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第17話 聖女様、珍生物の我慢にも限界があります

 壁の向こうから、黒い笑い声が響いた。


 低く、細く、喉の奥で擦れるような声。


「遅い。もう、紋には触れた」


 その言葉と同時に、リリアの部屋の壁に刻まれた聖印が黒く脈打った。


 じわり。


 白い線の中に、墨のような闇が染み込んでいく。


 隣の祈祷室から伸びてきた術式が、壁越しにリリアへ干渉している。


 リリアの指先が震えた。


 俺の前足に触れている、その指先から、乱れた聖力が流れ込んでくる。


 いつものリリアの聖力は、熱いけれど優しい。


 怖いけれど、どこか温かい。


 だが今は違った。


 波が乱れている。


 熱が尖っている。


 魔性の黒い糸が混ざっている。


 きれいな水に、泥を流し込まれているような感覚。


 俺の体の奥が、ぎしりと鳴った。



保護対象の聖力紋に干渉発生。


臨界安定が乱れています。


仮スキル:聖魔変換膜 に負荷が集中しています。


警告:強制変質の危険があります。



 強制変質。


 やめてほしい。


 俺はまだ第一進化すらしていない。


 ゲージは百%だ。


 でも、条件は未達。


 聖女のそばで三日間生存する。


 その時間条件が、まだ足りない。


 だから完全には進化できない。


 なのに、体は変わろうとしている。


 進もうとしている。


 止まっているようで、止まっていない。


 この状態で、さらに強制変質?


 勘弁してほしい。


 俺は台の上で、リリアの指に前足を押しつけた。


「きゅううっ……!」


 小さな光の膜が、俺とリリアの周りに広がっている。


 仮スキル、聖魔変換膜。


 仮。


 仮なのが心細すぎる。


 仮免許で高速道路に放り出されたような気分だ。


 いや、俺は免許どころか、まだ歩くのも怪しい珍生物である。


 そんな俺に結界の補助をさせるな。


 世界の人材不足がひどい。


「ノア……!」


 リリアが俺を見た。


 顔色が悪い。


 額に汗が浮かんでいる。


 隣の祈祷室から聖力紋を乱されているせいだろう。


 それでも、リリアは俺から指を離さない。


「無理、しないでください」


「きゅ……」


 それはこっちの台詞です。


 完全に。


 リリアの手は震えている。


 でも、触れ方は優しい。


 強く握らない。


 俺を潰さない。


 聖力を流し込まない。


 ただ、俺が崩れないように、そばにいる。


 その優しさが、今の俺をつなぎ止めている。


 壁の向こうで、剣が鳴った。


 アリアの声。


「そこを動くな!」


 次に、司祭長の杖が床を打つ音。


「術式の中心を封じます!」


 祈祷室の中で、戦闘が始まっている。


 アリアと司祭長が、黒衣の人物を止めようとしているのだ。


 だが、壁の黒い聖印は消えない。


 むしろ、少しずつ広がっている。


 リリアの聖力が揺れるたびに、俺の小さな結界も揺れる。


 薄い光の膜に、黒い波紋が走った。



聖魔変換膜に侵食発生。


変換効率が低下しています。


臨界安定:維持困難



 維持困難。


 分かっている。


 見れば分かる。


 俺の小さな結界は、薄く震えている。


 黒い術式は、壁を這いながらリリアへ近づいている。


 俺の角が熱い。


 尻尾の銀紋が、痛いほど光っている。


 体の奥で、何かが暴れている。


 今すぐ変われ。


 今すぐ壊れろ。


 今すぐ進め。


 そんな無茶苦茶な命令が、体の中から聞こえるみたいだった。


 でも、俺は変われない。


 まだ条件が足りない。


 なら、耐えるしかない。


 俺は歯を食いしばろうとした。


 しかし、今の口に食いしばるほど立派な歯はない。


 悲しい。


 気合いの入れ方すら小動物仕様だ。


「きゅうっ!」


 俺は鳴く。


 その声に合わせて、結界が一瞬だけ強まった。


 リリアが目を見開く。


「ノア……?」


 違う。


 俺だけではない。


 リリアの聖力が、俺を通って少しだけ整っている。


 乱れた聖力を、俺の体が受け止めて、魔性を薄めて、膜に変えている。


 俺は媒介。


 黒衣の人物が言った言葉。


 嫌な単語だった。


 だが、今の俺は確かに媒介に近い。


 リリアの聖力と、押し寄せる魔性。


 その間に挟まって、小さな膜を作っている。


 道具として使われるのは嫌だ。


 でも、リリアを守るために自分で使うなら。


 少しくらいは、許してもいい。


 俺は前足に力を込めた。


 リリアの指に触れたまま、目を閉じる。


 危険察知に集中する。


 壁。


 隣の祈祷室。


 黒衣の人物。


 アリア。


 司祭長。


 そして、リリアの聖力紋。


 見えないものが、頭の中で線のように浮かび上がる。


 黒い術式は、祈祷室の床に刻まれたリリア専用の祈祷紋を通じて、こちらへ伸びている。


 なら、壁を守るだけでは足りない。


 術式の流れを、どこかでずらす必要がある。



危険流路を確認しました。


干渉元:隣接祈祷室/聖力補助紋


干渉先:リリア・セレスティア


遮断候補:壁面聖印の接続部



 壁面聖印の接続部。


 そこか。


 俺は壁を見た。


 黒く染まり始めた聖印の端。


 白い線と黒い線が重なる場所。


 そこが、今の流路のつなぎ目らしい。


 あそこを遮断できれば、リリアへの干渉が弱まるかもしれない。


 問題は、俺が動けないことだ。


 リリアと接触していないと、俺は臨界安定を保てない。


 でも、あそこに触れるには、台から降りて壁まで行かなければならない。


 無理。


 物理的に無理。


 俺は小さい。


 足も短い。


 しかも今は、リリアから離れられない。


 どうしろと。


 俺はリリアの指を見た。


 リリアも俺を見た。


「ノア、何か分かったのですか?」


「きゅ……」


 分かりました。


 でも、届きません。


 俺は壁の聖印を見る。


 リリアも視線を追う。


「あそこ……?」


 伝わった。


 やはりリリアは、俺の視線をかなり読めるようになっている。


 彼女は壁の黒く染まった聖印を見た。


「アリアは今、隣にいます。司祭長も……」


 この部屋には、俺たちの近くに動ける者が少ない。


 外には神官兵がいる。


 だが、この黒い術式に下手に触れれば危険かもしれない。


 リリアが立ち上がろうとする。


 俺の前足から指が離れかけた。


「きゅっ!」


 体の奥が跳ねる。


 結界がぐらつく。


 リリアがすぐに座り直した。


「ごめんなさい!」


 無理だ。


 リリアも動けない。


 俺も動けない。


 なら。


 俺は、自分の角を見た。


 角から、火花は出る。


 小さな浄化火花。


 影尾鼠をひるませ、封虫を落とし、魔性の流路を遮断した。


 でも、あれは近くにないと届かない。


 今は壁まで距離がある。


 飛ばせるか?


 無理だろ。


 今までそんなことできていない。


 だが、仮スキルが出た。


 臨界安定で、能力が一時的に強まっている。


 だったら、少しくらい無茶が通るかもしれない。


 無茶ばかりだ。


 この世界に来てから、まともな安全策を取れた記憶がない。


 俺は角に意識を集めた。


 リリアの聖力。


 俺の浄化適性。


 押し寄せる魔性。


 それらを、角の先に集める。


 熱い。


 重い。


 怖い。


 でも、火花は生まれた。


 ぱちん。


 小さな白い光。


 いつもなら、その場で散るだけだ。


 だが今回は、俺は必死に願った。


 飛べ。


 あそこまで。


 壁の黒い線まで。


「きゅうっ!」


 俺が鳴いた瞬間、白い火花が角から弾けた。


 小さな光の粒が、空中をふらふらと進む。


 遅い。


 頼りない。


 今にも消えそうだ。


 だが、リリアの指先から流れる聖力が、その光を支えた。


 白い火花は細い線になり、壁の聖印へ向かう。


 そして、黒く染まった接続部に触れた。


 ぱちん。


 小さな音。


 だが、壁を這っていた黒い術式が、一瞬だけ止まった。



流路遮断に成功しました。


干渉強度が低下します。


仮スキル:浄火の瞬き が一時発現しました。


注意:正式獲得には第一進化が必要です。



 浄火の瞬き。


 名前がついた。


 仮だけど。


 正式獲得には第一進化が必要。


 知ってる。


 何度も言わなくていい。


 でも、効いた。


 壁の黒い染みが少し薄くなる。


 リリアの聖力の乱れも、わずかに落ち着いた。


 リリアが息を吐く。


「楽に……なりました」


 よかった。


 本当によかった。


 俺は台の上で体を沈めた。


 疲れた。


 火花一発で、かなり疲れた。


 だが、壁の向こうから黒衣の人物の声が響く。


「なるほど。やはり、その獣は使える」


 嫌な声。


 俺は耳を伏せた。


 使えるとか言うな。


 俺は道具ではない。


 珍生物だ。


 それもだいぶ限界の珍生物だ。


 アリアの剣が鳴る。


「余所見をする余裕があるのですか」


 鋭い音。


 黒衣の人物が後退した気配。


 司祭長の声が続く。


「術式の核を見つけました。アリア、左です!」


「承知!」


 祈祷室での戦いが激しくなる。


 こちらの壁への干渉は弱まったが、完全には消えていない。


 黒い線はまだ残っている。


 リリアは俺の前足に指を添えたまま、目を閉じた。


「ノア、もう一度だけできますか」


 もう一度。


 やっぱりそうなる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 できます。


 たぶん。


 できなかったら、すみません。


 リリアは苦しそうに微笑んだ。


「無理なら、しなくていいです」


 無理なら。


 でも、無理かどうかはやってみないと分からない。


 いや、たぶん無理だ。


 だが、やるしかない。


 俺は再び角に意識を集めた。


 今度は少し分かる。


 リリアの聖力をそのまま使うのではない。


 俺の中で一度、魔性に触れた部分を削り、聖属性の形を変える。


 鋭すぎる光を、丸くする。


 熱すぎる光を、少し柔らかくする。


 そして、火花にする。


 めちゃくちゃ感覚的だ。


 説明できない。


 でも、体は少しだけ分かっている。


 俺は鳴いた。


「きゅうっ!」


 二発目の火花が飛ぶ。


 今度は一発目より少し速い。


 壁の聖印に触れる。


 黒い線がさらに薄れる。


 祈祷室から、黒衣の人物の舌打ちが聞こえた。


「邪魔をするな、獣」


 俺はむっとした。


 邪魔をしているのはそっちだ。


 俺はずっと休みたかった。


 リリアの部屋でおとなしくしていたかった。


 なのに、窓から来たり、祈祷室から干渉したり、魔性具を撒いたり。


 全部そっちがやっている。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅう!」


 抗議の声だった。


 リリアが少しだけ目を丸くする。


「今、怒りました?」


「きゅ」


 怒りました。


 リリアはこんな状況なのに、少しだけ笑った。


「ノアは怒ると、少し声が強くなりますね」


 そこを観察しないでください。


 アリアの声が壁の向こうから飛ぶ。


「聖女様、余裕がありますか!」


「少しだけ!」


「そのまま結界を維持してください!」


「はい!」


 リリアの返事は力強かった。


 壁の黒い線は薄れている。


 だが、まだ中心部が残っている。


 あと一発。


 たぶん、あと一発で接続を切れる。


 俺はそう感じた。


 だが、体が重い。


 角が熱を持ちすぎて、頭がぼんやりする。


 銀紋が光りっぱなしで、尻尾の先が痺れる。


 ステータス画面が震えた。



臨界安定に負荷が蓄積しています。


仮スキル連続使用により、予兆暴走の危険が上昇しています。


推奨:使用を中止してください。



 中止。


 できるならしたい。


 だが、あと一発だ。


 ここで止めたら、また壁の術式が戻るかもしれない。


 リリアへの干渉が続くかもしれない。


 俺はリリアの顔を見る。


 彼女は俺を見ていた。


 不安そうに。


 でも、信じるように。


「ノア」


「きゅ……」


「本当に無理なら、やめてください」


 リリアは言った。


「私は、ノアが壊れてまで守ってほしいとは思いません」


 その言葉は重かった。


 俺は止まりかけた。


 そうだ。


 リリアはそういう子だ。


 自分を守るために俺が壊れるのを望まない。


 俺だって、リリアが俺を助けるために傷つくのは嫌だ。


 同じだ。


 でも。


 今ここで止めたら、リリアが危ないかもしれない。


 俺が壊れるかもしれない。


 リリアが傷つくかもしれない。


 どっちも嫌だ。


 嫌な二択ばかりだ。


 だったら、三択目を作るしかない。


 壊れずに、守る。


 そんな都合のいいことを、やるしかない。


 俺は前足に力を込めた。


 リリアの指先が支えてくれる。


 リリアの聖力が、今度はとても細く流れてきた。


 強くない。


 無理に押し込まない。


 俺が受け取れる分だけ。


 ああ。


 この子は、本当に学んでいる。


 俺を助けるために、自分の力の使い方を変えてくれている。


 なら俺も、少しは変わらないといけない。


「きゅ」


 俺は短く鳴いた。


 大丈夫。


 そう伝えたつもりだった。


 三発目の火花を作る。


 今度は、ただ弾くのではない。


 リリアの細い聖力。


 俺の浄化適性。


 壁から来る魔性。


 それらを、一本の針のようにまとめる。


 小さい。


 細い。


 でも、まっすぐ。


「きゅうっ!」


 白銀の小さな火花が、角の先から飛んだ。


 それは壁の黒い接続部へまっすぐ進み、深く刺さる。


 ぱきん。


 今度は、はっきり音がした。


 壁に這っていた黒い線が、根元から切れる。


 リリアの体を縛っていた聖力干渉が、ふっと軽くなった。


 同時に、祈祷室から黒衣の人物の声が響く。


「ぐっ……!」


 術式が切れた反動が、向こうに返ったのだ。


 アリアが叫ぶ。


「今!」


 剣の音。


 何かが砕ける音。


 司祭長の杖が床を打つ音。


 白い光が壁の隙間から漏れる。


 黒い気配が一気に薄まった。



聖力紋への干渉遮断に成功しました。


保護対象への直接危険が低下しました。


仮スキル:浄火の瞬き 使用限界


臨界安定:維持中



 成功。


 俺は台の上で、ぐったりした。


 動けない。


 でも、暴走はしていない。


 たぶん。


 リリアが俺の前足に触れたまま、深く息を吐いた。


「ノア……ありがとう」


「きゅ……」


 どういたしまして。


 もう火花は出ません。


 今日の営業は終了です。


 壁の黒い線は消え、聖印は白く戻り始めている。


 祈祷室側から聞こえていた嫌な音も弱くなった。


 アリアと司祭長が押している。


 このまま捕まえられるかもしれない。


 そう思った瞬間。


 壁の向こうから、黒衣の人物の声がした。


「……ならば、聖女ではなく、器を先に壊す」


 器。


 俺のことか?


 嫌な予感がした。


 危険察知が、急に方向を変えた。


 壁ではない。


 窓でもない。


 床下。


 台の下。


 俺の真下。



危険察知:極大反応


対象:床下


危険度:高


警告:魔性具の副術式が起動します。



 床下?


 いつの間に。


 黒衣の人物は、窓から来た時に何か仕込んだのか。


 それとも、最初からこの部屋の床下にも?


 考える暇はなかった。


 俺の台の下に、黒い小さな陣が浮かび上がる。


 それは、俺とリリアの接触点を中心にしていた。


 狙いは俺。


 そして、俺を支えるリリア。


 台の下から黒い鎖のような光が伸びる。


 アリアも司祭長も隣の祈祷室。


 間に合わない。


 リリアが気づく。


「ノア!」


 彼女は俺を抱き上げようとした。


 だが、それは黒い陣の狙い通りだったのかもしれない。


 リリアの手が俺に触れた瞬間、黒い鎖が俺とリリアの腕へ絡みついた。



魔性拘束術式に接触しました。


対象:ノア個体/リリア・セレスティア


警告:聖魔変換膜が逆流します。



 逆流。


 何だそれ。


 黒い鎖が、俺の銀紋へ入り込む。


 同時に、リリアの聖力へも絡みつく。


 俺とリリアをつないでいる接触を、逆に利用している。


 最悪だ。


 犯人は最初からこれを狙っていたのか。


 俺がリリアに触れていなければ安定できない。


 その接触を、拘束の道に変える。


 頭が回る。


 嫌な方向に。


「きゅううっ!」


 俺は叫んだ。


 体の奥が黒く染まりそうになる。


 リリアも苦しそうに息を詰めた。


 だが、彼女は俺を離さなかった。


「ノア、離しません……!」


 やめて。


 離して。


 いや、離されたら俺も危ない。


 でも、このままだとリリアも巻き込まれる。


 どうすればいい。


 どうすれば。


 ステータス画面が、赤く揺れた。



臨界安定が破綻寸前です。


進化ゲージ:100%


第一進化条件:未達


強制変質が開始されます。



 来た。


 最悪の表示。


 強制変質。


 俺の体が、自分の意思と関係なく変わろうとする。


 角が熱くなる。


 銀紋が黒く染まりかける。


 リリアの聖力が、黒い鎖を通じて引きずられていく。


 だめだ。


 このままだと、俺もリリアも危ない。


 俺は必死に前足を動かした。


 リリアの手を押す。


 離れてください。


 そう伝えようとした。


 でも、リリアは首を横に振った。


「嫌です」


 声は震えていた。


 でも、はっきりしていた。


「ノアだけを、置いていきません」


 その言葉で、俺の中の何かが止まった。


 黒い鎖に引っ張られていた感覚が、一瞬だけ弱まる。


 リリアは俺を守ろうとしている。


 俺もリリアを守ろうとしている。


 どちらかが離れれば助かるかもしれない。


 でも、どちらも離れない。


 馬鹿みたいだ。


 本当に馬鹿みたいだ。


 でも、その馬鹿みたいなつながりが、俺をまだ俺のままにしている。



関係性による安定補正を確認しました。


対象:リリア・セレスティア


認識:保護者


追加認識:守りたい相手


強制変質に抵抗しています。



 守りたい相手。


 そうか。


 ステータスにも出てしまった。


 俺は、この子を守りたいらしい。


 今さら認めるのも変だ。


 ここまで何回も飛び出しておいて、違うとは言えない。


 俺はリリアを見た。


 彼女も俺を見ていた。


 怖がっている。


 泣きそうだ。


 でも、離さない。


 なら。


 俺も離れない。


 ただし、黒い鎖に飲まれるつもりもない。


 俺は鳴いた。


「きゅうううっ!」


 それは、今までで一番大きな鳴き声だった。


 小さな体から出たとは思えないほど、部屋に響いた。


 俺の銀紋が白く光る。


 黒く染まりかけていた模様が、リリアの聖力を受けて押し返す。


 強制変質が止まる。


 いや、完全には止まらない。


 でも、方向が変わる。


 黒い魔性に引きずられるのではなく。


 リリアの聖力だけに焼かれるのでもなく。


 俺の中で、二つがぶつかり、混ざり、変わっていく。



強制変質に抵抗成功。


変質方向を再設定します。


浄化適性が臨界発動します。


聖魔変換膜が再構築されます。



 床下の黒い鎖が震えた。


 俺とリリアの間にできていた黒い通路が、白銀の光に変わり始める。


 黒衣の人物の声が、隣の祈祷室から響いた。


「馬鹿な……その状態で、術式を塗り替えるのか!」


 俺にも分かりません。


 でも、たぶんやっています。


 リリアの聖力が、俺を通る。


 俺の体が、魔性を受け止める。


 そして、黒い鎖を白銀の膜へ変える。


 俺とリリアを縛る鎖ではなく。


 俺とリリアを守る膜へ。


 床下の陣が、ぱきぱきと音を立てて崩れていく。


 リリアが息を呑む。


「ノア……!」


「きゅうっ!」


 もう一押し。


 俺は角に残った力を集めた。


 さっき使用限界と言われた。


 知っている。


 でも、限界はだいたい破るためにある。


 いや、破りたくはない。


 でも今回は仕方ない。


 俺は最後の小さな火花を、床下の陣へ落とした。


 白銀の光が弾ける。


 黒い陣が砕けた。


 部屋の床に刻まれた魔性の線が、霧のように消えていく。



副術式の破壊に成功しました。


リリア・セレスティアへの干渉を遮断しました。


強制変質を回避しました。


臨界安定を再確立します。



 助かった。


 たぶん。


 俺は台の上で力が抜けた。


 リリアに抱えられたまま、ぐったりする。


 完全に動けない。


 でも、体は壊れていない。


 リリアも、無事だ。


 彼女は俺を支えながら、涙をこらえていた。


「ノア……ノア……!」


「きゅ……」


 生きています。


 たぶん。


 もう本当に、今日は閉店です。


 その時、隣の祈祷室で大きな音がした。


 アリアの剣が床を叩く音。


 司祭長の杖が光る音。


 そして、黒衣の人物の短い悲鳴。


「捕らえた!」


 アリアの声が響いた。


 部屋の外の神官兵たちが一斉に動く。


 祈祷室の扉が開かれ、黒衣の人物が床に押さえつけられているのが見えた。


 黒い布が外れかけている。


 小柄な体。


 右手の火傷。


 銀の指輪。


 そして、現れた顔は若い女性だった。


 リリアが震える声で呟く。


「リーネ……」


 やはり、施療記録係のリーネ。


 彼女は床に押さえつけられながら、リリアを見た。


 その目は、怒りと悔しさで歪んでいた。


「どうして……」


 リーネが歯を食いしばる。


「どうして、そんな獣まであなたを守るの……!」


 リリアは何も言わなかった。


 ただ、俺を抱えたまま、静かにリーネを見ていた。


 俺はぐったりしながら思う。


 そんなこと、俺にも分からない。


 でも。


 たぶん、理由は簡単だ。


 この聖女様が、俺をただの獣として見なかったからだ。


 猫でもなく。


 聖獣でもなく。


 魔物とも知らず。


 珍しい小動物として。


 ノアとして。


 拾ってくれたからだ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアの腕が、ほんの少しだけ俺を支え直した。


 そして、ステータス画面が静かに浮かぶ。



強制変質を回避しました。


保護対象との関係性が進化に影響します。


進化ゲージ:100%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


備考:条件達成時、安定進化が可能です。



 安定進化。


 ようやく少しだけ、まともな言葉が出た。


 まだ条件は満たされていない。


 まだ進化はできない。


 でも、さっきまでよりはましらしい。


 俺はリリアの腕の中で、力を抜いた。


 眠ってはいない。


 ただ、目を細める。


 リーネは捕らえられた。


 魔性具の術式も止まった。


 だが、事件が完全に終わったのかは分からない。


 リーネが一人で全部やったのか。


 封印箱の声は何だったのか。


 聖女は、まだ。


 あの続きは何だったのか。


 分からないことは残っている。


 だが、今だけは。


 ほんの少しだけ、息をついてもいい気がした。


 リリアが俺を見下ろし、小さく言った。


「ノア。ありがとう」


「きゅ……」


 どういたしまして。


 そして、できれば。


 次こそ本当に、休ませてください。

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