第14話 聖女様、珍生物が限界突破しそうです
廊下へ飛び出した瞬間、俺は自分の判断を少しだけ後悔した。
いや、少しではない。
かなり後悔した。
リリアの部屋の外は、すでに普通ではなかった。
白い石の廊下。
壁に刻まれた聖印。
神殿らしい静かな空気。
それらが、今はぐにゃりと歪んで見える。
聖印の光が、明るくなったり暗くなったりを繰り返していた。
床の白い文様の間を、黒い靄のようなものが細く流れている。
空気が重い。
聖属性と魔性が、同じ場所でぶつかり合っている。
俺にとっては最悪の環境だ。
熱い。
寒い。
ちりちりする。
ぞわぞわする。
全部同時に来る。
体の内側を、熱い手と冷たい手で別々に掴まれているような感覚だった。
---
高濃度聖属性と魔性反応の混在を確認しました。
状態:極度不安定
警告:長時間接触を避けてください。
---
避けたい。
全力で避けたい。
だが、俺はもう廊下に出ている。
戻るには、リリアの部屋へ戻るしかない。
そこにはリリアがいる。
そして黒い気配は、西礼拝堂の方角から流れてきている。
つまり、元を断たないと部屋に戻っても危険は消えない。
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
でも行くしかない。
俺は短い足で廊下を走った。
正確には、走っているつもりだった。
実際は、体がふらついて何度も転がりそうになっている。
いや、転がること自体は得意だ。
得意というか、最近は俺の主戦力である。
ただ、目的地まで移動するには、転がるより走った方がいい。
たぶん。
「きゅっ、きゅっ」
息が漏れる。
鳴き声なのか、呼吸なのか、自分でもよく分からない。
廊下の先では、神官兵たちが慌ただしく動いていた。
「西礼拝堂側の結界が不安定だ!」
「旧倉庫に近づくな! 司祭長が封じている!」
「負傷者を下げろ!」
声が飛び交う。
誰も俺に気づかない。
いや、気づいても、この状況で小さな珍生物が走っているとは思わないだろう。
俺は人の足元を抜けた。
神官兵の靴。
神官のローブ。
揺れる灯り。
床を這う黒い靄。
それらの間を、必死に進む。
そのたびに、頭の角が熱くなる。
尻尾の銀紋が脈打つ。
体の奥で、進化ゲージが押し上げられていく感覚がある。
見なくても分かる。
もう限界が近い。
だが、ステータス画面は容赦なく開いた。
---
進化ゲージ:98% → 99%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
警告:予兆暴走の危険が上昇しています。
---
九十九%。
あと一%。
だが条件未達。
つまり、満ちそうなのに進化できない。
進化できないのに、体だけは変わり続ける。
最悪だ。
止まっているようで、止まっていない。
やめてほしい。
せめて、止まるならちゃんと止まってほしい。
俺は角を低くして、廊下を進んだ。
西礼拝堂の方角へ近づくほど、白と黒の明滅が強くなる。
壁の聖印が軋むように光り、床の文様から小さな火花が散っていた。
その火花が俺の毛に触れる。
「きゅっ」
ちりっと痛む。
だが、足は止めない。
止めたら怖くなる。
怖くなったら、たぶん戻りたくなる。
戻りたい。
本当は戻りたい。
ふかふかの毛布に戻りたい。
リリアの部屋に戻りたい。
ただの珍生物として、ミルクを飲んでいたい。
でも、俺の危険察知はずっと鳴っている。
保護対象。
リリア・セレスティア。
その文字が、頭の奥に焼きついている。
俺はリリアを守ると決めたわけではない。
そんな大げさな覚悟をしたつもりもない。
ただ、あの子が傷つくのは嫌だった。
俺を拾ってくれた子が。
変な鳴き声でも、角が生えても、銀色の模様が出ても。
それでも俺をノアと呼んでくれる子が。
その居場所を壊されるのは、嫌だった。
「きゅうっ」
俺はまた走った。
◇
西礼拝堂に近づくと、空気が一段重くなった。
礼拝堂の扉は半分開いている。
その奥から、白と黒の光が交互に漏れていた。
旧倉庫は礼拝堂の裏手。
俺は扉の隙間から中へ入る。
礼拝堂の中には、長椅子が並んでいた。
普段なら静かに祈りを捧げる場所なのだろう。
だが今は、床に黒い文様が浮かび、天井近くの聖印が明滅している。
中央には神官兵が数人倒れていた。
意識はある。
呻いている。
だが、立ち上がれないようだ。
司祭長の声が、礼拝堂の奥から響く。
「下がりなさい! これ以上近づけば巻き込まれます!」
俺は声の方へ向かった。
旧倉庫の扉は開いていた。
いや、壊れていた。
扉の片側が外れ、床に倒れている。
その奥。
狭い倉庫の中で、古びた聖具がいくつも宙に浮かんでいた。
割れた聖杯。
欠けた燭台。
ひびの入った小さな聖像。
折れた銀の杖。
それらが、黒い金属の輪の周囲を回っている。
黒い金属の輪。
さっき神官長に仕込まれていた魔性具に似ている。
だが、こちらの方が大きい。
輪の中心には、黒い石のようなものがはめ込まれていた。
そこから魔性が噴き出している。
それを、破損した聖具が受け止め、歪んだ聖属性として周囲にばら撒いている。
聖属性と魔性が、同じ場所でぐちゃぐちゃに混ざっている。
俺の体には最悪。
神殿の結界にも最悪。
ステータス画面が赤く染まる。
---
対象:歪聖魔性具
危険度:極めて高い
特徴:破損聖具を媒介に、聖属性結界を内部から歪めます。
警告:長時間放置により、神殿結界が崩壊します。
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歪聖魔性具。
名前からして嫌だ。
もっと分かりやすく、すごく危ない輪とかでいいだろ。
いや、文句を言っている場合ではない。
倉庫の入口には、司祭長が立っていた。
杖を構え、白い光で魔性具を押さえ込んでいる。
だが、その顔には余裕がなかった。
額に汗。
祭服の裾は黒い靄に触れて、少し焦げている。
近くには侍女ミラらしき少女が倒れていた。
意識はある。
神官兵が彼女を引きずって倉庫から離そうとしている。
ミラは震えながら泣いていた。
「違うんです……私は、言われただけで……あの人に……」
あの人。
誰だ。
犯人か。
だが、今は聞き出している場合ではない。
魔性具の光が膨らむ。
司祭長が歯を食いしばる。
「くっ……!」
白い光が押し戻される。
神殿の床に刻まれた聖印が、一瞬だけ黒く染まった。
まずい。
俺の危険察知が叫ぶ。
---
神殿結界の歪みが拡大しています。
保護対象への間接危険を確認しました。
推奨:魔性具の流れを遮断してください。
---
遮断。
どうやって。
俺は小さい。
噛みついて壊せるような牙もない。
強い魔法もない。
あるのは、よく転がる。
丸くなる。
危険察知。
そして、頭の角から出る小さな浄化火花みたいなもの。
それで、あの大きな魔性具をどうにかしろと?
無理だ。
無理に決まっている。
俺は低級魔物だぞ。
まだ第一進化もしていないんだぞ。
だが、ステータス画面はさらに表示を重ねた。
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聖属性と魔性反応の流路を確認しました。
流路中心:歪聖魔性具下部
脆弱点:結界文様との接続部
---
脆弱点。
壊す場所がある。
俺は床を見る。
魔性具の真下。
黒い輪から伸びる細い影が、床の聖印へ絡みついている。
そこだ。
あの接続部を切れば、魔性具の流れが止まるかもしれない。
問題は。
そこが倉庫の中で、一番白黒の光がぶつかっている場所だということだ。
行きたくない。
絶対に行きたくない。
行ったら俺の体がどうなるか分からない。
いや、分かる。
たぶんゲージが百%に届く。
そして条件未達のまま、予兆暴走する。
ステータスがそう言っている。
俺は一歩下がりかけた。
その時、背後から声がした。
「ノア!」
リリアの声だった。
振り返る。
礼拝堂の入口に、リリアがいた。
アリアが隣にいる。
アリアはリリアを止めようとしているが、完全には止められていない。
リリアは息を切らしていた。
俺を追ってきたのだ。
来ちゃだめだ。
ここは危ない。
俺は思わず鳴いた。
「きゅう!」
戻ってください!
いや、戻れ!
伝わらない。
リリアは俺を見て、泣きそうな顔をした。
「ノア、戻ってください!」
それはこっちの台詞です。
俺は小さな体で、必死に前足を踏ん張った。
リリアが来たことで、魔性具が反応する。
黒い輪の中心の石が、ぎらりと光った。
対象が来た。
そう言っているようだった。
---
保護対象の接近を確認しました。
魔性具が反応しています。
危険度:極めて高い
---
やっぱり。
あれはリリアを狙っている。
リリアが近づくほど、魔性具は強くなる。
アリアが剣を抜き、リリアの前へ出る。
「聖女様、これ以上は危険です!」
「でも、ノアが!」
「だからこそです!」
アリアの声には焦りがあった。
司祭長も叫ぶ。
「リリア様! 近づいてはなりません!」
リリアが足を止める。
だが、戻らない。
俺を見ている。
俺もリリアを見る。
行くな。
戻れ。
そう思っているのに、俺自身も戻れない。
ひどい状況だ。
お互い、相手には危険なことをしてほしくない。
でも、自分は動こうとしている。
リリアが俺を守ろうとする。
俺がリリアを守ろうとする。
その結果、二人とも危険に近づいている。
馬鹿みたいだ。
でも、嫌いじゃなかった。
リリアは声を震わせながら言った。
「ノア、お願いです。無茶をしないでください」
「きゅ……」
無茶は嫌です。
でも。
俺は床の接続部を見る。
あそこを止めないと、神殿の結界が歪む。
リリアの部屋も、孤児院も、神殿全体も危ない。
俺は小さい。
弱い。
でも、脆弱点が見えている。
見えてしまった。
それを見なかったことにはできない。
俺はリリアに向かって、小さく鳴いた。
「きゅ」
ごめんなさい。
たぶん、二度目のごめんなさいだった。
リリアの表情が変わる。
「ノア!」
俺は走った。
倉庫の中へ。
◇
白と黒の光が、全身にぶつかった。
痛い。
寒い。
熱い。
気持ち悪い。
全部同時だ。
足元の床が揺れている。
魔性具の黒い輪が頭上で回っている。
破損した聖具が、ぎしぎしと音を立てながら歪んだ光を放つ。
俺はその下を目指した。
接続部。
黒い影が床の聖印に絡みついている場所。
そこへ向かう。
だが、途中で黒い靄が蛇のように伸びてきた。
俺に巻きつこうとする。
「きゅっ!」
俺は横へ転がった。
---
能力:よく転がる が発動しました。
魔性の拘束を回避しました。
---
よし。
避けた。
だが、転がった先に聖属性の火花が落ちる。
毛がちりっと焦げる。
「きゅうっ!」
熱い。
普通に熱い。
俺は床を蹴って前へ出る。
黒い靄。
白い火花。
割れた聖具から飛ぶ破片。
全部を避けながら進む。
いや、全部は避けられていない。
何度も当たる。
そのたびに、丸くなる。
転がる。
また立つ。
かっこよさはない。
英雄感もない。
小動物が必死に事故現場を横切っているだけだ。
だが、それでいい。
俺は英雄になりたいわけではない。
ただ、リリアの居場所を壊されたくないだけだ。
接続部まで、あと少し。
その時、魔性具の輪が大きく震えた。
黒い光が一気に俺へ集まる。
---
魔性具が妨害対象を認識しました。
危険度:極めて高い
警告:集中攻撃が来ます。
---
集中攻撃。
やめて。
珍生物に使う言葉じゃない。
黒い靄が何本も伸びる。
逃げ場がない。
俺は反射的に丸くなった。
---
能力:丸くなる が発動しました。
被害を軽減します。
---
黒い靄が全身を包む。
冷たい。
重い。
体の奥が濁る。
視界が暗くなる。
でも、完全には潰れない。
俺の角から白い火花が散る。
尻尾の銀紋が光る。
聖属性が魔性を弾き、魔性が聖属性を押し返す。
俺の体の中で、また変質が起きる。
---
高濃度魔性反応に接触しました。
聖属性干渉を確認しました。
固有特性:浄化適性が限界反応を起こしています。
進化ゲージ:99% → 100%
---
百%。
ついに届いた。
だが。
---
進化ゲージが100%に到達しました。
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
完全進化は保留されます。
警告:予兆暴走が発生します。
---
ほら。
最悪だ。
分かっていた。
分かっていたけど、見たくなかった。
体が膨らむような感覚。
角が熱い。
尻尾が熱い。
背中がぞわぞわする。
毛の奥から、銀色の模様がさらに広がっていく。
俺は丸くなったまま、黒い靄の中で震えた。
予兆暴走。
何が起きる?
俺は壊れるのか?
角が伸びるのか?
翼でも生えるのか?
それとも、このまま消えるのか?
怖い。
怖い怖い怖い。
リリアの声が聞こえた。
「ノア!」
彼女が動こうとしている。
だめだ。
近づくな。
魔性具がリリアに反応する。
俺は丸まった体を無理やり開いた。
前足を伸ばす。
接続部は目の前だ。
あと少し。
黒い影が床の聖印に絡みついている。
そこへ、頭の角を向ける。
角から白い火花が出る。
だが、足りない。
なら、体ごと行くしかない。
俺は最後の力で、接続部へ飛び込んだ。
「きゅううっ!」
角が、黒い影と聖印の間に触れた。
瞬間。
白と黒の光が爆ぜた。
音が消えた。
視界が真っ白になる。
体の奥が、ばらばらになって、また無理やり繋ぎ直されるような感覚。
---
聖属性流路と魔性流路に接触しました。
流路遮断を試行します。
固有特性:浄化適性が暴走しています。
保護対象への危険遮断を確認。
進化安定率が上昇します。
---
何かが、俺の中で噛み合った。
暴れていた聖属性と魔性が、ほんの一瞬だけ同じ方向へ流れる。
リリアへ向かう黒い力。
神殿を歪める力。
それを、俺の体が吸い込み、変質させようとする。
無茶だ。
絶対に無茶だ。
俺みたいな小さな体で受け止める量ではない。
だが、その一瞬で十分だった。
床の聖印に絡みついていた黒い影が、ぷつりと切れた。
魔性具の輪が大きく揺れる。
破損した聖具の回転が乱れる。
司祭長が叫んだ。
「今です!」
白い光が、杖から放たれる。
アリアが倉庫の入口から飛び込み、剣の鞘で黒い輪を床へ叩き落とす。
リリアの結界の光が、礼拝堂全体に広がる。
三つの力が重なった。
魔性具の黒い輪が、ぎしりと鳴る。
そして、中心の黒い石にひびが入った。
ぱきん。
小さな音。
だが、その瞬間、黒い靄が一気に薄れた。
神殿の聖印が白く光り直す。
床の文様が戻っていく。
礼拝堂を覆っていた重さが、少しずつ消えていく。
成功した。
たぶん。
俺は接続部の上で、ぺたりと倒れた。
「きゅ……」
無理。
もう無理。
本当に無理。
これ以上は一歩も動けない。
ステータス画面が揺れながら浮かぶ。
---
歪聖魔性具の流路遮断に成功しました。
神殿結界の崩壊を阻止しました。
進化ゲージ:100%
第一進化条件:未達
予兆暴走:継続中
警告:安定化には保護対象との接触、または時間条件達成が必要です。
---
保護対象との接触。
リリアか。
いや、待て。
リリアとの接触は聖属性が危険だ。
でも、安定化には必要?
どっちだ。
ステータス画面、説明が雑だ。
俺は床の上で、ぼんやりとリリアの方を見た。
リリアは礼拝堂の入口で、泣きそうな顔をしている。
アリアがまだ止めている。
司祭長も息を切らしている。
誰もすぐには動けない。
俺の体は熱い。
頭の角が脈打つ。
尻尾の銀紋が光り続けている。
視界の端が白く揺れる。
まずい。
これは本当にまずい。
進化できない。
でも、予兆暴走は止まらない。
体が、勝手に変わろうとしている。
なのに、条件が足りない。
リリアと出会ってから、まだ二日も経っていない。
三日間生存には届いていない。
あと少し足りない。
その少しが、今は遠すぎた。
「ノア!」
リリアがついにアリアの制止を振り切った。
「聖女様!」
アリアが叫ぶ。
だが、リリアは止まらない。
俺の方へ走ってくる。
白いローブが揺れる。
金色の髪が乱れる。
聖女らしい落ち着きなんてない。
ただ、俺を助けようとしている少女だった。
来ないでほしい。
来てほしい。
矛盾した感情が、胸の中でぶつかる。
リリアが俺の前で膝をつく。
手を伸ばす。
その手が震えている。
「ノア、触れても……いいですか?」
こんな時でも聞くのか。
この子は、本当に。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
いいです。
たぶん。
リリアは俺をそっと抱き上げた。
聖属性が流れ込む。
熱い。
でも、さっきまでのような痛みだけではなかった。
リリアの手は震えていた。
でも優しい。
俺を壊さないように、傷つけないように、必死に加減している。
---
保護対象との接触を確認しました。
聖属性接触を確認しました。
浄化適性が安定化を開始します。
予兆暴走を抑制中……
---
抑制。
少しだけ、体の暴れが収まる。
リリアの腕の中は危険だ。
だけど今は、そこが一番安定する。
何なんだ、この矛盾だらけの体は。
俺は力なく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが涙をこぼした。
「ごめんなさい、ノア」
違う。
あなたのせいじゃない。
言いたいのに、声が出ない。
いや、鳴き声は出る。
でも言葉にならない。
俺は前足を少しだけ動かし、リリアのローブに触れた。
それが精一杯だった。
リリアは俺を抱きしめたいのをこらえて、ただ両腕で支えた。
司祭長が近づいてくる。
彼も疲れ切っていたが、目は真剣だった。
「リリア様。そのまま、強い治癒は使わずに。ノアの体は今、聖力に反応しすぎています」
「はい」
「ただ、あなたとの接触で安定しているようです」
アリアが俺を見て、眉を寄せる。
「この子は、聖女様に近づくと危険なのに、離れすぎても不安定になる……?」
「おそらく」
司祭長が答える。
「リリア様の聖力に適応しようとしているのでしょう」
適応。
そうなのかもしれない。
俺は聖女のそばで三日間生存する。
それが進化条件だ。
ただ時間を過ごすだけではない。
聖属性に焼かれながら。
魔性に汚されながら。
それでもリリアのそばで生き続ける。
そうして初めて、俺は次の姿になる。
たぶん、そういう進化なのだ。
面倒くさい。
過酷すぎる。
だが、今さら引き返せない。
リリアは俺を見下ろし、小さく言った。
「ノア。もう大丈夫です。私がいます」
「きゅ……」
それは危険でもあります。
でも、今は助かります。
リリアには伝わらない。
でも彼女は、少しだけ笑った。
伝わったのかもしれない。
気のせいかもしれない。
◇
歪聖魔性具は、司祭長と神官兵たちによって封印された。
完全に壊すと、残った魔性が飛び散る危険があるらしい。
ひびの入った黒い石は、何重にも聖布で包まれ、専用の箱へ収められた。
侍女ミラは救出された。
意識はあるが、かなり衰弱している。
彼女の話によると、顔を隠した人物に呼び出され、旧倉庫へ向かったところを魔性具の近くに閉じ込められたらしい。
犯人の顔は見ていない。
声も、布越しで分からなかったという。
ただ一つ。
ミラは言った。
「あの人は、神殿の通路をよく知っていました」
やはり内部の者。
あるいは、内部に詳しい者。
事件は終わっていない。
魔性具は止めた。
神殿結界の崩壊も防いだ。
だが、犯人はまだ捕まっていない。
俺はリリアの腕の中で、ぼんやりその話を聞いていた。
動けない。
動く気力がない。
だが、意識はある。
眠ってはいない。
寝てしまったら、また日が進んだように感じるから。
……いや、何を考えているんだ俺は。
疲れすぎて思考が変になっている。
リリアは俺を抱えたまま、礼拝堂の長椅子に座っていた。
アリアがすぐ隣に立っている。
司祭長は少し離れた場所で神官兵に指示を出している。
窓の外は、もうほとんど紫に沈んでいる。
夜が近い。
だが、まだ一日は終わっていない。
まだ、三日目も終わっていない。
俺の進化条件は未達。
ゲージは百%。
予兆暴走は、リリアに抱かれていることで何とか抑えられている。
ステータス画面が静かに浮かんだ。
---
進化ゲージ:100%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
現在状態:臨界安定
安定条件:保護対象との接触を維持
注意:条件達成まで、不安定状態が継続します。
---
臨界安定。
また変な言葉が出た。
安定しているのか、不安定なのか、どっちなんだ。
いや、意味は分かる。
爆発寸前で何とか押さえている状態だろう。
俺はリリアの腕の中で小さく息を吐いた。
「きゅ……」
疲れた。
とても疲れた。
リリアが俺を見下ろす。
「ノア、もう少しだけ、このままでいてください」
「きゅ」
はい。
むしろ、このままじゃないとまずそうです。
アリアが低く言った。
「聖女様にも負担がかかります」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「でも、ノアの方が大変です」
「それはそうですが」
アリアが言葉に詰まる。
リリアは俺を見つめたまま、静かに言った。
「この子は、何度も私を守ってくれました。今度は私が支えます」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
守った。
支える。
そんな大げさなことをしたつもりはない。
俺はただ、転がって、丸くなって、邪魔をしただけだ。
でも、リリアがそう受け取るなら。
少しくらいは、そう思ってもいいのかもしれない。
俺はリリアの腕の中で、ほんの少しだけ力を抜いた。
完全に気を抜くのは怖い。
でも、少しだけ。
その時。
礼拝堂の奥で、封印された魔性具が収められた箱から、かすかな音がした。
こつん。
小さな音。
誰も気づかなかった。
いや、俺だけが気づいた。
危険察知が、ほんのわずかに震える。
---
危険察知:微反応
対象:封印箱
危険度:低
備考:残留意志を確認。
---
残留意志。
何だそれ。
魔性具に、意志?
俺は箱を見た。
聖布に包まれた黒い石。
その奥に、まだ何かが残っている。
犯人の気配か。
魔性具を作った者の痕跡か。
それとも、魔性そのものの意思か。
分からない。
分からないが、終わっていない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが気づく。
「ノア?」
俺は箱を見た。
アリアもそれに気づき、すぐに司祭長を呼ぶ。
「司祭長。ノアが封印箱に反応しています」
司祭長の顔が険しくなる。
「まだ何か残っていますか」
その瞬間。
封印箱の中から、かすかな声のようなものが響いた。
声というより、擦れた音。
だが、俺には言葉のように聞こえた。
『……聖女は……まだ……』
リリアが息を呑む。
アリアが剣を抜く。
司祭長が杖を構える。
封印箱はすぐに白い光で包まれ、音は途切れた。
だが、俺は聞いた。
はっきりと。
聖女は、まだ。
その続きが何なのかは分からない。
まだ死んでいない?
まだ利用できる?
まだ終わっていない?
嫌な予感だけが残った。
俺はリリアの腕の中で、尻尾を丸めた。
進化ゲージは百%。
条件は未達。
犯人は不明。
魔性具には、まだ何かが残っている。
そして夜は、少しずつ近づいている。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
聖女様。
どうやら今日はまだ、終わらせてもらえないみたいです。




