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第13話 聖女様、珍生物の限界が近いです

 窓の外にいた影は、すぐに消えた。


 神官兵たちが庭を調べたが、見つかったのは柱の近くに残っていた薄い足跡だけだった。


 小柄な人物。


 軽い靴。


 神官兵のものではない。


 侍女用の靴にも近いが、完全には一致しないらしい。


 つまり、分からない。


 分からないが、誰かがリリアの部屋を見ていた。


 それだけは確かだった。


 俺は毛布の上で、体を伏せたまま窓を見ていた。


 休むはずだった。


 今日はもう何もしなくていいと言われた。


 休むことだけ頑張ればよかった。


 だが、犯人は俺の休暇申請を受理してくれなかったらしい。


 最低の職場である。


 いや、職場ではない。


 神殿だ。


 俺は珍生物だ。


 なのに、なぜか事件対応要員になっている。


 ステータス画面が薄く浮かぶ。


---


進化ゲージ:98%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


第一進化予兆:臨界直前


身体変化:頭部角形成/銀紋発現


注意:これ以上の高濃度接触により、予兆暴走の可能性があります。


---


 何度見ても嫌な表示だ。


 九十八%。


 あと二%。


 だが、時間条件がまだ満たされていない。


 つまり、俺の体は今にも変わりそうなのに、完全には変われない。


 止まっているようで、止まっていない。


 やめてほしい。


 せめて、止まるならちゃんと止まってほしい。


 頭の小さな角は、もう隠しようがない。


 白い毛の間から、はっきりと突き出ている。


 尻尾には銀色の模様。


 背中にも、耳の根元にも、淡い銀紋。


 さっき黒い魔性具を止めた影響で、光の加減によって毛並みが淡く輝くようになっていた。


 もう、ただの珍しい小動物ではない。


 かなり珍しい小動物だ。


 ……いや、それでも珍しい小動物で押し通せるのだろうか。


 リリアなら押し通す。


 アリアは止める。


 司祭長は記録に残す。


 俺は鳴く。


 今後の流れが見えている。


「ノア」


 リリアの声がした。


 彼女は俺から少し離れた椅子に座っていた。


 近づきすぎると俺に聖属性が刺激になる。


 それを分かっているから、触れたいのを我慢している。


 手は膝の上で軽く握られていた。


「つらくありませんか?」


「きゅ」


 つらいです。


 でも、たぶん大丈夫です。


 いや、大丈夫ではないかもしれません。


 俺の鳴き声ひとつでは、そこまで伝わらない。


 だが、リリアは俺の表情を見て少しだけ眉を下げた。


「大丈夫そうに見せていますね」


 鋭い。


 急に鋭い。


 俺は目をそらした。


「きゅう」


 そんなことありません。


 たぶん。


 アリアが窓の近くで外を確認しながら言った。


「聖女様。ノアは今、かなり不安定な状態に見えます。これ以上、聖力や魔性に接触させるのは避けるべきです」


「はい」


 リリアは素直に頷いた。


「私も、ノアには何もさせたくありません」


 俺は少し安心した。


 その言葉はありがたい。


 本当にありがたい。


 ただし、この神殿では「何もさせたくない」と言った直後に何か起きる。


 俺はもう学んでいる。


 異世界は空気を読まない。


 特にこの神殿は読まない。


 その時、扉が叩かれた。


 ほら。


 俺は毛布の上で目を細めた。


 アリアが即座に剣へ手を伸ばす。


「誰です」


「司祭長です」


 扉の向こうから、聞き慣れた老いた声がした。


 アリアは少しだけ警戒を緩めたが、それでもすぐには開けなかった。


「合言葉を」


 合言葉。


 いつの間にそんなものが。


 司祭長は扉の向こうで静かに答えた。


「白き花は夜にも香る」


 アリアが扉を開ける。


 司祭長が入ってきた。


 その後ろには神官兵が二人。


 さらに、布に包まれた何かを持つ侍女長らしき女性がいた。


 俺の危険察知が、弱く反応する。


---


危険察知:微反応


対象:布包み


危険度:低


備考:魔性反応の残滓があります。


---


 また布包み。


 もう嫌な予感しかしない。


 布に包まれているものは、だいたいろくでもない。


「ノアを刺激しないと約束してください」


 リリアが先に言った。


 その声は柔らかいが、はっきりしていた。


「この子はもう限界に近いです」


「承知しております」


 司祭長は深く頷いた。


「ですから、確認は最小限にします」


 最小限。


 その言葉も信用しすぎてはいけない。


 この神殿の最小限は、俺にとってはかなり多い。


 司祭長は机の上に布包みを置かせた。


「庭に残されていた足跡の近くで見つかったものです」


 布が開かれる。


 中にあったのは、小さな布切れだった。


 薄灰色。


 端が破れている。


 そこに、黒い粉が少しだけ付着していた。


 さらに、布の端に細い銀糸の刺繍がある。


 リリアが小さく息を呑んだ。


「これは……」


 アリアの目が鋭くなる。


「侍女服の袖口ですね」


 侍女長が青ざめて頷いた。


「はい。神殿付きの侍女服に使われる布です。ただし、この刺繍は一般の侍女ではなく、予定管理や来客対応を担当する者のものです」


 予定管理。


 リリアの予定表に封虫の粉が付いていた。


 その予定表に触れられる立場の者。


 俺の耳が立つ。


 事件の線が、少しずつ繋がっていく。


 アリアが低く言った。


「該当者は何人ですか」


「四名です」


 侍女長が答える。


「そのうち一名が、先ほどから見当たりません」


 来た。


 いかにも怪しいやつだ。


 だが、ここまで来ると逆に罠の可能性もある。


 神官長がそうだった。


 管理紋を残され、魔性具を仕込まれ、犯人にされかけた。


 今回も、消えた侍女が本当に犯人とは限らない。


 俺は布切れを見る。


 危険察知は弱い。


 魔性反応の残り香だけ。


 直接的な危険ではない。


 だが、その匂いは確かに、封虫の粉と同じ系統だった。


「ノア」


 司祭長が俺を見る。


「反応はありますかな」


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 あります。


 でも弱いです。


 直接危ないものではないです。


 そう伝えたい。


 だが、鳴き声だけでは無理だ。


 俺はゆっくり体を起こそうとした。


 リリアが心配そうに身を乗り出す。


「ノア、無理しないで」


「きゅ」


 大丈夫です。


 たぶん。


 俺は布切れを見て、次に侍女長を見た。


 それから、扉の方を見る。


 消えた侍女。


 その人を探す必要がある。


 ただし、犯人と決めつけるのは危険だ。


 神官長のように、何かを仕込まれている可能性もある。


 俺はもう一度鳴いた。


「きゅ、きゅう」


 アリアが目を細める。


「……危険そのものというより、手がかりという反応ですか」


 伝わった。


 かなり伝わった。


 俺は小さく頷きかけて、角が少し動いて違和感が走ったので止めた。


 代わりに鳴く。


「きゅ」


 アリアは頷いた。


「捜索は必要です。ただし、対象者を犯人として扱わず、保護対象として探しましょう」


 リリアの表情が少し和らぐ。


「お願いします」


 司祭長も頷いた。


「その方針で進めましょう。すでに神官兵を向かわせています」


 すでに向かわせている。


 早い。


 司祭長は本当に動きが早い。


 怖いけど頼りになる。


 侍女長は震える声で言った。


「その者は、ミラと申します。真面目な子です。聖女様の予定表を扱うこともありましたが、決して悪いことをするような子では」


 リリアは優しく言った。


「分かっています。だから、まずは無事を確認しましょう」


 侍女長の目に涙が浮かんだ。


「ありがとうございます」


 俺はそのやりとりを見て、少しだけ胸が重くなった。


 犯人は、人を疑わせるように動いている。


 神官長。


 若い神官。


 今度は侍女ミラ。


 リリアの周りにいる人たちを、ひとりずつ疑わせている。


 リリアを孤立させるためか。


 それとも、混乱の中で本命の何かをするためか。


 分からない。


 分からないが、嫌なやり方だ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが俺を見る。


「ノアも心配してくれているのですね」


 はい。


 たぶん。


 あと、早く解決してほしいです。


 休みたいので。


     ◇


 ミラという侍女の捜索が始まった。


 リリアの部屋には、引き続き警備が置かれている。


 アリアは扉の近く。


 神官兵は外の廊下。


 司祭長は部屋の中に残り、報告を待つことになった。


 俺は毛布の上に戻された。


 いや、自分で戻ったわけではない。


 リリアが近づきすぎないようにしながら、アリアが慎重に毛布ごと俺を移動させた。


 まるで壊れ物である。


 実際、今の俺はかなり壊れ物に近い。


 進化ゲージ九十八%。


 臨界直前。


 高濃度接触で予兆暴走。


 自分の体なのに、取り扱い注意の札を貼りたい。


 部屋の空気は重い。


 だが、張りつめっぱなしではなく、どこか疲れも混ざっていた。


 当然だ。


 朝からずっと事件続き。


 いや、昨日からずっとか。


 黒牙鼠。


 腐食鼠。


 影尾鼠。


 封虫。


 結界破りの魔性具。


 そして消えた侍女。


 リリアも、アリアも、司祭長も、疲れている。


 俺も疲れている。


 疲れていないのは犯人くらいだ。


 いや、犯人も焦っているらしいから、疲れているかもしれない。


 自業自得である。


「司祭長」


 リリアが静かに言った。


「犯人は、何をしたいのでしょうか」


 司祭長はすぐには答えなかった。


 白い髭に手を当て、少し考える。


「最初は、リリア様の評判を落とすことが目的かと思いました」


「孤児院や神殿で被害を出して、私の責任にするためですね」


「ええ。ですが、ここまで手が荒くなると、それだけではないかもしれません」


 アリアが問う。


「聖女様を直接狙う目的があると?」


「可能性はあります。あるいは、リリア様を部屋に閉じ込め、神殿の動きを制限すること自体が目的かもしれません」


 俺は耳を動かした。


 リリアを部屋に閉じ込める。


 神殿の動きを制限する。


 つまり、別の場所で何かをするため?


 俺の危険察知が、弱く震えた。


 直接の危険ではない。


 考えに反応したような、奇妙な感覚。


 神殿のどこか。


 リリアの部屋ではない。


 もっと外側。


 孤児院?


 東側搬入口?


 地下倉庫?


 俺は頭を上げた。


「きゅ……」


 アリアがすぐ気づく。


「何かありますか」


 俺は答えられない。


 場所がはっきりしない。


 ただ、リリアをこの部屋に閉じ込めている間に、別の場所で何かが進んでいる。


 そんな気がした。


 司祭長が俺を見る。


「ノアが反応するなら、考慮すべきですな」


「しかし、ノアは今動かせません」


 アリアが言う。


「動かしてはなりません」


 リリアも続けた。


「ノアにこれ以上負担をかけることはできません」


 ありがたい。


 でも、何かが引っかかる。


 俺が動かなくても、伝える方法はないか。


 俺は部屋の中を見回した。


 机。


 書類。


 神殿の図面。


 孤児院の地図。


 保管庫の配置図。


 昨日から何度も広げられている紙が、机の端に重ねられている。


 俺はそれを見た。


 アリアが気づく。


「図面ですか」


「きゅ」


 俺は小さく鳴いた。


 アリアが机から神殿図を取ってきて、俺の前に広げる。


 リリアも少し離れた位置から覗き込む。


 司祭長は黙って見ている。


 俺は図面を見た。


 東側搬入口。


 地下倉庫。


 保管庫。


 リリアの部屋。


 孤児院。


 いくつもの地点。


 危険察知が、リリアの部屋ではなく、別の場所にかすかに反応する。


 俺は前足を伸ばした。


 だが、届く前に角が毛布に引っかかる。


 こつん。


 まただ。


「きゅう……」


 アリアがそっと毛布を押さえ、俺が動きやすいようにしてくれた。


「ゆっくりでいい」


 その声が、少し優しかった。


 俺は前足を伸ばし、図面の一点を押した。


 ぽふ。


 肉球が置かれた場所。


 そこは、神殿の西側。


 礼拝堂の裏手にある、小さな倉庫だった。


 司祭長の表情が変わる。


「西礼拝堂の旧倉庫……」


 アリアが眉を寄せる。


「何がある場所ですか」


「今はほとんど使われていません。古い祭具や、破損した聖具を一時保管する場所です」


 破損した聖具。


 俺の危険察知が、少し強く震えた。


---


危険察知:中反応


対象:西礼拝堂旧倉庫


危険度:不明


備考:聖属性と魔性反応の混在を確認。


---


 聖属性と魔性反応の混在。


 嫌な組み合わせだ。


 俺が今、一番避けたい組み合わせでもある。


 リリアが息を呑む。


「そこに、何かあるのですか?」


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 たぶんあります。


 行きたくないけど。


 司祭長はすぐに立ち上がった。


「私が確認に向かいます。アリア、あなたはここに残りなさい」


「ですが」


「リリア様の護衛が最優先です。ノアの反応が正しければ、犯人はリリア様をここに釘付けにして、別の場所で何かをしている可能性があります」


 アリアは少しだけ迷い、頷いた。


「承知しました」


 リリアは司祭長を見た。


「お気をつけください」


「ええ」


 司祭長は神官兵を一人伴い、部屋を出て行った。


 扉が閉まる。


 部屋に残ったのは、リリア、アリア、侍女長、そして俺。


 俺は図面の上に前足を置いたまま、動けなかった。


 危険察知はまだ弱く震えている。


 旧倉庫。


 そこに何かがある。


 犯人の本命かもしれない。


 だが、俺は行けない。


 行かない方がいい。


 今の体で行けば、何かが起きる。


 たぶん、かなりまずいことが。


 それでも、気になった。


 俺は役に立ちたいのか。


 それとも、ただ不安なだけなのか。


 自分でも分からない。


 リリアがそっと言った。


「ノア」


「きゅ」


「ここにいてください」


 その声は、お願いではなく、願いだった。


「もう、これ以上危ないところに行かないでください」


 俺はリリアを見た。


 彼女は俺を守ろうとしている。


 俺がリリアを守ろうとするのと同じように。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 分かりました。


 たぶん。


 今は行きません。


 行けません。


 アリアが少しだけ息を吐いた。


「今のは了承したように見えました」


「はい。ノアは分かってくれました」


 リリアは微笑んだ。


 その笑顔を見て、俺は本当に動かないでいようと思った。


 少なくとも、この瞬間までは。


     ◇


 司祭長からの報告が戻るまで、部屋の中は奇妙な静けさに包まれていた。


 外は夕方から夜へ向かっている。


 だが、まだ一日は終わっていない。


 廊下には灯りが入り、神官兵の足音が増えた。


 窓の外にあった橙色は、少しずつ紫へ変わっている。


 リリアは椅子に座り、両手を膝の上で組んでいた。


 アリアは扉の前。


 侍女長は少し離れた場所で、祈るように手を握っている。


 消えた侍女ミラのことが心配なのだろう。


 俺は毛布の上に戻り、図面を見ないようにしていた。


 見ると、また気になってしまう。


 危険察知は相変わらず微かに震えている。


 旧倉庫。


 西礼拝堂。


 聖属性と魔性反応の混在。


 嫌な予感がする。


 かなり嫌な予感だ。


 その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 速い。


 複数。


 アリアが剣に手をかける。


「誰です」


「司祭長からの伝令です!」


 扉の外で神官兵が叫ぶ。


 声が緊張している。


 アリアが扉を少し開ける。


 神官兵は息を切らしていた。


「西礼拝堂の旧倉庫で、侍女ミラを発見しました!」


 侍女長が息を呑む。


「ミラは!?」


「意識はあります! ですが、近くに魔性具が設置されており、司祭長が封じています!」


 リリアが立ち上がる。


 アリアが即座に止めた。


「聖女様、ここに」


「でも、ミラが」


「司祭長が対応しています」


 神官兵は続けた。


「それと、旧倉庫内に破損した聖具が集められていました。魔性具と組み合わせて、神殿の結界を内側から歪める仕掛けのようです!」


 神殿の結界を内側から歪める。


 俺の危険察知が強く震えた。


---


危険察知:強反応


対象:西礼拝堂旧倉庫


危険度:高


警告:聖属性と魔性反応の衝突が拡大します。


---


 まずい。


 それはまずい。


 俺でも分かる。


 聖属性と魔性がぶつかれば、さっきの俺みたいなことが起きる。


 いや、神殿全体ならもっとひどい。


 神殿の結界が歪めば、魔性生物が入り込む。


 孤児院や神殿内に被害が出る。


 そしてその責任は、リリアや神官長に押しつけられる。


 犯人の狙いが見えた気がした。


 リリアを閉じ込める。


 神官長に罪を着せる。


 旧倉庫で結界を歪める。


 その間に魔性生物を侵入させる。


 もし成功すれば、神殿は大混乱だ。


 リリアの活動どころではない。


 俺は毛布の上で体を起こした。


 リリアが俺を見た。


「ノア、だめです」


 早い。


 俺が動く前に止められた。


「行かないでください」


「きゅ……」


 でも。


 危険察知が鳴っている。


 強く。


 さっきよりもずっと。


 アリアも俺を見ている。


「ノア。今のあなたをあそこへ連れていくのは危険です。聖属性と魔性反応の衝突が起きているなら、あなたの体に何が起きるか分からない」


 その通り。


 おそらく、俺の進化ゲージは百%に届く。


 いや、それだけならまだいい。


 条件未達のまま高濃度接触を受ければ、予兆暴走の可能性がある。


 ステータスがそう言っていた。


 今行けば、俺は壊れるかもしれない。


 だが。


 リリアの神殿が壊れるかもしれない。


 孤児院にも危険が及ぶかもしれない。


 そして、侍女ミラがまだ旧倉庫にいる。


 俺は小さな体で震えた。


 行きたくない。


 心の底から行きたくない。


 でも、見ないふりをしたら、後悔する気がした。


「きゅ……」


 俺は鳴いた。


 リリアが首を横に振る。


「だめです」


 その声は少し震えていた。


「ノアは、もう十分頑張りました」


 違う。


 いや、十分頑張ったとは思う。


 でも、まだ終わっていない。


 俺はリリアを見る。


 この子は俺を守ろうとしている。


 俺もリリアを守りたい。


 そのせいで、お互いに動けなくなっている。


 アリアが静かに言った。


「聖女様。司祭長が封じているなら、ひとまず任せるべきです」


「はい」


 リリアは頷いた。


「ノアを行かせるわけにはいきません」


 そうだ。


 それが正しい。


 俺もそう思う。


 だから動かない。


 動かないつもりだった。


 だが、次の瞬間。


 神殿全体が、低く震えた。


 ごん、と腹の底に響くような音。


 壁の聖印が一瞬だけ暗くなる。


 リリアの部屋の空気が揺れる。


 俺の危険察知が、今までで一番強く鳴った。


---


緊急警告


神殿結界に歪みが発生しました。


保護対象:リリア・セレスティア


危険度:極めて高い


予測:魔性反応が神殿内部へ流入します。


---


 極めて高い。


 初めて見る表示だった。


 部屋の外で神官兵が叫ぶ。


「司祭長が、魔性具の封印に失敗しました! 旧倉庫の聖具が暴走しています!」


 リリアの顔色が変わる。


 アリアが剣を抜く。


「聖女様、結界を!」


 リリアが両手を胸の前で組む。


 部屋全体に白い光が集まり始めた。


 俺の体が反応する。


 聖属性。


 高濃度。


 近い。


 危険。


 だが、今はそれどころではない。


 部屋の聖印が揺らぎ、窓の外から黒い気配が流れ込もうとしている。


 神殿全体の守りが歪んでいる。


 リリアの結界だけでは、部屋は守れても神殿全部は守れないかもしれない。


 俺はステータス画面を見た。


---


進化ゲージ:98%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


警告:高濃度聖属性接触を確認


予兆暴走の危険があります。


---


 行けば危険。


 行かなくても危険。


 最悪の二択だ。


 俺は毛布の上で、ゆっくり立ち上がった。


 リリアが叫ぶ。


「ノア!」


 俺は彼女を見た。


 行かないで。


 その目がそう言っていた。


 分かっている。


 分かっているけど。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 ごめんなさい。


 たぶん、そういう声だった。


 アリアが動く。


「ノア、待ちなさい!」


 俺は毛布を蹴った。


 短い足で。


 小さな体で。


 銀色の模様が淡く光る。


 頭の角が熱を持つ。


 扉の方へ走る。


 アリアが追おうとしたが、リリアの結界を維持するために動けない。


 リリアも動けない。


 俺だけが、動けた。


 いや、動いてしまった。


 扉の隙間から、黒い気配が廊下へ流れている。


 その奥。


 西礼拝堂の方角から、白と黒の光が交互に明滅していた。


 俺の体の中で、進化ゲージが脈打つ。


 九十八%。


 あと二%。


 条件は未達。


 それでも、俺は走った。


 このままでは、リリアの居場所が壊れる。


 孤児院にも被害が出るかもしれない。


 俺が守りたいと思ったものが、全部崩れるかもしれない。


 それだけは嫌だった。


 俺は廊下へ飛び出した。


「きゅうっ!」


 聖女様。


 約束を破ってすみません。


 でも、俺はまだ弱いから。


 せめて、邪魔になるくらいはさせてください。


 白と黒の光がぶつかる方へ、俺は転がるように走った。

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