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第15話 聖女様、珍生物を抱えたまま会議しないでください

 封印箱の中から聞こえた声は、すぐに途切れた。


『……聖女は……まだ……』


 それだけ。


 たったそれだけだった。


 だが、礼拝堂の空気は一気に冷えた。


 司祭長が杖を構える。


 アリアが剣を抜く。


 神官兵たちが一斉に封印箱を囲む。


 リリアは俺を抱えたまま、息を呑んでいた。


 そして俺は。


 リリアの腕の中で、ただ固まっていた。


 怖い。


 普通に怖い。


 声が聞こえた。


 封印された魔性具から。


 いや、正確には魔性具そのものなのか、中に残っていた何かなのかは分からない。


 でも、あれはただの音ではなかった。


 俺には言葉に聞こえた。


 聖女は、まだ。


 まだ、何だ。


 まだ生きている?


 まだ使える?


 まだ壊れていない?


 続きが分からないからこそ、気持ち悪い。


 ステータス画面が薄く浮かぶ。


---


進化ゲージ:100%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


安定条件:保護対象との接触を維持


危険察知:封印箱に微反応


---


 臨界安定。


 つまり俺は今、爆発寸前でリリアに抱えられて何とか保たれている。


 とんでもない状態だ。


 しかも、そのリリア本人が狙われている。


 保護対象との接触が安定条件なのに、保護対象が危険の中心。


 仕様が悪い。


 ゲームだったらバグ報告を出したい。


 だが、ここは現実だ。


 俺は白い珍生物で、頭に小さな角があり、体には銀色の模様が出ている。


 もはやバグっているのは世界ではなく俺かもしれない。


「全員、封印箱から距離を取りなさい」


 司祭長の声が響いた。


「ただし、視線は外さぬように」


 神官兵たちが慎重に後退する。


 封印箱は、聖布で何重にも巻かれたまま、礼拝堂の床に置かれている。


 その周囲には白い光の輪が重ねられていた。


 箱そのものは動いていない。


 だが、俺の危険察知はそこから目を離すなと言っている。


 いや、目を離すなと言われても、俺はリリアの腕の中である。


 視界の半分はリリアのローブだ。


 柔らかい。


 安心する。


 でも聖属性が近い。


 怖い。


 ややこしい。


「司祭長」


 アリアが低く問う。


「今の声は?」


「魔性具に残された術式の一部でしょう。使用者の意思か、命令の残滓か、あるいは魔性そのものの反響か」


「危険ですか」


「危険でないものなら、あのような声は出しません」


 その通りだ。


 司祭長の言葉に、神官兵たちの表情が強張る。


 リリアも封印箱を見つめていた。


「聖女は、まだ……」


 彼女が小さく繰り返す。


 その声に、俺の耳がぴくりと動いた。


 リリアは続ける。


「私を狙っていた、ということですよね」


 誰もすぐには答えなかった。


 答えたくなかったのだと思う。


 だが、アリアは逃げなかった。


「その可能性が高いです」


 リリアは目を伏せた。


 だが、震えなかった。


 少なくとも、腕の中の俺に伝わるほどは。


「孤児院を狙ったのも、神官長を陥れようとしたのも、私を動けなくするため……」


「または、聖女様を孤立させるためです」


 アリアの声は硬い。


「ですが、先ほどの魔性具を見る限り、目的はそれだけではないかもしれません」


 司祭長が頷く。


「リリア様を殺めるつもりだったのか、それとも、あなたの聖力を利用するつもりだったのか。そこを見極める必要があります」


 利用。


 その言葉に、リリアの腕がわずかに強張った。


 俺も尻尾を丸める。


 聖女の聖力を利用する。


 たとえば、神殿の結界を歪めるために。


 破損した聖具と魔性具をつなぐために。


 リリアが近づくほど反応が強くなったのは、リリア自身の聖力を餌にしていたからなのかもしれない。


 嫌な話だ。


 この世界、善意とか聖なる力とかを悪用するやつが多すぎる。


 リリアは静かに言った。


「私の力が、誰かを傷つけるために使われるのは嫌です」


 その声は小さかった。


 でも、はっきりしていた。


 俺はリリアを見上げる。


 この子は、本当にそこを気にするのか。


 自分が狙われたことより、自分の力が悪用されることを。


 やっぱり聖女なのだと思う。


 かなり変な聖女だが。


 俺の頭の角を個性と言い張る、だいぶ変な聖女だが。


 それでも、彼女は聖女なのだ。


「きゅ……」


 俺は小さく鳴いた。


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 大丈夫です。


 と言いたかった。


 でも、たぶん大丈夫ではない。


 リリアも、神殿も、俺の体も。


 全部が、ぎりぎりだ。


 だから俺は、もう一度鳴いた。


「きゅ」


 俺はここにいます。


 それくらいの意味になればいい。


 リリアは少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます」


 伝わったのか。


 それとも、リリアが都合よく受け取ったのか。


 どちらでもよかった。


     ◇


 封印箱は、礼拝堂の奥にある隔離用の祭壇へ移された。


 司祭長と神官兵たちが、何重にも封を重ねていく。


 俺はリリアの腕の中からそれを見ていた。


 リリアは俺を下ろそうとしなかった。


 いや、下ろせなかった。


 ステータスによれば、俺の安定条件はリリアとの接触維持。


 実際、リリアの腕から少し離れようとすると、体の奥がざわつく。


 角が熱を持ち、銀紋がうっすら光る。


 反対に、リリアの腕の中にいると、聖属性がちりちりするものの、体の暴れは少し収まる。


 危険なのに安全。


 安全なのに危険。


 意味が分からない。


 俺の体、面倒くさすぎる。


「司祭長」


 リリアが声をかける。


「ノアは、このままで大丈夫なのでしょうか」


 司祭長は封印の手を止め、俺を見た。


「今は、リリア様のそばにいることで安定しているように見えます。ただし、強い治癒や浄化は使わないでください」


「はい」


「触れているだけでよい。聖力を流し込もうとしないことです」


 リリアは真剣に頷いた。


「分かりました」


 俺は内心でほっとした。


 リリアが善意で治癒を始めたら、本当に進化条件未達のまま何か起きかねない。


 善意が怖い。


 この作品の聖女様、善意で俺を限界突破させかねない。


 アリアが俺の状態を見ながら言った。


「聖女様がノアを抱えたまま動くのは危険ではありませんか」


「危険です」


 司祭長は即答した。


 即答しないでほしかった。


「ですが、離すのも危険でしょう」


 もっと嫌だ。


 どっちも危険。


 つまり俺は、持ち運び注意の爆発物みたいな扱いになっている。


 珍生物から爆発物へ。


 肩書きの変化がひどい。


 リリアは俺を抱える腕に力を込めすぎないよう、慎重に支え直した。


「では、私が動かなければいいのですね」


「それが最善です」


 司祭長が頷く。


「しばらくはリリア様の部屋へ戻り、結界を整えたうえで待機してください」


「待機……」


 リリアは少しだけ言葉を詰まらせた。


 彼女は動きたいのだろう。


 ミラのことも、神官長のことも、神殿の結界のことも心配している。


 だが、今は俺を抱えている。


 俺が不安定だから、リリアも動けない。


 俺はリリアの負担になっている。


 その事実が、少しだけ胸に刺さった。


「きゅ……」


 ごめんなさい。


 そう鳴いたつもりだった。


 リリアは俺を見下ろす。


「ノアが謝ることではありません」


 鋭い。


 やっぱりたまに鋭い。


「私が、ノアを支えたいのです」


 その言葉に、俺は黙った。


 いや、鳴けなかった。


 リリアはずるい。


 こういう時だけ、真っ直ぐすぎる。


 アリアが小さく息を吐いた。


「聖女様。移動するなら、私が前に立ちます。司祭長、後方をお願いします」


「分かりました」


 こうして俺たちは、礼拝堂からリリアの部屋へ戻ることになった。


 俺はリリアの腕の中。


 リリアは俺を抱えたまま。


 アリアが前。


 司祭長が後ろ。


 神官兵が左右。


 まるで重要人物の護送である。


 いや、重要人物はリリアだ。


 俺は何だ。


 重要珍生物か。


 嫌な出世である。


     ◇


 礼拝堂からリリアの部屋へ戻る道は、さっき走ってきた時よりも長く感じた。


 廊下の聖印は、まだ完全には安定していない。


 白い光がゆっくり戻っているものの、ところどころに黒い靄の名残があった。


 神官兵たちがそれを浄化している。


 俺はそのたびに体をこわばらせた。


 浄化の光が近い。


 魔性の名残も近い。


 そしてリリアの聖属性も近い。


 三方向から刺激が来る。


---


臨界安定状態を維持しています。


注意:外部刺激が多すぎます。


---


 知ってる。


 こっちが一番知ってる。


 外部刺激が多すぎる。


 物理的にも精神的にも。


 俺はリリアの腕の中で、できるだけ小さく丸まった。


 すると角がリリアのローブに触れそうになる。


 慌てて首の角度を変える。


 今の俺は、丸まることすら難しい。


 角、邪魔すぎる。


 第一進化後にもっと伸びたらどうなるんだ。


 日常生活に支障が出る。


 いや、もう出ている。


 リリアが小声で言った。


「ノア、角が当たらないようにしますね」


「きゅ……」


 ありがとうございます。


 その言い方だと、もう角確定ですね。


 個性ではなく。


 リリアは一瞬だけ固まった。


 そして、少し困ったように笑った。


「……大切な個性です」


 言い直した。


 今さらである。


 アリアが前を歩きながら低く言った。


「聖女様。さすがに角でよろしいかと」


「ノアが怖がります」


「ノアはすでに分かっていると思います」


「それでもです」


 リリアの声は穏やかだった。


「怖いものを、無理に怖い名前で呼ばなくてもいいと思います」


 俺は目を上げた。


 リリアは廊下の先を見ている。


 その横顔は、少し疲れている。


 でも、優しい。


「ノアが自分で受け止められるまでは、私は個性と呼びます」


「……聖女様らしいですね」


 アリアはそれ以上言わなかった。


 俺も何も言えなかった。


 俺は、自分の変化が怖い。


 角も、銀紋も、進化も。


 それをリリアは分かっていたのかもしれない。


 ただ鈍感だから寝癖や個性と言っていたわけではなく。


 俺が怖がらないように。


 周りが怖がらないように。


 そう呼んでいたのかもしれない。


 もちろん、半分くらいは本気でそう思っていそうだ。


 そこがリリアだ。


 リリアの部屋に戻ると、扉の前にはさらに神官兵が増えていた。


 部屋の中も確認済み。


 窓も閉じられ、聖印が強化されている。


 俺にとっては若干きつい。


 だが、外から魔性具が飛び込んでくるよりはましだ。


 たぶん。


 リリアは椅子に座り、俺を膝の上ではなく、両腕で支えるように抱えた。


 胸元に近づけすぎない。


 頭の角に触れない。


 聖力を流さない。


 その全部を気にしている。


 器用だ。


 かなり神経を使っているはずだ。


「聖女様」


 アリアが言った。


「その姿勢では長く持ちません。腕に負担がかかります」


「大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


 今日何回目だ、この会話。


 しかし今回はアリアが正しい。


 俺は小さいとはいえ、昨日より大きくなっている。


 さらに角やら銀紋やらで、触れ方にも注意がいる。


 リリアがずっと抱え続けるのは大変だろう。


 司祭長が提案した。


「聖女様の椅子の横に、ノア用の台を置きましょう。完全に離さず、手が触れる程度の距離を保てばよいかもしれません」


 なるほど。


 それならリリアの負担が減る。


 俺も少し楽かもしれない。


 すぐに侍女たちが、小さな丸い台と柔らかい布を用意した。


 台の上に布を敷き、そこに俺を置く。


 リリアはすぐ隣に座り、俺の前足に指先だけを添える。


 触れている。


 でも抱えられてはいない。


 ちり、と微かな刺激。


 だが、体の暴れは収まる。


---


保護対象との接触を確認しました。


臨界安定を維持しています。


---


 いける。


 これならいける。


 俺は台の上で横になった。


 変な状態だ。


 聖女の隣に置かれた、角つき銀模様の白い珍生物。


 しかも前足を聖女に握られている。


 絵面だけなら、だいぶ神聖かもしれない。


 中身は元会社員だが。


 台無しである。


     ◇


 そのまま、リリアの部屋で緊急の話し合いが始まった。


 やめてほしい。


 俺を臨界安定させたまま会議をしないでほしい。


 でも、状況的に仕方ないらしい。


 部屋には、リリア、アリア、司祭長。


 それから侍女長と、数人の神官兵。


 俺は台の上。


 リリアの指先が俺の前足に添えられている。


 会議机ではない。


 だが、なぜか俺が中心にいるような配置だった。


 嫌だ。


 会議の中心珍生物。


 責任が重い。


 司祭長がまず口を開いた。


「西礼拝堂の旧倉庫に仕掛けられていた魔性具は、神殿結界を内側から歪めるためのものでした」


 アリアが頷く。


「目的は神殿への魔性流入ですか」


「それもあります。しかし、もう一つ」


 司祭長はリリアを見る。


「リリア様の聖力を反応させることが目的だった可能性があります」


 リリアの指先が少しだけ動いた。


 俺の前足に触れているので、その緊張が伝わってくる。


「私の聖力を?」


「はい。あの仕掛けは、破損した聖具を利用していました。通常の神官では反応しきれない。しかし、リリア様ほどの聖力を持つ方が近づけば、大きく共鳴する」


「つまり、私が行っていたら……」


「魔性具は、さらに強く反応したでしょう」


 リリアが唇を結ぶ。


 俺は前足を少し動かした。


 リリアの指先に触れる。


「きゅ……」


 行かなくてよかったです。


 本当に。


 リリアは俺を見て、小さく頷いた。


「ノアが教えてくれたから、分かりました」


 いや、俺は結局行ったんですけどね。


 行くなと言われて、走りましたけどね。


 その点はあまり美談にしないでください。


 アリアが冷静に言う。


「犯人は、聖女様の性格を知っていた可能性が高いです」


「私の性格?」


「はい。孤児院が危険なら向かう。侍女が危険なら助けようとする。神殿結界が歪めば、自ら浄化しようとする。そう読んでいた」


 リリアは黙った。


 図星なのだろう。


 俺もそう思う。


 リリアなら向かう。


 止められても、誰かが危ないと聞けば動こうとする。


 だから犯人は、それを利用した。


 リリアの優しさを罠にした。


 かなり腹が立つ。


 俺は小さく喉を鳴らした。


「きゅう……」


 アリアが俺を見る。


「怒っていますか」


 バレた。


 リリアも俺を見る。


「ノア、怒ってくれているのですか?」


「きゅ」


 たぶん。


 怒っています。


 リリアの優しさを罠に使ったやつに。


 リリアは少しだけ目を潤ませた。


「ありがとうございます」


 アリアが低く言う。


「聖女様。感動するところではなく、対策するところです」


「はい」


 リリアは真面目な顔に戻った。


 この切り替えは大事だ。


 司祭長が続ける。


「もう一つ、分かったことがあります」


 部屋の空気がさらに引き締まる。


「侍女ミラの証言です。彼女を旧倉庫へ誘導した人物は、顔を隠していました。しかし、ひとつだけ特徴がありました」


「特徴?」


「右手に、古い火傷の跡があったそうです」


 右手の火傷。


 俺は耳を立てる。


 また新しい手がかりだ。


 アリアの目が鋭くなる。


「神殿内で該当者は?」


「調べています。ただ、火傷跡を隠している場合もあります」


 司祭長は少しだけ視線を落とした。


「そして、残念ながら、一人心当たりがあります」


 リリアが息を呑む。


 アリアが問う。


「誰です」


 司祭長は重く答えた。


「神殿の予定管理を補佐している副神官、エルドです」


 エルド。


 知らない名前だ。


 だが、リリアは知っていた。


「エルド神官が……?」


「断定はできません」


 司祭長は慎重に言う。


「しかし、彼はリリア様の予定表に触れる立場にあり、神官長の管理紋を一時的に預かる機会もありました。さらに、数年前、浄化炉の事故で右手を負傷しています」


 条件が揃いすぎている。


 怪しい。


 ただ、神官長の時も怪しすぎた。


 俺は少し警戒する。


 犯人は、わざと怪しい人物を作る。


 今回もそうかもしれない。


 アリアも同じ考えらしく、すぐには結論を出さなかった。


「エルド神官の所在は?」


「現在、確認中です」


 その言葉の直後、扉が叩かれた。


 全員が反応する。


 アリアが剣へ手を伸ばす。


「誰です」


「司祭長! エルド神官が見つかりません!」


 外から神官兵の声がする。


 来た。


 見つからない。


 まただ。


 ミラも消えた。


 今度はエルド。


 怪しすぎる。


 だが、怪しすぎるからこそ、犯人なのか罠なのか分からない。


 司祭長の顔が険しくなる。


「最後に確認された場所は」


「東棟の記録室です。その後、姿がありません」


 記録室。


 予定表や管理記録がある場所だろうか。


 危険察知が、ぴり、と震えた。


 俺は顔を上げる。


 ステータスが開く。


---


危険察知:中反応


対象:東棟記録室


危険度:不明


備考:魔性反応の痕跡あり。


---


 またか。


 今度は東棟記録室。


 西礼拝堂旧倉庫の次は記録室。


 犯人は本当に動き回っている。


 俺は思わず鳴いた。


「きゅ……」


 アリアが即座にこちらを見る。


「ノア?」


 俺は東側を見た。


 正確な場所は分からないが、記録室という言葉に反応しているのは確かだ。


 司祭長もすぐ察した。


「記録室に反応していますか」


「きゅ」


 はい。


 たぶん。


 リリアの指先が俺の前足を少しだけ包む。


 強く握るのではなく、添えるだけ。


「ノアは行きません」


 リリアがきっぱり言った。


 早い。


 断固としている。


「この子はもう限界です。これ以上は行かせません」


 俺はリリアを見上げた。


 ありがたい。


 本当にありがたい。


 そして少し申し訳ない。


 アリアが頷く。


「同意します。記録室へは私が向かいます」


「いえ」


 司祭長が首を横に振る。


「アリアはここに。リリア様とノアの警護を最優先にしてください。記録室には神官兵を向かわせます」


「しかし」


「犯人の狙いがリリア様なら、護衛を外すべきではありません」


 アリアは歯を食いしばり、頷いた。


「承知しました」


 俺は少し安心した。


 アリアが残る。


 これはかなり大きい。


 リリアと俺だけになったら不安すぎる。


 いや、司祭長もいるが、司祭長は忙しすぎる。


 その時、外の神官兵が追加で報告した。


「それと、記録室の床に黒い粉が見つかりました。封虫の粉と似ています!」


 部屋の空気が冷える。


 やはり記録室にも痕跡がある。


 エルドが犯人なのか。


 それともエルドも罠にかけられたのか。


 分からない。


 リリアが静かに言った。


「エルド神官を、犯人としてではなく、行方不明者として探してください」


 侍女ミラの時と同じだ。


 決めつけない。


 まずは無事を確認する。


 リリアらしい。


 司祭長は深く頷いた。


「そのように」


 指示が飛ぶ。


 神官兵たちが動き出す。


 また神殿内が騒がしくなる。


 俺は台の上で、リリアの指先に触れたまま、じっとしていた。


 動けない。


 行けない。


 でも、危険察知は反応する。


 もどかしい。


 俺は見えている危険を、全部自分で確かめに行きたいわけではない。


 むしろ行きたくない。


 でも、分かってしまうと落ち着かない。


 傘が欲しいのに、ずぶ濡れにならないともらえない。


 あの時と同じだ。


 スキルを得ても、結局危険の中にいる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが俺を見る。


「ノア、ここにいてくださいね」


「きゅ」


 はい。


 今度こそ。


 今度こそ行きません。


 たぶん。


     ◇


 時間が少しだけ進んだ。


 夜の気配が、神殿の窓の外に濃くなっている。


 ただ、部屋の中にいる者たちに、夜を迎える落ち着きはなかった。


 報告が何度も届く。


 エルド神官はまだ見つからない。


 記録室には、予定表の写しが一部失われていた。


 保管庫の古い鍵の記録も消えていた。


 さらに、神官長の管理紋を複製するために使えそうな古い印型が、一つ無くなっていることも分かった。


 証拠がどんどんエルドへ向かっている。


 だが、やはり分かりやすすぎる。


 俺は台の上で考える。


 もしエルドが犯人なら、なぜここまで自分につながる痕跡を残す?


 焦っているから?


 それとも、もう逃げ切るつもりだから?


 あるいは、エルドも誰かに嵌められている?


 考えれば考えるほど分からない。


 俺は探偵ではない。


 転がる珍生物だ。


 何度言えばいいんだ。


 俺自身に。


 リリアは俺の前足に指を添えたまま、報告を聞いていた。


 彼女の顔には疲れが見える。


 それでも、姿勢は崩さない。


「司祭長」


「はい」


「エルド神官がもし見つかったら、まず保護してください。追い詰めないでください」


「分かっております」


「神官長の時のように、何かを仕込まれている可能性があります」


「ええ」


 リリアは学んでいる。


 優しいだけではなく、状況を見ている。


 俺はそこに少し安心した。


 その時、俺の危険察知が唐突に震えた。


 強い反応ではない。


 だが、妙に鋭い。


 対象は、部屋の中。


 俺は顔を上げた。


 リリア。


 アリア。


 司祭長。


 侍女長。


 神官兵。


 誰だ。


 何だ。


 危険察知は、誰かではなく、机の上の書類に反応していた。


 記録室から届いた報告書。


 その一番上。


---


危険察知:微反応


対象:記録室からの報告書


危険度:低


備考:情報の欠落を確認。


---


 情報の欠落。


 何だそれ。


 危険察知、だんだん抽象的になっていないか?


 でも、何かがおかしいらしい。


 俺は報告書を見つめた。


「きゅ」


 アリアが気づく。


「報告書ですか」


 司祭長が紙を手に取る。


「どの部分でしょう」


 俺は前足を動かそうとした。


 リリアの指が離れかける。


 その瞬間、体の奥がざわついた。


「きゅっ……」


 まずい。


 離れると不安定になる。


 リリアがすぐに指を戻す。


「ごめんなさい」


「きゅ……」


 大丈夫です。


 たぶん。


 だが、前足を動かせない。


 リリアとの接触を保つ必要がある。


 ならどうする。


 俺は視線だけで紙を見る。


 報告書の文字。


 行方不明のエルド。


 記録室。


 失われた予定表の写し。


 古い鍵の記録。


 印型の紛失。


 その下に、もう一つ。


 破損聖具搬出記録。


 西礼拝堂旧倉庫へ運ばれた破損聖具の一覧。


 そこに反応している。


「きゅ」


 俺はその行を見たまま鳴いた。


 司祭長が目で追う。


「破損聖具の搬出記録……?」


 危険察知が少し強くなる。


 そこだ。


 俺は鳴く。


「きゅ」


 司祭長の目が鋭くなる。


「おかしい。西礼拝堂旧倉庫に移された破損聖具の数が、記録より多い」


 アリアが問う。


「つまり?」


「誰かが、記録外の破損聖具を追加しています」


 リリアが息を呑む。


「それもエルド神官が?」


「記録上は、そう見えるようになっている」


 司祭長は紙を睨む。


「しかし、この筆跡はエルドのものに似せているだけです」


 筆跡。


 俺には分からない。


 だが、司祭長には分かるらしい。


「では、エルド神官も……」


 リリアが言いかける。


 司祭長は頷いた。


「濡れ衣の可能性が高まりました」


 やっぱり。


 俺は小さく息を吐いた。


 エルドが犯人ではない可能性。


 では、本当の犯人は誰だ?


 リリアの予定表に触れられる。


 神官長の管理紋を利用できる。


 記録室の書類を改ざんできる。


 破損聖具を動かせる。


 侍女服の布を使える。


 神殿の通路に詳しい。


 かなり内部に近い人物だ。


 司祭長が静かに言った。


「犯人は、エルドを犯人にするつもりです」


 アリアが眉を寄せる。


「では、エルド神官が危ない」


「ええ」


 その時、扉の外から叫び声がした。


「エルド神官を発見!」


 全員が反応する。


 神官兵の声が続く。


「東棟の外階段付近です! ですが、意識がなく、近くに魔性具が――!」


 言葉が途切れた。


 次の瞬間、遠くで黒い光が上がった。


 窓の外が一瞬、暗く染まる。


 俺の危険察知が強く鳴った。


---


危険察知:強反応


対象:東棟外階段


危険度:高


警告:証拠隠滅および口封じの可能性があります。


---


 口封じ。


 エルドを消すつもりか。


 犯人に仕立て上げて、最後に口封じする。


 やり方が汚い。


 かなり汚い。


 リリアが立ち上がりかける。


 アリアが止める。


「聖女様!」


「でも、エルド神官が!」


「行けません!」


 俺も動きかけた。


 だが、リリアの指が離れると体がざわつく。


 動けない。


 今の俺は、リリアから離れられない。


 行きたくないのに、行けないことが苦しい。


 矛盾している。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅう……」


 司祭長が即座に指示を出す。


「神官兵を向かわせなさい! エルドを保護、魔性具は破壊せず封印!」


「はっ!」


 アリアが歯を食いしばっている。


 彼女も行きたいはずだ。


 だが、リリアを守るために動けない。


 リリアも、俺を支えるために動けない。


 みんなが、犯人の作った状況に縛られている。


 その時、ステータス画面が開いた。


---


保護対象の行動制限を確認しました。


危険対象:エルド神官


推定:保護対象に関わる重要人物


危険察知が拡張反応を示しています。


---


 拡張反応。


 また新しい表示。


 俺は顔を上げた。


 危険察知が、東棟の方向だけでなく、部屋の中にも反応している。


 違う。


 エルドを狙う魔性具だけではない。


 この騒ぎそのものが、囮だ。


 そう思った瞬間、俺の背筋が冷えた。


 リリアを部屋に留める。


 アリアを動けなくする。


 司祭長を指示に追わせる。


 神官兵を東棟へ走らせる。


 では、今、薄くなっている場所はどこだ?


 リリアの部屋。


 この周辺。


 俺は扉ではなく、窓の方を見た。


 危険察知が鋭く震える。


---


危険察知:強反応


対象:窓外


危険度:高


警告:接近中


---


 来た。


 こっちが本命だ。


 俺は鳴いた。


「きゅっ!」


 アリアが振り向く。


「窓!」


 彼女が叫ぶより早く、窓の外で何かが動いた。


 黒い布をまとった小柄な影。


 さっき庭の柱の影にいた者。


 その人物が、窓の外に立っていた。


 顔は隠れている。


 右手は見えない。


 だが、その手には黒い短い杖のようなものが握られていた。


 リリアが息を呑む。


 アリアが剣を抜く。


 司祭長が杖を構える。


 俺の進化ゲージは百%。


 条件は未達。


 臨界安定。


 リリアとの接触で辛うじて保たれている。


 動けない。


 でも、敵は目の前に来た。


 黒い影が、窓越しにこちらを見た。


 そして、くぐもった声で笑う。


「やはり、そこにいたか」


 誰に言ったのか。


 リリアか。


 俺か。


 それとも、両方か。


 黒い杖の先が、窓の聖印に触れる。


 じゅ、と嫌な音がした。


 聖印が黒く焦げ始める。


 アリアが前へ出る。


「下がれ!」


 黒い影は笑った。


「聖女も、珍しい獣も、まとめていただく」


 珍しい獣。


 俺のことだ。


 どうやら、ついに犯人にも目をつけられたらしい。


 嫌すぎる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 聖女様。


 やっぱり今日は、まだ終わってくれないみたいです。

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ハラハラしながら一気読みした。 可哀想にノア、進化したらニャーという特技も身につけることが出来るように……(そこかぃ!)
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