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第14話 聖女様、珍生物が限界突破しそうです

 廊下へ飛び出した瞬間、俺は自分の判断を少しだけ後悔した。


 いや、少しではない。


 かなり後悔した。


 リリアの部屋の外は、すでに普通ではなかった。


 白い石の廊下。


 壁に刻まれた聖印。


 神殿らしい静かな空気。


 それらが、今はぐにゃりと歪んで見える。


 聖印の光が、明るくなったり暗くなったりを繰り返していた。


 床の白い文様の間を、黒い靄のようなものが細く流れている。


 空気が重い。


 聖属性と魔性が、同じ場所でぶつかり合っている。


 俺にとっては最悪の環境だ。


 熱い。


 寒い。


 ちりちりする。


 ぞわぞわする。


 全部同時に来る。


 体の内側を、熱い手と冷たい手で別々に掴まれているような感覚だった。


---


高濃度聖属性と魔性反応の混在を確認しました。


状態:極度不安定


警告:長時間接触を避けてください。


---


 避けたい。


 全力で避けたい。


 だが、俺はもう廊下に出ている。


 戻るには、リリアの部屋へ戻るしかない。


 そこにはリリアがいる。


 そして黒い気配は、西礼拝堂の方角から流れてきている。


 つまり、元を断たないと部屋に戻っても危険は消えない。


 嫌だ。


 ものすごく嫌だ。


 でも行くしかない。


 俺は短い足で廊下を走った。


 正確には、走っているつもりだった。


 実際は、体がふらついて何度も転がりそうになっている。


 いや、転がること自体は得意だ。


 得意というか、最近は俺の主戦力である。


 ただ、目的地まで移動するには、転がるより走った方がいい。


 たぶん。


「きゅっ、きゅっ」


 息が漏れる。


 鳴き声なのか、呼吸なのか、自分でもよく分からない。


 廊下の先では、神官兵たちが慌ただしく動いていた。


「西礼拝堂側の結界が不安定だ!」


「旧倉庫に近づくな! 司祭長が封じている!」


「負傷者を下げろ!」


 声が飛び交う。


 誰も俺に気づかない。


 いや、気づいても、この状況で小さな珍生物が走っているとは思わないだろう。


 俺は人の足元を抜けた。


 神官兵の靴。


 神官のローブ。


 揺れる灯り。


 床を這う黒い靄。


 それらの間を、必死に進む。


 そのたびに、頭の角が熱くなる。


 尻尾の銀紋が脈打つ。


 体の奥で、進化ゲージが押し上げられていく感覚がある。


 見なくても分かる。


 もう限界が近い。


 だが、ステータス画面は容赦なく開いた。


---


進化ゲージ:98% → 99%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


警告:予兆暴走の危険が上昇しています。


---


 九十九%。


 あと一%。


 だが条件未達。


 つまり、満ちそうなのに進化できない。


 進化できないのに、体だけは変わり続ける。


 最悪だ。


 止まっているようで、止まっていない。


 やめてほしい。


 せめて、止まるならちゃんと止まってほしい。


 俺は角を低くして、廊下を進んだ。


 西礼拝堂の方角へ近づくほど、白と黒の明滅が強くなる。


 壁の聖印が軋むように光り、床の文様から小さな火花が散っていた。


 その火花が俺の毛に触れる。


「きゅっ」


 ちりっと痛む。


 だが、足は止めない。


 止めたら怖くなる。


 怖くなったら、たぶん戻りたくなる。


 戻りたい。


 本当は戻りたい。


 ふかふかの毛布に戻りたい。


 リリアの部屋に戻りたい。


 ただの珍生物として、ミルクを飲んでいたい。


 でも、俺の危険察知はずっと鳴っている。


 保護対象。


 リリア・セレスティア。


 その文字が、頭の奥に焼きついている。


 俺はリリアを守ると決めたわけではない。


 そんな大げさな覚悟をしたつもりもない。


 ただ、あの子が傷つくのは嫌だった。


 俺を拾ってくれた子が。


 変な鳴き声でも、角が生えても、銀色の模様が出ても。


 それでも俺をノアと呼んでくれる子が。


 その居場所を壊されるのは、嫌だった。


「きゅうっ」


 俺はまた走った。


     ◇


 西礼拝堂に近づくと、空気が一段重くなった。


 礼拝堂の扉は半分開いている。


 その奥から、白と黒の光が交互に漏れていた。


 旧倉庫は礼拝堂の裏手。


 俺は扉の隙間から中へ入る。


 礼拝堂の中には、長椅子が並んでいた。


 普段なら静かに祈りを捧げる場所なのだろう。


 だが今は、床に黒い文様が浮かび、天井近くの聖印が明滅している。


 中央には神官兵が数人倒れていた。


 意識はある。


 呻いている。


 だが、立ち上がれないようだ。


 司祭長の声が、礼拝堂の奥から響く。


「下がりなさい! これ以上近づけば巻き込まれます!」


 俺は声の方へ向かった。


 旧倉庫の扉は開いていた。


 いや、壊れていた。


 扉の片側が外れ、床に倒れている。


 その奥。


 狭い倉庫の中で、古びた聖具がいくつも宙に浮かんでいた。


 割れた聖杯。


 欠けた燭台。


 ひびの入った小さな聖像。


 折れた銀の杖。


 それらが、黒い金属の輪の周囲を回っている。


 黒い金属の輪。


 さっき神官長に仕込まれていた魔性具に似ている。


 だが、こちらの方が大きい。


 輪の中心には、黒い石のようなものがはめ込まれていた。


 そこから魔性が噴き出している。


 それを、破損した聖具が受け止め、歪んだ聖属性として周囲にばら撒いている。


 聖属性と魔性が、同じ場所でぐちゃぐちゃに混ざっている。


 俺の体には最悪。


 神殿の結界にも最悪。


 ステータス画面が赤く染まる。


---


対象:歪聖魔性具


危険度:極めて高い


特徴:破損聖具を媒介に、聖属性結界を内部から歪めます。


警告:長時間放置により、神殿結界が崩壊します。


---


 歪聖魔性具。


 名前からして嫌だ。


 もっと分かりやすく、すごく危ない輪とかでいいだろ。


 いや、文句を言っている場合ではない。


 倉庫の入口には、司祭長が立っていた。


 杖を構え、白い光で魔性具を押さえ込んでいる。


 だが、その顔には余裕がなかった。


 額に汗。


 祭服の裾は黒い靄に触れて、少し焦げている。


 近くには侍女ミラらしき少女が倒れていた。


 意識はある。


 神官兵が彼女を引きずって倉庫から離そうとしている。


 ミラは震えながら泣いていた。


「違うんです……私は、言われただけで……あの人に……」


 あの人。


 誰だ。


 犯人か。


 だが、今は聞き出している場合ではない。


 魔性具の光が膨らむ。


 司祭長が歯を食いしばる。


「くっ……!」


 白い光が押し戻される。


 神殿の床に刻まれた聖印が、一瞬だけ黒く染まった。


 まずい。


 俺の危険察知が叫ぶ。


---


神殿結界の歪みが拡大しています。


保護対象への間接危険を確認しました。


推奨:魔性具の流れを遮断してください。


---


 遮断。


 どうやって。


 俺は小さい。


 噛みついて壊せるような牙もない。


 強い魔法もない。


 あるのは、よく転がる。


 丸くなる。


 危険察知。


 そして、頭の角から出る小さな浄化火花みたいなもの。


 それで、あの大きな魔性具をどうにかしろと?


 無理だ。


 無理に決まっている。


 俺は低級魔物だぞ。


 まだ第一進化もしていないんだぞ。


 だが、ステータス画面はさらに表示を重ねた。


---


聖属性と魔性反応の流路を確認しました。


流路中心:歪聖魔性具下部


脆弱点:結界文様との接続部


---


 脆弱点。


 壊す場所がある。


 俺は床を見る。


 魔性具の真下。


 黒い輪から伸びる細い影が、床の聖印へ絡みついている。


 そこだ。


 あの接続部を切れば、魔性具の流れが止まるかもしれない。


 問題は。


 そこが倉庫の中で、一番白黒の光がぶつかっている場所だということだ。


 行きたくない。


 絶対に行きたくない。


 行ったら俺の体がどうなるか分からない。


 いや、分かる。


 たぶんゲージが百%に届く。


 そして条件未達のまま、予兆暴走する。


 ステータスがそう言っている。


 俺は一歩下がりかけた。


 その時、背後から声がした。


「ノア!」


 リリアの声だった。


 振り返る。


 礼拝堂の入口に、リリアがいた。


 アリアが隣にいる。


 アリアはリリアを止めようとしているが、完全には止められていない。


 リリアは息を切らしていた。


 俺を追ってきたのだ。


 来ちゃだめだ。


 ここは危ない。


 俺は思わず鳴いた。


「きゅう!」


 戻ってください!


 いや、戻れ!


 伝わらない。


 リリアは俺を見て、泣きそうな顔をした。


「ノア、戻ってください!」


 それはこっちの台詞です。


 俺は小さな体で、必死に前足を踏ん張った。


 リリアが来たことで、魔性具が反応する。


 黒い輪の中心の石が、ぎらりと光った。


 対象が来た。


 そう言っているようだった。


---


保護対象の接近を確認しました。


魔性具が反応しています。


危険度:極めて高い


---


 やっぱり。


 あれはリリアを狙っている。


 リリアが近づくほど、魔性具は強くなる。


 アリアが剣を抜き、リリアの前へ出る。


「聖女様、これ以上は危険です!」


「でも、ノアが!」


「だからこそです!」


 アリアの声には焦りがあった。


 司祭長も叫ぶ。


「リリア様! 近づいてはなりません!」


 リリアが足を止める。


 だが、戻らない。


 俺を見ている。


 俺もリリアを見る。


 行くな。


 戻れ。


 そう思っているのに、俺自身も戻れない。


 ひどい状況だ。


 お互い、相手には危険なことをしてほしくない。


 でも、自分は動こうとしている。


 リリアが俺を守ろうとする。


 俺がリリアを守ろうとする。


 その結果、二人とも危険に近づいている。


 馬鹿みたいだ。


 でも、嫌いじゃなかった。


 リリアは声を震わせながら言った。


「ノア、お願いです。無茶をしないでください」


「きゅ……」


 無茶は嫌です。


 でも。


 俺は床の接続部を見る。


 あそこを止めないと、神殿の結界が歪む。


 リリアの部屋も、孤児院も、神殿全体も危ない。


 俺は小さい。


 弱い。


 でも、脆弱点が見えている。


 見えてしまった。


 それを見なかったことにはできない。


 俺はリリアに向かって、小さく鳴いた。


「きゅ」


 ごめんなさい。


 たぶん、二度目のごめんなさいだった。


 リリアの表情が変わる。


「ノア!」


 俺は走った。


 倉庫の中へ。


     ◇


 白と黒の光が、全身にぶつかった。


 痛い。


 寒い。


 熱い。


 気持ち悪い。


 全部同時だ。


 足元の床が揺れている。


 魔性具の黒い輪が頭上で回っている。


 破損した聖具が、ぎしぎしと音を立てながら歪んだ光を放つ。


 俺はその下を目指した。


 接続部。


 黒い影が床の聖印に絡みついている場所。


 そこへ向かう。


 だが、途中で黒い靄が蛇のように伸びてきた。


 俺に巻きつこうとする。


「きゅっ!」


 俺は横へ転がった。


---


能力:よく転がる が発動しました。


魔性の拘束を回避しました。


---


 よし。


 避けた。


 だが、転がった先に聖属性の火花が落ちる。


 毛がちりっと焦げる。


「きゅうっ!」


 熱い。


 普通に熱い。


 俺は床を蹴って前へ出る。


 黒い靄。


 白い火花。


 割れた聖具から飛ぶ破片。


 全部を避けながら進む。


 いや、全部は避けられていない。


 何度も当たる。


 そのたびに、丸くなる。


 転がる。


 また立つ。


 かっこよさはない。


 英雄感もない。


 小動物が必死に事故現場を横切っているだけだ。


 だが、それでいい。


 俺は英雄になりたいわけではない。


 ただ、リリアの居場所を壊されたくないだけだ。


 接続部まで、あと少し。


 その時、魔性具の輪が大きく震えた。


 黒い光が一気に俺へ集まる。


---


魔性具が妨害対象を認識しました。


危険度:極めて高い


警告:集中攻撃が来ます。


---


 集中攻撃。


 やめて。


 珍生物に使う言葉じゃない。


 黒い靄が何本も伸びる。


 逃げ場がない。


 俺は反射的に丸くなった。


---


能力:丸くなる が発動しました。


被害を軽減します。


---


 黒い靄が全身を包む。


 冷たい。


 重い。


 体の奥が濁る。


 視界が暗くなる。


 でも、完全には潰れない。


 俺の角から白い火花が散る。


 尻尾の銀紋が光る。


 聖属性が魔性を弾き、魔性が聖属性を押し返す。


 俺の体の中で、また変質が起きる。


---


高濃度魔性反応に接触しました。


聖属性干渉を確認しました。


固有特性:浄化適性が限界反応を起こしています。


進化ゲージ:99% → 100%


---


 百%。


 ついに届いた。


 だが。


---


進化ゲージが100%に到達しました。


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


完全進化は保留されます。


警告:予兆暴走が発生します。


---


 ほら。


 最悪だ。


 分かっていた。


 分かっていたけど、見たくなかった。


 体が膨らむような感覚。


 角が熱い。


 尻尾が熱い。


 背中がぞわぞわする。


 毛の奥から、銀色の模様がさらに広がっていく。


 俺は丸くなったまま、黒い靄の中で震えた。


 予兆暴走。


 何が起きる?


 俺は壊れるのか?


 角が伸びるのか?


 翼でも生えるのか?


 それとも、このまま消えるのか?


 怖い。


 怖い怖い怖い。


 リリアの声が聞こえた。


「ノア!」


 彼女が動こうとしている。


 だめだ。


 近づくな。


 魔性具がリリアに反応する。


 俺は丸まった体を無理やり開いた。


 前足を伸ばす。


 接続部は目の前だ。


 あと少し。


 黒い影が床の聖印に絡みついている。


 そこへ、頭の角を向ける。


 角から白い火花が出る。


 だが、足りない。


 なら、体ごと行くしかない。


 俺は最後の力で、接続部へ飛び込んだ。


「きゅううっ!」


 角が、黒い影と聖印の間に触れた。


 瞬間。


 白と黒の光が爆ぜた。


 音が消えた。


 視界が真っ白になる。


 体の奥が、ばらばらになって、また無理やり繋ぎ直されるような感覚。


---


聖属性流路と魔性流路に接触しました。


流路遮断を試行します。


固有特性:浄化適性が暴走しています。


保護対象への危険遮断を確認。


進化安定率が上昇します。


---


 何かが、俺の中で噛み合った。


 暴れていた聖属性と魔性が、ほんの一瞬だけ同じ方向へ流れる。


 リリアへ向かう黒い力。


 神殿を歪める力。


 それを、俺の体が吸い込み、変質させようとする。


 無茶だ。


 絶対に無茶だ。


 俺みたいな小さな体で受け止める量ではない。


 だが、その一瞬で十分だった。


 床の聖印に絡みついていた黒い影が、ぷつりと切れた。


 魔性具の輪が大きく揺れる。


 破損した聖具の回転が乱れる。


 司祭長が叫んだ。


「今です!」


 白い光が、杖から放たれる。


 アリアが倉庫の入口から飛び込み、剣の鞘で黒い輪を床へ叩き落とす。


 リリアの結界の光が、礼拝堂全体に広がる。


 三つの力が重なった。


 魔性具の黒い輪が、ぎしりと鳴る。


 そして、中心の黒い石にひびが入った。


 ぱきん。


 小さな音。


 だが、その瞬間、黒い靄が一気に薄れた。


 神殿の聖印が白く光り直す。


 床の文様が戻っていく。


 礼拝堂を覆っていた重さが、少しずつ消えていく。


 成功した。


 たぶん。


 俺は接続部の上で、ぺたりと倒れた。


「きゅ……」


 無理。


 もう無理。


 本当に無理。


 これ以上は一歩も動けない。


 ステータス画面が揺れながら浮かぶ。


---


歪聖魔性具の流路遮断に成功しました。


神殿結界の崩壊を阻止しました。


進化ゲージ:100%


第一進化条件:未達


予兆暴走:継続中


警告:安定化には保護対象との接触、または時間条件達成が必要です。


---


 保護対象との接触。


 リリアか。


 いや、待て。


 リリアとの接触は聖属性が危険だ。


 でも、安定化には必要?


 どっちだ。


 ステータス画面、説明が雑だ。


 俺は床の上で、ぼんやりとリリアの方を見た。


 リリアは礼拝堂の入口で、泣きそうな顔をしている。


 アリアがまだ止めている。


 司祭長も息を切らしている。


 誰もすぐには動けない。


 俺の体は熱い。


 頭の角が脈打つ。


 尻尾の銀紋が光り続けている。


 視界の端が白く揺れる。


 まずい。


 これは本当にまずい。


 進化できない。


 でも、予兆暴走は止まらない。


 体が、勝手に変わろうとしている。


 なのに、条件が足りない。


 リリアと出会ってから、まだ二日も経っていない。


 三日間生存には届いていない。


 あと少し足りない。


 その少しが、今は遠すぎた。


「ノア!」


 リリアがついにアリアの制止を振り切った。


「聖女様!」


 アリアが叫ぶ。


 だが、リリアは止まらない。


 俺の方へ走ってくる。


 白いローブが揺れる。


 金色の髪が乱れる。


 聖女らしい落ち着きなんてない。


 ただ、俺を助けようとしている少女だった。


 来ないでほしい。


 来てほしい。


 矛盾した感情が、胸の中でぶつかる。


 リリアが俺の前で膝をつく。


 手を伸ばす。


 その手が震えている。


「ノア、触れても……いいですか?」


 こんな時でも聞くのか。


 この子は、本当に。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 いいです。


 たぶん。


 リリアは俺をそっと抱き上げた。


 聖属性が流れ込む。


 熱い。


 でも、さっきまでのような痛みだけではなかった。


 リリアの手は震えていた。


 でも優しい。


 俺を壊さないように、傷つけないように、必死に加減している。


---


保護対象との接触を確認しました。


聖属性接触を確認しました。


浄化適性が安定化を開始します。


予兆暴走を抑制中……


---


 抑制。


 少しだけ、体の暴れが収まる。


 リリアの腕の中は危険だ。


 だけど今は、そこが一番安定する。


 何なんだ、この矛盾だらけの体は。


 俺は力なく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが涙をこぼした。


「ごめんなさい、ノア」


 違う。


 あなたのせいじゃない。


 言いたいのに、声が出ない。


 いや、鳴き声は出る。


 でも言葉にならない。


 俺は前足を少しだけ動かし、リリアのローブに触れた。


 それが精一杯だった。


 リリアは俺を抱きしめたいのをこらえて、ただ両腕で支えた。


 司祭長が近づいてくる。


 彼も疲れ切っていたが、目は真剣だった。


「リリア様。そのまま、強い治癒は使わずに。ノアの体は今、聖力に反応しすぎています」


「はい」


「ただ、あなたとの接触で安定しているようです」


 アリアが俺を見て、眉を寄せる。


「この子は、聖女様に近づくと危険なのに、離れすぎても不安定になる……?」


「おそらく」


 司祭長が答える。


「リリア様の聖力に適応しようとしているのでしょう」


 適応。


 そうなのかもしれない。


 俺は聖女のそばで三日間生存する。


 それが進化条件だ。


 ただ時間を過ごすだけではない。


 聖属性に焼かれながら。


 魔性に汚されながら。


 それでもリリアのそばで生き続ける。


 そうして初めて、俺は次の姿になる。


 たぶん、そういう進化なのだ。


 面倒くさい。


 過酷すぎる。


 だが、今さら引き返せない。


 リリアは俺を見下ろし、小さく言った。


「ノア。もう大丈夫です。私がいます」


「きゅ……」


 それは危険でもあります。


 でも、今は助かります。


 リリアには伝わらない。


 でも彼女は、少しだけ笑った。


 伝わったのかもしれない。


 気のせいかもしれない。


     ◇


 歪聖魔性具は、司祭長と神官兵たちによって封印された。


 完全に壊すと、残った魔性が飛び散る危険があるらしい。


 ひびの入った黒い石は、何重にも聖布で包まれ、専用の箱へ収められた。


 侍女ミラは救出された。


 意識はあるが、かなり衰弱している。


 彼女の話によると、顔を隠した人物に呼び出され、旧倉庫へ向かったところを魔性具の近くに閉じ込められたらしい。


 犯人の顔は見ていない。


 声も、布越しで分からなかったという。


 ただ一つ。


 ミラは言った。


「あの人は、神殿の通路をよく知っていました」


 やはり内部の者。


 あるいは、内部に詳しい者。


 事件は終わっていない。


 魔性具は止めた。


 神殿結界の崩壊も防いだ。


 だが、犯人はまだ捕まっていない。


 俺はリリアの腕の中で、ぼんやりその話を聞いていた。


 動けない。


 動く気力がない。


 だが、意識はある。


 眠ってはいない。


 寝てしまったら、また日が進んだように感じるから。


 ……いや、何を考えているんだ俺は。


 疲れすぎて思考が変になっている。


 リリアは俺を抱えたまま、礼拝堂の長椅子に座っていた。


 アリアがすぐ隣に立っている。


 司祭長は少し離れた場所で神官兵に指示を出している。


 窓の外は、もうほとんど紫に沈んでいる。


 夜が近い。


 だが、まだ一日は終わっていない。


 まだ、三日目も終わっていない。


 俺の進化条件は未達。


 ゲージは百%。


 予兆暴走は、リリアに抱かれていることで何とか抑えられている。


 ステータス画面が静かに浮かんだ。


---


進化ゲージ:100%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


安定条件:保護対象との接触を維持


注意:条件達成まで、不安定状態が継続します。


---


 臨界安定。


 また変な言葉が出た。


 安定しているのか、不安定なのか、どっちなんだ。


 いや、意味は分かる。


 爆発寸前で何とか押さえている状態だろう。


 俺はリリアの腕の中で小さく息を吐いた。


「きゅ……」


 疲れた。


 とても疲れた。


 リリアが俺を見下ろす。


「ノア、もう少しだけ、このままでいてください」


「きゅ」


 はい。


 むしろ、このままじゃないとまずそうです。


 アリアが低く言った。


「聖女様にも負担がかかります」


「大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


「でも、ノアの方が大変です」


「それはそうですが」


 アリアが言葉に詰まる。


 リリアは俺を見つめたまま、静かに言った。


「この子は、何度も私を守ってくれました。今度は私が支えます」


 その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。


 守った。


 支える。


 そんな大げさなことをしたつもりはない。


 俺はただ、転がって、丸くなって、邪魔をしただけだ。


 でも、リリアがそう受け取るなら。


 少しくらいは、そう思ってもいいのかもしれない。


 俺はリリアの腕の中で、ほんの少しだけ力を抜いた。


 完全に気を抜くのは怖い。


 でも、少しだけ。


 その時。


 礼拝堂の奥で、封印された魔性具が収められた箱から、かすかな音がした。


 こつん。


 小さな音。


 誰も気づかなかった。


 いや、俺だけが気づいた。


 危険察知が、ほんのわずかに震える。


---


危険察知:微反応


対象:封印箱


危険度:低


備考:残留意志を確認。


---


 残留意志。


 何だそれ。


 魔性具に、意志?


 俺は箱を見た。


 聖布に包まれた黒い石。


 その奥に、まだ何かが残っている。


 犯人の気配か。


 魔性具を作った者の痕跡か。


 それとも、魔性そのものの意思か。


 分からない。


 分からないが、終わっていない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが気づく。


「ノア?」


 俺は箱を見た。


 アリアもそれに気づき、すぐに司祭長を呼ぶ。


「司祭長。ノアが封印箱に反応しています」


 司祭長の顔が険しくなる。


「まだ何か残っていますか」


 その瞬間。


 封印箱の中から、かすかな声のようなものが響いた。


 声というより、擦れた音。


 だが、俺には言葉のように聞こえた。


『……聖女は……まだ……』


 リリアが息を呑む。


 アリアが剣を抜く。


 司祭長が杖を構える。


 封印箱はすぐに白い光で包まれ、音は途切れた。


 だが、俺は聞いた。


 はっきりと。


 聖女は、まだ。


 その続きが何なのかは分からない。


 まだ死んでいない?


 まだ利用できる?


 まだ終わっていない?


 嫌な予感だけが残った。


 俺はリリアの腕の中で、尻尾を丸めた。


 進化ゲージは百%。


 条件は未達。


 犯人は不明。


 魔性具には、まだ何かが残っている。


 そして夜は、少しずつ近づいている。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 聖女様。


 どうやら今日はまだ、終わらせてもらえないみたいです。

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