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第16話 聖女様、珍生物ごと狙われています

 黒い杖の先が、窓の聖印に触れていた。


 じゅ、と嫌な音がする。


 白い聖印の線が、墨を垂らされたように黒く滲んでいく。


 窓の外に立つ小柄な影。


 黒い布を深くかぶり、顔は見えない。


 手には短い杖。


 その先端には、黒い石がはめ込まれていた。


 西礼拝堂の旧倉庫で見た魔性具の石と似ている。


 いや、たぶん同じ系統のものだ。


 嫌な気配が濃い。


 危険察知が、頭の中で鋭く鳴っていた。


---


危険察知:強反応


対象:黒衣の人物


危険度:高


警告:保護対象およびノア個体への直接危険を確認


---


 保護対象。


 リリア。


 そしてノア個体。


 俺も対象に入っている。


 ついに俺本人が危険対象に含まれた。


 やめてほしい。


 珍生物に対して直接危険を向けないでほしい。


 俺は台の上で固まっていた。


 リリアの指先は、俺の前足に触れている。


 その接触のおかげで、俺の体は何とか臨界安定を保っている。


 だが、ほんの少しでも離れれば、体の奥が暴れ出す。


 進化ゲージは百%。


 第一進化条件は未達。


 完全進化できないまま、予兆だけが限界まで進んでいる。


 今の俺は、動ける爆発寸前の珍生物である。


 動きたくない。


 正確には、動くのが怖い。


「聖女も、珍しい獣も、まとめていただく」


 黒衣の人物は、窓越しにそう言った。


 声は布越しでくぐもっている。


 男か女かも分かりにくい。


 ただ、背丈は低い。


 ミラが見たという「顔を隠した人物」と同じかもしれない。


 アリアが一歩前に出る。


「離れなさい」


 剣先は窓へ向いていた。


 だが、窓には強化された聖印がある。


 内側から不用意に壊せば、逆に結界が乱れる可能性がある。


 だからアリアもすぐには斬れない。


 相手はそれを分かっているのだろう。


 窓の外で小さく笑った。


「護衛騎士アリア。評判通り、判断が早い」


「名を知っているなら、私が警告だけで終わらせないことも知っているはずです」


「知っている。だから外から来た」


 黒い杖が、再び聖印をなぞる。


 じゅう、と黒い焦げが広がる。


 リリアの指先に力がこもった。


 俺の前足に触れている、その細い指が震えている。


 怖いのだろう。


 当然だ。


 窓の外に、自分を狙っている相手がいる。


 しかも、神殿の結界を破る道具を持っている。


 怖くないはずがない。


 でもリリアは、声を震わせなかった。


「あなたは、誰ですか」


 まっすぐな問いだった。


 黒衣の人物は、少しだけ首を傾げる。


「名乗る必要があると?」


「あります」


「なぜ?」


「あなたを止めたあと、ちゃんと話を聞くためです」


 すごい。


 この状況で、止めたあとに話を聞くつもりでいる。


 リリアらしい。


 いや、リリアらしすぎる。


 アリアが横でわずかに眉を動かした。


「聖女様。今は対話より防御を」


「はい。でも、相手を知らなければ助け方も分かりません」


「助ける前提なのですか」


「止めることと、助けることは両立できます」


 アリアは一瞬だけ言葉に詰まった。


 黒衣の人物は、窓の外で笑った。


「甘い」


 声に、冷たいものが混ざる。


「だから狙われる」


 アリアの目が鋭くなる。


「やはり、聖女様の性格を利用したのはあなたですか」


「利用? 違うな。人は皆、自分の性質に従って動くだけだ。聖女は助ける。護衛は守る。司祭長は疑う。神官たちは命令に従う」


 黒い杖の先が、今度は俺に向いた。


「そして、その獣は邪魔をする」


 俺はびくっとした。


 完全に認識されている。


 やめて。


 ただの珍生物です。


 邪魔はしました。


 何回もしました。


 でも本職ではありません。


「きゅ……」


 俺は小さく鳴いた。


 リリアが俺の前足に触れる指を、そっと添え直す。


「ノアは獣ではありません」


 え。


 そこ?


 いや、俺は獣ではある。


 魔物だけど。


 珍生物でもある。


 リリアは静かに続けた。


「ノアはノアです」


 黒衣の人物が笑った。


「それが甘いと言っている。正体も分からぬものを抱え、名を与え、情を移す。だから隙が生まれる」


「情を移すことが隙なら、私はその隙を大切にします」


 リリアの声は柔らかかった。


 でも、芯があった。


「ノアが私を守ってくれたように、私もノアを守ります」


 俺はリリアを見上げた。


 やめて。


 それは嬉しいけど、今この場で言われると、いろいろ困る。


 俺は臨界安定中だ。


 感情が揺れると、体も揺れそうで怖い。


---


保護対象との関係性が強化されています。


進化安定率が上昇しました。


---


 今、上がるのか。


 ステータス画面、空気を読んでほしい。


 いや、読んだ結果なのかもしれない。


 俺は小さく息を吐いた。


 リリアの言葉で、体の奥の暴れが少しだけ落ち着く。


 黒衣の人物は、わずかに沈黙した。


 そして低く言う。


「ならば、その獣から奪う」


 黒い杖の石が光った。


 瞬間、窓の聖印が大きく黒く染まる。


 アリアが叫ぶ。


「来ます!」


 窓ガラスが割れるのではなく、溶けるように歪んだ。


 黒い光が細い針のようになって、部屋の中へ差し込んでくる。


 狙いはリリア。


 いや、違う。


 俺だ。


---


危険察知:極大反応


対象:ノア個体


危険度:高


警告:魔性拘束術式が接近しています。


---


 俺を拘束するつもりか。


 なんで。


 俺をどうする気だ。


 珍生物を持ち帰っても世話が大変だぞ。


 ミルクも必要だぞ。


 いや、そんな問題ではない。


 黒い針が俺へ伸びる。


 アリアが剣を振る。


 刃が黒い針を弾いた。


 だが、針は一本ではない。


 二本。


 三本。


 窓の隙間から、次々と伸びてくる。


 司祭長が杖を掲げた。


「封じます!」


 白い光が窓へ向かう。


 黒い針と白い光がぶつかり、部屋の空気が弾ける。


 俺の体が反応した。


 聖属性と魔性。


 また同時だ。


 もうやめてほしい。


---


聖属性と魔性反応の衝突を確認しました。


臨界安定が乱れています。


安定条件:保護対象との接触を維持してください。


---


 維持。


 分かっている。


 俺はリリアの指から前足を離さないよう、必死に踏ん張った。


 でも、黒い針は俺を狙っている。


 このまま台の上にいると、リリアにも近い。


 俺を狙った攻撃が、リリアを巻き込むかもしれない。


 動くべきか。


 動かないべきか。


 また最悪の二択だ。


 俺はリリアの指を見る。


 彼女は離さない。


 俺を支えるために、触れ続けている。


 でも、この接触があるせいで、リリアは俺の近くにいる。


 つまり危険が近い。


 俺は前足を少し引こうとした。


 リリアがすぐ気づく。


「だめです、ノア」


「きゅ……」


 でも。


「離れたら、ノアが危ないのでしょう?」


 バレている。


 完全にバレている。


 リリアは俺を見つめたまま言った。


「なら、離しません」


 強い。


 この聖女、こういう時だけ本当に強い。


 アリアが黒い針を斬り払いながら叫ぶ。


「聖女様、台ごと下げます!」


「はい!」


 アリアが片手で台を押し、リリアも椅子ごと少し下がる。


 俺とリリアの接触は保たれたまま。


 器用だ。


 しかし黒い針は角度を変えて追ってくる。


 明らかに俺を狙っている。


 黒衣の人物が窓の外で呟いた。


「その獣は、聖女の聖力に適応している。魔性も受け止め、聖性も受け止める。そんなものを神殿に置いておくと思うか」


 俺は固まった。


 こいつ、分かっている。


 俺の性質を、かなり正確に。


 聖属性と魔性の両方に反応すること。


 リリアの聖力に適応しつつあること。


 魔性具の流路を遮断できたこと。


 それを見て、俺を狙う価値があると判断したのだ。


 最悪だ。


 目立ちすぎた。


 転がりすぎた。


 邪魔しすぎた。


 アリアが低く言う。


「ノアを利用するつもりですか」


「利用? 聖女より使いやすいかもしれない」


 黒衣の人物の声に、初めて熱が混ざった。


「魔性を受け入れ、聖性で焼けず、しかも聖女に懐いている。そんな媒介、普通は存在しない」


 媒介。


 嫌な単語だ。


 俺は道具ではない。


 いや、魔物だけど。


 珍生物だけど。


 でも道具ではない。


 リリアの指先が震えた。


 怒っている。


 たぶん、怖いよりも怒っている。


「ノアを、もののように言わないでください」


 リリアの声は静かだった。


「この子は、私を何度も助けてくれました」


「だから使える」


「違います」


 リリアははっきり言った。


「だから、守ります」


 その瞬間、リリアの周囲に白い光が広がった。


 治癒ではない。


 浄化でもない。


 守るための光。


 俺に直接流し込むのではなく、俺とリリアの周囲を包むような光だった。


---


保護結界を確認しました。


聖属性接触:低出力


臨界安定を維持しています。


---


 低出力。


 助かる。


 リリア、ちゃんと加減している。


 黒い針がその結界に触れ、じゅっと消える。


 黒衣の人物が小さく舌打ちした。


 アリアがその隙を逃さない。


 窓へ踏み込み、剣の柄で窓枠の聖印を叩く。


 壊すのではない。


 聖印に衝撃を入れ、黒い染みを剥がすような動きだった。


 司祭長の白い光がそこへ重なる。


 窓の聖印が一瞬だけ輝きを取り戻す。


「今です!」


 司祭長の声。


 アリアが窓を開け放った。


 外へ飛び出す。


 速い。


 黒衣の人物が後ろへ跳ぶ。


 アリアの剣が黒い布の端を裂いた。


 布が舞う。


 ちらりと見えた右手。


 そこには、古い火傷の跡があった。


 エルド?


 いや、背丈が違う。


 体格も違う。


 火傷の跡はある。


 だが、それだけではない。


 その右手の指に、見覚えのある銀の指輪が光っていた。


 リリアが小さく息を呑む。


「その指輪……」


 黒衣の人物はすぐに手を隠す。


 アリアが追う。


 しかし、黒衣の人物は地面に黒い粉を撒いた。


 封虫の粉。


 魔性反応が広がり、庭の聖印が一瞬乱れる。


 アリアの足が止まった。


「逃がすか!」


 神官兵たちが庭へ走る。


 だが、黒衣の人物は柱の影へ滑り込むように消えた。


 黒い布だけが、地面に少し残る。


 逃げられた。


 部屋の中に、重い沈黙が落ちる。


 リリアはまだ窓の方を見ていた。


 俺は彼女の指先に前足を添えたまま、息を詰めている。


 危険察知は、少しずつ弱くなっていた。


 だが完全には消えない。


---


危険対象が離脱しました。


危険度:低下


備考:対象の特定に有効な痕跡を確認しました。


---


 痕跡。


 火傷の右手。


 銀の指輪。


 黒い杖。


 小柄な体。


 黒衣の人物。


 そしてリリアが反応した指輪。


 これは大きい。


 かなり大きい。


 アリアが窓から戻ってきた。


 手には切り裂いた黒布の端を持っている。


「逃げられました」


「怪我は?」


 リリアが問う。


「ありません」


 アリアはすぐに司祭長を見る。


「右手に火傷の跡を確認。さらに銀の指輪をしていました」


 司祭長の顔が険しくなる。


「銀の指輪?」


 リリアが小さく言った。


「神殿の施療記録係がつける指輪です」


 施療記録係。


 新しい役職だ。


 アリアの目が鋭くなる。


「該当者は?」


 リリアは少し考え、顔を曇らせた。


「今、担当しているのは二人です。ひとりは年配の女性で、体格が違います。もうひとりは……」


 言葉が止まる。


 司祭長が低く続けた。


「副神官エルドの補佐をしている、リーネですな」


 リーネ。


 また新しい名前。


 だが、部屋の空気が変わった。


 アリアが問う。


「その者は予定表に触れられますか」


「施療予定の記録を通じて、一部は」


「神官長の管理紋には?」


 司祭長が答える。


「通常は触れられません。しかしエルドの補佐なら、記録室への出入りは可能です」


 予定表。


 記録室。


 エルド。


 銀の指輪。


 火傷。


 黒衣の小柄な人物。


 線が見えてきた。


 でも、まだ確定ではない。


 神官長の時と同じく、リーネも罠かもしれない。


 ただ、黒衣の人物の声。


 俺を媒介として見ていたあの言葉。


 あれは、かなり意図的だった。


 操られているだけの人間には思えなかった。


 リリアは静かに言った。


「リーネを探してください。ですが、傷つけないでください」


 アリアが少しだけ眉を寄せる。


「聖女様」


「まだ、本人かどうか分かりません」


「ですが、今の人物は明確にノアを狙いました」


「分かっています」


 リリアの声が少し硬くなる。


「だからこそ、私は話を聞きたいです」


 強い。


 優しいだけではない。


 自分が狙われても、ノアが狙われても、それでも話を聞こうとする。


 アリアは複雑そうな顔をしたが、最後には頷いた。


「……拘束を優先します。殺傷は避けます」


「お願いします」


 俺はリリアを見上げた。


 この子は甘い。


 でも、その甘さは弱さだけではない。


 自分が傷つく可能性があっても、相手を人として扱う。


 それは強さでもある。


 俺にはできない。


 俺ならたぶん、黒い杖を向けられた時点で逃げたい。


 というか今も逃げたい。


 リリアは俺を見た。


「ノア、怖かったですね」


「きゅ……」


 怖かったです。


 かなり。


「でも、もう少しだけ頑張れますか?」


 え。


 俺は固まった。


 まさかの追加労働。


 いや、リリアの表情は真剣だった。


 無理やり何かをさせる顔ではない。


「動かなくていいです。ここにいて、私のそばにいてください」


「きゅ……」


 それなら。


 それなら、たぶん。


 リリアは俺の前足に指を添えたまま、そっと微笑んだ。


「私も、ここにいます」


 臨界安定。


 保護対象との接触維持。


 つまり今の俺は、リリアのそばにいることが仕事らしい。


 それならできる。


 いや、できるかどうかは分からない。


 でも、走り回るよりはいい。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 分かりました。


     ◇


 リーネの捜索が始まった。


 東棟、記録室、施療室、庭、礼拝堂裏。


 神官兵たちが一斉に動く。


 エルド神官も発見され、保護されたという報告が入った。


 彼は東棟の外階段で倒れており、近くには小型の魔性具が置かれていた。


 命に別状はない。


 ただ、意識はまだはっきりしていないらしい。


 やはり、口封じに近い。


 エルドを犯人に見せかけ、最後に消す。


 その流れだったのだろう。


 リーネが本当に犯人なら、かなり追い詰められているはずだ。


 俺は台の上で、リリアの指先に触れたまま、じっとしていた。


 動けない。


 でも、危険察知は神殿内の動きを拾っている。


 細かな反応がいくつもある。


 神官兵が走る気配。


 聖印が強化される気配。


 封虫の粉が浄化される気配。


 そして、遠くを移動する黒い気配。


 黒衣の人物。


 おそらくリーネ。


 その気配は、神殿の中を細く逃げている。


 廊下ではない。


 人目の少ない通路。


 隠し扉?


 いや、神殿の裏通路か。


 俺は耳を立てた。


---


危険察知:中反応


対象:黒衣の人物


位置:神殿北側通路付近


危険度:中


備考:逃走中。魔性具を保持しています。


---


 位置が分かった。


 かなりはっきり。


 危険察知の精度が上がっている。


 たぶん、進化ゲージが百%になっているせいだ。


 俺は鳴いた。


「きゅ」


 アリアがすぐに振り向く。


「何か分かりましたか」


 俺は北側を見た。


 部屋の中から正確に伝えるのは難しい。


 しかし、司祭長が神殿図を広げた。


「ノア、方角を」


 また図面だ。


 俺は前足を動かそうとして、リリアの指先が離れかける。


 体がざわつく。


「きゅっ」


 リリアが慌てて触れ直す。


「ごめんなさい」


 動けない。


 いや、完全には動けない。


 どうする。


 リリアが気づいたように言った。


「私がノアの前足を支えます」


 え。


 リリアは俺の前足に指を添えたまま、そっと図面の近くへ移動させた。


 接触を保ったまま、俺が指すのを助ける。


 すごい。


 そういう方法があるのか。


 俺はリリアの指に支えられながら、図面の北側通路を押した。


 ぽふ。


 肉球とリリアの指先が同時に置かれる。


 絵面はかわいい。


 状況は深刻だ。


 司祭長が目を細める。


「北側の奉納品搬出路……今はほとんど使われていない通路です」


 アリアが即座に神官兵へ指示する。


「北側通路を封鎖! ただし、相手は魔性具を持っている。近づきすぎるな!」


「はっ!」


 神官兵が走る。


 リリアは俺を見た。


「ノア、ありがとう」


「きゅ……」


 どういたしまして。


 動いてないのに疲れました。


 臨界安定状態で道案内。


 新しい仕事が増えた。


 やめてほしい。


 でも、これならリリアから離れずに済む。


 少しはましだ。


 その時、危険察知がさらに強く震えた。


---


危険察知:強反応


対象:北側通路


危険度:高


警告:魔性具が起動準備に入っています。


---


 また起動。


 本当に魔性具が多い。


 犯人、在庫を持ちすぎだ。


 アリアの表情が変わる。


「司祭長」


「分かっています」


 司祭長が杖を握る。


「リリア様。部屋の結界を強めてください。ただし低出力で、ノアに負担をかけぬように」


「はい」


 リリアが静かに祈る。


 部屋の聖印が淡く光る。


 低出力。


 柔らかい光。


 俺への刺激は少ない。


 リリア、かなり制御が上手くなっている。


 いや、もともと上手いのかもしれない。


 俺に対してだけ、気をつけるようになったのだ。


 俺はリリアの指先に前足を添えたまま、北側通路の気配を追う。


 黒い気配が止まった。


 神官兵たちが近づく。


 リーネらしき人物が、何かを構える。


 魔性具。


 起動。


 嫌な気配が跳ね上がる。


 俺のステータス画面が開く。


---


遠隔危険反応を確認しました。


保護対象への間接危険あり。


臨界安定状態により、危険察知の範囲が拡張されています。


---


 遠隔危険反応。


 範囲拡張。


 なるほど。


 今の俺は動けない代わりに、危険察知が広くなっているらしい。


 便利。


 でも怖い。


 見えなくても危険が分かるのは、心臓に悪い。


 北側通路で黒い光が膨らむ。


 俺の頭の角が熱くなる。


 リリアが気づく。


「ノア?」


「きゅ……」


 来ます。


 たぶん。


 次の瞬間、神殿の北側から鈍い音が響いた。


 遠い爆発のような音。


 だが、部屋の結界は揺れなかった。


 神官兵の声が廊下から届く。


「魔性具、起動しました! ですが、北側通路の封鎖結界で抑えています!」


 よかった。


 間に合った。


 俺が示したから、神官兵たちが先に封鎖できたのだ。


 リリアがほっと息をつく。


 しかし、俺の危険察知は消えない。


 むしろ、別方向へ動いた。


 黒い気配が分裂する。


 違う。


 魔性具だけが北側で起動した。


 本人はそこにいない。


 囮。


 また囮だ。


---


危険察知:強反応


対象:黒衣の人物


位置:不明


警告:魔性具を囮として使用。対象は移動を継続しています。


---


 やられた。


 北側通路は囮。


 リーネ本人は別の場所へ向かっている。


 どこだ?


 俺は必死に気配を追う。


 聖印。


 廊下。


 庭。


 礼拝堂。


 違う。


 もっと近い。


 近づいている。


 この部屋に?


 いや、部屋ではない。


 隣。


 リリアの部屋の隣にある小さな祈祷室。


 危険察知がそこに反応した。


---


危険察知:極大反応


対象:隣接祈祷室


危険度:高


警告:リリア・セレスティアの聖力紋に干渉する術式を確認。


---


 聖力紋。


 何だそれ。


 リリアの聖力に関わる何かか。


 司祭長の顔が一気に変わった。


「隣の祈祷室か!」


 知っているのか。


 アリアが剣を抜く。


「何があります」


「リリア様専用の祈祷紋です。聖力を安定させるための補助陣が刻まれています」


 それに干渉されたら。


 リリア自身が危ない。


 リリアの顔色が変わる。


 黒衣の人物は、俺たちの部屋を直接襲うと見せかけていた。


 北側通路を囮にした。


 だが本命は隣の祈祷室。


 リリアの聖力そのものに干渉すること。


 アリアが扉へ向かう。


「私が行きます!」


 司祭長も杖を構える。


「私も」


 リリアが立ち上がろうとした。


 俺の前足から指が離れかける。


「きゅっ!」


 体の奥が暴れる。


 リリアが慌てて座り直した。


「ノア……!」


 動けない。


 リリアは動けない。


 俺を安定させるために。


 だが、隣の祈祷室はリリアに関わる場所だ。


 放置できない。


 アリアは即断した。


「聖女様はここに。ノアとの接触を維持してください。司祭長、行きます」


「ええ」


 二人が部屋を出ようとする。


 その時、隣の壁に刻まれた聖印が黒く染まり始めた。


 祈祷室から、壁越しに術式が伸びてきている。


 リリアの指先が震える。


 俺の体も反応する。


---


保護対象への聖力干渉を確認しました。


臨界安定に影響が出ています。


警告:接触維持だけでは安定困難になります。


---


 最悪だ。


 接触していても不安定になる。


 リリアの聖力が、祈祷室側から乱されている。


 俺を安定させているリリアの力が乱れれば、俺も崩れる。


 犯人は、それを狙っているのかもしれない。


 聖女も、珍しい獣も、まとめていただく。


 あの言葉。


 本当に両方狙いだったのだ。


 俺はリリアを見上げた。


 リリアも俺を見ている。


 彼女は怖がっている。


 でも、逃げてはいない。


「ノア」


「きゅ……」


「私が、支えます」


 いや。


 今度はたぶん、それだけでは足りない。


 俺の角が熱くなる。


 銀紋が光る。


 進化ゲージは百%。


 条件は未達。


 臨界安定が崩れかけている。


 体の奥で、何かが叫んでいる。


 リリアを守れ。


 自分を保て。


 暴走するな。


 全部同時に。


 無理だ。


 でも、やるしかない。


 俺はリリアの指に前足を押しつけた。


「きゅう……!」


 その瞬間、俺の銀紋から淡い白い光が広がった。


 リリアの低出力結界と重なる。


 部屋の中に、小さな丸い光の膜ができた。


 俺とリリアだけを包む、小さな結界。


 アリアが振り返る。


「ノア?」


 司祭長が目を見開いた。


「ノアが、リリア様の聖力を受けて結界を補助している……?」


 そんなことできるのか。


 俺にも分からない。


 だが、ステータス画面が答える。


---


臨界安定状態により、一時能力が発現しました。


仮スキル:聖魔変換膜


効果:保護対象の聖力を受け、魔性干渉を弱める小結界を形成します。


注意:正式獲得には第一進化が必要です。


---


 仮スキル。


 正式獲得には第一進化が必要。


 だから今は一時的なものか。


 でも、使える。


 今だけでも使える。


 リリアの聖力が乱されている。


 俺の体がそれを受けて、変換して、小さな膜にする。


 たぶん、これなら少し持つ。


「アリア、司祭長!」


 リリアが声を張った。


「私は大丈夫です。祈祷室をお願いします!」


 アリアが一瞬だけ迷う。


 俺を見る。


 リリアを見る。


 そして頷いた。


「必ず戻ります」


 司祭長も頷く。


「持ちこたえてください」


 二人が部屋を出る。


 扉が閉まる。


 部屋にはリリアと俺、それから外の神官兵たち。


 隣の祈祷室から、黒い術式が壁を這ってくる。


 俺とリリアの周囲には、小さな光の膜。


 薄い。


 頼りない。


 でも、黒い術式を何とか弾いている。


 リリアは俺の前足に指を添えたまま、静かに息を整えた。


「ノア、一緒に頑張りましょう」


「きゅ……」


 はい。


 ただ、できれば頑張るのは今日で最後にしてください。


 心の中でそう返した瞬間、隣の祈祷室から黒衣の人物の声が響いた。


「遅い。もう、紋には触れた」


 壁の聖印が黒く光る。


 リリアの体がびくりと震えた。


 俺の体も同時に跳ねる。


---


保護対象の聖力紋に干渉発生。


臨界安定が大きく乱れています。


警告:第一進化条件未達のまま、強制変質が始まる可能性があります。


---


 強制変質。


 また最悪な言葉が増えた。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅうっ……!」


 リリアの指が、俺から離れない。


 俺も離さない。


 壁の向こうでは、アリアと司祭長が祈祷室へ突入する音が聞こえた。


 剣の音。


 杖の光。


 黒衣の人物の笑い声。


 そして、リリアの聖力が乱されるたびに、俺の体が変わりそうになる。


 まだだ。


 まだ三日経っていない。


 まだ完全には進化できない。


 でも、守らなきゃいけないものは、今ここにある。


 俺は震える前足で、リリアの指に触れ続けた。


 小さな結界が、薄く、でも確かに光る。


 窓の外は、すっかり暗くなり始めていた。


 だが、夜よりも濃い黒が、隣の祈祷室から押し寄せてくる。


 俺は歯のない口で、必死に鳴いた。


「きゅううっ!」


 聖女様。


 珍生物を狙うのは百歩譲ってもいいです。


 いや、よくないけど。


 でも。


 あなたまでまとめて持っていこうとするのは、さすがに許せません。

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