアも表情を引き締める。


「何か来るのですか?」


「分かりません」


 アリアは剣に手を置いた。


 扉の外から足音が近づいてくる。


 重い靴音。


 軽い靴音。


 布が擦れる音。


 そして、誰かが荒く息をしている音。


 扉が叩かれた。


「アリア殿!」


 神官兵の声だ。


「何事です」


 アリアが扉を少しだけ開ける。


 外には神官兵が二人立っていた。


 その後ろに、青ざめた若い神官がいる。


 手には何かを包んだ布。


 危険察知が、その布に反応した。


---


危険察知:中反応


対象:布包み


危険度:低〜中


備考:魔性残留物を含みます。


---


 魔性残留物。


 またか。


 本当に休ませる気がない。


 俺はかごの中で小さく呻いた。


「きゅう……」


 リリアが心配そうに俺を見る。


「ノア?」


 神官兵が言う。


「保管庫の外廊下で、これが見つかりました。司祭長に届ける途中でしたが、ノアが反応するか確認をと」


 俺に確認をと。


 とうとう正式に危険物確認係になってしまった。


 嫌だ。


 非常に嫌だ。


 アリアの表情が険しくなる。


「ノアは休ませるよう司祭長も言っていたはずです」


「ですが、司祭長が、もしノアが強く反応するならリリア様の周辺にも関わる可能性があると」


 司祭長。


 あの人、俺をかなり有用な珍生物として見始めている。


 怖い。


 リリアは少し迷った後、俺の前にしゃがんだ。


「ノア、無理ならしなくていいです」


「きゅ……」


 そう言われると、無視しづらい。


 布包みからは確かに嫌な気配がする。


 そして、その嫌な気配の奥に、昨日の影尾鼠や封虫と同じ匂いがあった。


 つまり、事件の手がかりかもしれない。


 俺はかごからゆっくり顔を出した。


 アリアが布包みを床に置かせる。


「開けます。聖女様は下がってください」


 リリアが少し離れる。


 アリアが布をそっと開いた。


 中に入っていたのは、小さな金属片だった。


 黒く焦げたような色。


 端には細い糸。


 影尾鼠についていたものと似ている。


 だが、今回はそれだけではない。


 金属片の中央に、小さな紋章が刻まれていた。


 俺にはそれが読めない。


 文字ではなく、模様だからだ。


 しかし、リリアが息を呑んだ。


「それは……」


 アリアの表情も変わった。


「神官長の管理紋?」


 神官長。


 さっき話に出た人物だ。


 保管庫に入れる立場にある者。


 その管理紋が、魔性残留物のある金属片に刻まれている。


 怪しすぎる。


 逆に怪しすぎる。


 俺は思わず耳を伏せた。


 これ、罠では?


 こんな分かりやすく証拠が残るものなのか?


 アリアも同じことを考えたのか、すぐには断定しなかった。


「本物ですか」


 神官兵が答える。


「確認中です。ただ、形は一致しています」


 若い神官が震えた声で言った。


「神官長様が、そんなことをするはずが……」


 部屋の空気が重くなる。


 リリアは静かに金属片を見つめていた。


 悲しげだが、混乱はしていない。


「証拠として、あまりに分かりやすすぎます」


 リリアが言った。


 俺はリリアを見た。


 同じことを思っていた。


 この聖女、やっぱりただふわふわしているだけではない。


 アリアも頷く。


「私もそう思います。神官長を陥れるためのものかもしれません」


「では、司祭長に慎重に調べてもらいましょう」


「はい」


 よかった。


 すぐに神官長が犯人扱いされるわけではなさそうだ。


 俺は少しだけ安心した。


 だが、危険察知はまだ収まらない。


 金属片ではない。


 布でもない。


 若い神官。


 いや、その袖口。


 そこから、ほんの微かに同じ匂いがする。


 俺はその神官を見た。


 若い。


 顔色が悪い。


 震えている。


 おそらく、本気で怯えている。


 だが、その袖に、何か付いている。


 黒い粉。


 封虫の粉に似たもの。


「きゅ」


 俺は小さく鳴いた。


 アリアが即座に振り向く。


「ノア?」


 俺は若い神官の袖を見る。


 アリアもそこを見る。


「あなた、袖を見せなさい」


「え?」


 若い神官がびくっとする。


「袖です」


「は、はい」


 彼はおそるおそる袖を出した。


 そこには、黒い粉がほんの少し付いていた。


 神官兵の一人が目を見開く。


「お前、それは」


「ち、違います! 私は何もしていません!」


 若い神官は慌てて首を振った。


 その声は本気で怯えている。


 嘘をついているというより、自分でも分かっていない様子だった。


 アリアは冷静に言う。


「どこで付いたか覚えていますか」


「わ、分かりません。ただ、保管庫の外廊下でこれを拾って、それで……」


「その時に付いた可能性もあります」


 アリアはすぐに神官兵へ指示を出した。


「彼を責めるな。ただし、しばらく保護して話を聞け。袖の粉も保存すること」


「はっ」


 若い神官は青ざめたまま連れて行かれた。


 俺はかごの中で息を吐く。


 また見つけてしまった。


 休むはずだったのに。


 リリアが俺を見る。


「ノア……」


「きゅ……」


 休暇とは。


 俺の心の中の声は、たぶん鳴き声ににじんでいた。


 リリアは申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい。休ませると言ったのに」


「きゅ」


 リリアのせいではありません。


 たぶん。


 この神殿が事件を起こしすぎです。


 アリアは金属片を包み直した。


「聖女様。この件で、神官長が直接犯人だと決めるのは危険です」


「はい。私もそう思います」


「むしろ、神官長へ疑いを向けたい者がいる可能性があります」


 リリアは頷いた。


「誰かを悪者にするために、私の周りを危険にしている……」


 そこまで言って、リリアは言葉を止めた。


 アリアは静かに言う。


「聖女様。あなたは悪くありません」


「……でも、私が孤児院に通っていなければ、狙われなかったかもしれません」


「違います。悪いのは、孤児院を狙った者です」


 アリアの声は強かった。


「聖女様が助けようとしたことを、悪意ある者が利用しただけです」


 リリアは黙った。


 俺はかごから出ようとした。


 だが、頭の角が毛布に引っかかった。


 こつん。


 動けない。


 情けない。


 俺は小さくもがいた。


「きゅっ、きゅ」


 リリアが気づいて、そっと毛布を直してくれた。


「大丈夫ですか?」


「きゅ……」


 大丈夫です。


 角が邪魔です。


 俺はかごから前足だけ出し、リリアの方を見た。


 この子は、自分を責めそうになっている。


 それは違う。


 違うと言いたい。


 でも、俺は鳴けるだけだ。


 だから、できることをする。


 俺は前足を伸ばし、リリアの指先に軽く触れた。


 ちり。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:84% → 85%


---


 また増えた。


 だが今は、それよりリリアに触れたかった。


 大丈夫です。


 あなたのせいではありません。


 そう伝えたかった。


 リリアは俺を見て、目を細める。


「ノア……慰めてくれているのですか?」


「きゅ」


 はい。


 たぶん。


 リリアは少しだけ泣きそうに笑った。


「ありがとうございます」


 アリアは俺たちを見て、静かに息を吐いた。


「……本当に、聖女様に甘いですね」


 そうかもしれない。


 自覚はある。


 俺はリリアに甘い。


 なぜなら、この人が俺を拾ったから。


 魔物の俺を、猫かどうか怪しい珍生物として、それでも大切にしてくれたから。


 理由としては、それで十分だった。


     ◇


 その日の午後、リリアの部屋は半分だけ作戦室のようになった。


 司祭長から届く報告。


 アリアの指示。


 神官兵の出入り。


 安全確認済みの茶器。


 そして、その中央で横になっている俺。


 俺だけ場違いだった。


 かごの中の珍生物が、事件の重要参考人みたいに扱われている。


 いや、参考人ではない。


 参考珍生物か。


 嫌な肩書きだ。


 報告によると、神官長は取り調べに応じているらしい。


 本人は関与を否定。


 保管庫に入った記録はあるが、それは通常業務。


 管理紋付きの金属片については、紛失の覚えはない。


 若い神官の袖についた黒い粉は、拾った布包みから付着した可能性が高い。


 つまり、まだ犯人は分からない。


 ただ、誰かが神官長を犯人に見せようとしている可能性が出てきた。


 俺はかごの中で耳だけ動かしていた。


 寝たい。


 でも、話が気になる。


 人間だった頃、職場のトラブルに巻き込まれた時も、こういう感じだった。


 自分の担当ではない。


 できれば関わりたくない。


 でも、自分に被害が来そうだから気になる。


 今回は職場どころか命がかかっている。


 しかも俺は人間ではない。


 珍生物だ。


 前世より状況が悪化している。


「ノア、眠れませんか?」


 リリアが小声で言った。


「きゅ」


 眠れません。


 騒がしいです。


 あと、危険察知がずっと小さく震えています。


 アリアが報告書から顔を上げる。


「まだ何か感じますか」


「きゅ……」


 はい。


 でも、場所が分かりません。


 危険察知は便利だ。


 だが、万能ではない。


 ぼんやり嫌な雲があることは分かる。


 しかし、どこで雨が降るかまでははっきりしない。


 今も、神殿のどこかに嫌な気配が残っている。


 でも、それが誰なのか、何なのかは分からない。


 リリアは少し考えた後、俺のかごを自分の椅子の近くに寄せた。


「少しだけ、近くにいますね」


「きゅ」


 ありがとうございます。


 近いと聖属性が増えますけど。


 でも、安心します。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:85% → 86%


---


 また増えた。


 もう九十%が近い。


 俺の頭の硬質突起は、朝よりも明らかに伸びている。


 アリアがちらりと見る。


 リリアも見る。


 そして、二人とも何も言わなかった。


 気を遣われている。


 それはそれでつらい。


 いっそ「角ですね」と言われた方が楽かもしれない。


 いや、やっぱり嫌だ。


 個性でお願いします。


 しばらくすると、部屋に司祭長が戻ってきた。


 彼は少し疲れた顔をしていた。


「リリア様。神官長への聞き取りが終わりました」


「どうでしたか」


「現時点では、犯人と断定する材料はありません」


 リリアはほっとしたように息を吐いた。


「よかった……」


「ただし、管理紋が使われた理由は不明です。本人の知らぬところで持ち出されたか、複製された可能性があります」


「複製できるものなのですか?」


 アリアが問う。


「簡単ではありません。しかし、神殿の内部構造に詳しい者なら不可能ではない」


 内部構造に詳しい者。


 また範囲が広がった。


 神殿内の誰か。


 管理印に近づける誰か。


 保管庫を開けられる、あるいは開け方を知っている誰か。


 リリアの行動予定を知っている誰か。


 かなり近い。


 敵が近い。


 俺の危険察知が、また小さく震えた。


 今度は、司祭長の持っている書類の束。


 いや、その中の一枚。


 俺は顔を上げる。


「きゅ」


 司祭長がすぐに気づいた。


「この書類ですかな?」


 この人もだいぶ俺の扱いに慣れてきている。


 司祭長は書類を机に置き、一枚ずつ広げた。


 危険察知が、ある一枚で少しだけ強くなる。


 それは、リリアの予定表だった。


 今日から数日分の予定。


 面会。


 祈祷。


 施療。


 孤児院訪問。


 そこに、赤い印がついている。


 いや、赤ではない。


 黒っぽく変色した小さな点。


 紙の端。


 普通なら見逃すような汚れ。


---


危険察知:微反応


対象:予定表の端


危険度:低


備考:封虫の粉と同質の反応。


---


 封虫の粉。


 俺は予定表の端を見つめた。


「きゅ」


 アリアが紙を持ち上げる。


「ここですか」


 俺は小さく鳴く。


「きゅ」


 司祭長の顔が険しくなった。


「リリア様の予定表に、封虫の粉が付着している……」


 リリアの予定表。


 誰が見られる?


 誰が触れる?


 リリア本人。


 アリア。


 侍女。


 司祭長。


 予定管理をする神官。


 そして、神官長か。


 アリアが低い声で言った。


「聖女様の行動予定が、犯人に渡っていた可能性があります」


 空気が冷える。


 リリアが静かに予定表を見つめた。


「だから、私が孤児院に行く日も、浄化印を修復する時間も分かったのですね」


「その可能性が高いです」


 アリアの声は固かった。


 司祭長はすぐに言う。


「予定表の管理に関わった者を調べます」


「お願いします」


 リリアは静かに頷いた。


 俺はかごの中で尻尾を丸める。


 また見つけた。


 また事件が進んだ。


 そして俺の休暇はまた消えた。


 ステータス画面が開く。


---


危険反応の特定に成功しました。


保護対象に関わる危険の追跡を確認しました。


進化ゲージ:86% → 90%


---


 九十%。


 とうとう九十%。


 第一進化まで、あと十%。


 だが条件はまだ未達。


 俺は完全進化できないまま、予兆だけを抱えて進んでいる。


 その瞬間、頭の硬質突起がじん、と熱を持った。


「きゅっ……」


 思わず声が漏れる。


 リリアがすぐに反応する。


「ノア!」


 アリアもかごに近づく。


「どうしました」


 俺は頭を低くした。


 痛いほどではない。


 でも、熱い。


 体の奥で何かが膨らむような感覚。


 毛並みがざわざわする。


 尻尾の先がむずむずする。


 ステータス画面が震えるように表示された。


---


進化ゲージ:90%


第一進化予兆:後期段階へ移行


身体変化が進行します。


注意:外見変化が目立ち始めます。


---


 やめろ。


 目立ち始めないで。


 俺は今、ただでさえ怪しいのだ。


 これ以上の外見変化は危険すぎる。


 リリアが心配そうに俺を見ている。


「ノア、痛いですか?」


「きゅ……」


 痛くはないです。


 でも、たぶん変わっています。


 アリアが俺の尻尾を見た。


「……尻尾の先に、模様が出ています」


 はい?


 俺は固まった。


 尻尾?


 頭だけではなく?


 リリアが俺の尻尾をそっと見た。


 触らないように、かなり慎重に。


「あら……白い毛の中に、銀色の線がありますね」


 銀色の線。


 新要素。


 やめて。


 どんどん珍しい小動物から離れていく。


 アリアは低く言う。


「聖女様。これはもう、成長期では説明できません」


「では、模様が出る成長期です」


「新しい逃げ道を作らないでください」


「ノアが怖がらないように」


 リリアの声は優しかった。


 アリアは言葉を止めた。


 俺も止まった。


 リリアは俺を騙しているわけではない。


 彼女自身、本当に前向きに受け止めようとしている。


 俺が怖がらないように。


 周りが怖がらないように。


 変化を否定しないように。


 だから、寝癖や個性や成長期という言葉を選んでいる。


 もちろんズレている。


 かなりズレている。


 でも、そのズレは優しさでもある。


「ノア」


 リリアは俺の目を見る。


「どんなふうに変わっても、ノアはノアです」


「きゅ……」


 その言葉は、少しだけずるい。


 俺は魔物だ。


 リリアはそれを知らない。


 知った時にも同じことを言えるのかは分からない。


 でも、今の言葉は嬉しかった。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 ありがとうございます。


 言葉にならない声で、そう返した。


     ◇


 夕方が近づく頃。


 神殿はさらに緊張していた。


 予定表に封虫の粉が付いていたことで、リリアの予定を管理していた者たちが調べられることになった。


 神官長だけではない。


 予定係。


 侍女長。


 伝令役。


 神官兵。


 疑いの輪は広がっていく。


 それは必要なことなのだろう。


 だが、リリアの顔は少し暗かった。


 自分の周囲の人たちが疑われている。


 それはやはりつらい。


 俺はかごの中で、頭と尻尾の違和感に耐えていた。


 進化ゲージ九十%。


 予兆後期。


 外見変化が目立ち始める。


 その通りだった。


 頭の角はもう、寝癖とは言いづらい。


 尻尾には銀色の線。


 毛並みも、白一色ではなく、光の加減で淡く輝いて見える。


 俺は自分の姿が見たくなかった。


 リリアは綺麗だと言いそうだ。


 アリアは異常だと言いそうだ。


 どちらも正しい。


 だから困る。


 その時、部屋の外が少し騒がしくなった。


 足音。


 低い声。


 誰かが言い争っている。


 危険察知が、ぴり、と反応した。


 今度は近い。


 かなり近い。


 俺は耳を立てた。


 アリアがすぐに剣へ手をかける。


「聖女様、下がってください」


「はい」


 扉の外から声が聞こえた。


「なぜ私が止められなければならない!」


 怒った男の声。


 リリアが目を見開く。


「神官長……?」


 神官長。


 今、疑われている人物。


 その本人が、リリアの部屋の前に来ている。


 俺の危険察知が、強くはないが、嫌な震え方をした。


---


危険察知:中反応


対象:扉の外


危険度:不明


備考:悪意と焦燥が混在しています。


---


 悪意と焦燥。


 つまり、完全な敵意だけではない。


 怒り。


 焦り。


 恐怖。


 そういうものが混ざっているのかもしれない。


 アリアが扉越しに言った。


「神官長。聖女様はお休み中です」


「私は犯人ではない! 聖女様に直接申し開きをさせていただく!」


 声は荒い。


 だが、どこか必死だった。


 リリアは立ち上がろうとする。


 アリアが止めた。


「聖女様」


「でも、このままでは」


「危険です」


「話を聞くだけです」


「扉越しに」


 アリアは譲らない。


 リリアは少し迷い、頷いた。


「分かりました」


 彼女は扉から少し離れた場所で、静かに言った。


「神官長。聞こえています。私はここにいます」


 扉の外の声が一瞬止まった。


「聖女様……私は、私はやっておりません。孤児院を危険に晒すなど、そのようなことは決して」


 声が震えている。


 俺は耳を澄ませた。


 危険察知は反応している。


 だが、それは神官長自身だけではない気がした。


 もっと別の何か。


 扉の外。


 神官長の足元。


 あるいは、彼の服。


 リリアが静かに言う。


「分かっています。まだ誰も、あなたが犯人だと決めてはいません」


「ですが、皆が私を疑っている!」


「だからこそ、落ち着いて話をしてください」


 リリアの声は柔らかかった。


 扉越しでも、人を落ち着かせる力がある。


 神官長の呼吸が少し静まる。


 その瞬間、俺の危険察知が鋭く鳴った。


---


危険察知:強反応


対象:神官長の衣服内


危険度:中〜高


警告:魔性反応が活性化します。


---


 衣服内。


 何か持っている。


 いや、仕込まれている?


 俺はかごから飛び出した。


「きゅっ!」


 アリアが振り向く。


「ノア!」


 俺は扉を見た。


 鳴く。


 必死に鳴く。


「きゅっ! きゅう!」


 伝われ。


 神官長本人ではない。


 たぶん、神官長に何か付いている。


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 アリアは一瞬で判断した。


「扉から離れてください!」


 その直後。


 扉の外で、神官長が叫んだ。


「何だ、これは……!」


 黒い光が、扉の隙間から漏れた。


 嫌な匂い。


 封虫。


 影尾鼠。


 腐食鼠。


 それらが混ざったような、濃い魔性の気配。


 神官長の悲鳴。


 神官兵の怒号。


 アリアが剣を抜く。


 リリアが息を呑む。


 俺のステータス画面が赤く光った。


---


危険反応が急上昇しました。


保護対象:リリア・セレスティア


危険度:高


警告:結界破りの魔性具が発動しています。


---


 結界破りの魔性具。


 最悪だ。


 扉の外で何かが発動している。


 リリアの部屋の聖なる守りを破るためのもの。


 神官長が持ち込んだのか。


 それとも、誰かに仕込まれたのか。


 分からない。


 ただ一つ分かる。


 休暇は終わった。


 俺は毛布から飛び出し、扉の方へ向かって走った。


 アリアが叫ぶ。


「ノア、下がりなさい!」


 無理です。


 今、下がったら。


 たぶん、リリアが危ない。


 俺の頭の角が熱を帯びる。


 尻尾の銀色の線が、淡く光る。


 進化ゲージ九十%。


 第一進化まで、あと十%。


 条件はまだ未達。


 だが、予兆はもう止まらない。


 扉の外から黒い光が広がる。


 俺は小さな体で、それに向かって飛び出した。


「きゅうっ!」


 聖女様。


 珍生物にも休暇をください。


 でも。


 今だけは、休んでいる場合ではなさそうです。

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