第16話 聖女様、珍生物ごと狙われています
黒い杖の先が、窓の聖印に触れていた。
じゅ、と嫌な音がする。
白い聖印の線が、墨を垂らされたように黒く滲んでいく。
窓の外に立つ小柄な影。
黒い布を深くかぶり、顔は見えない。
手には短い杖。
その先端には、黒い石がはめ込まれていた。
西礼拝堂の旧倉庫で見た魔性具の石と似ている。
いや、たぶん同じ系統のものだ。
嫌な気配が濃い。
危険察知が、頭の中で鋭く鳴っていた。
---
危険察知:強反応
対象:黒衣の人物
危険度:高
警告:保護対象およびノア個体への直接危険を確認
---
保護対象。
リリア。
そしてノア個体。
俺も対象に入っている。
ついに俺本人が危険対象に含まれた。
やめてほしい。
珍生物に対して直接危険を向けないでほしい。
俺は台の上で固まっていた。
リリアの指先は、俺の前足に触れている。
その接触のおかげで、俺の体は何とか臨界安定を保っている。
だが、ほんの少しでも離れれば、体の奥が暴れ出す。
進化ゲージは百%。
第一進化条件は未達。
完全進化できないまま、予兆だけが限界まで進んでいる。
今の俺は、動ける爆発寸前の珍生物である。
動きたくない。
正確には、動くのが怖い。
「聖女も、珍しい獣も、まとめていただく」
黒衣の人物は、窓越しにそう言った。
声は布越しでくぐもっている。
男か女かも分かりにくい。
ただ、背丈は低い。
ミラが見たという「顔を隠した人物」と同じかもしれない。
アリアが一歩前に出る。
「離れなさい」
剣先は窓へ向いていた。
だが、窓には強化された聖印がある。
内側から不用意に壊せば、逆に結界が乱れる可能性がある。
だからアリアもすぐには斬れない。
相手はそれを分かっているのだろう。
窓の外で小さく笑った。
「護衛騎士アリア。評判通り、判断が早い」
「名を知っているなら、私が警告だけで終わらせないことも知っているはずです」
「知っている。だから外から来た」
黒い杖が、再び聖印をなぞる。
じゅう、と黒い焦げが広がる。
リリアの指先に力がこもった。
俺の前足に触れている、その細い指が震えている。
怖いのだろう。
当然だ。
窓の外に、自分を狙っている相手がいる。
しかも、神殿の結界を破る道具を持っている。
怖くないはずがない。
でもリリアは、声を震わせなかった。
「あなたは、誰ですか」
まっすぐな問いだった。
黒衣の人物は、少しだけ首を傾げる。
「名乗る必要があると?」
「あります」
「なぜ?」
「あなたを止めたあと、ちゃんと話を聞くためです」
すごい。
この状況で、止めたあとに話を聞くつもりでいる。
リリアらしい。
いや、リリアらしすぎる。
アリアが横でわずかに眉を動かした。
「聖女様。今は対話より防御を」
「はい。でも、相手を知らなければ助け方も分かりません」
「助ける前提なのですか」
「止めることと、助けることは両立できます」
アリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
黒衣の人物は、窓の外で笑った。
「甘い」
声に、冷たいものが混ざる。
「だから狙われる」
アリアの目が鋭くなる。
「やはり、聖女様の性格を利用したのはあなたですか」
「利用? 違うな。人は皆、自分の性質に従って動くだけだ。聖女は助ける。護衛は守る。司祭長は疑う。神官たちは命令に従う」
黒い杖の先が、今度は俺に向いた。
「そして、その獣は邪魔をする」
俺はびくっとした。
完全に認識されている。
やめて。
ただの珍生物です。
邪魔はしました。
何回もしました。
でも本職ではありません。
「きゅ……」
俺は小さく鳴いた。
リリアが俺の前足に触れる指を、そっと添え直す。
「ノアは獣ではありません」
え。
そこ?
いや、俺は獣ではある。
魔物だけど。
珍生物でもある。
リリアは静かに続けた。
「ノアはノアです」
黒衣の人物が笑った。
「それが甘いと言っている。正体も分からぬものを抱え、名を与え、情を移す。だから隙が生まれる」
「情を移すことが隙なら、私はその隙を大切にします」
リリアの声は柔らかかった。
でも、芯があった。
「ノアが私を守ってくれたように、私もノアを守ります」
俺はリリアを見上げた。
やめて。
それは嬉しいけど、今この場で言われると、いろいろ困る。
俺は臨界安定中だ。
感情が揺れると、体も揺れそうで怖い。
---
保護対象との関係性が強化されています。
進化安定率が上昇しました。
---
今、上がるのか。
ステータス画面、空気を読んでほしい。
いや、読んだ結果なのかもしれない。
俺は小さく息を吐いた。
リリアの言葉で、体の奥の暴れが少しだけ落ち着く。
黒衣の人物は、わずかに沈黙した。
そして低く言う。
「ならば、その獣から奪う」
黒い杖の石が光った。
瞬間、窓の聖印が大きく黒く染まる。
アリアが叫ぶ。
「来ます!」
窓ガラスが割れるのではなく、溶けるように歪んだ。
黒い光が細い針のようになって、部屋の中へ差し込んでくる。
狙いはリリア。
いや、違う。
俺だ。
---
危険察知:極大反応
対象:ノア個体
危険度:高
警告:魔性拘束術式が接近しています。
---
俺を拘束するつもりか。
なんで。
俺をどうする気だ。
珍生物を持ち帰っても世話が大変だぞ。
ミルクも必要だぞ。
いや、そんな問題ではない。
黒い針が俺へ伸びる。
アリアが剣を振る。
刃が黒い針を弾いた。
だが、針は一本ではない。
二本。
三本。
窓の隙間から、次々と伸びてくる。
司祭長が杖を掲げた。
「封じます!」
白い光が窓へ向かう。
黒い針と白い光がぶつかり、部屋の空気が弾ける。
俺の体が反応した。
聖属性と魔性。
また同時だ。
もうやめてほしい。
---
聖属性と魔性反応の衝突を確認しました。
臨界安定が乱れています。
安定条件:保護対象との接触を維持してください。
---
維持。
分かっている。
俺はリリアの指から前足を離さないよう、必死に踏ん張った。
でも、黒い針は俺を狙っている。
このまま台の上にいると、リリアにも近い。
俺を狙った攻撃が、リリアを巻き込むかもしれない。
動くべきか。
動かないべきか。
また最悪の二択だ。
俺はリリアの指を見る。
彼女は離さない。
俺を支えるために、触れ続けている。
でも、この接触があるせいで、リリアは俺の近くにいる。
つまり危険が近い。
俺は前足を少し引こうとした。
リリアがすぐ気づく。
「だめです、ノア」
「きゅ……」
でも。
「離れたら、ノアが危ないのでしょう?」
バレている。
完全にバレている。
リリアは俺を見つめたまま言った。
「なら、離しません」
強い。
この聖女、こういう時だけ本当に強い。
アリアが黒い針を斬り払いながら叫ぶ。
「聖女様、台ごと下げます!」
「はい!」
アリアが片手で台を押し、リリアも椅子ごと少し下がる。
俺とリリアの接触は保たれたまま。
器用だ。
しかし黒い針は角度を変えて追ってくる。
明らかに俺を狙っている。
黒衣の人物が窓の外で呟いた。
「その獣は、聖女の聖力に適応している。魔性も受け止め、聖性も受け止める。そんなものを神殿に置いておくと思うか」
俺は固まった。
こいつ、分かっている。
俺の性質を、かなり正確に。
聖属性と魔性の両方に反応すること。
リリアの聖力に適応しつつあること。
魔性具の流路を遮断できたこと。
それを見て、俺を狙う価値があると判断したのだ。
最悪だ。
目立ちすぎた。
転がりすぎた。
邪魔しすぎた。
アリアが低く言う。
「ノアを利用するつもりですか」
「利用? 聖女より使いやすいかもしれない」
黒衣の人物の声に、初めて熱が混ざった。
「魔性を受け入れ、聖性で焼けず、しかも聖女に懐いている。そんな媒介、普通は存在しない」
媒介。
嫌な単語だ。
俺は道具ではない。
いや、魔物だけど。
珍生物だけど。
でも道具ではない。
リリアの指先が震えた。
怒っている。
たぶん、怖いよりも怒っている。
「ノアを、もののように言わないでください」
リリアの声は静かだった。
「この子は、私を何度も助けてくれました」
「だから使える」
「違います」
リリアははっきり言った。
「だから、守ります」
その瞬間、リリアの周囲に白い光が広がった。
治癒ではない。
浄化でもない。
守るための光。
俺に直接流し込むのではなく、俺とリリアの周囲を包むような光だった。
---
保護結界を確認しました。
聖属性接触:低出力
臨界安定を維持しています。
---
低出力。
助かる。
リリア、ちゃんと加減している。
黒い針がその結界に触れ、じゅっと消える。
黒衣の人物が小さく舌打ちした。
アリアがその隙を逃さない。
窓へ踏み込み、剣の柄で窓枠の聖印を叩く。
壊すのではない。
聖印に衝撃を入れ、黒い染みを剥がすような動きだった。
司祭長の白い光がそこへ重なる。
窓の聖印が一瞬だけ輝きを取り戻す。
「今です!」
司祭長の声。
アリアが窓を開け放った。
外へ飛び出す。
速い。
黒衣の人物が後ろへ跳ぶ。
アリアの剣が黒い布の端を裂いた。
布が舞う。
ちらりと見えた右手。
そこには、古い火傷の跡があった。
エルド?
いや、背丈が違う。
体格も違う。
火傷の跡はある。
だが、それだけではない。
その右手の指に、見覚えのある銀の指輪が光っていた。
リリアが小さく息を呑む。
「その指輪……」
黒衣の人物はすぐに手を隠す。
アリアが追う。
しかし、黒衣の人物は地面に黒い粉を撒いた。
封虫の粉。
魔性反応が広がり、庭の聖印が一瞬乱れる。
アリアの足が止まった。
「逃がすか!」
神官兵たちが庭へ走る。
だが、黒衣の人物は柱の影へ滑り込むように消えた。
黒い布だけが、地面に少し残る。
逃げられた。
部屋の中に、重い沈黙が落ちる。
リリアはまだ窓の方を見ていた。
俺は彼女の指先に前足を添えたまま、息を詰めている。
危険察知は、少しずつ弱くなっていた。
だが完全には消えない。
---
危険対象が離脱しました。
危険度:低下
備考:対象の特定に有効な痕跡を確認しました。
---
痕跡。
火傷の右手。
銀の指輪。
黒い杖。
小柄な体。
黒衣の人物。
そしてリリアが反応した指輪。
これは大きい。
かなり大きい。
アリアが窓から戻ってきた。
手には切り裂いた黒布の端を持っている。
「逃げられました」
「怪我は?」
リリアが問う。
「ありません」
アリアはすぐに司祭長を見る。
「右手に火傷の跡を確認。さらに銀の指輪をしていました」
司祭長の顔が険しくなる。
「銀の指輪?」
リリアが小さく言った。
「神殿の施療記録係がつける指輪です」
施療記録係。
新しい役職だ。
アリアの目が鋭くなる。
「該当者は?」
リリアは少し考え、顔を曇らせた。
「今、担当しているのは二人です。ひとりは年配の女性で、体格が違います。もうひとりは……」
言葉が止まる。
司祭長が低く続けた。
「副神官エルドの補佐をしている、リーネですな」
リーネ。
また新しい名前。
だが、部屋の空気が変わった。
アリアが問う。
「その者は予定表に触れられますか」
「施療予定の記録を通じて、一部は」
「神官長の管理紋には?」
司祭長が答える。
「通常は触れられません。しかしエルドの補佐なら、記録室への出入りは可能です」
予定表。
記録室。
エルド。
銀の指輪。
火傷。
黒衣の小柄な人物。
線が見えてきた。
でも、まだ確定ではない。
神官長の時と同じく、リーネも罠かもしれない。
ただ、黒衣の人物の声。
俺を媒介として見ていたあの言葉。
あれは、かなり意図的だった。
操られているだけの人間には思えなかった。
リリアは静かに言った。
「リーネを探してください。ですが、傷つけないでください」
アリアが少しだけ眉を寄せる。
「聖女様」
「まだ、本人かどうか分かりません」
「ですが、今の人物は明確にノアを狙いました」
「分かっています」
リリアの声が少し硬くなる。
「だからこそ、私は話を聞きたいです」
強い。
優しいだけではない。
自分が狙われても、ノアが狙われても、それでも話を聞こうとする。
アリアは複雑そうな顔をしたが、最後には頷いた。
「……拘束を優先します。殺傷は避けます」
「お願いします」
俺はリリアを見上げた。
この子は甘い。
でも、その甘さは弱さだけではない。
自分が傷つく可能性があっても、相手を人として扱う。
それは強さでもある。
俺にはできない。
俺ならたぶん、黒い杖を向けられた時点で逃げたい。
というか今も逃げたい。
リリアは俺を見た。
「ノア、怖かったですね」
「きゅ……」
怖かったです。
かなり。
「でも、もう少しだけ頑張れますか?」
え。
俺は固まった。
まさかの追加労働。
いや、リリアの表情は真剣だった。
無理やり何かをさせる顔ではない。
「動かなくていいです。ここにいて、私のそばにいてください」
「きゅ……」
それなら。
それなら、たぶん。
リリアは俺の前足に指を添えたまま、そっと微笑んだ。
「私も、ここにいます」
臨界安定。
保護対象との接触維持。
つまり今の俺は、リリアのそばにいることが仕事らしい。
それならできる。
いや、できるかどうかは分からない。
でも、走り回るよりはいい。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
分かりました。
◇
リーネの捜索が始まった。
東棟、記録室、施療室、庭、礼拝堂裏。
神官兵たちが一斉に動く。
エルド神官も発見され、保護されたという報告が入った。
彼は東棟の外階段で倒れており、近くには小型の魔性具が置かれていた。
命に別状はない。
ただ、意識はまだはっきりしていないらしい。
やはり、口封じに近い。
エルドを犯人に見せかけ、最後に消す。
その流れだったのだろう。
リーネが本当に犯人なら、かなり追い詰められているはずだ。
俺は台の上で、リリアの指先に触れたまま、じっとしていた。
動けない。
でも、危険察知は神殿内の動きを拾っている。
細かな反応がいくつもある。
神官兵が走る気配。
聖印が強化される気配。
封虫の粉が浄化される気配。
そして、遠くを移動する黒い気配。
黒衣の人物。
おそらくリーネ。
その気配は、神殿の中を細く逃げている。
廊下ではない。
人目の少ない通路。
隠し扉?
いや、神殿の裏通路か。
俺は耳を立てた。
---
危険察知:中反応
対象:黒衣の人物
位置:神殿北側通路付近
危険度:中
備考:逃走中。魔性具を保持しています。
---
位置が分かった。
かなりはっきり。
危険察知の精度が上がっている。
たぶん、進化ゲージが百%になっているせいだ。
俺は鳴いた。
「きゅ」
アリアがすぐに振り向く。
「何か分かりましたか」
俺は北側を見た。
部屋の中から正確に伝えるのは難しい。
しかし、司祭長が神殿図を広げた。
「ノア、方角を」
また図面だ。
俺は前足を動かそうとして、リリアの指先が離れかける。
体がざわつく。
「きゅっ」
リリアが慌てて触れ直す。
「ごめんなさい」
動けない。
いや、完全には動けない。
どうする。
リリアが気づいたように言った。
「私がノアの前足を支えます」
え。
リリアは俺の前足に指を添えたまま、そっと図面の近くへ移動させた。
接触を保ったまま、俺が指すのを助ける。
すごい。
そういう方法があるのか。
俺はリリアの指に支えられながら、図面の北側通路を押した。
ぽふ。
肉球とリリアの指先が同時に置かれる。
絵面はかわいい。
状況は深刻だ。
司祭長が目を細める。
「北側の奉納品搬出路……今はほとんど使われていない通路です」
アリアが即座に神官兵へ指示する。
「北側通路を封鎖! ただし、相手は魔性具を持っている。近づきすぎるな!」
「はっ!」
神官兵が走る。
リリアは俺を見た。
「ノア、ありがとう」
「きゅ……」
どういたしまして。
動いてないのに疲れました。
臨界安定状態で道案内。
新しい仕事が増えた。
やめてほしい。
でも、これならリリアから離れずに済む。
少しはましだ。
その時、危険察知がさらに強く震えた。
---
危険察知:強反応
対象:北側通路
危険度:高
警告:魔性具が起動準備に入っています。
---
また起動。
本当に魔性具が多い。
犯人、在庫を持ちすぎだ。
アリアの表情が変わる。
「司祭長」
「分かっています」
司祭長が杖を握る。
「リリア様。部屋の結界を強めてください。ただし低出力で、ノアに負担をかけぬように」
「はい」
リリアが静かに祈る。
部屋の聖印が淡く光る。
低出力。
柔らかい光。
俺への刺激は少ない。
リリア、かなり制御が上手くなっている。
いや、もともと上手いのかもしれない。
俺に対してだけ、気をつけるようになったのだ。
俺はリリアの指先に前足を添えたまま、北側通路の気配を追う。
黒い気配が止まった。
神官兵たちが近づく。
リーネらしき人物が、何かを構える。
魔性具。
起動。
嫌な気配が跳ね上がる。
俺のステータス画面が開く。
---
遠隔危険反応を確認しました。
保護対象への間接危険あり。
臨界安定状態により、危険察知の範囲が拡張されています。
---
遠隔危険反応。
範囲拡張。
なるほど。
今の俺は動けない代わりに、危険察知が広くなっているらしい。
便利。
でも怖い。
見えなくても危険が分かるのは、心臓に悪い。
北側通路で黒い光が膨らむ。
俺の頭の角が熱くなる。
リリアが気づく。
「ノア?」
「きゅ……」
来ます。
たぶん。
次の瞬間、神殿の北側から鈍い音が響いた。
遠い爆発のような音。
だが、部屋の結界は揺れなかった。
神官兵の声が廊下から届く。
「魔性具、起動しました! ですが、北側通路の封鎖結界で抑えています!」
よかった。
間に合った。
俺が示したから、神官兵たちが先に封鎖できたのだ。
リリアがほっと息をつく。
しかし、俺の危険察知は消えない。
むしろ、別方向へ動いた。
黒い気配が分裂する。
違う。
魔性具だけが北側で起動した。
本人はそこにいない。
囮。
また囮だ。
---
危険察知:強反応
対象:黒衣の人物
位置:不明
警告:魔性具を囮として使用。対象は移動を継続しています。
---
やられた。
北側通路は囮。
リーネ本人は別の場所へ向かっている。
どこだ?
俺は必死に気配を追う。
聖印。
廊下。
庭。
礼拝堂。
違う。
もっと近い。
近づいている。
この部屋に?
いや、部屋ではない。
隣。
リリアの部屋の隣にある小さな祈祷室。
危険察知がそこに反応した。
---
危険察知:極大反応
対象:隣接祈祷室
危険度:高
警告:リリア・セレスティアの聖力紋に干渉する術式を確認。
---
聖力紋。
何だそれ。
リリアの聖力に関わる何かか。
司祭長の顔が一気に変わった。
「隣の祈祷室か!」
知っているのか。
アリアが剣を抜く。
「何があります」
「リリア様専用の祈祷紋です。聖力を安定させるための補助陣が刻まれています」
それに干渉されたら。
リリア自身が危ない。
リリアの顔色が変わる。
黒衣の人物は、俺たちの部屋を直接襲うと見せかけていた。
北側通路を囮にした。
だが本命は隣の祈祷室。
リリアの聖力そのものに干渉すること。
アリアが扉へ向かう。
「私が行きます!」
司祭長も杖を構える。
「私も」
リリアが立ち上がろうとした。
俺の前足から指が離れかける。
「きゅっ!」
体の奥が暴れる。
リリアが慌てて座り直した。
「ノア……!」
動けない。
リリアは動けない。
俺を安定させるために。
だが、隣の祈祷室はリリアに関わる場所だ。
放置できない。
アリアは即断した。
「聖女様はここに。ノアとの接触を維持してください。司祭長、行きます」
「ええ」
二人が部屋を出ようとする。
その時、隣の壁に刻まれた聖印が黒く染まり始めた。
祈祷室から、壁越しに術式が伸びてきている。
リリアの指先が震える。
俺の体も反応する。
---
保護対象への聖力干渉を確認しました。
臨界安定に影響が出ています。
警告:接触維持だけでは安定困難になります。
---
最悪だ。
接触していても不安定になる。
リリアの聖力が、祈祷室側から乱されている。
俺を安定させているリリアの力が乱れれば、俺も崩れる。
犯人は、それを狙っているのかもしれない。
聖女も、珍しい獣も、まとめていただく。
あの言葉。
本当に両方狙いだったのだ。
俺はリリアを見上げた。
リリアも俺を見ている。
彼女は怖がっている。
でも、逃げてはいない。
「ノア」
「きゅ……」
「私が、支えます」
いや。
今度はたぶん、それだけでは足りない。
俺の角が熱くなる。
銀紋が光る。
進化ゲージは百%。
条件は未達。
臨界安定が崩れかけている。
体の奥で、何かが叫んでいる。
リリアを守れ。
自分を保て。
暴走するな。
全部同時に。
無理だ。
でも、やるしかない。
俺はリリアの指に前足を押しつけた。
「きゅう……!」
その瞬間、俺の銀紋から淡い白い光が広がった。
リリアの低出力結界と重なる。
部屋の中に、小さな丸い光の膜ができた。
俺とリリアだけを包む、小さな結界。
アリアが振り返る。
「ノア?」
司祭長が目を見開いた。
「ノアが、リリア様の聖力を受けて結界を補助している……?」
そんなことできるのか。
俺にも分からない。
だが、ステータス画面が答える。
---
臨界安定状態により、一時能力が発現しました。
仮スキル:聖魔変換膜
効果:保護対象の聖力を受け、魔性干渉を弱める小結界を形成します。
注意:正式獲得には第一進化が必要です。
---
仮スキル。
正式獲得には第一進化が必要。
だから今は一時的なものか。
でも、使える。
今だけでも使える。
リリアの聖力が乱されている。
俺の体がそれを受けて、変換して、小さな膜にする。
たぶん、これなら少し持つ。
「アリア、司祭長!」
リリアが声を張った。
「私は大丈夫です。祈祷室をお願いします!」
アリアが一瞬だけ迷う。
俺を見る。
リリアを見る。
そして頷いた。
「必ず戻ります」
司祭長も頷く。
「持ちこたえてください」
二人が部屋を出る。
扉が閉まる。
部屋にはリリアと俺、それから外の神官兵たち。
隣の祈祷室から、黒い術式が壁を這ってくる。
俺とリリアの周囲には、小さな光の膜。
薄い。
頼りない。
でも、黒い術式を何とか弾いている。
リリアは俺の前足に指を添えたまま、静かに息を整えた。
「ノア、一緒に頑張りましょう」
「きゅ……」
はい。
ただ、できれば頑張るのは今日で最後にしてください。
心の中でそう返した瞬間、隣の祈祷室から黒衣の人物の声が響いた。
「遅い。もう、紋には触れた」
壁の聖印が黒く光る。
リリアの体がびくりと震えた。
俺の体も同時に跳ねる。
---
保護対象の聖力紋に干渉発生。
臨界安定が大きく乱れています。
警告:第一進化条件未達のまま、強制変質が始まる可能性があります。
---
強制変質。
また最悪な言葉が増えた。
俺は小さく鳴いた。
「きゅうっ……!」
リリアの指が、俺から離れない。
俺も離さない。
壁の向こうでは、アリアと司祭長が祈祷室へ突入する音が聞こえた。
剣の音。
杖の光。
黒衣の人物の笑い声。
そして、リリアの聖力が乱されるたびに、俺の体が変わりそうになる。
まだだ。
まだ三日経っていない。
まだ完全には進化できない。
でも、守らなきゃいけないものは、今ここにある。
俺は震える前足で、リリアの指に触れ続けた。
小さな結界が、薄く、でも確かに光る。
窓の外は、すっかり暗くなり始めていた。
だが、夜よりも濃い黒が、隣の祈祷室から押し寄せてくる。
俺は歯のない口で、必死に鳴いた。
「きゅううっ!」
聖女様。
珍生物を狙うのは百歩譲ってもいいです。
いや、よくないけど。
でも。
あなたまでまとめて持っていこうとするのは、さすがに許せません。




