第12話 聖女様、珍生物を前線に出さないでください
黒い光が、扉の隙間から染み込んできた。
煙ではない。
水でもない。
だが、床を這うように広がるそれは、明らかにこちらへ向かっていた。
嫌な匂いがする。
腐った土。
焦げた紙。
古い血。
それに、封虫の粉をさらに濃くしたような、鼻の奥にこびりつく魔性の気配。
俺の危険察知が、頭の中でうるさいほど鳴っていた。
---
危険反応が拡大しています。
対象:結界破りの魔性具
危険度:高
保護対象:リリア・セレスティア
推奨行動:距離を取ってください。
---
距離を取れ。
そうしたい。
心の底からそうしたい。
だが、黒い光が向かっている先にはリリアがいる。
アリアは剣を抜き、すでにリリアの前に出ていた。
さすが護衛騎士。
判断が早い。
動きも速い。
俺と違って、転がらなくても戦える人だ。
「聖女様、壁際へ!」
「はい!」
リリアはすぐに下がった。
だが、部屋の中には聖印がある。
壁にも床にも、神殿の守りが刻まれている。
本来なら、魔性の気配など簡単に入ってこられないはずだ。
それなのに、黒い光は扉の隙間から少しずつ染み込んでくる。
結界破り。
名前の通り、守りを壊す道具らしい。
最悪だ。
この世界、鼠だけでも十分嫌だったのに、道具まで嫌な性能をしている。
扉の外では、神官長の声がしていた。
「違う! 私は知らない! こんなもの、私は――!」
神官兵たちの怒号。
何かが床に落ちる音。
金属が跳ねる音。
そして、黒い光がまた強くなる。
俺は扉へ向かって走っていた。
自分でも分からない。
なぜ走っている。
下がれと言われた。
危険察知も距離を取れと言っている。
俺は小さい。
弱い。
転がることと丸くなることくらいしかできない。
それなのに、足は止まらなかった。
黒い光がリリアへ届きそうになったからだ。
「ノア、戻りなさい!」
アリアの声。
戻りたい。
戻りたいです。
でも、今は無理です。
俺は黒い光の前へ飛び出した。
「きゅっ!」
鳴き声は情けない。
だが、体は前に出た。
黒い光が俺の前足に触れる。
ぞわり、と体の奥が冷えた。
聖属性とは違う。
熱いのではない。
冷たい。
体の輪郭が、外側からほどけるような気持ち悪さ。
---
魔性汚染に接触しました。
状態異常判定……発生。
固有特性:浄化適性が反応しています。
聖属性変換を試行します。
---
試行。
試行って何だ。
成功するか分からないということか。
やめてほしい。
俺の命で実験しないでほしい。
黒い光がさらに迫る。
俺の頭の硬質突起が熱を持つ。
尻尾の銀色の線が、淡く光った。
リリアが息を呑む音が聞こえる。
「ノア……!」
その声を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
頭の角から、白い火花が散る。
ぱちん。
小さな光。
だが、それは黒い光に触れた瞬間、じゅ、と音を立てて消えた。
足りない。
まったく足りない。
影尾鼠や封虫をひるませた時とは違う。
今度の相手は、光の量が多すぎる。
俺の小さな火花では、広がる黒い光を止めきれない。
黒い光が俺の体を包み込もうとした。
怖い。
普通に怖い。
俺は思わず丸くなった。
---
能力:丸くなる が発動しました。
魔性汚染の侵入を軽減します。
---
丸くなる。
いつものやつ。
でも、今度は牙を防ぐわけではない。
黒い光そのものが、毛の隙間から染み込んでくる。
気持ち悪い。
寒い。
体の中の何かが濁る。
「ノア!」
リリアが一歩前へ出ようとした。
アリアが即座に止める。
「聖女様、近づいてはいけません!」
「でも、ノアが!」
「今近づけば、聖女様が標的になります!」
アリアの判断は正しい。
俺でも分かる。
リリアが近づけば、黒い光はそちらへ向かう。
これはたぶん、リリアを狙うために仕掛けられたものだ。
俺は邪魔をしているだけ。
邪魔。
そうだ。
俺にできることは、すごい攻撃ではない。
強い浄化でもない。
ただ、リリアへ向かうものの前に転がること。
邪魔になること。
それだけだ。
俺は丸まったまま、黒い光の流れを受け止めた。
「きゅうううっ!」
鳴き声が漏れる。
情けない。
でも、止まらない。
頭の角が熱い。
尻尾の模様が熱い。
体の奥が、ぐるぐるとかき混ぜられている。
---
魔性汚染を受けています。
聖属性変換……進行中。
進化ゲージ:90% → 93%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
---
増えた。
また増えた。
こんな状況でもゲージは増える。
やめてほしい。
今は数字を見ている場合ではない。
扉の外で、アリアが叫んだ。
「神官兵! 神官長から離れろ! 衣服内の魔性具を落とせ!」
「はっ!」
外で慌ただしい音がする。
神官長の悲鳴。
何か布を引き裂く音。
そして、金属が床に落ちたような硬い音。
黒い光が一瞬だけ強まった。
俺の危険察知がさらに鋭く鳴る。
---
結界破りの魔性具が暴走しています。
危険度:高
警告:保護対象への侵食が発生します。
---
暴走。
最悪な単語の追加だ。
黒い光が床を這い、リリアの足元へ伸びようとする。
俺は丸まったまま、それを遮ろうとした。
だが体が小さい。
どう考えても面積が足りない。
珍生物一匹で防げる範囲には限界がある。
アリアが剣を床に突き立てた。
「聖女様!」
「はい!」
リリアが両手を胸の前で組む。
白い光が、彼女の周囲に集まり始めた。
まずい。
リリアが聖力を使う。
それは黒い光には効くかもしれない。
だが、俺には危険だ。
黒い魔性と、リリアの聖属性。
その両方に挟まれたら、俺はどうなる?
考えるまでもない。
たぶん、かなりまずい。
しかし、リリアの光がなければ黒い光は止まらない。
俺は心の中で叫んだ。
やるなら優しくお願いします。
できれば低出力で。
リリアは目を閉じ、静かに祈った。
「この部屋にいるすべての者を、傷つけるものから守ってください」
柔らかな白い光が広がった。
いつもの治癒とは違う。
地下倉庫で浴びた荒い光とも違う。
俺を直接焼くような強い浄化ではなく、部屋全体を包む守りの光。
それでも、俺には熱い。
黒い光は冷たい。
白い光は熱い。
冷たいものと熱いものに挟まれる。
俺は今、何だ。
温度差で壊れる小動物か。
---
聖属性防護結界に接触しました。
魔性汚染と聖属性が同時干渉しています。
消滅判定……発生。
固有特性:浄化適性が発動します。
変質判定……成功。
進化ゲージ:93% → 97%
---
九十七%。
もうほとんど限界だ。
だが、まだ完全進化は始まらない。
三日間生存条件が残っているから。
止まっているようで、止まっていない。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
黒い光と白い光が、俺の体の上でぶつかり合う。
痛みではない。
むしろ、体が作り替えられていくような気持ち悪さ。
頭の角が、さらに伸びる感覚があった。
尻尾の模様が広がる。
毛の奥に、淡い光が宿る。
俺は自分の体が変わるのを感じていた。
怖い。
でも、今はそれよりも。
リリアの足元へ黒い光が届かないことだけを考えた。
「きゅうっ!」
俺は丸まったまま、体を少しずらした。
黒い光の流れを塞ぐ。
ちょっとだけ。
本当にちょっとだけ。
でも、その一瞬でアリアが動いた。
彼女は扉を開け放ち、外へ飛び出す。
黒い光の源。
床に落ちた魔性具。
小さな黒い金属の輪。
そこへ剣の鞘を叩きつけた。
「砕くな! 封じろ!」
司祭長の声が廊下から響いた。
来ていたのか。
白い祭服が視界の端に見える。
司祭長は杖をかざし、落ちた魔性具に白い光を落とした。
黒い光が暴れる。
リリアの結界がそれを押さえる。
アリアが鞘で輪を床へ固定する。
神官兵たちが神官長を引き離す。
神官長は倒れ込み、苦しそうに息をしていた。
「私は……知らない……本当に……」
その声は震えていた。
嘘には聞こえなかった。
少なくとも、俺には。
黒い魔性具が、ぎちぎちと嫌な音を立てる。
司祭長の光が強まる。
リリアの結界も強まる。
俺はその中間で、完全に巻き込まれていた。
最悪の立ち位置だ。
でも、俺がここにいなければ、黒い光はリリアに届いていたかもしれない。
そう思うと、動けなかった。
魔性具が最後に一度、大きく黒く光った。
危険察知が叫ぶ。
---
魔性具が最終反応を起こします。
危険度:高
推奨:防御してください。
---
防御。
丸くなる以外に何がある。
俺は全力で丸くなった。
その瞬間、魔性具が弾けた。
音は小さい。
だが、黒い衝撃が床を走った。
それをリリアの白い結界が受け止める。
白と黒がぶつかり、部屋全体が一瞬だけ明滅した。
「きゅうっ!」
俺は弾き飛ばされた。
床を転がる。
一回。
二回。
三回。
壁際の毛布の山に突っ込んで、ようやく止まった。
---
能力:よく転がる が発動しました。
衝撃を軽減しました。
---
ありがとう。
今日もありがとう。
もう、俺の主力スキルは完全に転がるである。
黒い光は消えていた。
リリアの結界も、ゆっくりと薄れていく。
部屋の中に、静寂が戻った。
いや、静寂ではない。
リリアの荒い息。
アリアの剣が床を擦る音。
廊下で神官兵たちが神官長を支える声。
司祭長が低く指示を出す声。
全部聞こえる。
でも、一番大きく聞こえたのは、リリアの声だった。
「ノア!」
リリアが駆け寄ってくる。
俺は毛布の山の中から顔を出した。
「きゅ……」
生きています。
たぶん。
リリアは俺に触れようとして、また止まった。
今の俺に聖属性が負担になるかもしれないと思ったのだろう。
その手が震えていた。
「ノア……」
リリアの目に涙が浮かんでいる。
俺は少し困った。
泣かないでほしい。
俺は一応、生きている。
たぶん無事だ。
少なくとも、まだ消えていない。
俺は毛布の上で、前足を小さく動かした。
「きゅ」
大丈夫です。
そう伝えたかった。
だが、アリアが俺を見て、表情を固めた。
「聖女様」
「はい」
「ノアの外見が……」
やめて。
言わないで。
俺は自分の体を見た。
白い毛。
そこに、銀色の細い線がいくつも浮かんでいる。
尻尾の先だけではない。
背中にも、耳の根元にも、淡い模様が入っている。
頭の硬質突起は、もう明らかに小さな角だった。
寝癖ではない。
個性でも苦しい。
成長期では絶対にない。
ステータス画面が開く。
---
進化ゲージ:97%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
第一進化予兆:臨界直前
身体変化:頭部角形成/銀紋発現
注意:これ以上の高濃度接触により、予兆暴走の可能性があります。
---
臨界直前。
暴走の可能性。
嫌な言葉しかない。
俺は毛布の中で固まった。
リリアは俺をじっと見ていた。
驚いている。
さすがに驚いている。
だが、その目に恐怖はなかった。
彼女はゆっくり、俺の前にしゃがんだ。
触れない距離で。
「ノア」
「きゅ……」
「また、私を守ってくれたのですね」
違う。
いや、違わない。
たぶん、守ろうとはした。
でも、俺は強くない。
格好よく防いだわけでもない。
丸まって、転がって、邪魔になっただけだ。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
リリアは涙をこらえるように微笑んだ。
「ありがとう」
その一言で、少しだけ胸が温かくなる。
同時に、体の奥がまた揺れた。
---
保護行動を確認しました。
進化安定率が上昇しました。
進化ゲージ:97% → 98%
---
また増えた。
もう本当に寸前だ。
あと二%。
だが条件は未達。
俺は進化できない。
変化だけが進む。
いつ弾けるか分からない。
アリアが低い声で言った。
「聖女様。今はノアを刺激しない方がいいでしょう」
「分かっています」
リリアは頷いた。
そして、俺から少しだけ距離を取った。
その判断がありがたい。
でも、少し寂しい。
面倒くさい体になったものだ。
近づくと危険。
離れると不安。
どっちなんだ俺は。
◇
廊下では、神官長が保護されていた。
取り押さえられた、というより、支えられている。
彼は顔面蒼白で、額に汗を浮かべていた。
アリアと司祭長が確認したところ、魔性具は神官長の内衣の隙間に縫い付けられていたらしい。
本人が仕込んだのか。
誰かに仕込まれたのか。
それはまだ分からない。
ただ、発動の瞬間に神官長自身もかなり苦しんでいた。
少なくとも、最初から自爆覚悟で来たようには見えなかった。
俺はリリアの部屋の中、毛布の上で横になったまま、廊下の声を聞いていた。
休みたい。
だが、耳が勝手に拾ってしまう。
危険察知の感度が上がっているせいだろう。
神官長の声。
「私は……聖女様に申し開きをしたかっただけだ……。あんなもの、知らない……」
司祭長の声。
「詳しい話は後で聞きます。今は治療を」
アリアの声。
「衣服を用意した者を調べてください。神官長が来る前に接触した者も」
衣服。
そうか。
神官長に仕込まれていたなら、衣服を扱える者が怪しい。
神官長本人を犯人に見せかけるために、誰かが魔性具を縫い込んだ可能性がある。
ややこしい。
かなりややこしい。
俺はかごへ戻りたかったが、リリアもアリアも今は俺を動かすのをためらっていた。
触れるだけで刺激になるかもしれないからだ。
なので俺は、毛布の山の上に置かれている。
仮設珍生物置き場。
嫌な言い方だ。
リリアは少し離れたところに座っていた。
本当は近づきたいのだろう。
何度も俺を見ている。
そのたびに、我慢している。
俺も何か言いたい。
でも鳴くと、心配される。
動くと、角や模様を見られる。
結果、俺は毛布の上でおとなしくしていた。
休むことだけ、頑張ってください。
リリアはそう言った。
今の俺は、まさにそれを実行している。
ただし、周囲が休ませてくれない。
少しして、司祭長が部屋の中へ戻ってきた。
彼は俺を見ると、珍しくすぐには言葉を発しなかった。
俺の頭の角。
銀色の模様。
白い毛の淡い輝き。
それをじっと見ている。
怖い。
とても怖い。
やめてください。
観察しないでください。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
司祭長はようやく口を開いた。
「……これは、もはや単なる珍しい獣とは言えませんな」
ついに言われた。
終わった。
俺の珍しい小動物生活は、ここで終了かもしれない。
リリアがすぐに言った。
「ノアはノアです」
早い。
即答だった。
「姿が変わっても、私を守ってくれたノアです」
リリアの声は穏やかだった。
でも、はっきりしていた。
司祭長はリリアを見る。
そして、ゆっくり頷いた。
「ええ。もちろんです」
もちろんなんだ。
そこは否定しないんだ。
司祭長は俺に近づきすぎない距離で膝を折った。
「ノア。今のあなたは、聖属性と魔性の両方に強く反応しています。おそらく、体が変化の途中なのでしょう」
「きゅ……」
はい。
そうです。
たぶん進化の途中です。
言えませんけど。
「しばらくは、強い聖力にも魔性にも近づけぬ方がよい」
その通りです。
ぜひそうしてください。
俺は全力で頷きたかった。
しかし、頷くと角が動く。
だから控えめに鳴いた。
「きゅ」
司祭長は小さく笑った。
「分かっているようですな」
アリアが言う。
「分かっているように見える、ではなく、ほぼ分かっていると思います」
やめてください。
そこを確定しないでください。
リリアは少しだけ誇らしそうに言った。
「ノアは賢いですから」
「賢いで片付けるには限度があります」
「とても賢いです」
「大きくすればよいわけではありません」
このやりとりも何度目だろう。
だが、今は少し救われた。
いつもの会話。
それがあるだけで、俺はまだここにいていい気がした。
司祭長は真面目な顔に戻った。
「魔性具についてですが、神官長本人が犯人かどうかはまだ分かりません。ただ、彼が直接リリア様を狙って発動させたとは考えにくい」
「私も、そう思います」
リリアが言った。
「では、誰が仕込んだのか」
アリアが問う。
「衣服を管理した者、部屋に出入りした者、神官長をここへ向かわせるよう仕向けた者。そのあたりを調べます」
司祭長の声は重い。
「ただし、犯人は焦っているかもしれません」
「なぜですか」
「神官長に疑いを向ける手は、あまりに露骨です。予定表に粉を残し、管理紋を残し、今度は神官長自身に魔性具を仕込む。これは、丁寧な策ではなく、急いで罪を押しつけようとしている動きに見えます」
犯人が焦っている。
それは、俺たちが手がかりを見つけすぎたからだろうか。
黒牙鼠。
腐食鼠。
影尾鼠。
封虫。
管理印。
予定表。
そして神官長に仕込まれた魔性具。
確かに、犯人の動きはだんだん荒くなっている気がする。
リリアが静かに言う。
「では、また何かしてくるかもしれないのですね」
「その可能性があります」
司祭長は頷いた。
アリアはすぐに言った。
「聖女様の部屋の警護を増やします。食事、衣服、寝具、書類、すべて再確認します」
「お願いします」
「それと、ノアには近づく者を制限します」
俺?
俺も?
アリアは俺を見る。
「今のノアは、犯人にとっても邪魔な存在です。危険を察知し、魔性具にも反応する。狙われる可能性があります」
狙われる。
俺が。
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
でも、そう言われると納得してしまう。
俺は何度も犯人の手がかりを見つけている。
リリアを守るうえで、俺は小さいながらも邪魔者になっている。
犯人からすれば、俺を排除したいと思うかもしれない。
珍生物にヘイトを向けないでほしい。
もっと大きな相手にしてほしい。
いや、それはそれで困る。
リリアがはっきりと言った。
「ノアも守ります」
俺はリリアを見る。
「聖女様を守るためにも、ノアを守る必要があります」
アリアも続けた。
「私も同意見です」
アリアさん。
その言い方は相変わらず実務的だけど、ありがたいです。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
司祭長は静かに俺を見た。
「ノア。しばらくは、リリア様の部屋から出ないように」
それは願ってもない。
出ません。
絶対に出ません。
俺は控えめに鳴いた。
「きゅ」
リリアが少し笑った。
「今のは、はい、と言ったように聞こえました」
「おそらく言っています」
アリアが即答した。
「きゅう」
偶然です。
偶然ということでお願いします。
◇
魔性具の騒動から少し時間が経ち、部屋の中はようやく落ち着きを取り戻し始めた。
日が傾き、窓の外は薄い橙色になっている。
まだ夜ではない。
だが、神殿の廊下には早めに灯りが入れられ、警備の足音が増えていた。
俺は毛布の上で体を横にしている。
眠ってはいない。
ただ、動く気力がない。
頭の角が重い。
尻尾の銀色の模様が、まだほんのり熱を持っている。
進化ゲージ九十八%。
第一進化条件はまだ未達。
あと少しでゲージは満ちる。
でも、完全進化はまだ起きない。
その中途半端さが、体の中にずっと残っていた。
リリアは俺の近くに座っている。
近すぎない。
でも、離れすぎない。
アリアは扉の前。
司祭長は調査のために部屋を出ていった。
俺はリリアを見る。
彼女の表情には疲れがある。
当然だ。
自分の神殿で、内通者がいるかもしれない。
孤児院が狙われたかもしれない。
神官長が罠にかけられたかもしれない。
そして俺が変わり続けている。
彼女だって、休みたいはずだ。
「リリア様」
アリアが静かに声をかけた。
「少し、お茶を」
「……そうですね」
リリアは頷いた。
だが、すぐに俺を見る。
「確認は、ノアにさせません」
お。
リリアが先に言った。
「今日はもう、ノアに何かを探させたくありません」
アリアは少しだけ表情を和らげた。
「承知しました。私が確認します」
ありがとう。
本当にありがとう。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
リリアが微笑む。
「ノアは休んでいてください」
はい。
休みます。
ただし、眠りません。
この時間に寝ると、また日が変わったみたいになるから。
……いや、そんなことを考えている場合ではない。
俺は疲れた頭で、少しだけ変なことを考えた。
リリアが茶を飲む間、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。
夕方の光。
神殿の庭。
遠くを歩く神官兵。
その中に、ふと違和感があった。
危険察知が、弱く震える。
またか。
今日何度目だ。
しかし、今回は強い反応ではない。
遠い。
かすかな気配。
庭の端。
柱の影。
誰かがこちらを見ている。
俺は耳を立てた。
窓の外、建物の陰。
黒い布をかぶったような小柄な影が、一瞬だけ見えた。
人か。
神官か。
侍女か。
分からない。
だが、その影は俺と目が合ったように見えた。
次の瞬間、すっと柱の向こうへ消える。
「きゅ……」
俺は小さく鳴いた。
アリアがすぐにこちらを見る。
「ノア?」
俺は窓の外を見る。
アリアが動いた。
窓へ近づき、外を確認する。
リリアも立ち上がる。
「何か見えましたか?」
「……誰かが庭の柱の影にいました」
アリアの声が低くなる。
「神官兵では?」
「確認します」
アリアが外の警備に合図を送る。
すぐに神官兵が庭へ走っていく。
俺の危険察知は、もうほとんど反応していなかった。
逃げたのか。
それとも、最初から危険そのものではなかったのか。
分からない。
ただ、一つだけ分かった。
犯人はまだ近くにいる。
そして、俺たちの様子を見ている。
アリアが窓から戻ってくる。
「姿は確認できません。ですが、足跡があるようです」
リリアの顔が強張る。
「この部屋を見ていたのですか」
「可能性があります」
俺は毛布の上で、ゆっくり体を起こした。
休むはずだった。
今日はもう何もしなくていいと言われた。
でも、そんな願いは簡単に壊れる。
俺の進化ゲージは九十八%。
第一進化まで、あと二%。
条件達成まではまだ少し足りない。
敵は近い。
俺の変化も限界に近い。
そしてリリアは、まだ狙われている。
窓の外、夕方の光が少しずつ薄れていく。
まだ日は終わっていない。
だが、神殿の中には、すでに夜より濃い影が落ちていた。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
聖女様。
どうやら犯人は、俺たちが休むのを待ってはくれないらしい。




