第15話 聖女様、珍生物を抱えたまま会議しないでください
封印箱の中から聞こえた声は、すぐに途切れた。
『……聖女は……まだ……』
それだけ。
たったそれだけだった。
だが、礼拝堂の空気は一気に冷えた。
司祭長が杖を構える。
アリアが剣を抜く。
神官兵たちが一斉に封印箱を囲む。
リリアは俺を抱えたまま、息を呑んでいた。
そして俺は。
リリアの腕の中で、ただ固まっていた。
怖い。
普通に怖い。
声が聞こえた。
封印された魔性具から。
いや、正確には魔性具そのものなのか、中に残っていた何かなのかは分からない。
でも、あれはただの音ではなかった。
俺には言葉に聞こえた。
聖女は、まだ。
まだ、何だ。
まだ生きている?
まだ使える?
まだ壊れていない?
続きが分からないからこそ、気持ち悪い。
ステータス画面が薄く浮かぶ。
---
進化ゲージ:100%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
現在状態:臨界安定
安定条件:保護対象との接触を維持
危険察知:封印箱に微反応
---
臨界安定。
つまり俺は今、爆発寸前でリリアに抱えられて何とか保たれている。
とんでもない状態だ。
しかも、そのリリア本人が狙われている。
保護対象との接触が安定条件なのに、保護対象が危険の中心。
仕様が悪い。
ゲームだったらバグ報告を出したい。
だが、ここは現実だ。
俺は白い珍生物で、頭に小さな角があり、体には銀色の模様が出ている。
もはやバグっているのは世界ではなく俺かもしれない。
「全員、封印箱から距離を取りなさい」
司祭長の声が響いた。
「ただし、視線は外さぬように」
神官兵たちが慎重に後退する。
封印箱は、聖布で何重にも巻かれたまま、礼拝堂の床に置かれている。
その周囲には白い光の輪が重ねられていた。
箱そのものは動いていない。
だが、俺の危険察知はそこから目を離すなと言っている。
いや、目を離すなと言われても、俺はリリアの腕の中である。
視界の半分はリリアのローブだ。
柔らかい。
安心する。
でも聖属性が近い。
怖い。
ややこしい。
「司祭長」
アリアが低く問う。
「今の声は?」
「魔性具に残された術式の一部でしょう。使用者の意思か、命令の残滓か、あるいは魔性そのものの反響か」
「危険ですか」
「危険でないものなら、あのような声は出しません」
その通りだ。
司祭長の言葉に、神官兵たちの表情が強張る。
リリアも封印箱を見つめていた。
「聖女は、まだ……」
彼女が小さく繰り返す。
その声に、俺の耳がぴくりと動いた。
リリアは続ける。
「私を狙っていた、ということですよね」
誰もすぐには答えなかった。
答えたくなかったのだと思う。
だが、アリアは逃げなかった。
「その可能性が高いです」
リリアは目を伏せた。
だが、震えなかった。
少なくとも、腕の中の俺に伝わるほどは。
「孤児院を狙ったのも、神官長を陥れようとしたのも、私を動けなくするため……」
「または、聖女様を孤立させるためです」
アリアの声は硬い。
「ですが、先ほどの魔性具を見る限り、目的はそれだけではないかもしれません」
司祭長が頷く。
「リリア様を殺めるつもりだったのか、それとも、あなたの聖力を利用するつもりだったのか。そこを見極める必要があります」
利用。
その言葉に、リリアの腕がわずかに強張った。
俺も尻尾を丸める。
聖女の聖力を利用する。
たとえば、神殿の結界を歪めるために。
破損した聖具と魔性具をつなぐために。
リリアが近づくほど反応が強くなったのは、リリア自身の聖力を餌にしていたからなのかもしれない。
嫌な話だ。
この世界、善意とか聖なる力とかを悪用するやつが多すぎる。
リリアは静かに言った。
「私の力が、誰かを傷つけるために使われるのは嫌です」
その声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
俺はリリアを見上げる。
この子は、本当にそこを気にするのか。
自分が狙われたことより、自分の力が悪用されることを。
やっぱり聖女なのだと思う。
かなり変な聖女だが。
俺の頭の角を個性と言い張る、だいぶ変な聖女だが。
それでも、彼女は聖女なのだ。
「きゅ……」
俺は小さく鳴いた。
リリアが俺を見る。
「ノア?」
大丈夫です。
と言いたかった。
でも、たぶん大丈夫ではない。
リリアも、神殿も、俺の体も。
全部が、ぎりぎりだ。
だから俺は、もう一度鳴いた。
「きゅ」
俺はここにいます。
それくらいの意味になればいい。
リリアは少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
伝わったのか。
それとも、リリアが都合よく受け取ったのか。
どちらでもよかった。
◇
封印箱は、礼拝堂の奥にある隔離用の祭壇へ移された。
司祭長と神官兵たちが、何重にも封を重ねていく。
俺はリリアの腕の中からそれを見ていた。
リリアは俺を下ろそうとしなかった。
いや、下ろせなかった。
ステータスによれば、俺の安定条件はリリアとの接触維持。
実際、リリアの腕から少し離れようとすると、体の奥がざわつく。
角が熱を持ち、銀紋がうっすら光る。
反対に、リリアの腕の中にいると、聖属性がちりちりするものの、体の暴れは少し収まる。
危険なのに安全。
安全なのに危険。
意味が分からない。
俺の体、面倒くさすぎる。
「司祭長」
リリアが声をかける。
「ノアは、このままで大丈夫なのでしょうか」
司祭長は封印の手を止め、俺を見た。
「今は、リリア様のそばにいることで安定しているように見えます。ただし、強い治癒や浄化は使わないでください」
「はい」
「触れているだけでよい。聖力を流し込もうとしないことです」
リリアは真剣に頷いた。
「分かりました」
俺は内心でほっとした。
リリアが善意で治癒を始めたら、本当に進化条件未達のまま何か起きかねない。
善意が怖い。
この作品の聖女様、善意で俺を限界突破させかねない。
アリアが俺の状態を見ながら言った。
「聖女様がノアを抱えたまま動くのは危険ではありませんか」
「危険です」
司祭長は即答した。
即答しないでほしかった。
「ですが、離すのも危険でしょう」
もっと嫌だ。
どっちも危険。
つまり俺は、持ち運び注意の爆発物みたいな扱いになっている。
珍生物から爆発物へ。
肩書きの変化がひどい。
リリアは俺を抱える腕に力を込めすぎないよう、慎重に支え直した。
「では、私が動かなければいいのですね」
「それが最善です」
司祭長が頷く。
「しばらくはリリア様の部屋へ戻り、結界を整えたうえで待機してください」
「待機……」
リリアは少しだけ言葉を詰まらせた。
彼女は動きたいのだろう。
ミラのことも、神官長のことも、神殿の結界のことも心配している。
だが、今は俺を抱えている。
俺が不安定だから、リリアも動けない。
俺はリリアの負担になっている。
その事実が、少しだけ胸に刺さった。
「きゅ……」
ごめんなさい。
そう鳴いたつもりだった。
リリアは俺を見下ろす。
「ノアが謝ることではありません」
鋭い。
やっぱりたまに鋭い。
「私が、ノアを支えたいのです」
その言葉に、俺は黙った。
いや、鳴けなかった。
リリアはずるい。
こういう時だけ、真っ直ぐすぎる。
アリアが小さく息を吐いた。
「聖女様。移動するなら、私が前に立ちます。司祭長、後方をお願いします」
「分かりました」
こうして俺たちは、礼拝堂からリリアの部屋へ戻ることになった。
俺はリリアの腕の中。
リリアは俺を抱えたまま。
アリアが前。
司祭長が後ろ。
神官兵が左右。
まるで重要人物の護送である。
いや、重要人物はリリアだ。
俺は何だ。
重要珍生物か。
嫌な出世である。
◇
礼拝堂からリリアの部屋へ戻る道は、さっき走ってきた時よりも長く感じた。
廊下の聖印は、まだ完全には安定していない。
白い光がゆっくり戻っているものの、ところどころに黒い靄の名残があった。
神官兵たちがそれを浄化している。
俺はそのたびに体をこわばらせた。
浄化の光が近い。
魔性の名残も近い。
そしてリリアの聖属性も近い。
三方向から刺激が来る。
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臨界安定状態を維持しています。
注意:外部刺激が多すぎます。
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知ってる。
こっちが一番知ってる。
外部刺激が多すぎる。
物理的にも精神的にも。
俺はリリアの腕の中で、できるだけ小さく丸まった。
すると角がリリアのローブに触れそうになる。
慌てて首の角度を変える。
今の俺は、丸まることすら難しい。
角、邪魔すぎる。
第一進化後にもっと伸びたらどうなるんだ。
日常生活に支障が出る。
いや、もう出ている。
リリアが小声で言った。
「ノア、角が当たらないようにしますね」
「きゅ……」
ありがとうございます。
その言い方だと、もう角確定ですね。
個性ではなく。
リリアは一瞬だけ固まった。
そして、少し困ったように笑った。
「……大切な個性です」
言い直した。
今さらである。
アリアが前を歩きながら低く言った。
「聖女様。さすがに角でよろしいかと」
「ノアが怖がります」
「ノアはすでに分かっていると思います」
「それでもです」
リリアの声は穏やかだった。
「怖いものを、無理に怖い名前で呼ばなくてもいいと思います」
俺は目を上げた。
リリアは廊下の先を見ている。
その横顔は、少し疲れている。
でも、優しい。
「ノアが自分で受け止められるまでは、私は個性と呼びます」
「……聖女様らしいですね」
アリアはそれ以上言わなかった。
俺も何も言えなかった。
俺は、自分の変化が怖い。
角も、銀紋も、進化も。
それをリリアは分かっていたのかもしれない。
ただ鈍感だから寝癖や個性と言っていたわけではなく。
俺が怖がらないように。
周りが怖がらないように。
そう呼んでいたのかもしれない。
もちろん、半分くらいは本気でそう思っていそうだ。
そこがリリアだ。
リリアの部屋に戻ると、扉の前にはさらに神官兵が増えていた。
部屋の中も確認済み。
窓も閉じられ、聖印が強化されている。
俺にとっては若干きつい。
だが、外から魔性具が飛び込んでくるよりはましだ。
たぶん。
リリアは椅子に座り、俺を膝の上ではなく、両腕で支えるように抱えた。
胸元に近づけすぎない。
頭の角に触れない。
聖力を流さない。
その全部を気にしている。
器用だ。
かなり神経を使っているはずだ。
「聖女様」
アリアが言った。
「その姿勢では長く持ちません。腕に負担がかかります」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
今日何回目だ、この会話。
しかし今回はアリアが正しい。
俺は小さいとはいえ、昨日より大きくなっている。
さらに角やら銀紋やらで、触れ方にも注意がいる。
リリアがずっと抱え続けるのは大変だろう。
司祭長が提案した。
「聖女様の椅子の横に、ノア用の台を置きましょう。完全に離さず、手が触れる程度の距離を保てばよいかもしれません」
なるほど。
それならリリアの負担が減る。
俺も少し楽かもしれない。
すぐに侍女たちが、小さな丸い台と柔らかい布を用意した。
台の上に布を敷き、そこに俺を置く。
リリアはすぐ隣に座り、俺の前足に指先だけを添える。
触れている。
でも抱えられてはいない。
ちり、と微かな刺激。
だが、体の暴れは収まる。
---
保護対象との接触を確認しました。
臨界安定を維持しています。
---
いける。
これならいける。
俺は台の上で横になった。
変な状態だ。
聖女の隣に置かれた、角つき銀模様の白い珍生物。
しかも前足を聖女に握られている。
絵面だけなら、だいぶ神聖かもしれない。
中身は元会社員だが。
台無しである。
◇
そのまま、リリアの部屋で緊急の話し合いが始まった。
やめてほしい。
俺を臨界安定させたまま会議をしないでほしい。
でも、状況的に仕方ないらしい。
部屋には、リリア、アリア、司祭長。
それから侍女長と、数人の神官兵。
俺は台の上。
リリアの指先が俺の前足に添えられている。
会議机ではない。
だが、なぜか俺が中心にいるような配置だった。
嫌だ。
会議の中心珍生物。
責任が重い。
司祭長がまず口を開いた。
「西礼拝堂の旧倉庫に仕掛けられていた魔性具は、神殿結界を内側から歪めるためのものでした」
アリアが頷く。
「目的は神殿への魔性流入ですか」
「それもあります。しかし、もう一つ」
司祭長はリリアを見る。
「リリア様の聖力を反応させることが目的だった可能性があります」
リリアの指先が少しだけ動いた。
俺の前足に触れているので、その緊張が伝わってくる。
「私の聖力を?」
「はい。あの仕掛けは、破損した聖具を利用していました。通常の神官では反応しきれない。しかし、リリア様ほどの聖力を持つ方が近づけば、大きく共鳴する」
「つまり、私が行っていたら……」
「魔性具は、さらに強く反応したでしょう」
リリアが唇を結ぶ。
俺は前足を少し動かした。
リリアの指先に触れる。
「きゅ……」
行かなくてよかったです。
本当に。
リリアは俺を見て、小さく頷いた。
「ノアが教えてくれたから、分かりました」
いや、俺は結局行ったんですけどね。
行くなと言われて、走りましたけどね。
その点はあまり美談にしないでください。
アリアが冷静に言う。
「犯人は、聖女様の性格を知っていた可能性が高いです」
「私の性格?」
「はい。孤児院が危険なら向かう。侍女が危険なら助けようとする。神殿結界が歪めば、自ら浄化しようとする。そう読んでいた」
リリアは黙った。
図星なのだろう。
俺もそう思う。
リリアなら向かう。
止められても、誰かが危ないと聞けば動こうとする。
だから犯人は、それを利用した。
リリアの優しさを罠にした。
かなり腹が立つ。
俺は小さく喉を鳴らした。
「きゅう……」
アリアが俺を見る。
「怒っていますか」
バレた。
リリアも俺を見る。
「ノア、怒ってくれているのですか?」
「きゅ」
たぶん。
怒っています。
リリアの優しさを罠に使ったやつに。
リリアは少しだけ目を潤ませた。
「ありがとうございます」
アリアが低く言う。
「聖女様。感動するところではなく、対策するところです」
「はい」
リリアは真面目な顔に戻った。
この切り替えは大事だ。
司祭長が続ける。
「もう一つ、分かったことがあります」
部屋の空気がさらに引き締まる。
「侍女ミラの証言です。彼女を旧倉庫へ誘導した人物は、顔を隠していました。しかし、ひとつだけ特徴がありました」
「特徴?」
「右手に、古い火傷の跡があったそうです」
右手の火傷。
俺は耳を立てる。
また新しい手がかりだ。
アリアの目が鋭くなる。
「神殿内で該当者は?」
「調べています。ただ、火傷跡を隠している場合もあります」
司祭長は少しだけ視線を落とした。
「そして、残念ながら、一人心当たりがあります」
リリアが息を呑む。
アリアが問う。
「誰です」
司祭長は重く答えた。
「神殿の予定管理を補佐している副神官、エルドです」
エルド。
知らない名前だ。
だが、リリアは知っていた。
「エルド神官が……?」
「断定はできません」
司祭長は慎重に言う。
「しかし、彼はリリア様の予定表に触れる立場にあり、神官長の管理紋を一時的に預かる機会もありました。さらに、数年前、浄化炉の事故で右手を負傷しています」
条件が揃いすぎている。
怪しい。
ただ、神官長の時も怪しすぎた。
俺は少し警戒する。
犯人は、わざと怪しい人物を作る。
今回もそうかもしれない。
アリアも同じ考えらしく、すぐには結論を出さなかった。
「エルド神官の所在は?」
「現在、確認中です」
その言葉の直後、扉が叩かれた。
全員が反応する。
アリアが剣へ手を伸ばす。
「誰です」
「司祭長! エルド神官が見つかりません!」
外から神官兵の声がする。
来た。
見つからない。
まただ。
ミラも消えた。
今度はエルド。
怪しすぎる。
だが、怪しすぎるからこそ、犯人なのか罠なのか分からない。
司祭長の顔が険しくなる。
「最後に確認された場所は」
「東棟の記録室です。その後、姿がありません」
記録室。
予定表や管理記録がある場所だろうか。
危険察知が、ぴり、と震えた。
俺は顔を上げる。
ステータスが開く。
---
危険察知:中反応
対象:東棟記録室
危険度:不明
備考:魔性反応の痕跡あり。
---
またか。
今度は東棟記録室。
西礼拝堂旧倉庫の次は記録室。
犯人は本当に動き回っている。
俺は思わず鳴いた。
「きゅ……」
アリアが即座にこちらを見る。
「ノア?」
俺は東側を見た。
正確な場所は分からないが、記録室という言葉に反応しているのは確かだ。
司祭長もすぐ察した。
「記録室に反応していますか」
「きゅ」
はい。
たぶん。
リリアの指先が俺の前足を少しだけ包む。
強く握るのではなく、添えるだけ。
「ノアは行きません」
リリアがきっぱり言った。
早い。
断固としている。
「この子はもう限界です。これ以上は行かせません」
俺はリリアを見上げた。
ありがたい。
本当にありがたい。
そして少し申し訳ない。
アリアが頷く。
「同意します。記録室へは私が向かいます」
「いえ」
司祭長が首を横に振る。
「アリアはここに。リリア様とノアの警護を最優先にしてください。記録室には神官兵を向かわせます」
「しかし」
「犯人の狙いがリリア様なら、護衛を外すべきではありません」
アリアは歯を食いしばり、頷いた。
「承知しました」
俺は少し安心した。
アリアが残る。
これはかなり大きい。
リリアと俺だけになったら不安すぎる。
いや、司祭長もいるが、司祭長は忙しすぎる。
その時、外の神官兵が追加で報告した。
「それと、記録室の床に黒い粉が見つかりました。封虫の粉と似ています!」
部屋の空気が冷える。
やはり記録室にも痕跡がある。
エルドが犯人なのか。
それともエルドも罠にかけられたのか。
分からない。
リリアが静かに言った。
「エルド神官を、犯人としてではなく、行方不明者として探してください」
侍女ミラの時と同じだ。
決めつけない。
まずは無事を確認する。
リリアらしい。
司祭長は深く頷いた。
「そのように」
指示が飛ぶ。
神官兵たちが動き出す。
また神殿内が騒がしくなる。
俺は台の上で、リリアの指先に触れたまま、じっとしていた。
動けない。
行けない。
でも、危険察知は反応する。
もどかしい。
俺は見えている危険を、全部自分で確かめに行きたいわけではない。
むしろ行きたくない。
でも、分かってしまうと落ち着かない。
傘が欲しいのに、ずぶ濡れにならないともらえない。
あの時と同じだ。
スキルを得ても、結局危険の中にいる。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが俺を見る。
「ノア、ここにいてくださいね」
「きゅ」
はい。
今度こそ。
今度こそ行きません。
たぶん。
◇
時間が少しだけ進んだ。
夜の気配が、神殿の窓の外に濃くなっている。
ただ、部屋の中にいる者たちに、夜を迎える落ち着きはなかった。
報告が何度も届く。
エルド神官はまだ見つからない。
記録室には、予定表の写しが一部失われていた。
保管庫の古い鍵の記録も消えていた。
さらに、神官長の管理紋を複製するために使えそうな古い印型が、一つ無くなっていることも分かった。
証拠がどんどんエルドへ向かっている。
だが、やはり分かりやすすぎる。
俺は台の上で考える。
もしエルドが犯人なら、なぜここまで自分につながる痕跡を残す?
焦っているから?
それとも、もう逃げ切るつもりだから?
あるいは、エルドも誰かに嵌められている?
考えれば考えるほど分からない。
俺は探偵ではない。
転がる珍生物だ。
何度言えばいいんだ。
俺自身に。
リリアは俺の前足に指を添えたまま、報告を聞いていた。
彼女の顔には疲れが見える。
それでも、姿勢は崩さない。
「司祭長」
「はい」
「エルド神官がもし見つかったら、まず保護してください。追い詰めないでください」
「分かっております」
「神官長の時のように、何かを仕込まれている可能性があります」
「ええ」
リリアは学んでいる。
優しいだけではなく、状況を見ている。
俺はそこに少し安心した。
その時、俺の危険察知が唐突に震えた。
強い反応ではない。
だが、妙に鋭い。
対象は、部屋の中。
俺は顔を上げた。
リリア。
アリア。
司祭長。
侍女長。
神官兵。
誰だ。
何だ。
危険察知は、誰かではなく、机の上の書類に反応していた。
記録室から届いた報告書。
その一番上。
---
危険察知:微反応
対象:記録室からの報告書
危険度:低
備考:情報の欠落を確認。
---
情報の欠落。
何だそれ。
危険察知、だんだん抽象的になっていないか?
でも、何かがおかしいらしい。
俺は報告書を見つめた。
「きゅ」
アリアが気づく。
「報告書ですか」
司祭長が紙を手に取る。
「どの部分でしょう」
俺は前足を動かそうとした。
リリアの指が離れかける。
その瞬間、体の奥がざわついた。
「きゅっ……」
まずい。
離れると不安定になる。
リリアがすぐに指を戻す。
「ごめんなさい」
「きゅ……」
大丈夫です。
たぶん。
だが、前足を動かせない。
リリアとの接触を保つ必要がある。
ならどうする。
俺は視線だけで紙を見る。
報告書の文字。
行方不明のエルド。
記録室。
失われた予定表の写し。
古い鍵の記録。
印型の紛失。
その下に、もう一つ。
破損聖具搬出記録。
西礼拝堂旧倉庫へ運ばれた破損聖具の一覧。
そこに反応している。
「きゅ」
俺はその行を見たまま鳴いた。
司祭長が目で追う。
「破損聖具の搬出記録……?」
危険察知が少し強くなる。
そこだ。
俺は鳴く。
「きゅ」
司祭長の目が鋭くなる。
「おかしい。西礼拝堂旧倉庫に移された破損聖具の数が、記録より多い」
アリアが問う。
「つまり?」
「誰かが、記録外の破損聖具を追加しています」
リリアが息を呑む。
「それもエルド神官が?」
「記録上は、そう見えるようになっている」
司祭長は紙を睨む。
「しかし、この筆跡はエルドのものに似せているだけです」
筆跡。
俺には分からない。
だが、司祭長には分かるらしい。
「では、エルド神官も……」
リリアが言いかける。
司祭長は頷いた。
「濡れ衣の可能性が高まりました」
やっぱり。
俺は小さく息を吐いた。
エルドが犯人ではない可能性。
では、本当の犯人は誰だ?
リリアの予定表に触れられる。
神官長の管理紋を利用できる。
記録室の書類を改ざんできる。
破損聖具を動かせる。
侍女服の布を使える。
神殿の通路に詳しい。
かなり内部に近い人物だ。
司祭長が静かに言った。
「犯人は、エルドを犯人にするつもりです」
アリアが眉を寄せる。
「では、エルド神官が危ない」
「ええ」
その時、扉の外から叫び声がした。
「エルド神官を発見!」
全員が反応する。
神官兵の声が続く。
「東棟の外階段付近です! ですが、意識がなく、近くに魔性具が――!」
言葉が途切れた。
次の瞬間、遠くで黒い光が上がった。
窓の外が一瞬、暗く染まる。
俺の危険察知が強く鳴った。
---
危険察知:強反応
対象:東棟外階段
危険度:高
警告:証拠隠滅および口封じの可能性があります。
---
口封じ。
エルドを消すつもりか。
犯人に仕立て上げて、最後に口封じする。
やり方が汚い。
かなり汚い。
リリアが立ち上がりかける。
アリアが止める。
「聖女様!」
「でも、エルド神官が!」
「行けません!」
俺も動きかけた。
だが、リリアの指が離れると体がざわつく。
動けない。
今の俺は、リリアから離れられない。
行きたくないのに、行けないことが苦しい。
矛盾している。
俺は小さく鳴いた。
「きゅう……」
司祭長が即座に指示を出す。
「神官兵を向かわせなさい! エルドを保護、魔性具は破壊せず封印!」
「はっ!」
アリアが歯を食いしばっている。
彼女も行きたいはずだ。
だが、リリアを守るために動けない。
リリアも、俺を支えるために動けない。
みんなが、犯人の作った状況に縛られている。
その時、ステータス画面が開いた。
---
保護対象の行動制限を確認しました。
危険対象:エルド神官
推定:保護対象に関わる重要人物
危険察知が拡張反応を示しています。
---
拡張反応。
また新しい表示。
俺は顔を上げた。
危険察知が、東棟の方向だけでなく、部屋の中にも反応している。
違う。
エルドを狙う魔性具だけではない。
この騒ぎそのものが、囮だ。
そう思った瞬間、俺の背筋が冷えた。
リリアを部屋に留める。
アリアを動けなくする。
司祭長を指示に追わせる。
神官兵を東棟へ走らせる。
では、今、薄くなっている場所はどこだ?
リリアの部屋。
この周辺。
俺は扉ではなく、窓の方を見た。
危険察知が鋭く震える。
---
危険察知:強反応
対象:窓外
危険度:高
警告:接近中
---
来た。
こっちが本命だ。
俺は鳴いた。
「きゅっ!」
アリアが振り向く。
「窓!」
彼女が叫ぶより早く、窓の外で何かが動いた。
黒い布をまとった小柄な影。
さっき庭の柱の影にいた者。
その人物が、窓の外に立っていた。
顔は隠れている。
右手は見えない。
だが、その手には黒い短い杖のようなものが握られていた。
リリアが息を呑む。
アリアが剣を抜く。
司祭長が杖を構える。
俺の進化ゲージは百%。
条件は未達。
臨界安定。
リリアとの接触で辛うじて保たれている。
動けない。
でも、敵は目の前に来た。
黒い影が、窓越しにこちらを見た。
そして、くぐもった声で笑う。
「やはり、そこにいたか」
誰に言ったのか。
リリアか。
俺か。
それとも、両方か。
黒い杖の先が、窓の聖印に触れる。
じゅ、と嫌な音がした。
聖印が黒く焦げ始める。
アリアが前へ出る。
「下がれ!」
黒い影は笑った。
「聖女も、珍しい獣も、まとめていただく」
珍しい獣。
俺のことだ。
どうやら、ついに犯人にも目をつけられたらしい。
嫌すぎる。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
聖女様。
やっぱり今日は、まだ終わってくれないみたいです。




